はじめに
2015年で創立37年となる練馬稲門会は、現在早稲田大学校友会東京23区支部のなかでも、その歴史、規模と活動実績で3本の指に入る屈指の校友会のひとつとして遍く知られるようになった。“ワセダを心から愛する・・”という一点で結集した創立の頃から、400名を超える会員を擁する今日に至るまでの足跡をこの辺でまとめておくことは喫緊のことであり、今後の当会の道しるべになることではないか・・という点で意見が一致した。
唐詩選の「歳歳年年人同じからず・・」の名詞のごとく、年月の経過とともにメンバーは入れ替わって新陳代謝していく。我々の後に続く後輩の皆さんのためにも、簡単な「小史」を記すことになった。
幸い、事務局には完全とは言えないまでも、時系列に整理された資料や記録写真が残されている。これを辿って創立の頃から今日に至るまでの経緯をたどりながら、それがこれからの当会のさらなる発展を考える一助になれば幸いである。これまでの歴史を記録に留めることは未来への羅針盤にもなり、それが幾星霜を経ていけば当会の“文化”にもなっていくはずだ。
企業は社会の要請に応えながら歩みを重ね、それぞれの特色を持った知的・感性的価値を生む。それが企業文化だ。それと同様にどんな団体でも過去の歴史をキチンと記録していくことは重要なことであり、いつの日かそれがひとつの“練稲文化”になっていくのではないだろうか。
校友会
さて、早稲田大学校友会会員は、2014年4月現在で海外も含めて現在約60万弱を数える。これには物故された方は含んでいない。男女別では、男性49万、女性11万で、おそらく全国の大学のなかでトップクラスの校友会であろう。
校友会は大学の設立に遅れること3年、1885年に発足。2010年12月に設立125周年を迎えているから、今年で129年の歴史を刻んできたわけだ。
2014年4月現在、校友会は総計で1,411団体を数える。
その内訳は以下のとおりである。
地域稲門会 399団体
海外稲門会 67団体
職域稲門会 351団体
年次稲門会 328団体
学部学科・ゼミ・体育各部・サークル・有志 266団体
これだけの多くの校友会を擁するに至る道のりは2010年に編纂された「早稲田大学校友会125年小史」に詳細が記されている。本書を開くと、近年では「校友大会」「全国支部長会」「ホームカミングデー」などの発端、「代議員会」「稲門祭」などの成り立ちを知ることができる。特に、校友の祭典である稲門祭は時代の姿を反映、基本コンセプト、キャッチフレーズから始まり、各種行事がアイデア豊かに手づくりで実施されていく様子が時系列で知ることができる。
練馬区
さて、当会が立地する練馬区の戦後の成り立ちを簡単に記しておきたい。これは知っているようで、キチンと知っている人は少ないのではないだろうか。
練馬区は1947年に板橋区から分離独立して誕生した、23区のなかで最も新しい区である。それまでは板橋区の一部であった練馬村、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の区域が板橋区に含まれていた。しかし、当時広大な板橋区の区役所までの経路が著しく不便であったことなどから分離独立に至ったそうである。
現在の練馬区の総人口は約72万人。これは世田谷区に次いで多い人口であり、練馬区より人口の多い市は日本に19市だけである。巨大なエリアと人口を擁した行政区域である。
ご存知の練馬区の区章は、カタカナの「ネ」に馬のひずめをデザインしたものだが、“区歌”があるのをご存知だろうか。「練馬区の歌」は1989年に一般公募で作られたそうだが、この歌詞には練馬区の素朴で四季の変化に富む風土が描かれている。公募による作詞は区民の久野幸子さん、作曲は区在住の作曲家川崎祥悦さん。1番の歌詞は・・
“花と緑につつまれて
わが街・練馬をあるいてごらん
春がきたよとこぶし咲き
梅の香りが漂うなかで
きっと元気が出るでしょう“
四季折々の変化と美しさが詠いこまれた素朴で牧歌的な歌詞である。どんな歌なのか聴いてみたいと思い、区役所の広報室に問い合わせたところ、窓口の方は「区の朝礼の時に館内放送で流れています。これに合わせて、健康いきいき体操をやっている人もいるようです。ただ皆さんに広く知られているということはないようです・・」とのことであった。
我らが母校の「都の西北」は、おそらく大学の校歌としては知らない人はないくらいの名曲だが、それに比べていささか気の毒な存在である。ちなみに区の木はコブシ、区の花はツツジである。
設立の頃
練馬稲門会は1978年3月18日、豊島園において第一回設立総会が開かれ発足した。これに至るまでには1977年10月に第一回目の発起人会が開かれ、以後5回の発起人会、4回の発起人幹事会を経て設立への道が創られていった。
設立時の役員の顔ぶれは、以下のとおりであった。物故された方も多いとおもうが、多くの方のワセダへの思いと情熱が当会の原型を創っていった。
顧問:西海図至夫、高木純一
会長:荻野優
副会長:飯島武、伊達康一、斉藤七郎、長島健
幹事長:山根敬三
常任幹事:村上謙二、伊藤薫、林毅、木内宗雄、荻野隆義、柳沢昭晃
幹事:糟谷正郎、本田久夫、青木彬、倉橋一郎、宿谷彰彦、矢沢酉二
浜島博、長谷川清、志田三男
初代会長 荻野優
会長に選任された荻野優(まさる)は、1994年7月に逝去するまで16年にわたり会長を務めたが、名実ともに当会の創立者の一人であり、その発展に多大な貢献をしたことは誰しもが認めるところである。こよなく“ワセダ”を愛し、同時に練稲の発展に精魂を傾けた“情熱の男”であった。
1913年に東京で生まれた優は、早稲田中学、第二高等学院、商学部を卒業。弓道部で小笠原流の射手として活躍したスポーツマンであった。社会に出てからは、いくつかの自動車関係の会社を経て、
その業績を飛躍的に発展させたそうである。
その厳しくも温厚で折り目正しい人柄と精力的な仕事ぶりは、1997年に編纂された「ありし日の荻野優を偲んで」(発行・荻野隆義・現練稲会長)に紹介されている。練馬区在住の小山宙丸総長など17名の方が寄稿している。「荻野優君の追憶」と題する献辞は少々長いが引用させていただく。寄稿は元参議院議員の斉藤栄三郎である。
「荻野優君とは、早稲田大学商学部を昭和十一年に一緒に卒業したが、彼は早大体育部の中の弓道部の選手であった。弓道部は日置流で選手になかなか成れなかった。私は補欠選手で、彼の足元にも及ばなかった。彼の弓を引く姿は、まことに美しく丹頂鶴のようなイメージであった。
彼は卒業すると、すぐに、日産自動車販売に入社した。父君が自動車畑で苦労した人であったから、彼は父君の仕事を継承したことになる。卒業アルバムの記念写真のなかで、荻野君はグループの“本橋冶武君のこと”と題して、“自動車を持たせたら、グループの中で大家であり外観はスマートでありながら、空手という物凄い秘法を会得した体育会の一員である”と書いている。
荻野君は自動車産業の発展期に社会人となり、メキメキとその手腕を発揮して、副社長になった。
彼はその名の示す通り優しい人で友情に厚く、良く友人の世話をした。早大の学友である岩瀬良二君が警備会社を創立すると、直ちに東京日産自動車販売の警備保障の仕事を任せた。私との関係では、彼の依頼で毎月東京日産自動車販売に講演に行ったし、昭和四十九年に私が参議院選挙に立候補したときには、早速お手のものの自動車を貸してくれたし私は大変助かった。
早大弓道部の後輩の世話もよくしたし、母校の発展のために尽力し、商議員の仕事をまじめに実行したし、これを誇りとしていた。典型的なワセダマンであった。
私は貧乏ヒマなしの生活であったが、彼は私の参議院会館によく遊びに来て家庭のこと会社のこと等をよく話した。
若い頃から糖尿病を患い、私に向かって糖尿病は一旦かかると根治は難しいと語り、くれぐれも注意するようにと、アドバイスをしてくれた。非常に神経質なくらいに闘病をしていたのに病魔には勝てなかったのは残念だ。なんでもできる男であったが、病気との闘争では敗れた。
しかしお子様方が立派に父親の仕事を継承し、ますます発展しているので、荻野君としては人生設計通りに生きたのだと考えている。荻野君の魂よ安らけく休み給え」
現会長の荻野隆義は、そんな父の思い出を次のように語っている。
「父はワセダへの愛校心が人一倍強く、創立百周年の募金に際しては当時の西原総長を連れて、寸暇を惜しんで企業廻りを行うなど献身的な母校愛を持っていました。仕事とワセダと、そして人一倍面倒見のいい性格ゆえ、日々が多忙を極め、父と接する時間はほとんどなく、子供心にも寂しさを感じたこともありました。しかし、折からブームが到来したゴルフの手ほどきを受けたり、会員権を貰ったり、私の兄弟三人はゴルフにのめりこんでいきました。そういう点では子煩悩な父であったと思います。・・・」

荻野優初代会長
設立総会
1978年3月18日に豊島園の“それいゆ”で午後3時から開かれた第一回総会には、約180名が出席した。これには、村井資長総長、田端健介練馬区長らが出席。規約の審議、役員の選出などが満場一致で可決され、懇親会も和気あいあいのなかに成功裏に終了した。練馬稲門会の輝かしい船出である。記録写真を見ると、スタートにふさわしい盛大で華やかな席であったことがわかる。女性の参加者が多いところをみると、多分奥様同伴の方が結構多かったようである。参加者の皆さんはほとんどがキチンとしたスーツ姿である。
総会参加費は3,000円、同時に今の年会費にあたるものとして、2,000円が“募金”という形で設定された。


2015・1 広報・ICTチーム 鈴木奎三郎 記
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