練馬稲門会 小史 その2

                                 
スタートの頃から20周年まで
 1978年3月に産声をあげた当会は、以降年1回春~夏にかけて、会場を変えながら総会を開いてきた。現在のようにサークルもなく、年1回の総会を開くことが唯一の目標であり活動であったようだ。初期の頃は「会報」も作っていなかったようで、初めて作られたのは1996年の18回総会のときである。記録のある主な総会の模様はデータや資料から拾うと以下のとおりである。
 
第1回の設立総会は、1978年豊島園にて200名が参加。村井資長総長、田端健介練馬区長が来賓として出席。会員登録されたのは約400名弱であった。

第5回は1982年5月に豊島園で開かれ、ご家族を含めて100名の参加。

第10回は、1988年池袋のサンシャインプリンスホテルに220名が参加、アトラクションとしてボニージャックスが出演。

第16回は、1994年リーガロイヤルホテルに200名が参加。会に先立ち、新設された総合学術総合センターの国際会議場、図書館の見学会を実施。総会では、小山宙丸総長、大学常務理事矢澤酉二、校友会代表幹事石黒眞一が祝辞を述べた。この年に初めて「サークル活動」が提唱され、それが今日の活動の嚆矢となっている。

 この年の7月7日、名実ともに当会の創立者であり、その発展に尽力した荻野優会長が逝去、享年80才。2代会長として荻野隆義が選出された。

第17回は、1995年大隈会館で、参加者は前回同様200名程度。阪神大震災で被災した校友のため、落語家柳家喜多八師匠司会によるチャリテイービンゴゲームなどが行われた。

第18回は、1996年練馬産業会館において開かれ120名が参加。奥島孝康総長の祝辞、桂小文の落語、稲門グリークラブのコーラスなどが行われた。この時に初めて第1号の「会報」が作られて、これは現在発行されている「会報」の創刊号である。
 
2代会長に荻野隆義就任
第18回の総会で2代目の会長となった荻野隆義は“楽しく意義ある練馬稲門会”の未来を提唱している。

 「早いもので練馬稲門会も創立以来18年を経て都内稲門会のなかでも古参のひとつとなっております。去る5月17日仮称“東京稲門会”=東京23区稲門連合会の結成大会が開催され、16の都内稲門会が一堂に会し、従来よりあった各道府県校友会支部と、ある意味で同一歩調をとることと相成りました。残る7区の稲門会は、本年中に結成相成るとのことです。・・・」
と述べているように、各地域の稲門会は年度の前後はあるものの、この頃に校友会組織としての枠組みが出来あがってきたようだ。
 記録を見ると、この時の会員数は152名、年会費は2,000円、年間予算規模は140万円であった。会員数は設立当初よりも減少している。
 
 また同年、荻野隆義会長の発意で、稲門会の事務所が現在の豊玉南の国産自動車事務所内に設けられ、事務作業の拡充が可能となった。

創立20周年記念大会は、1998年6月に池袋サンシャイン「プリンスホテル天覧の間」において行われた。400名の参加を目指しファミリー会員券を発売したが、結果は300名ほどでであった。
 来賓として奥島孝康総長が出席、「21世紀の早稲田」をテーマに講演を行った。懇親会に先立ち、校友である小沢昭一の講演「明日のこころ」も好評であった。

荻野隆義会長

創立25周年記念となる第25回は、2003年6月第一ホテル光が丘で行われた。白井克彦総長、小林栄一郎校友会代表幹事始め、近隣稲門会からの多くの来賓を迎えた。
 特別イベントとして、稲門出身の落語家6人による“大喜利大会”を催すなど、25周年を共に祝う会となった。年会費は3,000円に設定された。

サークルのスタート
 創立以降、年一回の総会という出会いの場だけでは横のつながりもできるわけがなく、会の活動も限定的で会員も増えず、スタートから十数年を経てじり貧の状況に陥ってきた。スタートの頃の400名弱の会員は、2003年には150名と落ち込んでいる。形を作っても、会員相互の出会いの場やいろいろな活動の内実が伴わないと、魅力の薄れる会となっていく。

 1994年に、柳沢照晃幹事長の後を受けて、4代目の幹事長となった塩田典男(1996年に事務総長)はこの状況に対応するため三つの方策を考えた。

(1) 会員相互の親睦と連帯感の醸成を図るため、趣味やスポーツのサークルを立ち上げる。
(2) 校友会から入手した練馬在住の名簿にもとづき、約7,000名の校友に入会案内を送付する。
(3) 会員を地区ごとに分け、個別に訪問してサークルへの参加を呼びかける。

(1) については、1994年の総会案内に、以下のようなサークルの立ち上げを提唱した。
1.ゴルフ 2.テニス 3.釣り 4.旅行・ハイキング 5.囲碁・将棋 6.麻雀 7.ダンス 8.小唄・謡曲・茶道 9.うまいもの食べ歩き 10.スポーツ観戦 11.女性の会 12.その他
 
 サークルの案内にはすぐに入会希望者が出てきた。会員の皆さんが、趣味を同じくして定期的に会える機会を待ち望んでいたともいえる。 
 真っ先に出来たサークルは、ゴルフ、旅行・ハイキング、うまいもの食べ歩き、スポーツ観戦など。以降、テニス、釣り、囲碁・将棋、ダンス、小唄・謡曲・茶道などが続き、現在では無くなったものもあるが新規にできたものもあり、それが今日のサークル活動の発展へと繫がっている。
 組織としてのタテ糸に、サークルというヨコ糸が通されたわけである。会員にとっても、年1回の総会以外に趣味を同じくする同好の士が集まるインフラができてきたわけであり、同時に女性会員、奥様の参加の機会も作られたわけである。  

旅行部会
 サークルの中でも、初期のころから活発な活動を行ったのは「旅行・ハイキング部会」である。当初は海外旅行を中心に行われ、2000年前後から2008年ころまで、数回の海外旅行を行っている。ハワイ、オーストラリア、タイ、ベトナム、済州島など、いずれも20数名を超える規模のツアーとなった。

 2000年3月の「ハワイ・オアフ島7日間の旅」には奥様を含む30名を超える参加者があり、当地のハワイ稲門会とともに“環太平洋稲門会準備会”の設立総会を開いた。

 また2002年9月の「オーストラリア・ゴールドコースト6日間の旅」には、奥様も含め31名のツアーとなった。

 旅行部長手塚康博は、その思い出を2003年の「会報」に「我が一行31名を迎えてくれたのは、清澄なジエーテルと強烈な紫外線だった。当会はここ数年の間に、ハワイ、タイ、そしてオーストラリアへと、グローバル化の波に乗り切り、この一年の準備も流星の如しであった。・・宿泊ホテルのANA内の和食レストランでは、日本酒、ビール、ワインを痛飲し、大いに気勢をあげ、その賑々しさは耳を聾するばかりにもりあがった・・」と寄稿している。
 帰路の航空機は手違いがあり、リーダーの手塚もいろいろ苦労をしたようだが、手塚の企画力、強力な推進力、温厚な人柄が旅行部の基礎を作りそれが今日へとつながっている。

 国内旅行も、1995年前後から年1~2回各地のツアーが実施されており、2000年6月の東電刈場原発ツアーは50名を超える盛況となった。

ゴルフ部

 現在100名を超える最大のサークルであるゴルフ部は、1995年頃のスタートから昨年まで、その拡大、活性化に尽力したのは永らくゴルフ部長を務めた中島晴喜である。年に8回程度の定例会を継続し、125回記念大会、150回記念大会を成功に導いた。
 150回の記念大会は、2014年10月、高坂カントリークラブにおいて総勢132名の参加を得て開催された。参加者は練馬から54名、近隣19の稲門会から78名という盛況となった。これも手塚同様、中島のひたむきなゴルフに賭ける思いが結集した賜といえる。

 2000年前後から、歴史ハイキング、麻雀、囲碁、テニス、エッセーなどのサークルが続々と活動を始めた。入会希望者も増え、会としての横糸が次第に作られ強固なものとなっていった。それぞれのサークルの部長の情熱と事務局のバックアップが実を結んで行った。

 塩田が取り組んだ(2)については、1994年校友会事務局から入手した約7,000名の名簿をもとに、入会案内の勧誘を行った。約3割の校友から返信があったが、入会は30名ほどにとどまった。校友によって、稲門会にお対する温度差が浮き彫りとなった時期である。

 (3)については、ちょうどサークル立ちあげの時期と重なったこともあり、サークルへの勧誘を図るべく会員を地区ごとに分け戸別訪問を行った。正確なデータはないが、これによりサークルへの入会者が徐々に増え、今日の活況の基礎となっていった。仕事の合間を縫ってこれを進めたのは幹事長の塩田典男で、会員拡大、サークル活動の発展に果たした役割は大きい。

2015・3  広報・ICTチーム 鈴木奎三郎 記

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