【2015年12月19日定例作品】
Gemein-schaft (共同社会) とGesell-schaft(利益社会)田原 亞彦
学生の頃にこの言葉が妙に記憶に残った。法学生として法をとうして実社会の仕組みを学んでいたが、このような切り口もあるのだと感心した。その組織の性格によって共同と利益の度合いが異なるし、個人は様々の組織への対応の仕方も違えるべきだと思った。公と私、ビジネスと非ビジネスをはっきりさせるべきだとも思った。組織は国、企業体、自治団体、など多様であるが、大学の同窓会のウエイトはどのぐらいだろうか。
会社でみると、従業員数やその社風、時代背景でかなり変化があるのではないか。昔は社内旅行や運動会や独身寮・社宅などで家族ぐるみの一体感を重視したように思える。日系と外資系では大きく異なると思う。日系は薄れては来たが家族的、あるいは終身雇用的要素が強く残り、外資系はより契約社会的で雇用も流動的、仕事そのものに対する取り組みがプロ的でありプライドもあるように思うがどうだろうか。
社会は人の集まりだから人間関係が難しい。人は煩悩ではないが欲望に満ちている。欲望は又必要でもある。無欲、他力本願では少なくても経済面では成長・発展もない。僧侶の世界でもヒエラルキイはあるのだ。
理想的な社会の定義は難しい。出来てもその実現は更に困難であろう。
山本七平氏の「空気の研究」で、空気とは一つの宗教的絶対性をもち、我々はそれに抵抗できない」、日本人の特性として「空気を読めないものは社会から阻害される。戦前の軍国主義から戦争突入の過程が典型である。
今夏のラグビー日本代表チームのエディジョーンズ ヘッドコーチが良いことを発言した。四年後の日本での大会で勝つ為に必要なこと。「従来の従順に几帳面に言われたことを守るモーレツな企業戦士タイプてはだめだ。全体の風を読むのではなく、一人一人が自分で創意工夫をして戦わねばだめだ」。この言葉は今の日本の様々な組織で最重要で不可欠な課題だと思った。
10月3日の日経に「ベンガルに学ぶ」西岡直樹さんに聞く の記事が気になった。
インドの西ベンガル州に25年間夫妻で自然素材の服工房を経営し日本でも店舗やイベント開催をしている69歳のエッセイスト。ベンガルは熱くて虫も多いが精神的にはゆったりする。ヒンズー教、イスラム少数民族など多様だが、お互い踏み込めないところがあるのを理解し、そばにいても苦にならずみなオープン。学校も就学年が画一的でなく人間の多様性を認めている。日常はお互いの違いを認めいさかいのないようにして、人は根底では同じとの安心感がある。以心伝心ではなく言いたいことは多弁で解るまで話すが、分かり合えないことを棚上げしてやり過ごす。 0と1のデジタル社会ではなく多様性に満ちた社会で、真水にすると生きずらくなる。 苦も貧困も自分の運命として受け入れて積極的に生きる。産婆さんが「生まれることと死んでゆくこと、これだけが真実、あとはみな取るに足らない虚構さ」。「生きてるうちに人が成しえたことの価値など所詮は人間には評価しえないものだと言う考え方が、逆に全ての生き様を肯定し、前向きで積極的なものにしているように思いました」と記していた。
病・年金・孫自慢 谷川 亘
私は、独立系アルミ・コイルセンターの生業を天職と定めて奮闘し、古稀を仕事人生終着駅と定めていたことを本欄にも書かせていただきました。肝心の仕上の時期にリーマンショックに遭遇してしまい、“卒業”が大幅に遅れてしまいました。
そりゃ~大いに焦りましたよ。濃縮された余生を如何に効率的に、かつ、有意義に過ごすのか大いに迷ったものです。
紹介されたのは官営老人会。区民センターなるものが存在し、まっ昼間から湯上りカラオケ付き。体力増進に、趣味に、映画鑑賞にとメニューはなんでもござれ。
例えれば猿山の体。体躯の割にしてはドス声まき散らす体育会系の男ボス。「もう、やめてっ」と声がけしたくなるような、妙に気になる妖艶風情を振りまくお局様。男社会の、自尊心あふれた職人集団に身を置いてきただけに、“お節介オバチャマ族”の存在には、最初は大いに戸惑ったものです。
老も若きも所詮この世は男と女。好々爺と老婆心あふれたご婦人の集団と思っていたのにとんでもない。日本は長寿王国にしてギンギンギラギラ“老&老コンパ”の世界。
この手の話は一番苦手とするところですので、これ以上の深入りは止めておきます。
古稀なんて、はなたれ小僧でしかないのでありました。
数回顔だしていると気になりだしたのが、会話の中身の多くが「病、年金、孫自慢」。
先頭に“病”と書きましたが、これから書き始めると、延々と続いてそれだけで終わってしまいそうなので後に回させていただきます。
聞き捨てならない三つの話題。先ずは年金の話。
高齢者の括りに入る65歳過ぎるとほとんどの方が何らかの年金を手にしているようです。
制度にも、幾通りかあって、国民年金、厚生年金それに共済年金。更にはそれぞれについて二階、三階建てになっていると言うから分かりづらい。
口を揃えてボヤキ節。年金額が少なくて真っ当な生活が出来ないと嘆き合う。「お宅は幾らなの?」、「何で家だけがこんなに少ないの」、から始まって、執拗に我が方の年金額を知らんと食い下がってくる。これでは、場がしらけること必定。
当然、少ないなら少ないなりの理由があるのに、“自己責任”を回避する。
お互い長年積み立ててきたのに、若手からは“年金ドロボー”呼ばわりされている肩身狭き仲間ではないですか。
不肖この私、後期老齢者呼ばわりされているのに、幾許かの年収ある故に年金大幅減額。
一度だって「俺の年金すくね~」なんて思ったこと。あるのかないのかはさて置いて、“じっと我慢の子”だっているんだよ。と、言ってやりたいのだ。
「武士は食わねど高楊枝」の心境なのだ。いや、この比喩はちょっと意味合いが違いますかね。
次は孫自慢。我と我が子を通り越し孫自慢とはこれ如何に?これでは、親子の出来の悪いのを吹聴しているのだと言うことをお気づきないようです。どなたにも、ついうっかり。 気付いてハッと思うような孫自慢の類を触れ散らかしたことがおありでしょうから、いちいち具体例をお示しするのは差し控えましょう。
少子高齢化到来で先が思いやられますが、“量より質”。頭脳明晰、容姿端麗、実直素直な我が孫が担う日本の将来はバラ色吐息。
最も、暫く見かけないなと思いつつ再会すればTV漫画も英語版。姉妹喧嘩までEnglishでケバケバしい。挙句の果てには、“使用中”はともかく、どこのお国とは言わないが、いくら風習・習慣?とは言え、本邦では“ご不浄”と呼ぶのに使用外だと扉は開放真っ盛り。
これは当家三姉妹のお孫様々のお恥ずかしい話。これではとても孫自慢話には加われませんし、日本の将来も懸念されます。
最後に“病”の話。
ここが痛くてあっちが痒い。この手の話は際限なく湧きいずる泉の如し。
話聞いて同情し、痛みを半分分けてもらっても良いとまで考えるのに、次第に自分の病を誇張しては声高に回りを引きずり込み、最後には近隣医院のこきおろしに至る。
ご親切にもその先生を紹介するですって。余計なお世話、お節介も良いところ。
良し悪しはさて置き、身近で共通する日常会話と言えば、やはりこの手の話。
この私とて坐骨神経痛と言う厄介な病を得て、歩むのがつい億劫で閉じこもり気味。
「脊柱管狭窄症が元凶となる“病名”で坐骨神経痛はそれに伴う“症状”・・・」。から始まって語りだしたら止むこと知らず。
「腰さえなければ、奥多摩は御嶽山から下ってはつるつる温泉での湯浴みと地酒大徳利熱燗たったの一本。
元気なればこそ山行記録とそれにまつわるエトセトラ。題材には事欠かないのになあ~。
「病」関連まかり通りせば、この手のエッセイなんて、三年先の分までスラスラ書けるのに、自らその道を閉ざすとは・・・。
大学ランキング 照山 忠利
先ごろ友人と話していたら、大学ランキングの話題になった。「こないだ発表された世界大学ランキングだけど、あれ見てどう思った」と友人がいう。日本の大学で上位100位以内に入ったのは東大(43位)、京大(88位)の2校だけ、私学では慶応が501~600位の間、早稲田は601~800位の間にランクされている。
過去のノーベル賞受賞者数をみると日本は第8位、自然科学3部門でみると第5位にあるのに、なぜこうも大学ランキングは低いのか。なにか別のモノサシを当てられているようで釈然としない。ランク付けの尺度が英語論文の数や、海外での論文の引用回数、外国人教員の数などによっているからで、それは日本にとってきわめて不利な基準だということだ。こうした尺度でみると国内の大学序列もまことに奇妙な様相を呈する。たとえば早稲田と同ランクには近畿大とか東海大とかの名がある。地方の国立大学などは総じて早稲田より上のランクに位置づけられている。どうやら英語論文の数や引用が多い医歯系の学部をもつ大学がポイントを稼げるようになっているからではないかと推測する。
他方では、大学入試の偏差値ランキングというものがある。入試の難易度を表している。それによると早稲田の各学部はそれなりの評価を受け、そこそこのポジションを占めている。もちろん時代の趨勢の中で人気学部も変化するので、我々の世代の感覚とは少しずれている感じはするが、それにしても人一倍懸命に頑張って厳しい入試をクリアしてやっと入った大学が「なんであんな大学と同ランクなんだ。納得いかんな~」というのは早稲田人共通の思いではなかろうか。
こんなランキングをみると、一体大学とは何なのかを改めて考えさせられる。知識、学術、文化、教育、研究などの言葉がすぐ思い浮かぶが、それだけにとどまらない何かがあるはずだ。スポーツであったりサークル活動であったり、建学精神や特異性であったり、要するに多様な価値観を包摂する総合的な存在として大学をみるとき、単なるランキングで優劣を判断することの愚かしさに思い至る。それからすると、ランキング100位以内に10校入れるという政府の目標は適切といえるのだろうか。まわしをつけた相撲取りがプロレスの世界に挑戦するようで、どうも違和感を禁じえない。「おかしな基準でランク付けしているのだから無視すればいい」とか「少なくとも早慶両校はランキング掲載を拒否すべきだ」などといった議論もなされているようだが、この英国のタイムズ・ハイヤー・エデユケーションとかいう機関のランキングが世界で最も権威を持っているというから、どうにも悩ましい。
春になれば週刊誌が大学合格者高校別ランキングを載せて部数を競う。もはや食傷気味のこの企画だが、つい覗き読みぐらいはしてしまうのが人情というもの。ランキング好きの国民性と母校愛の相乗作用のなせるワザなのであろう。 (了)
克己心 田村 公雄
大企業の不正が次々に明らかになり、企業トップの謝罪会見をよく見かける。深々と、しかも長々と頭を下げる。下げる頭の深さと、下げている時間の長さで謝罪の効果があがると思っているようだ。情けなさとみじめさが残る。全国の視聴者に,頭のてっぺんの心細い状態を充分に露出することになる。それを見る社員も「あんなに禿げていたのか。だからいつもふんぞり返っていたのだな・・・・」と思う。
東芝の不正会計の問題はひどい。石坂泰三や土光敏夫等の名経営者が築いてきた名門も形無しである。この不正で金融庁より課せられる課徴金は74億円になるという。過去最高の課徴金がIHIの16億円だから大幅な記録更新である。加えて、損害を受けた株主の訴訟が相次いで提起される予定だ。虚偽の決算を基に3,200億円の社債を発行し資金調達もしている。子会社のウェスティングハウスが1,000億超の損失を計上していたことをひた隠しにしていたことも明らかになった。救いようがない。
社長が自分の任期の間の業績だけを考え、会社の百年の計に頭が回らないからこうなるのだ。心配なのは社員のモティベーションの低下である。家族ともども社会に対し気恥ずかしい思いを抱きながら、リストラの恐怖も抱きながら、燃える思いで会社に尽くせるだろうか。トップも社員も同じ目標、同じ心で邁進してこそ生き残れるのに、社会からも社員からも不信の目で見られる企業は、どんなに巨大でも、存在が許されないのではないだろうか。
社長は孤独であると言われる。それは当たり前のことである。ピラミッドの頂上は石一つである。一人で風雨に曝されるのが仕事でもある。よく「社長の孤独」を口にして、人々の同情や理解を得ようとするのがいるが、非常にひ弱で社長の資格が全く無いと言わざるを得ない。権限が強くなるほど、周りはイエスマンだらけになり、反骨精神のある者がいなくなる。こうなると社長は何でも出来るようになるのである。諫める人がいなく、聞こえるのはイエスマンたちの心地よい言葉ばかりである。このような環境に慣れると、全てがイージィゴーイングになる。あえて困難なことや厳しいことをチャレンジしなくなる。一円を積み上げる努力よりも、紙を印刷して3200億円の資金調達を図ることになる。
権限が集中する社長に求められる資質は自分を律する能力である。自己管理能力と言い換えることも出来る。会社の名誉や輝かしい歴史を汚してまで自分の実績を上げようとしたり、私腹を肥やそうとしたりすることは言語道断である。社長は会社の守護神でなければならない。
羽生結弦選手は草食系で優しそうに見えるが、凄い男なんですね。二週続けて異次元の記録を樹立しました。正に天より舞い降りた男である。
「銀盤に自分以外の敵はなし」と読売川柳にあった。彼ほど自分を律することに厳しい男はいないのではないか。自分の理想の完成形を追求する修行僧のようである。世の経営者よ、この若者の克己心を学んでほしい! 以上
年を踏む 横山 明美
今度の年末年始もまた旅に出ることになってしまった。東北の雪深い大沢温泉でゆっくり湯にひたるのが夢だが一軒宿で予約などとれるものではない。歳の離れた独居生活の姉と一つ違いの私の連れ合いが同行者だが寒さは身に応える、せっかくならにぎやかなとこへ行きたい、と強固に反対されたこともある。宿が多く大勢の客を迎え慣れている一大観光地の京都あたりに落ち着くのがせいぜいであった。連れ合いをなくした姉と、若い者との同居からたまには解放されたい私たちが手を携えて何度目かの‘冬の旅‘に出ることは文学的には哀れを催す物語となるところだが、そこはひとくくりにすれば同時代を生きた者同士、かずかずの思い出話などに打ち興じながら楽しむしかないのである。
ここ数年私もだめな主婦、いやダメな日本人になってしまったなあと反省するばかり。お正月らしいお正月をやらなくなってどのくらいになるだろう、と心責めるものがある。それはとりもなおさず私が自分に騙し騙し時代の変化をしみこませてきた結果なのだが、絵にかいたようなお正月の行事のかずかずが今は私の中でまるで古い「歴史」の一コマのようになっている。
大方の家がそうだったように、年末の大掃除が終えると皆でなべなどをつつき、除夜の鐘のころには母の作った温かい年越しそばをすする。明日への得も言われぬ期待でおちつかないのは子供たちで、父は過ぎた一年に様々な思いもあったのだろう長火鉢で燗をつけながら案外にむっつりしていたような気がする。それでも12時を過ぎるや否や嫁いだ姉から「あけましておめでとうございます」の電話がかかり次々義兄や子供の幼な声にかわる。そのときの父の表情は一瞬やわらぎ満足気にみえた。
やはり親が最も親らしく感じられたのはお正月で、かしこまって「おめでとう」の挨拶の後おせちとお雑煮をいただき妙に恭しくお年玉を受け取っていたあの頃、いつか親がこの世からいなくなることなど考えも及ばないことだった。
母のルーツは宇和島、祖母は佐賀の出というせいかお雑煮はブリのこともあったが次第に関東風になり鶏肉と小松菜になった。父の故郷では筋子を入れるので汁が白く濁る、それがうまいのだ、とは父の言い草だったが家族にはいまいちで、父の思い出語りに終わった感がある。母のおせちは各自の皿にあれこれの祝い肴と半切りのみかん、それに必ず手製の水羊羹がのっていた。石巻の黄色い大きな弁当箱のようなカステラ蒲鉾の大切りが必ずのったのはせめてもの父の幼いころからの正月の証だったのだろう。独特の節をつけて読み札が読まれる百人一首で、お手付きをした母の「あら、ごめんなさーい」という普段聞かない軽やかな声が今も耳に残る。
その後結婚して札幌に住むことがあった私だが、大晦日はお向かいにおよばれしにぎやかに過ごす。北海道ではその日に盛り沢山の料理を一年最後の大ごちそうとして食べてしまう。明けてお正月はお雑煮だけというシンプルなものでその家の主が土間で搗いたもちの一切れの大きかったことが今も目に浮かぶ。そういえば北海道の百人一首は分厚い木製で、北の大地のおおらかさ猛々しさを感じずにいられなかった。ペチカの煙突から燻された雀が落ちてきたことなどまるで絵本の世界である。新しい土地で何もかも初めての私たち一家は札幌駐在の代々が世話になってきたお向かいのМ家に全面依存のお正月だった。
東京へ戻ってからはせっせとおせちを手作りして頑張ってみたが、喜ぶのは日々定番の洋風総菜しか作らない下の姉一家ぐらいで、わが子が満面の笑みで箸を運ぶなどということは年々なくなっていった。娘一家に至っては「数の子と栗きんとんだけでいい」「もちは炭水化物で体に負担」とにべもない。孫は最近になって蕎麦アレルギーとかで年越しそばもだめというから、そもそも新年など迎えることもできないのである。
しかしここまできてこのまま終わらせてなるものか、と思う。年末年始の旅の出費にも疲れてきた。次なる年には姉を我が家によんで、餅花を飾ったりするのはさすがに無理だが家には松飾りや赤い実の千両をあしらい、一緒におせちを作る。ここ何年か納戸で眠っていた桐の火鉢を出し、少し錆びついているかもしれない鉄瓶にサツマイモの輪切りを入れて煮て錆を落とし、炭をおこしてシュンシュンという湯のわく音を楽しみ、やわらかい味わいのお湯でお茶を入れる。表を返し裏を返しておもちをこんがり焼くのは昔父の役割だったが、今度は私と姉が餅がのどに詰まりませんようになどと祈りつつ、親やきょうだいの昔を思いつつ、手をかざしながら焼いてみたいものだ。私の新しい歴史のはじまりである。まだ間に合うかしら、それが問題。
福島のいまを 竹内 尚代
2011年夏から福島の子ども達の保養キャンプを始めて5回のキャンプを終えた。
福島や北関東の放射線量が高い地域の親子を迎えてのキャンプは、キャンプ地の埼玉県飯能市に着実に根付いてきた。はじめはけげんな顔をして迎えた地域の自治会も、今ではとても歓迎してくれるようになった。今年は飯能市長さんが挨拶に来てくれた。
また保養キャンプにボランティアとして参加する人達も、どんどん年齢が下がり、今年のキャンプでは大学生はいうに及ばず、中高生も大活躍してくれた。
私達が受け入れているのが未就学児ということもあり、子ども達は年齢の近いお兄ちゃん、お姉ちゃんが大好きだ。マイクロバスから降りると、転がり降りるようにして、山荘の広い庭で遊ぶ。自然に触れる機会が少ない福島の子ども達だけでなく、「触っちゃだめ!」と禁止しなくてもいい親にとっても、この庭は天国だ。帰る時にはお兄ちゃん、お姉ちゃんと別れたくなくて号泣する場面も度々ある。
親たちは「保養キャンプ」に行くとは言えない雰囲気が福島にはあると言う。今福島では復興の掛け声のもとに、安心安全キャンペーンが繰り広げられているが、除染をしてもまだ一部に高線量地域が残っているし、山林などの除染は原則しないので、雨が降ると庭のセシウム濃度が上がるお宅もある。除染したものは自分の家の庭に埋めたり、学校の庭に埋めたり、仮設置き場に置かれるが、除染したものを包むフレコンパックは2・3年の耐用年数だといわれ、すでに4年を過ぎた現在は劣化して瓦礫が顔を出している所もある。
先般開通した国道6号線は帰還困難地域の町のそばを通ると、3ミリシーベルト越えを記録したという。ちなみに練馬区では普通常時0.04ミリシーベルトだが、郡山市では0.1ミリシーベルトと高い。福島市の一部ではまだ高いとか会津では低いとか、地域で汚染状態はバラバラだ。
またチェルノブイリの原発事故以上の頻度で、子どもの甲状腺がんが発症していると言われ、2011年から現在まで甲状腺がんおよび疑いのある18歳以下の子どもが153名いるそうだ(2015年11月30日の福島県民健康調査による)。甲状腺がんは今までは100万人に一人といわれていたので、発症率は異常だが、これが原発由来かどうかについては評価が分かれている。
このような状況下で子育てに心配や不安を抱える親に対し、福島は安全なのに、何故地域のものを食べないのかとか、保養に行くなんておかしいと親戚や近所の人から言われるという。
キャンプを通じての少なくない家族との触れ合いで、福島の親子の置かれている状況の深刻さを思う。一方で事故直後自主的に避難した人たちに対して住宅支援や賠償があったが、これも来年で打ち切られるという。避難していた人たちは福島に戻るかどうかの選択を強いられる。
5年前までは自然に恵まれて穏やかに暮らしていた福島の家族は、原発事故で環境が一変した。
大家族で暮らしていた家族はバラバラになり、夫は仕事で離れられないので母子避難する人が多く、震災離婚が多発したという。
チェルノブイリ事故以降、ベラルーシでは0.5ミリシーベルト以上の地域では、1年に3週間ほどの「保養」をする。そこでは医療手当だけでなく、免疫力を上げるために食事療法、漢方、鍼灸などをしている。保養の結果子ども達の体内からセシウムが抜けることが医学的に証明されている。
私達の保養キャンプでは3週間も実施することはできないので、せめて、楽しく過ごして免疫力が上がるとか、孤立している親たちへの励ましになったらと考えて実施している。
それでも「保養」は効果がある。自然と触れあい、楽しく過ごすことは子ども達の表情を生き生きさせ、孤立している親たちは日頃話せないことを、親同士やスタッフとお喋りすることで気持ちをリフレッシュして帰る。まだ解決していない放射能汚染の問題。その中で生きる子ども達の健康を少しでも守りたい。
これから少子化になり、50年後には人口が半分になるという時代、せめて子ども達が元気に
生き抜けるような政策は取れないものだろうか。
特に国家的政策で推進されてきた原発の被害者への手厚い保護は、国がやるべきことではないか、せめて被害者である福島の人たちに経済的な支援があれば、家族がバラバラになったり、夫婦の間がぎくしゃくしたり、離婚しないでも済むのにと、私達は思うのだ。そんな保養活動をしている民間団体が全国に100近くある。それが希望だ。
福島第一原発から電気を供給してもらってきた、東京の人間としても、これからも福島の「いま」を見続けたい。
日本の時計 華岡 正泰
60年程も前の新入社員の頃、戦前、戦中を海外勤務した様な先輩達から「アメリカには一戸に一台以上の車がある」との話を良く聞かされたものだが、先日テレビのクイズ番組を見ていたら、我国の車所有世帯は80%に達するっと言っていた。高齢化社会で、私の様に免許を返上した世帯主も多いことから、実質所有率はこれを上回り、今では世界でも上位に位しているのではなかろうか。
では世界一はないものか? 我家を見渡すと玄関の傘立ては傘で溢れ、各部屋にはカレンダーが掛り、其処此処に時計が置かれている。そうだ、時計はどうだろう。数えるとパソコン、万歩計、カレンダー等に仕組まれたものを除いて何と21.更に驚いたのはその内自ら求めたのは腕時計等の5~6個で、あとは全て“貰い物”だったこと。練稲や稲龍会からの記念品、結婚式の引き出物、香典返し、内祝い、快気祝い、ゴルフや麻雀の賞品もある。この21の時計、必要あって其処に置いているのではなく、時計があるから其処に置き、それに慣れて電池を入替えては動かし続けている。時報に合わせて全ての時計が瞬時違わず一斉に時を刻む様は、あの“チャップリン”の“何やら狂時代”を想はせる程のものがある。
私が子供の頃、我家の時計は大きな柱時計と洋間にあった古びた置時計、それにお袋も持ってはいただろうが記憶になく、親父自慢のCIMAの腕時計、精々その4つくらいのものだった。それが今では21.時計が貴重品、贅沢品から一般品に変ったことを意味しよう。その切っ掛けとなったのは1969年のセイコー社によるクォーツ時計の発明に違いない。水晶振子を用いることで従来の1秒間の振動10を30,000にまで引上げて最大限の精度アップを果しただけでなく、大幅なコストダウンまで実現したのだった。ある電器製品量販店で月差±20秒という時計が1,000円で売られていたのに驚いたことがある。この低コストを伴う大発明に日本の時の文化、贈答の風習、習慣が呼応して今の時計社会を造り出しているのであろう。
日本人が時間に正確なことは世界中から称賛されている。乗り物は正常に走り、催物は予定通り開催されて当り前。新幹線乗組員の時刻表は通過駅を含めて秒単位で出来ているそうである。私は終戦までの3ヶ月“海軍内定者”の入校前集合訓練を受けた経験があるが、毎日の生活は「総員起し5分前」で始まり、全ての日課には「5分前」が発せられた。私はこの「5分前」の精神を今でも守り続けている。「それが礼儀だ」と心得ているからである。戦中戦後を問はずこれが日本人の“時”に対する心で、それに世界最高の品質、適正価格を誇る日本の時計が取り入れられ、“遣り取り”の風習、習慣にも乗って数多く出回っているのであろう。仕事柄、交際範囲が広かった私の21は少し多めかも知れないが同様の傾向で、若しかして、日本の時計所有数は世界一になっているのではなかろうか。
ではこの日本の時計、世界での評価はどうであろう。残念ながら輸出は190億円とスイスを主とする輸入の一割にしか過ぎず、向け先第一位が香港で“高級ブランドを扱うシヨッピングモールがあるから”と言うのも寂しい思いがする。でも日本の時計はデジタル時計、電波時計、ソーラー時計に続き最近では6,500万年に1秒の誤差という光格子時計なるものが開発されたそうである。外国人観光客の増加で高級時計の売り上げが伸びていると聞く、中国人の爆買もある。程なくスイスに伍した、否、一味違った、新技術に基づいての“時計王国日本”が誕生すること、間違いないであろう。 完
わが心の大浦みずきさん 古藤 黎子
その人の名は阪田なつめ、舞台名を大浦みずきという。芥川賞受賞作家、阪田寛夫氏の次女で、宝塚歌劇団花組男役トップ、名ダンサーである。阪田さんは、“さっちゃんはね、さちこっていうんだ、ホントはね”という童謡の作詞者でもある。
当時、私は「小学三年生」編集部にいた。ある時、おもちゃのタカラ社から「あご脚付き、宝塚観劇ご招待」という話が持ち込まれた。 タカラが宝塚歌劇のショーの一場面をスポンサーになり、その代わりに、次の号で宝塚の情報を入れるという条件だった。
二番手の男役の大浦みずきさんが、ショーのその場面を踊るので、大浦さんを取材できるという。取材の冒頭、花組のプロデューサーが私の耳に「大浦は阪田さんのお嬢さんですよ」と囁いた。「そうか、阪田先生の娘か!」それが最初の驚きだった。わが社では文芸関係で阪田先生にいろいろお世話になっている。
取材時、大浦さんに「ジェニーちゃんは最近名前が変わりましたが、ご存知でしたか?」とちょっと意地悪い質問をしたところ「はい、知っております」とお答えになった。二番目の驚きだった。そのあと、公演のランスルーを見て、私は三番目のショックを受けた。「宝塚は女の子の憧れの全てがあるじゃないか?!」と。
その取材後「小学三年生」に女の子物企画としてまず「夢の宝塚」という企画を掲載。次は、写真物語「ロミオとジュリエット」の企画書を歌劇団に提示した。処が、歌劇団にとっては前代未聞の「小学三年生」。企画が通るまで数か月かかったが、歌劇団に資料をやまのように送って、やっとオーケーが出た。歌劇団の英断としか考えられない。
ジェンヌからプレゼントをいただいたのも大浦さんが初めてで、ジェンヌには物は上げてもいただくことはないと思っていたので、びっくりした。いただいたのがボージョレヌーボー。その赤ワインを私は写真に撮り、しばらく飲まないで飾っていた。
ずっと私の頭の中には、大浦さんに自序伝のようなものを書いてほしい、ということしかなかったので、折に触れ「書きましょうよ」と言い続けた。私が「蛙の子は蛙でしょ!」と言うと、大浦さんは、「とうちゃん、私のようには脚あがりませんよ!」とおっしゃった。
残念ながら何時彼女が「書く」ことをオーケーしてくれたのか、今となっては記憶にない。連載が可能になったとき、それを掲載するのは学年誌では無理ということで、当時刊行されたばかりの中高女子を対象にした小説雑誌「パレット」に異動になった。
第一回目の原稿をファックスで受け取ったのは、丁度春闘の真っ最中で、昼まで仕事をするが、午後は半休だった。私は、その日の夕方のフライトでロンドンへ行くことになっていて、12時になると職場を離れなければならないが、FAXから原稿らしきものがはきだされている。それを抱えてロンドンに行ったものの、滞英中は全く原稿の件を失念していた。帰りの機内で突然原稿のことを思い出し「やばい!劇団に何にも言ってないじゃない!!」と、冷や冷やしながら翌日劇団の理事長に電話をした。
理事長は大変温厚なかただったが、私の話をきいて「まあいいでしょ。古藤さんだから」と至極簡単にオーケーをしてくださったのである。それまで、ことあるごとに劇団に出入りして(と言っても舞台を見ていただけだが)、歌劇団関係者と顔見知りになっていたことが、幸いしたのかもしれない。
それから原稿の推敲をして殆ど一行ごとにというくらい「これはどういうこと?」とか「この部分をもっと詳しく」とか、まあ、いろいろ赤を入れて30枚だった原稿は70枚近くになっていたと思う。私自身が宝塚のことを何も知らないので、読み手として多くの疑問を感じたのが、却って幸いしたのかもしれない。
連載が始まった途端「パレット」は宝塚を見る人たちの話題に上り、誌上アンケートでは常に大浦さんの「夢・宝塚」という連載が一位であった。その連載を1991年の大浦さんの退団に合わせて単行本化のオーケーが出た。本の出版記念の記者会見やサイン会を開催したが、本は売れ続け、なんと6万部になった。大浦さんとは2冊目の本の出版に際しては、幼馴染の阿川佐和子さんに巻頭文を書いていただいたし、誌上で壇ふみさんと大浦さんとの対談記事を掲載したり、書店主催の大浦さんと阿川さんの座談会の司会をしたり、お二人にもいろいろお世話になった。
大浦さんは舞台人としては、見る人に夢と希望を与える立場。と同時に、人間の内面の充実をも必要とされ、要求される。特に同性から。人に対する心遣い、気遣いを忘れず、気負わず、神経質過ぎず、おおらかに、私達に接してくださった。その人柄がとても魅力的であったから私は宝塚という未知の世界に生きた人に「書いてほしい」と思ったのではないかと思う。
「夢・宝塚」は、ゴーストライターなしで著者本人が書いた初の宝塚本になった。
花の色はいたずらに ながめせしまに 小林 康昭
こんなことがあった。
“あの国”で仕事をしていた時だ。事務所の食堂で一人、夜遅く飯を食っていると、事務長が入ってきて、囁いた。「Fさんが、現地の女と結婚する、と言っています」 Fは、派遣会社から雇った30過ぎの男だ。日本にかみさんと二人の子供を置いて、単身赴任していた。毎日、市内に出て、資材を調達している。その間に知り合った仲らしい。
きっかけは、事務所にその女が、Fに会うためにやって来たことだった。Fは不在だったので、代わって事務長が話を聞いた。夜、事務長は、Fに訊いた。Fは、怯んだ表情を見せたという。問い詰めると“実は・・・”と胸中を漏らしたそうだ。まずいな、これは寿の話ではない、直観である。社会主義体制の“あの国”は、外国人の言動に厳しい。露見したら、禁固では済まない。事務長に命じた。直ちにホテルを予約、Fを缶詰めに、見張り役を置く、ホテルでは外部連絡を絶つ、ホテルの在処は極秘。そして、今夜のうちに、日本の派遣会社の社長宛に「Fのことで直ちに来訪を乞う」と、所長の俺の名義で、テレックスを送信しろ、と指示した。
女は連日、事務所に押しかけた。口実を設けて追いかえしたが、時に逆上した。
やってきた社長には、事務長が事情を話した。社長はFと膝づめで話した。まとめる話ではない、と社長も確信した。次いで、社長は、女と会った。社長は、説得を続けた。女は頑なだった。説得を重ねて7日、相手が折れた。交渉の経過は知らない。いずれにせよ、魂(まごころ)のない縁(えにし)に賭けた宿命(さだめ)は、虚しく、哀しい。社長は、Fを連れて帰国した。Fの後任がやってきた。
* * *
こんなこともあった。
職場を建設会社から、大学に代えた時だった。政府派遣の調査団に加わって、アフリカに赴いた。まずは、現地の日本大使館に初対面のご挨拶。応対に出た公使が、私の自己紹介を聞いて「“あの国”で勤務されたのなら、Uさんをご存知ですか?」と問うた。Uさんは、建築設計事務所から単身赴任で“あの国”に派遣されていた設計家だった。公使は、更に「Uさんは“あの国”で結婚した現地のお嫁さんと二人のお子さんを帯同して、今、この国でODAの仕事をしていますよ。Uさんは、クーデターで”あの国”から帰国して、その後、この国に赴任したそうですが」とつけ加えた。
“あの国”でクーデターが起きて、戒厳令が布かれた。外国人は一斉に、国外退去を始めた。日本人も帰国した。Uさんは、同僚とともに東京の本社に帰任した。そして、数年ぶりの一家団欒を愉しむ筈だった。そんなある日、執務中のUさんの、デスクの電話が鳴った。「受付でございます。Uさんにお会いしたい、とお客様が見えておられますが・・・」
受付のカウンターの前に、女が一人立っていた。女がふりかえった。Uさんは、凍りついた。身に覚えがある。“あの国”の女だ。女は近づいてきた。そして、腕を拡げて見せた。赤子が眠っている。女は、Uさんに向かって、微笑んだ。そして、告げた。「This is OUR BABY」
そのUさんが今、“あの国”の妻や子供たちと、この国に滞在している。Uさんに、どんな修羅場があったかは、知らない。「Uさんに会われますか? よろしければ、連絡を取りますが・・・」 公使の厚意を、丁寧に辞退した。
* * *
また、こんなこともあった。
気がついたのは、現場の作業小屋に、立ち寄った時だった。小屋には、四人の日本人指導工の机を置き、現地人の娘を一人、手伝い役につけてある。河合奈保子に似た、と若い社員たちが噂する娘(こ)だ。その娘(こ)に限らず“あの国”では、日本人と似た容貌が多い。市場の売子に藤田弓子、病院の看護婦に小川真由美。田圃の農婦に飯田蝶子。閑話休題。この時、その娘(こ)は、Tの机の上を念入りに拭いていた。そして、他の三人の机には目も呉れず、床を掃き始めた。上目遣いのその娘(こ)と目が合った。秘め事を咎められたように、眼差しが怯み、頬を染めた。Tは、温和で腕の良い大工だった。36歳の独身。なんとなく、縁遠かったのだろう。
ほどなく、事務長がぼやきだした。「困ったことが、また起きました」 Tとその娘(こ)の話である。「早速、Tの工務店の社長を呼びますか?」事務長は、先のFで懲りている。事務長に指示した。「巧く話を進めてくれ」 事務長は、虚を突かれた表情を見せた。
だが、進めるべき話が、巧くは進まない。海外渡航、出国、外国移住は、原則禁止の国である。Tはその娘(こ)と帰国して、老母と生活を共にしたいのだ。現地側の官憲が、現地の煩雑な手続きを、次々と要求した。日本側の数々の公的文書も必要だった。
前例が乏しい手続きは、遅々として進まない。日本側に要請した書類も届かない。クーデターが起きて、現地の世情が混乱した。我々は帰国することになった。手続きが済まないその娘(こ)は、出国が許されない。Tはその娘(こ)を残して帰国した。
その娘(こ)は待った。5か月待って、念願がかなった。その娘(こ)は“あの国”を出国して、福岡板付空港に単身、降り立った。そして、待ちうけていたTと、再会を果たした。早春の、良く晴れた日だった、という。
* * *
Fの後任のIは、バツ一の男だった。イケ面で仕事もできた。いつの間にか、事務所の看護師と親しくなった。二人とも英語が堪能。流暢な会話は、耳目を集めた。彼女の上品な声で日本語を喋らせたいな、と思ったりした。事務所を閉鎖して現場を畳み、全員が“あの国”から帰国すると決めたとき、Iは「彼女を連れて帰りたい」と心中を吐露した。彼女が日本に来るには、厄介な手続きが待っている。直ぐには“あの国”を出られない。彼女は、搭乗口に一人立ちつくして、全員の帰国を見送った。彼女の掌に、本を一冊、乗せた。彼女はその表紙を怪訝そうに眺め、視線を私に向けた。「これで日本語を覚えて、彼と日本語でお話が出来るようになってヨ」 英語で書かれた日本語の教則本である。Iはその後、世界各地で勤務を重ねた。Iの任地の国に出向く機会があった。
その旅先で、Iの住居に電話をかけた。女性の声が、電話に出た。英語で問う。「Iさんのお宅ですか」「そうです」と英語が返ってきた。自分を名乗った。途端に「まあ、所長さんでいらっしゃいますか。ご無沙汰しております。お変わりございませんか?」 遜色ない日本語である。(もしかして・・・)“あの国”の彼女の俗称で、問い返した。「よく覚えていて下さって・・・」
あの時の彼女は、すっかり日本人家庭の夫人に納まっている。 “あの国”とは、ビルマ改めミャンマ、のことである。
四季の記憶37「讃岐男と阿波女」 鈴木 奎三郎
12月になって暮れもすぐだというのに、小春日和どころかなにか11月の季節感である。スキーシーズン到来のはずが、東日本各地では雪が不足していて、気象庁によるとこの冬は6年ぶりの暖冬になるとのことだ。1月上旬までのここ1カ月は全国的に平年より気温が高くなりそうだ。この暖冬の理由は、観測史上3番目の規模となるエルニーニョ現象が最盛期を迎えたため、日本列島付近で西高東低の冬型の気圧配置が長続きしにくいことによるそうだ。
70才をいくつか越えて、メッキリ寒さに弱くなった我が身にはこの暖かさは助かるし、暖房費も節約できる。しかしこの地球温暖化は長期的に見て決して好ましいことではないそうで、先日パリで国連気象変動会議(COP21)が開かれた。個人としてできることはなにもないが、こういうことこそ各国が協調して将来にツケを廻さないことが重要だ。
さて、12月になると毎年かならず思い出すことがある。季節の移り変わりがそうさせるのであろうか。1977年12月のことだからもう38年前のことになる。そのころぼくは会社の広報室で社長広報の担当をしていた。いくつかある仕事の中で、最大の業務は業界トップの月刊専門誌「国際商業」にゲストを迎えた新春のトップ対談を掲載することである。この年も11月頃からその企画を考え出した。目星を付けたのは資生堂の販売組織に一目を置く家電メーカーの有名なトップだ。当時の社長岡内英夫さんにこの方がよろしいのでは・・とお伺いを立てると、それもいいけどなんと瀬戸内寂聴さんに会いたいという。岡内さんは読書家であり瀬戸内さんの本はほとんど読んでいるという。それに瀬戸内さんは徳島のご出身、岡内さんは隣の香川の出身という縁もある。社長を退任し会長になる節目にぜひ一度お目にかかりたいとのリクエストだ。
寂聴さんは1973年に中尊寺にて天台宗で得度されたばかりで、その生き方や著書も含めて人気作家としての地位を確立していた。ぼくも1,2冊は読んでいたが、対談のお願いをしようにもその接点はまったくない。広告会社や出版社などのツテも考えてみたが、第3者を介することは主義として良しとしないし、もしうまくいかなかったら元も子もない。
こうなれば当たって砕けろ・・自分で道をつけるしかない。文化手帖で連絡先を調べおそるおそる電話した。秘書の方が出てきいうには「先生は化粧品会社の社長さんには全く興味がないし、会う気はない。それに多忙で無理です」とけんもホロロである。かといってああそうですかで済ますわけにはいかない。「岡内は前から先生の熱心な読者で、ぜひともなんとかお取次ぎを・・」と粘ること数回。何回目かの電話についに本人がでてきて「あなたもしつこい人ねー。やりますけど条件があります。12月17日の昼、京都まで来てくれれば・・」とのことである。
ホットしたのもつかの間、当日は役員会が予定されている。さあ困ったことになったと思ったが、岡内さんは「社内会議は二の次だよ・・」という決断で、急きょ京都行きが決まった。何人かの役員からは、神聖なる?役員会を変えさせた不届きなヒラ社員がいる・・と非難ごうごうだった。
当日は京都の嵯峨野の「寂庵」まで寂聴さんを迎えに行った。車中「遠くまですみませんね。剃髪にはお宅のシェービングフォームを愛用してるのよ・・」などと優しく話しかけてくれる。嵐山の「吉兆」での対談は、食事をしながら2時間を超えた。禅修行のこと、化粧のこと、香りのことなどが縦横に語られた。一泊して帰ってすぐに、5センチぐらいになった速記録から活版6ページ分の対談原稿をなんとかまとめた。FAXで送った先生からも全く問題なし・・とお墨付きをもらった。
いろいろ考えたタイトルは「讃岐男と阿波女」=今、東おとこと京おんなが語る“禅と化粧文化”とした。遊び好きの讃岐男には働き者の阿波女が似合う・・という故事に依るものだ。読者や業界からの反応は好評だった。
先月、NHKスペシャル「いのちー瀬戸内寂聴密着500日」を見た。93才となった今も肌はツヤツヤしてお元気そうだ。近著「死にじたく」もベストセラーになっている。法話も何か所かでやっていて大人気だ。10年ほど前は、パーテイなどで2,3回お目にかかっていたが今はその機会もない。これからもお元気でご活躍されることを祈るや切である。
【2015年10月17日定例作品】
住めば都の豆腐と昆布 横山 明美
練馬の地に住んで40年余になる。何年か前区役所で独立何十周年とかいう垂れ幕を見たときは、この平穏な国でどこかの属州だったのか(板橋区だったが)、古代ローマ時代ではあるまいに!と内心びっくりしたが、住めば都なのである。
子育てとともに始まったこの地での生活だが、今は子供もそれぞれの生活をしており私は元に戻って食事も日常は和食が多くなった。近くの豆腐屋はうれしい存在である。
昨今パック豆腐ならどこでも売っているが、豆腐は近くにあるならやはり豆腐屋である。その店はもちろん国産の大豆を使って作る。奥さんは伊那の出である。親しみやすい笑顔のいい人で、水槽に浮く豆腐を切ってそのまま掬ってくれるから今でも小鍋をもって買いに来る人がいて、田舎にいたころは当たり前のそんな光景を見るとなんともなつかしい。ご主人は早くに亡くなったが、入院中奥さんは病室に通って豆腐の作り方を教えられたという。その後の店のありようはこちらもなんとはなしにハラハラしたが、地域の催し物のポスターなども貼られるようになり、近隣になじんできたとほっとしたものだ。
ある秋の暮れ方駅を出て家路を急いでいると、すぐ前を楽しそうに今見てきたらしい芝居の話をしながら歩いていく影がふたつ。姿かっこうと声から豆腐屋の奥さんと知れた。もう一人は町内の仲間らしい。店先以外で見かけるのは初めてでよほど声をかけようと思ったが、余韻さめやらぬらしい雰囲気に水を差すようで、この気持ちは私も家まで持ち帰ろうとそのままに・・・。シャッターの下りた小さな商店街の薄明りの下を小柄で飾らないきもの姿はほこほこと行く。息子さんが結婚して手伝った時期もあったが、あるころからお嫁さんの姿を見なくなった。でももう立派な豆腐屋である。このごろは卯の花やガンモの煮つけなども置くようになった。主婦ならではの商いだ。近所の主婦が手伝ってもいる。夫は厚揚げが好きでよく買ってくるのだが、今頃だと伊那谷の紅葉はそろそろ、などという土産話もついでに持ち帰ってくるのである。
昔から佃煮など塩気のものが好物である。 京都に行った折など椎茸昆布などつい旅の気慰みで買うこともあるが、アツアツの御飯の友にしたらあっという間になくなってしまう。そこで厚みのある羅臼昆布を少々高いが奮発してまずはそれでダシを取り、その出しがらで佃煮を作ることを思いついた。
練馬の目抜き通りに、構えに品格がないとは言わないが昭和の佇まいの傾きそうな乾物屋がある。バスに乗っていて見つけたのである。店は年中開けっ放しで薄暗く人待ち顔に見える。屋号は表の看板にあるのだが、二階を見上げると、これが目に入らぬか、とばかり本来は住居部分と思われる窓の閉め切ったトタン張りの雨戸四五枚分通して大きさも書体も不揃いに、左から鰹節煮干昆布豆と大書してある。
一昨年の冬、大雪の降った翌日に区役所に用があり、こんな折にわざわざ出てきたのだからついでに、と初めて暖房もないその店へ足を踏み入れたのであった。
ふくふくと大柄で不用心とも思える顔つきの手代か息子かという若年寄みたいな男性がいて、私が客かどうか怪しんでいるふうである。よく見ると奥に、端正な顔つきの髪もきちんと櫛目を入れ、ウールのブレザーに身を包んだ渋い年配者が泰然と座っている。由緒ある店を継いできたのだという矜持が何となく感じられる、そんな人だった。商品も無造作に置かれているが、二対一である。少し身構えて平台や壁面の棚をつぶさに見ると産地も種類も実にさまざま、品ぞろえはいい。尋ねれば即座によどみなく説明や答えが返ってきて、時間の経過とともにその手代の顔体つきもだんだん引き締まって見えてくるほどである。寒い風の吹きこむこの店に手代と旦那。客の姿などほとんど見たことがなく、人の出の多い週末にはきっちり戸を閉ざしてその前には不動産屋の広告パネルが遠慮なく並ぶ。なんとも不思議な空間である 。
寒々しさに帰ったらお汁粉でも作ろうと思いたち、昆布のほかに小豆も買って代金を払うと突然「あのー、これ持っていきます?」と匂いのいい蝋梅の枝を差し出された。昨日の大雪で折れたのだろうか。来るはずのない日の客への思わずの気持ちだったのか、とにかく「まあ!」と驚いて押しいただき店を後にするばかりだった。
それから一年。バスからいつでも二階の雨戸の看板は見えるし店も開いており、その日も手代のゆったりとした影も認められたので、少しドキドキしながら「昆布が欲しいんですけど」と入ってみた。さすがに前回よりきちんと顔を見て話せるようになった。引退した相撲の高見盛を一回り小さくしてアクを抜き可愛くしたような手代だ、と思った。今日も静かに座っている主人の横で支払いをすませると、あろうことか手代に「あのう、これ持っていきます?」と今回はまた珍しい三椏の花を差し出された。手元の暗がりに置いてあったのだろうか。ちらと主人を見ると何事もないような顔つきをしている。私は「いただきます、いただきます」と二度も言ってしまってそれを挨拶に代え、店を出た。
こうなったら(それから時間が少なからず経過したことでもあり)また昆布を買いに行かなければならない。蓋物の中の塩昆布もほとんどなくなってきたし・・・。
ケルトと日本 Ⅱ 田原 亞彦
諏訪神社は、諏訪湖をはさんで上下二社ずつの四社からなっている。祭神は健御名方と八坂刀売神である。清川理一郎氏(昭和34年早大理工卒)の「諏訪神社 謎の古代史」を参考にしている。
神社の神事の中でも最も有名な御柱祭は、御柱の見立て、鷺の頭の形の薙鎌打ち、曳行、柱立ての祭事は、ネパールのインドラ・ジャトラの行事と酷似しているらしい。行事もケルト的であり、ケルトと同根の印欧語族のインド系の流れである。
南の上社の摂社である葛井神社の境内にある葛井の池は、本来池そのものが信仰の対象で諏訪湖始め他の池に通じ多くの伝承があり、地下を崇めるケルトの風習と同じである。また上田市の生島足島神社も地面そのものがご神体であり神社の床がない。
諏訪地方は古くより放牧が盛んで信玄が馬を好み諏訪神社に深く帰依していた。
また褐鉄鋼である自生のスズを集めた鍛錬鍛造による小鍛冶で鉄を手に入れている。いずれもケルト文化と類似している。
「諏訪大明神画語」によれば、上社の前宮には、古来から元々洩矢神とミサクチ神が祭られていた。8世紀頃か(?)出雲から、タケミカズチに敗れた健御名方が当地にたどりついて祭神となったのである。
神社の神事は75にも及ぶが、全て洩矢神を祖神する守矢家が代々神長官と言う筆頭神官として執り行っている。守矢家の家紋は○の中に十でシュメール文字で羊を意味している。
清川説によれば、洩矢の神は、エルサレムの聖地であるモリャの丘を信仰する土地神であり、ミサクチ神を祭る御頭祭は75の鹿をいけにえにするがその詳細は、旧約聖書の創世記22章の記述と酷似しており、鹿と羊が異なるだけだとしている。縄文の後期に渡来があったと記述している。
安曇野は安曇氏に由来し、その祖神のワタツミの神は穂高神社に祭られている。筑前の阿墨郷で、元来は海の正倉院といわれる志賀島が本拠の海人である。
現トルコ人の35%の2000万人ぐらいがケルト系と言われる。BC1750年頃原ヶルト人がヒッタイト帝国を建国した。古代トルコの遺跡を今春訪ねたが、イスタンプールの地下宮殿、、石灰岩の多いカッパドキアのカイマクル地下都市、洞窟住宅やホテル、洞窟教会など地下に関連する遺跡が多い。またキャラバンサライという隊商宿が印象的であった。古代のシルクロードの名残である。商人隊は3年かけて西安と往復したらしい。西の起点はローマである。トルコ人の源郷はモンゴリア西部のアルタイ山脈あたりらしく、シルクロード沿いの新疆省のウイグル族、ウズベク、カザフ、トルクメン、キルギスなどは大半の住民はトルコ系らしい。トルコ語でシルクロードの旅は不自由しなかったらしい。トルコ語は日本語と同じ文法であり、古代の突厥、匈奴もトルコと関連が深く、正倉院の御物をみても日本の古代との関連も大いにあったのである。
大村智さんと吉野源三郎の著書と道徳 大野 力
今回、医学生理学部門で、ノーベル賞を受賞した大村智さんへの多くの祝言の中で、野依良治さんが述べた「平和賞であっても不思議ではない」の言葉に甚く感じさせられた。大村さんらが開発した治療薬が、アフリカで、熱帯病による失明から、毎年、億にもまさる人を救っているという。文明の光が当たらない地域の病や風土が、働きを奪い、最貧を常態化し、テロの温床となっていることを考えると、野依さんの言に納得する思いだ。大勢のアフリカの子供たちの笑顔に囲まれた、大村さんの楽しそうな様子が報道されていたが,胸を打った。
大村さんは山梨の農家の長男で、家の跡継ぎと決まっていた。少年時は親の手伝いの農業に明け暮れて、勉強をする暇もなかったそうだ。盲腸炎を患い療養中に熱心に本を読んでいたら、それを見た父親の、そんなに勉強がしたいなら大学にいってもいいよ、との言葉に大村さんは検定で高校の資格を採って、山梨大学に入学した、卒業後、東京で夜間高校の教師をしていたが、昼間懸命に働いている学生が、油にまみれた手で鉛筆を握り期末試験に励む姿をみて、自分も昼間も勉強しようと大学に通った、と弟さんが語っているのをテレビでみた。学問をしたい気持ちをおさえて、当時の慣習と家の決まりに従う、大村さんの長男としての、責任と義務感の強さを表しているのだろう。父親の、わが子の意識下に強くある勉学欲を見抜く、心眼と愛情に感動すら覚えた。大村さんは、科学は人のためにあるものだ、科学は人の役に立たなければならないと思っている、子供の頃、祖母に、人のために為るような人になれ、といつも聞かされていたからね、と語っていた。日本の若者への発言を、と記者から求められて、成功者はあまり云わないが、成功は失敗の結果です、私も多くの失敗を繰り返しました、楽しくさえありました、失敗を恐れてはいけません、また、この受賞は研究者全員の努力と協力の結果ですと答えて、共同作業とチームワークの重要性を述べていた。大村さんは愛郷心が強く、郷土で、美術館に多くの絵画美術品を寄贈し、地元の若者の、企業家的科学者の育成に積極的で、一人でもいいからビル・ゲイツが育てばと笑っていた。
私は、大村さんのノーベル賞受賞の素晴らしさもさることながら、その思想、責任と自由、平等、人類愛、高い目標、失敗にめげげない継続する努力、相互信頼と共生、郷土愛などに、強く打たれた。
道徳が義務教育の正課となることが決まっている。内容がどんなものになるのか、かっての修身のように、作り替えられた人物の美談や徳目をピックアップして、当世風に作り替えて、愛国的義務と責任を生徒の心に刷り込むような教育になるのか。首相は、積極的平和主義をとなえ、再び世界の中心で輝く国の復活を唱え、政策の骨格にしていると思われる。新しい教科書を創る会に取り囲まれた安倍首相ならやりかねないと危惧している。
私なりに教材には何がいいのかと、時おり暇に任せて思っていたが、以前に読んだ吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」に思い着いた。この作品は1937年に出版された。コペルという少年が同級生との交友を通して、社会の仕組み、その一員としての在り方、自由と責任、友情等々を叔父さんを相談役として、学んで行く物語です。この著書のあとがきに、丸山真男は、1981年に逝去した吉野への追悼として書いた一文が、載せられている。「人生いかに生きべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。・・右のようなきわめて高度な問題提起が、中学一年生のコペル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした」と書いている。
大村さんの人生に重ねてみると、私には時代を超えて重なるところが多く感じられる。同時代に生きる教材を得ている喜びを感じている。人生を切り開いて進む特に若者にとっては、尚更であろうと思う。道徳教育に係っているひとたちが、この二つの事例をまじめに検討してくれれば、と思っている。
My favorite books 古藤 黎子
子供の時から本を読むことが好きだった。母が本を好きで、本を読まない人間はダメよ、とよく言っていた。私の部屋の本棚には、その頃憧れの、講談社の「少年少女世界名作全集」という豪華な箱に入った本が何冊かあった。小さい頃私は、体が弱くて、あまり外で遊ぶことがなかったせいで、専ら室内で、積木と本で想像の部屋を作り、独り言を呟きながら、お話を考えていた。
本の厚さと重みが、家の床にするのが一番と思い、その時の部屋の床用に「世界名作全集」の本を使っていたのである。
それらは当時、子供心にも西洋の文化を感じさせる本であった。数冊の講談社本の中に「8人のいとこたち」や「小公女」「小公子」というフランスかイギリスを舞台にした、夢のようなお話もあった。それらの本の挿絵は本当に素敵だった。美しく可愛らしい子供達が、素敵なお洋服を着て、夢のようなお家に住んでいるのだからたまらない。夢は大きくふくらみ、本で作ったお家では、私は小公子や小公女のような洋服を着て、喋ったり、動いていたのである。
しかし「怪盗ルパン」や「岩窟王」「名探偵ホームズ」なども好きだったから、夢想していたばかりではなく、冒険物や探偵物も大好きだった。
中学1年生の夏休み、なぜかマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」に魅せられた。ストーリーの後半、スカーレットが階段を落ちて生きるか死ぬかという時、病室で彼女が、バトラー船長の名を呼び続けたことを彼は知ることもなく、彼女への愛に絶望して去ってしまう、という場面に、「なぜ、なぜだ!一言それを教えてあげれば、バトラーは、スカーレットの元を去らずに済んだものを!」と自分の思い通りにいかないストーリー展開にむかついたこともあった。小説の世界だというのに!
中学生時代「女学生の友」が愛読書だった。時々、日本文学全集の要約集が付録でつくのだが、それを読んで日本文学の主な作品を読んだ気分になっていた。
初めて世の中の不条理に気がついた大学卒業後、高橋和巳の「邪宗門」や「悲の器」を読み、全集を揃えたりして満足していた。本当のところ、決して全集なんて読んではいなかったのだ。
その後、会社で誘われてミステリー研究会のメンバーになった。もともとミステリーは好きだったせいか、アガサ・クリスティ、ウイリアム・アイリッシュ、エラリィ・クィーン、レイモンド・チャンドラーなど。日本の作家では江戸川乱歩、松本清張、横溝正史など、やっぱり本格ミステリーは面白かった。ロバート・B・パーカーやロバート・ゴダード、スウェーデンの作家で「ロゼアンナ」や「笑う警官」の作者、マイ・シューヴァール/ペール・ヴァールなどは著作の殆どを読んだ。ミステリーは推理という副産物があるので、途中でやめられないからきっと読み続けてしまうのかもしれない。
最近では、横山秀夫の「半落ち」をはじめ、警察物の作品が面白かった。ミス研は、年度末に「このミス」や何冊かのミステリー専門誌上に発表される、日本・海外の年間の人気ミステリーのベスト作品のあれこれを、飲みながら喧々諤々と喋りまくるのが恒例になっていた。この会では、他の人の感想も聞けるので結構面白い。
今、私は、原田マハという作家の作品に傾倒している。作者の前歴がキュレーターというのが意外で、興味を持った。初めて読んだ「ジヴェルニーの食卓」は、ドガ、セザンヌ、モネ、マティスの巨匠がそこに今、実際いるような作品でびっくりした。彼女の作品は幅広く、作中の人物に対するまなざしが何とも言えず温かく心理描写が繊細。しかもテーマが千差万別で豊富である。荒唐無稽な面白い作品も多いが、とても読みやすくて面白い作品である。最新作は、京都を舞台にした「異邦人」。これで「いりびと」と読ませている。タイトルも内容と関連があるからだ。
本棚を見ると、その人の考え方というか思考を推測できるとよく言われるが、私の本棚は適当。大好きな浅田次郎や、向田邦子さんのハードカバーは一冊も並んでいない。というのも、住居の建物の2階に区立図書館があって、もっぱらそこで借りることが出来るからだ。出版社にいた人間が、借りるのが一番だ、と思うのはやっぱりまずいかもしれないが……。
アンメリット 照山 忠利
オイカサラマサヨサン。いきなり判じ物のようで恐縮だが、漢字で書けば追加更正予算。その昔、大臣までやった某代議士がこの字をこう読んだのを誰もまちがいを正す人がなく、おそらくあの世にいってもこう読んで閻魔大王に指摘され恥をかいているのではないか。われらが選良でもこの程度の国語力しかない人がいたという話。NHKの元政治記者で園田外相の秘書官などを務めた渡部亮次郎氏が自身のメルマガで実話として紹介している。
これを見て昔の炭鉱時代のことを思い出した。今世界遺産登録で賑わっている軍艦島(端島)のひとつ長崎寄りの高島炭鉱で労務屋をしていた頃のこと。なにせ三菱の経営になってからすでに100年も続いてきたヤマだ。伝統というかしきたりというか、独特の文化が受け継がれてきた。それは経営側にももちろんあったが、労働組合にも色濃く残り、炭労は戦後の労働運動をリードしてきたという自負からか「闘争優位」の気風もその一つだった。何かというとすぐ団交と闘争。小さな島の中で労使がするどく対立しながら長い歴史を刻んできたわけだ。
だが時代の趨勢はいつまでも労使の対立を許すようなものではなくなってきた。いがみ合っているうちにヤマそのものが潰されてしまうかもしれない状況となり、次第に労使は協調してヤマを守らねばならないとの認識が共有されてきた。
そんな中で総務課長の私の相手方はY書記長。私より一回り近く年嵩だが島の生え抜きで、真面目な人柄に適度のユーモアと教養を備えていた。労使関係の要はこの書記長が握っている。彼の意向次第で労使の関係が左右されてきた。その書記長は週に2回ほどは私を訪ねてきた。実務的な話を終えたあと、面白いエピソードなどを語るのを常とした。歴代の組合長に仕えてきただけに、話題はほとんどがその人たちにまつわる逸話である。思い出すままにいくつか紹介する。
(1)半自民
労組OBで長崎県議をしていた先輩の話。県会議員選挙で苦戦していたこのG県
議の選挙応援に駆り出され、1週間の戦いを終えていよいよ明日は投票日という
日の夜、長崎から島へ帰る船に乗る前にY書記長がわざとG先生に聞こえるよう
にひと言。「あー終わった終わった。さあ今から島に帰って誰に入れるか(投票す
るか)みんなで相談しようや」。G先生はあわてて「おいおいそれはないだろう」。
先生は社会党公認で出ているのだが、夜の宴席が大好きで「ボカアね昼はもちろん
反自民だが夜は半自民になるんだ」とのたまったとか。それで嫌味のひとつも言ってやった
のさという次第。
(2)挑戦
ある日の労使交渉でのやり取り。
労)会社はいろいろ調べまわって、まるでKCIAのようじゃないか。
会)なんだと「K」だけよけいだ。それより今のは会社に対する挑戦ではないか。
労)なんてー。俺は朝鮮じゃねえぞ。れっきとした日本人だ。
ヤマには様々な人がいましたから。でもまるで漫画です。
(3)アンメリット
Y書記長曰く。「うちの組合長がこの頃よくアンメリット、アンメリットと言うん
だけど、どこで憶えてきたのかな。デメリットの意味で本人は使っているみたい
なんだよね」。
なるほど、使いたくなる気持ちはわからないではない。それからしばらくはこれがヤマの流行
語となりました。
(4)チャビにふす
「あんたそんなこと言ってるとチャビにふされることになるよ。たいがいにしと
きない」。?? なんのことはない。荼毘に付すことを間違い読みして「殺されるよ」と脅し
ているつもりなのだろうが、これじゃおかしくて脅しにはならんわ。
(5)修羅場
「あのねえ、その時は一瞬そこはシュラジョーとなったよ」と元組合長が回想し
た。この人もここまでのし上がるには数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずなの
だが、どうも言葉の意味を取り違えているようだ。
こんな調子の雑談を交渉事の合間に交わしてきたのだが、最後の最後、激しい閉山反対闘争の後で昭和62年1月、ヤマと運命を共にして自害の道を選んだY書記長。あれからまもなく30年、存命だったら今年喜寿を迎える年である。遺児の一人は早稲田を出た後共同通信を経て今は西日本新聞(福岡)の記者をしている。オヤジのことをどう思っているのか、いつか取材してみたい気がする。
(了)
ボケ防止とhome pageのかかわり 谷川 亘
認知症になると、物忘れが日常茶飯事となり、日時の感覚すらなくなってしまうと聞いております。また、疾病ではないMCI(軽度認知障害)と本物のそれは医者でさえ区別がつかないとも言われていますから、本人にとっては尚更のこと。
不安に取りつかれて右往左往するこの時期に、脳細胞に刺激を与える手立てとは?
律儀にhome pageを発行すること。これぞ残存する唯一無二のボケ防止策だと信じ切っております。
去年までは、一日一万歩。時に低山山歩き。メタボ解消も兼ねて汗かく一石二鳥。
歩行の度に海馬を刺激して脳味噌の腐敗を防ぐと信じて実行して参りましたが、歩幅も速度も落ち込む一途。ヨタヨタ歩きではリズム感あふれた脳への刺激効果は期待できる筈がありません。
確か、以前にも我がhome pageで認知症症候群について取り上げた記憶があります。しかも、話題に事欠く自閉症的老後にして書き続けること既に三年余。“ネタ切れ”の傾向甚だしく、本欄も重複した内容になってしまうことをお許しいただきたいと思います。
日時の感覚をキープする基本は、週始めの月曜を認識することが肝要。
月曜日。早起は三文の徳。誰に見られることなくそっとゴミ出し(可燃ゴミの日)しつつ3番電車に座ってスマホなぞり・なぞり。一番で出社しては、「お早う、元気か!!」何て宣ふては“老会長の存在” をひけらかす。自らを誇示するのもボケ防止の一策。
在宅しては所在無し。出てみた所で仕事なし、秘書なし、足(車)無し、個室無しの“ないない”尽くし。新聞読みの時間潰しも右から左の上の空。窓際背負って西日浴びれば睡魔が襲う。当節の若者は酒の味さえ知らない不幸者。「ご苦労さん。どうだい一杯!!」と誘っても、敬老精神の持ち主は一人として現れず、独りヤケ酒に及んでは、たったの大徳利一本で“爽やか秋空、コスモス畑”の心境に至るのだ。
所で、ショクダイオオコンニャクってご存知でしょうか?
元々はインドネシア産の世界最大の花で絶滅危惧種。しかも開花時に放つ悪臭、これを何に例えん?別名「死体花」。開花はまれで7年に一度とも言われ。その上咲いても二日たつとしおれてしまう。
新聞記事で写真付きのショクダイオオコンニャクの偉大さに圧倒され、“これでも花?”と興味津々。東京神代植物公園で開花間近と知って9月1日に出向いたのですが、背丈が前日比4.5cm伸びて121.5cm。成長している間は花が咲かないとの事なので無念の涙。
天候不順続きで開花には至っていないと知り、日を空けて6日朝一に行っても、同2.5 cm、137cmで開花未だし。ただ、その日の夜に開花するとの実しやかな情報もあったりして、雨中、時間つぶしてひたすら待つのが最善策とは知りつつも、後ろ髪引かれる思いで引き返す。
7日は野暮用に邪魔されてまんじりともせず見やり、これが最後、8日にまたまたバス乗り継いで満願成就のご拝顔とは相なりました。
結論的には、ご覧いただいてもわかるように、開花なのか“まだ蕾”なのかの判別は素人には無理。しかも、花開いて虫寄せ付ける“鼻も曲がる”程の異臭についても、居合わせた“鼻利き”のお嬢さんに言わせれば、「ち~とも臭わない」そうでした。
でも、開花したのは事実。開花例も少なく個体差があるので致し方ないと、専門家は、言い訳がましく宣ふておりました。この花も7年に一度の開花の筈が“気まぐれにも”4年目だそうで、いささか小粒だそうです。
ズバリ開花を写せなければ片手落ち。オジンの意地も三度に及んだのです。ママチャリなら小一時間。なのに、雨中バス乗り継いで三度も行く羽目に陥ったのも、何を隠そう、ボケ防止と“頭脳の活性化”対応。それに、10月home pageの大事な取材。
後期高齢者なんて卑下されて、この先そう長いとは言えない余命なのに、「オオコンニャクの勝手でしょ!!」。
からかわれると言うか“生かされている”のです。
帰途、三鷹駅近の大衆酒場でご褒美の昼酒大徳利1本やって気が大きくなり、4㎞の道のりをずぶ濡れ行脚でヨタ歩き。余得ですが、武蔵野総合体育館の植込みで、今年初めて雨に打たれる黄色の曼珠沙華を撮ることが出来ました。
酷暑過ぎて台風一過。もう彼岸花。既に時節は“秋”なんですよ。
コンクリート・クロニクル 小林康昭
コンクリートは、セメントと砂と砂利を水で混ぜて作る。作ったばかりのコンクリートはドロドロだ。あたかも、山芋を出汁と一緒に擂ってとろろ汁に仕立てて、その中にジャガイモとゴマ粒を混ぜ込んだような呈を成している。このドロドロした流状態のコンクリートを、現場で流し込む。すると、時間が経つと固まってくる。そして遂には、石の塊のようにカチカチに固まる。ドロドロした状態のときの水気は影も形もない。この水分は、どこに消えたのか?
蒸発したのでも、水蒸気になったのでも、外気中に消えたのでもない。水のH2Oは、セメントの主成分の酸化カルシウム(生石灰)CaOと化合して、水酸化カルシウムに変化したのだ。すなわち、CaO+ H2O→Ca(OH)2。
これは変化ではなくて反応、化学反応なのだ。コンクリートが固まる間、水分が消えてなくなる化学反応のために、熱を発生する。この熱を水和熱という。つまり、コンクリートは固まるまでの間、熱くなっている。だから、冬の工事現場では、まだ固まらないコンクリートが、盛んに湯気を立てる。まことに壮観である。そもそも、物質は温度が上がると、体積が増える。だから、コンクリートが固まるまでの間、水和熱のためにコンクリートは膨張する。
だが、膨張が過ぎると、コンクリートはあたかも網の上で焼かれる餅のように、膨れ上がる。極端な場合は、膨れすぎてコンクリートに亀裂が入る。そのような状態に陥るのを防ぐために、コンクリートは作ったときから固まるまでの間、適温を保って、温度が上がらないように管理する。コンクリートの工事では、温度の管理が最も大事な品質管理なのだ。だから、真夏にコンクリートの工事をするとき、現場の技術者は非常に気を使う。もっと、大変なのは、酷熱のアラビアやアフリカの砂漠で、コンクリートの工事をするときだ。
* * *
工事現場に向かおうとして事務所を出た途端、熱気が顔を殴りつけた。砂漠の地平線が、燃えるように揺れている。室内の寒暖計は、摂氏42度を示していた。コンクリートミキサー車の傍らでは、パレスチナ人の監督官が、仁王立ちになって喚いている。彼に近づいて、何気なくミキサー車に触れた。途端に焼けつく暑さを掌に受けて、私は悲鳴を上げた。
監督官は怒鳴った。「この生コンは温度が高い! 使うな!」私は言い返した。「この暑さでは仕方がない。少々の温度超過は認めろ」「駄目だ」「無理言うな」「無理なら、コンクリートを打たせない!」生コンは冷水を使って練っていた。だが、気温が高いので、生コン・プラントから出したコンクリートは35度を超え、現場に走って来る間に、40度を超えてしまう。こんなときには、気温が下がる深夜にコンクリートを打つのが正解なのだが、工期が大幅に遅れているので、昼間もコンクリートの工事をせざるを得ないのだ。監督官の上司、フランス人の主任技師が現場にやってきた。私は主任技師に訴える。主任技師は即座に断を下した。「規則を守れ!話はそれだけだ」
現場に到着したミキサー車の生コンは摂氏46度だった。契約書に添付された技術仕様書は、摂氏39度以上のコンクリートの使用を禁じている。あきらめきれないので、主任技師に食い下がる。「規則通りに工事を進めている。いわれたことを守ると、費用がかかる。打ち終わった後で強度があれば問題はないだろう」 主任技師は冷ややかな目で私を見た。「お前に、そんなことをいう資格はない。決めるのは、エンジニアの俺だ!」 万事休す。工事は中断した。
生コン・プラントと骨材置き場に屋根を架けた。少しでも直射日光の熱を和らげよう、との魂胆だ。そして、屋上に散水した。だが、現場に運んだ生コンの温度は45度。温度効果はたった1度だ。氷を入れた水で生コンを練る。3度下がって42度になった。ミキサー車に移した生コンにも氷を注ぎ入れる。2度下がって40度になった。プラントから現場に走るミキサー車のドラムの上から冷水をかけ続ける。ようやく37度。やっと、許可が出た。工事が中断して5日目だった。
監督官の鋭い眼差しを受けて、生コンのスランプを測る。スランプとは、まだ固まらないコンクリートの柔らかさを数値で示したものだ。まだ固まらないコンクリートは、丁度カレーライスの汁のように、硬さや柔らかさに違いがある。余りにも柔らかくて水っぽいと失格になる。規定は8以下だ。ところが、スランプの測定値は10だった。不合格だ。打込みを許されないコンクリートは、勿体ないが砂漠に捨てる。黙然と次の生コンを待つ。2台目は41度。温度超過で不合格。3台目で、やっと、温度とスランプがOK になった。監督官の前で、強度試験に備えてテスト・ピースを採る。
今日から28日後に、コンクリートが固まったテスト・ピースで強度試験を行って、強度を確かめることになる。つまり、今、打ち込んでいるコンクリートは、28日経ってから初めて、どのくらいの強度になるのか分かるのだ。
監督官の前で、テスト・ピースに日時を書き込む。その脇に、監督官がサインをする。その場から、テスト・ピースを試験室に運ぶ。監督官が脇についてくる。すり替えを防ぐためだ。試験室の鍵は、監督官だけが握っている。28日間に我々が試験室に入って工作することを防ぐためだ。監督官とともに試験室に入る。室内の一挙手一投足を、監督官が凝視する。監督官に促されて、試験室を出る。監督官は、扉を閉めて鍵をかける。厳重な監視は、我々、現場側の作為を防ぐためだ。
現場には、次のミキサー車が待っていた。監督官の前で温度を測る。41度。不合格! 試験室を往復する間の待機中に、温度が上昇していたのだ。こうして、文字通り、一喜一憂が繰り返される。
やっと、その日のコンクリートの打ち込みが済んだ。疲れ切った眼に夕焼けが眩しい。私は、28日後を案じる。もしも、強度が規定に満たなかったら、監督官も主任技師も、必ず襲いかかってくるのだろう。嬉しそうに、舌なめずりをして。
四季の記憶36「錦秋に誘われて」 鈴木 奎三郎
旧暦10月の節気は立冬である。現行歴の11月7日頃に当たる。ここから来春の節分まで暦の上の冬の期間である。このころになると空は青く澄んで、刷毛で描いたような白い雲が上空の速い風に追われるように流されて飛んでいく。暑さにあえいでいたのはついこの前のような気がするが、本当に光陰矢の如しである。江戸前期の俳人・野沢凡兆はその感じを
上行くと下来る雲や秋の空
と詠んだ。まさに季節の風景であり、晩秋から初冬への変化が詠われている。
もうすこしすると、公園のタイサンボクの巨大でぶ厚い立派な歯がぱさりぱさりと大きな音をたてて落ちてくる。紅葉はしない代わりに、黄褐色や褐色に変わった葉には、葉のなかを喰った何かの幼虫の食痕が見える。その偶然のデザインはまるで前衛画家の作品のようでもある。子供が小さかった頃、近くの公園で何枚か拾って居間に飾っておいた。子供が家を出ていく頃には、いつの間にか一緒にどこかへ行ってしまった。そんな記憶が甦る。
この時季は秋の雨、秋時雨、秋霖、釣瓶落し・・などさまざまな俳句の季語があって、金秋、白秋という季語もある。季語にはないが、「錦秋」という言葉はとりわけ美しく、ぼくの最も好きな言葉である。紅に染まる木々が錦の絨毯のように鮮やかに映える様子を表現したこの言葉は、四季の移り変わりを感じて生きてきた日本人の豊かな美意識を端的に示している。言葉は文化そのものであり、日本語の美しさは世界に比類のない言語ではないだろうか。
紅葉は、主として広葉樹の葉が冬に落ちる前、緑の色素のクロロフィルが分解し、赤い色素が形成されて黄色い色素が目立つようになったりして起きる現象だ。その変化の度合いは樹種や地域によって異なる。天気図に寒色系が増えてきて最低気温が8゜C前後になると始まり、5゜C~6゜Cで見ごろを迎えるそうだ。
仕事をしていた頃は、とてもとても紅葉狩りを楽しむ時間も心の余裕もなかったが、会社近くの日比谷公園には秋が深まるとよく行った。厚生省や通産省、経団連会館の中にあった記者クラブの帰り、帝国ホテルでの会合の帰りに、小一時間ブラブラして松本楼でコーヒー休憩をするのが楽しみだった。明治のころは陸軍の練兵場だったが都市公園として造成され、今年で開園112年になるという。噴水の周りには四季の草花が植えられ、S字形の園路にはイチョウが植わっている。当時はせいぜいポケベル程度で携帯もなく、いったん会社を出てしまえばしめたもので、来客・会議がなければ夜の席に間に合うように夕刻に帰るまでは自由の身だ。近くの銀座界隈は、ショッピングや食事はもちろん、ギャラリー、映画館などの文化インフラも密集している。有楽町のシネコンにもよく行った。午後の一時半ごろからの回を見ても会社には4時前には戻れる。月に1,2回この時間をひねり出すのに苦労した。あるとき出口でバッタリと会社のOB役員に会ってしまい気まずい思いをしたが、お茶を飲みながらの映画談議に誘われてすっかり親しくなってしまった。いま考えてもいい時代だった。
紅葉といえば、神宮外苑のイチョウ並木ほど見事なものはない。東京の紅葉の人気スポットナンバーワンである。いまでも2,3年に一度は行くことにしているが、現役の頃もこの時期になると少々車に遠回りをしてもらい、つかの間の秋を楽しんだりした。調べてみると、1923年(大正12年)に作られたこの並木は、青山通りから神宮外苑まで背丈の揃った146本のイチョウが9メートル間隔で300メートルにわたって植えられている。11月下旬から12月上旬が見ごろで、この時期には“イチョウ祭り”も開かれて、物産品や陶器の販売、模擬店なども出ている。紅葉から落葉が始まると、一面のふかふかした黄色い絨毯になる。この上を歩く感触は他のことでは味わえない。観光都市東京のシンボルだ。
紅葉は植物学的に言えば葉の老化現象にすぎないが、散り際に見事な姿を演出する。ヒトの晩年も紅葉にあたるものかもしれないが、体力気力容姿も衰えて、最後にイチョウのような有終の美を演出できないのが残念なところだ。
【2015年8月15日定例作品】
明治生まれ 横山 明美
「戦後70年も経つのか。おまえも歳をとるはずだなあ」と壁にかかった写真の父が語りかけてくる。連日のあまりの暑さに人間を卒業したくなるくらいだが、父ならハアハアゼロゼロとあえぐこともなく巨体も大声もそのままに、好物の唐黍にハーモニカでも吹くようにかぶりつくことだろう。まだエアコンのない時代の懐かしい父の夏姿である。
明治、大正、昭和、平成と四つの時代を駆け抜けた存在は、私には生きた歴史そのもので、言動の一つ一つが面白く退屈することがなかった。どんなことにも興味津々、進取の精神に富んでいたのは早稲田精神でなくてなんであろう。姉も私も弟もそして孫までもが早稲田の学生になったのは何か見えない糸に引かれていたのに違いない。
父は学歴などなかったが学ぶことは好きだった。上京してがむしゃらに働いたこと、お給金で古本を買ったうれしさ、その本の案内で知った結社に俳句で応募したら望外の賞金をもらってさらにたくさんの本が買え、仕事とともに句作の日々が始まった・・・それが生涯続くことになるのだが、これらは姉の父からの聞き書きが見つかって知ったことである。戦後紙関係の景気はよく父は全国あちこち飛び回って営業に専念したようだが、聞き書きからも当時の張り切った昂揚感が感じられ、そんななかで自分たちは育ってきたのだと、一つ一つの自分の小さな歴史も思い出されてくる。出先から必ず当地の名物土産を買ってきてくれるのも時代時代の思い出につながるものだった。
80を過ぎて父はワープロを始めた。句会のあるときには仲間の作品を前の日までに太い人差し指でコツコツと打っていく。大きな背中がなんともかわいかった。当日は思いのほかスピードの出る電動三輪車で街の大通りを平気で走り抜け会場へ。父の勇姿に車のほうが遠慮してくれるのだそうだ。威風堂々がまだまかり通っていたのだろう。
若いころ東京で関東大震災に遭った折には揺れが収まるとすぐさま「自転車に乗って街へ様子を見に行った」。何か事があると直接知らずにはいられない人なのである。
我が家には小さいころからなぜかアコーディオン 、マンドリン、ウクレレなどがあったのだが、新内、長唄を多少唸る程度の人が到底好むものではない。どれも形が面白くて買ったのか、戦後困窮した人から譲り受けたのかもしれない。
すでにテレビの時代になっていたわけだが、画面に映ると必ず父が「俺は嫌いだ、局を変えろ」という人物がいた。それは加山雄三。自分の父親にそっくりなのだという。いい男ではないか。飲んべいの父親は母親にひどく苦労をかけたのだという。もう一人は五木ひろしだ。「歌はいいがあのにやけた顔が気に食わん。男はあんな顔するもんじゃない」と。
母に手がかかるようになって平日はお手伝いさんを頼むことにしたが、初めにやってきた細身の濃い顔つきの人は「あんな鬼瓦みたい顔は御免だ、気が休まらん」と二日ではいさようなら。二人目のむっちりと色白の女性にその後ずっと通ってもらうことになった。痩せようとするな、女はふっくら、が我が家の家訓である。週末は娘たちの出番だったが、桜の時期また夏祭りのころになると父は最新式のデジカメをポケットにしのばせ電動三輪車で「ついて来い」と勝手に走り出す。桜の下で「こっちを向きなさい」とパチリ。しかしこのときの桜吹雪の中の私はなんともにっこりとゆるびており、写真嫌いの私にしては珍しく大事な一枚になっている。
長生きすると実に面白い、とものの不自由な時代を過ごしてきた人は思ったのではないか。昼にはよくそばを食べていたが、薬味のほかに必ずウズラの卵を落とした。「これがないと・・・」と得意気に専用の奇妙な形のウズラ卵割鋏をもちだして真ん中からサクリと割るのだ。相撲取りのような父と最小のウズラの卵の取り合わせもなつかしい絵姿である。
銀色に輝く六角形だったか不思議なデザインのイタリア製コーヒーメーカーがある時期から鎮座ましましていたが、これだけはうまく使いこなせず、娘どもも面倒がるのでついにただの飾り物に成り果ててしまった。
学生時代、帰省しようと上野から電車に乗ると父とばったり一緒になった。暑がりの父に持っていた冷たい麦茶を飲ませたりしておしゃべりに興じていたのだが、着いて改札を出ると「網棚に上げた鞄を忘れた」という。娘と一緒でつい気が緩んだのであろう。すぐ手を尽くしたが時すでに遅し。道々父は言った。「実印と大金が入っていたが仕方がない。お母さんには決して言うなよ」と。玄関を入ると父は「アー暑い暑い、風呂だ風呂」といつもの調子で言い、私はなんだかこそこそと部屋で荷を解くばかりであった。
親兄弟に情をそそぎ、日本の戦後を懸命に走り、家族を大事にそして楽しませ、戦後の旅行ブームには母や叔母たちに旅をさせ、一人になって15年。百歳になる少し前に父は夜介護の人が寝せに来てくれる前、居間から自室へ車椅子で移動の途中あっけなく心臓麻痺でぱたりと逝ってしまった。正岡子規の命日であった。これでよかった、と思う。机の引き出しには「長い間お付き合いいただいたご近所の皆様へ」というワープロで打ったご挨拶がしまってあった。
家族思いでおおらかな父だったが、その昔好きな女性がいた。写真を見るとやはりふっくりとふくよかな人であった。早くに夫を亡くしたその人の家族の後々まで面倒をみたようだったが、その人は父が仕事を引退したころであったか、先に旅立ってしまった。通夜の日悄然とした姿で上京した父は我が家へ宿をとり、私だけがそれを知ることになった。とてもいい人生だったと思う。
まなざしの向こうにー舟越保武彫刻展をみて 竹内 尚代
練馬区美術館での舟越保武彫刻展が終わった。
舟越保武を知ったのは、私の大好きな画家・松本竣介と同じ岩手県出身で盛岡中学の同級生、しかも同じ芸術の道を志し深い交流があったということを知ってからである。
<舟越安武は1912年岩手県生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業。新制作派協会彫刻部の創立に参加。独力で学んだ直彫りによる石彫りの第一人者として活躍。1950年洗礼を受ける。キリシタン弾圧をテーマにした「長崎26殉教者記念像」「原の城」などの代表作をはじめとして、静謐な美をたたえる聖女や女性像のつくり手としても知られる。1987年病に倒れ右半身が不自由になるが、左手で創作活動を続ける。2002年死去。享年88歳。>
たまたま「鴨居玲」という画家の展覧会を観に笠間の日動美術館に行き、舟越保武の彫刻を見る機会があった。なんて清らかで綺麗なのだろうと心にひびいた。
私も盛岡に縁があって度々盛岡に行くことがあり、その度に岩手県立美術館の「松本竣介の部屋」と「舟越保武の部屋」を訪ねるようになり、二つの部屋にいる時は心を空(くう)に遊ばせることができる私の大切な時間になった。
その後機会がある度に舟越保武の彫刻をみていたが、その部屋にはいつもの舟越保武の清らかで美しい彫刻とは一味違った彫刻があった。
それは「原の城」と「ダミアン神父」であった。
「原の城」のモチーフになった場所は島原の原の城という所で、寛永年間にこの地方のキリシタン武士と農民の3万7千人が山城にたてこもって徳川幕府に抵抗し、ついにはほとんど全員討ち死にしてこの乱が終了したという悲劇の現場であり、信仰の自由を求めた人と苛酷な税の取り立てに身をもって抗議した人々の悲惨な歴史の跡だ。3万7千人の思いを、鎧を纏ってやや前かがみに少しうつろな目をしている男性の彫像に、舟越がこの闘いに散ったキリシタン武士の姿をどうしても遺したいと思ったのは、同じ信仰を持つからというだけでなく、島原の乱の中にぎりぎりまで追いつめられた時の、人間本来のやむにやまれぬ高揚された精神を感じ表現したいと思ったという。今回の彫刻展で改めて向き合うと、「原の城」の武士の目は空洞になっている。
この「空洞の目」が自由を求め、圧政に抗議した人々の悲しみを表現しているのだと、改めて作者の深い想いと遠い歴史を振り返った。
実在の「ダミアン神父」はベルギーの人で、33歳の時にハワイの癩病患者が隔離されている島に宣教師として赴いた。患者と共に暮らして10年、癩の病状が発症してきて初めてダミアン神父は「われわれ癩者は」と言うことができたと喜んで語ったという。舟越は癩を病んだダミアン神父の顔の中に美と醜を超えた強い気品を感じ、病醜の姿を作りたいと思った。この病醜の顔のなかに恐ろしいほどの気高い美しさが見え、他の人には見えるはずがない、でもこれを作らずにはいられなかった、と舟越はいう。
「ダミアン神父」の彫刻は圧倒的な存在感で、私の足をも止めずにはいなかった。舟越の清らかな女性像はその美しさゆえに足を止めずにはいられないのだが、いってみれば女性や聖女の美しさは普遍的な美を湛えているのに比して、「ダミアン神父」の像は一人の人間としての存在、怒りも悲しみも、苦しさも、愛も、まるごと凝縮して、それを超えた人としての気高さを現わしていると思えた。
今回の彫刻展で新たに感じたのは「聖クララ」の砂岩(諫早石)の暖かな手触りと、「隕石」の大理石(紅霰)のきらきら輝く素材の美しさである。
特に展覧会チラシの「聖クララ」は哀しみをたたえた表情が現代に生きる人を捉える。この哀しみの優しい表情につい手を伸ばして顔を触りたくなるような柔らかさを砂岩が引き立てている。いままで素材にそれほど興味を持っていなかったが、この二つの作品とその素材の融合が素晴らしいと感じ入った。
舟越は病気で右半身が不自由になって、左手で彫刻をするようになった。その無骨さが、とても親しみやすく、人間的なのだ。「ゴルゴタ」「マグダラ」「その人」それらはキリスト教をモチーフにしながら、きわめて人間的に表現されている。舟越保武の彫刻は、女性像にみられるような完璧な美しさが観るものの心を癒すが、一方で人間的な気高さがまた違ったところで、観るものを安らかにしてくれる。
自然のなかに心を遊ばせることのできる舟越は、エッセイストとしてもすぐれた文章を書き日本エッセイストクラブ賞を受けている。
淡々とした文章のなかに、私は激しい舟越保武を想像する。芸術への情熱と表現できない時の苛立ち・苦しさ。淡々とした文章だからこそ裏にある激しさを感じてしまう。繊細さと激しさとの間で苦しむ、自分との折り合いをつけるために信仰を持ったのではないかと。苦しいときに教会行脚をしていた私と比べるなど不遜だと思いつつ想像してしまうのだ。
了
参考文献・「巨岩と花びら」筑摩書房 「ナザレの少年」(株)ジーシー
「石の音、石の影」筑摩書房 私家版 大きな時計
「石と随想」求龍堂
CPAP(シーパップ)(持続式陽圧呼吸療法) 古内 啓毅
2月の例会で「睡眠時無呼吸症候群」(SAS=Sleep Apnea Syndrome)をテーマにした。今回はその続きである。
SASとはどんな疾病か?健康な人は、息を吸うと横隔膜が収縮して胸腔が広がり、胸腔の中が陰圧になる。この陰圧によって空気が鼻の穴からのどを通り、気管から肺に流れ込む。しかしSAS患者になると、この陰圧によって、のどのやわらかい組織が内側にひきこまれ気道が狭くなる。狭くなった気道を空気が通るとまわりの組織が振動する。これがいびきである。完全に狭くなってしまうと無呼吸となってしまう。これがSASだ。
私のSASとの関わりは、数年前から、ときどき声がかすれ、発声にもどかしさを感じ、一昨年7月の総合病院耳鼻咽喉科での診察に始まる。そのときの診断では、加齢による声帯の委縮ですき間ができており、息が漏れ、かすれ声になっている、異常はない、という診立てであった。が、鼻茸(慢性副鼻腔炎)が発見され、その治療が始まる。昨年11月、抗生物質の投薬で鼻岳がやや縮小してきているのでさらに様子を見ようということであったが、ドクターに、妻に、寝ているときに息が止まっていることがあるといわれた、鼻茸と関わりはありますか、と尋ねたところ、何とも言えないが検査をしましょう、ということになった。昨年12月、睡眠時の呼吸の状態をモニタリングし、SASであるかどうかを判定するスクリーニング検査を実施。結果は「重症の睡眠障害の疑い」で「CPAP(シーパップ)(Continuous Positive Airway Pressure=持続式陽圧呼吸療法)などの治療が必要」という誠にショッキングな判定であった。
これを受けてドクターから、SASの改善に直接つながるとは断言できないが、鼻茸を切除して様子をみたいと手術を提案されたので同意し、本年2月に手術が行われた。術後は、鼻からの空気の出入りがスムースになったようだ。以降、術後の治療が続けられたが経過良好で6月30日に再度のSASスクリーニング検査を実施することになった。
7月23日、ドクターから検査結果の説明があり、残念ながら、1時間当たりの無呼吸回数が49.6回から41.1回へとの若干の改善が認められるもののなお高い数値であり、「重症」という判定は変わらなかった。
早速、SASのもっとも重要な治療法といわれるCPAPの使用を処方され、病院ではCPAP装置のレンタル等を取り扱っていないということで私の最寄りの駅にある耳鼻咽喉科に紹介いただきそこで治療を行うことになった。
CPAP療法とは鼻に装着したマスクから空気を送り込むことによって、ある一定の圧力を気道にかける方法である。送りこむ空気の風圧によってのどの中にスペースが確保され、柔らかい組織を強制的に押し開き、鼻でスムースに呼吸することが出来るようにするというものだ。CPAPを使うと、その日からいびきをかかなくなり、朝もすっきり、昼間の眠気も軽くなり、消えることもある、といわれている。
私は7月31日からCPAPの使用を始めたが、毎夜の装置の装着がまだ不慣れで苦労しているが、睡眠が深くなり、朝の目覚めも良くなったような気がしている。無呼吸回数のチエックは来月初めになる。しかし、CPAP療法は根治療法ではなくCPAPを使用中のみ症状を緩和させる対処療法だ。従って、5千円程度のレンタル料を毎月支払い、医師との面談がこれからずっとずっと続くことを考えると憂鬱になる。
奇しくも、 8月5日付け、朝日・朝刊に、睡眠時無呼吸症候群で呼吸が止まった時に血圧が160以上まで上昇する人が3割に上ることが自治医科大とオムロンヘルスケアの共同研究でわかった、と報じられていた。研究に携わった教授は、脳卒中や心筋梗塞、突然死を引き起こす可能性があると指摘している。睡眠時無呼吸症候群は国内に200万~300万人いるとみられ、脳卒中や糖尿病、認知症のリスクが高まるほか、昼間の眠気が事故の原因になるケースも相次いでいる。睡眠時無呼吸症候群だと気づいていない人もいる。昼間に眠気がある人などは一度受診してもらいたい、と話している。
SASと宣告された以上放っておくわけにも参らず、CPAP療法はお迎えが来るまでのお付き合いになるようであり仲良く愛でることが出来るよう努めて参りたい。
猛暑の夏 田村 公雄
東京では7日間連続の猛暑日が伝えられる中、甲子園で高校野球全国大会が始まった。今年は早稲田実業が西東京代表として久しぶりに出場する。話題は一年生の清宮幸太郎である。幸太郎は中学一年生の時、米国で開かれたリトルリーグ世界大会の決勝戦で米国代表に対し12-2のコールド勝ちを収めている。ピッチャーで4番を務めた。リトル通算132本のホームランを打っている。その世界大会の決勝戦で打ったホームランは史上最長アーチで観客の度肝を抜いている。マスコミも和製ベーブ・ルースと讃えている。本人は和製ベーブでは満足しないだろう。体型と飛距離だけならまだしも、肩の強さと足の速さがある。早稲田大学に入学したらラグビー部に入るのも手である。2019年のラグビーW杯が待っている。
清宮と言えば幸太郎の父・克幸氏(48)が面白い。彼が早稲田大学ラグビー部に入部した時から東伏見のグランドに足を運んで注目していた。面構えが良くて、勇猛心がる。時には危険なぐらい獰猛な面も出す。東伏見での対外試合(相手は関東学院?)で清宮が相手のハーフにタックルされ、いつまでもしがみつかれていたので、頭を地面に押さえつけてニードロップを喰らわせた。秩父宮ラグビー場での早慶戦でスクラム内のトラブルがあった。清宮は一瞬にして相手ロックの顔をかきむしった。両件とも何のお咎めもなかったのが不思議であった。清宮の気迫勝ちだったのだろう。
清宮は高校時代、公立校(茨田高校)ラグビー部の主将としてチームを花園へ導いている。高校日本代表にも選ばれ、そこでも主将を務めた。早稲田大学でも四年生時に主将を務め、大学日本一を果たしている。卒業後はサントリーに入社し、のちに主将をつとめ日本一を達成している。2001年に現役引退後、すかさず母校・早稲田大学のラグビー部監督に就任する。長期低迷するチームの意識改革を行い、2003年に大学日本一を13年ぶりに奪還させた。その後、監督としてサントリーに戻り、サントリーを常勝軍団に高めた。2011年にヤマハ発動機の監督に就任。トップリーグ19位で降格の危機にあった弱小軍団を鍛え上げ、今年2月に日本一を達成させた。何とも凄まじい、すごい男である。行くところに敵なしである。確固たる戦略と強いリーダーシップと強烈な魂の三位が一体となった「勝利神」と言える。2019年日本で開催されるラグビーワールドカップの日本代表監督にしても良いのではないだろうか。
ラグビーは自己犠牲のスポーツだと思う。一人の勇敢なタックルで球を持った相手を倒す(one for all)。その球を皆で生かして味方に回せば一人の自己犠牲が生きる(all for one)。個々が任務を果たし、全体がチームとして膨大な力を発揮するのがチームプレイである。このことは他の団体競技にも言えることである。幸太郎君が期待されているホームランを狙ってブルン・ブルン振って三振するのはチームプレイに反する。単打でも良いからシャープなスイングで塁に出れば、俺も俺もとチームメイトの力を誘発することになる。一・二回戦はそのような効果が出て、良い働きをしていた。鬱陶しい問題が山積みしている日本を、親子で熱くして欲しいものである。 以上
黙々と雲は行き雲はゆけるを 小林 康昭
Tさんは、昭和28年に早稲田大学を出た土木技術者である。陸軍士官学校を出て戦車部隊に配属され、戦地で終戦を迎えたとき陸軍中尉だった。復員して父親の仕事を手伝い、友人と会社を興したがうまくゆかない。陸士卒は大学受験の資格があったので、戦友たちの後を追って入学試験に挑戦して合格したのだった。Tさんは年下の同級生に交じって学生生活を送り、卒業と同時に建設会社に就職した。
折から、現場は機械化の時代が始まっていた。アメリカから輸入されたブルドーザー、ダンプトラック、パワーショベルなどが続々と現場に配備された。腕には自信がある現場の幹部も職人も、機械の扱いにはてこずっていた。戦車は戦車隊の将兵が、自分たちの手で整備する建前だった。機械の扱いに心得があるTさんは、機械の運用整備に腕をふるって見せた。電源開発の時代、Tさんは山間部の現場を渡り歩いた。昭和38年、東京支店に転勤の辞令が出た。都心は、五輪に向けた建設工事が百花繚乱。辞令には、現場の副所長とあった。10年にしてようやく、管理職の登竜門である。
Tさんは、新任地の現場を赴いた。まずは所長に、赴任の挨拶。所長室に入ると、所長が席から立ち上がった。そして「お待ちしていました。宜しくお願いします。」と頭を下げた。Tさんは、全身が固まった。所長は、陸士の1年後輩、Iさんだった。Iさんは、Tさんより4年前に大学を出て、土木技術者になっていた。
現場の朝は早い。7時過ぎに職人や作業員たちが集まり始める。8時前には社員たちも出てくる。副所長のTさんは、きっちり7時に現場事務所の席に座る。8時過ぎに所長のIさんが現場事務所に姿をあらわす。Iさんは、まっすぐにTさんの席に歩み寄る。そして、威儀を正して「おはようございます」と一礼する。Tさんは一言「おはよう」と応える。所長室に消えたIさんから、Tさんに声がかかる。所長室に赴いたTさんが下問に答え、指示を受ける。「Tさん、あの件はどうなっていますか?」「所長のご指示のように処理しました。」「そう、それは良かった。今日のうちに、下請に見積りを出させるように頼みます。」「分かりました。」
夕方、4時半。Iさんは所長室から出てくる。そして、Tさんの席に歩み寄って一礼する。「お先に失礼します。」 Tさんは、握っていた鉛筆を机の上に置く。両手を膝に置く。そして「ご苦労さん」と会釈を返す。
TさんもIさんも、既に鬼籍に入った。あの世でも、陸士の先輩と後輩の顔を、突き合わせているのかな。
会社の年功序列なんて、泡みたいなものだから。
* * *
「君は、卒業は何年だね? すると14年後輩か。俺たちは旧制だったから、3年で卒業したんだ。草間教授の講義は受けたかね? エッ? なかった? もう、定年で辞めていたか。大学の前は何してたか、だって? 軍隊に居たんだ、海軍に。海兵を出て戦闘機乗りになった。任官すると、毎日が訓練訓練。だけど、いつまで経っても、戦地に出してくれない。搭乗機の型式が次第に上がっていくから、腕が上がっていることは確かなんだが、一方では、仲間が姿を消していく。さっぱり先が読めない。悶々としてたな。
そんなとき、九州に転属になった。鹿屋と言うんだ。若いものは知らないだろうな、おれたち以上の年配には知られた場所だが・・・。あぁ、知っているかい。そう、特攻隊の基地があったところだ。知っていたとは、若いのに感心だな。だから“いよいよだな”と覚悟したんだが、なんとなく様子がおかしい。訓練は相変わらず厳しかったが、出動の声はかからない。後から来た連中が出ていく、と言うのにね。
ようやく、声がかかった。仰せつかったのは、特攻機のお相伴役だった。お相伴とは、俺たちの隠語さ。離陸した特攻機を決まった進路に乗せて、決まった場所まで連れて行って、戻ってくるお役目だ。俺の搭乗機はゼロ戦。最新型ではないが悪くはなかった。だけど、特攻機のほとんどは、ずっと旧式だった。こっちが速度をあげると、ついて来れないんだな。それで、あっちの速度に合わせて飛んでいく。あいつらの腕前は、飛ぶのがやっとだった。練習する暇もなかったんだろうな。
決まった場所の上空に来ると、合図をする。こっちは直ぐにまわれ右さ。見送ったりしない。燃料がないからね。うかうかすると、途中で燃料切れになっちまう。特攻隊員が種切れになって出番が回ってくるか、日向灘にやってくる敵を迎え撃つか、時間の競争だ、と思っていた。だけど、その前に戦争が終わっちまった。エッ? 相伴役をさせられたのは、腕がよかったからかって? 後からなら、何とでも言えるからね。深く考えたことはなかったな。会社に入って、社長になるまでやってきたことなんか、余禄だよ・・・。」
* * *
言うなかれ、君よ、別れを 世の常を、また生き死にを、言うなかれ、君よ、わかれを 見よ、空と水うつところ 黙々と雲は行き、雲はゆけるを (大木惇夫)
ヒズ・マスターズ・ボイス 石岡 荘十
蓄音機から飛び出したラッパのような形をした大きなスピーカーの前に、きちんとお座りをして、ちょっと首をかしげた犬が音楽に聞き入っている。この図は、最近はあまり見かけなくなったが、歴史のある音響メーカー「ビィクター」のトレードマークである。
昭和21年、群馬県新町(現・高崎市)に紡績工場があり、わが一家は中国から引揚げてきたばかりで、その社宅に住んでいた。木造平屋の粗末な建物だったが、その居間に、小型冷蔵庫ほどの大きさの電蓄がでーんと居座っていた。
クラシックマニアの父親がどこでどう工面してきたのか、戦後間もない食うや食わずの時代にいかにも似つかわしくない贅沢品であった。おまけに、唯一のアルバム、これがすごかった。羊の皮表紙の12枚組みのアルバムで、その表紙の真ん中には「ヒズ・マスターズ・ボイス」が刻印されている。収蔵された曲は,例えば—
・ハイフェッツ 「狂想曲イ短調」 ・ヴェルディー作曲 歌劇「トラヴィアータ 第一幕、(あヽ、そは彼の人か)」ソプラノ独唱 アイデ・ノレナ ・シャコンヌ 円舞曲」 ・バス独唱 シャリアピン 「ヴォルガの舟歌」「蚤の歌」 ・バッハ作曲 「トッカータとフーガ」 フィラデルフィア交響楽団 ・ヴェルディー作曲 「アヴェ・マリア」、ect。
どうです、この見事な選曲と演奏者の顔ぶれ。絶品はシャリアピン本人のサイン入りのレコードだ。一つしかないこのアルバムを小学校の高学年から高校を卒業して家を出るまで繰り返し繰り返し聴いているうちに、全曲、鼻歌を歌うように何気なくハミングできるように刷り込まれてしまった。
その一方で、ラヂオから流れるハリー・ベラフォンテ、高校のときには、高崎市に本拠を置く「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)合唱団でロシア民謡から第九まであらゆるジャンルの楽曲を歌い続けた。群響はあの映画「ここに泉あり」(昭和30年 監督今井正、音楽団伊玖磨、出演岸恵子・小林桂樹)で知られた市民オーケストラで、当時大学生であった小沢政爾もしばしば指揮をとった。この映画のストーリどおり、夏休みには県内の田舎の中学校を群響と一緒に巡回して移動音楽教室を開き、歌った。
当時、シルクを生産していた鐘紡工場では、年に1回、当時有名な歌手を工場に呼んで、社員の慰労演芸会を開いていた。高峰三枝子、林伊佐緒、奈良光枝、灰田勝彦・晴彦—-ナマの流行歌手を目の前にして、ジャンルを問わない音楽にのめりこんだ。
音に対するこんな思い入れのきっかけとなったのが、ヒズ・マスターズ・ボイスだった。この出会いがなければ、この歳で、クラシックからカントリー、演歌まで、数百曲をパソコンに取り込んで、一日中これをBGMに濫読ならぬ“濫聴”する生活をエンジョイすることにはならなかっただろう。
1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって画かれビクターの商標となった原画は、フランシスの兄マークが亡くなるまで可愛がっていた愛犬のフォックス・テリア「ニッパー」が、兄のマークの生前、蓄音機に吹き込んだ声に聞き入っている姿を描いたものだそうだ。愛犬ニッパーがラッパの前でけげんそうに耳を傾けて、なつかしい主人の声に聞き入っている姿だ。ビクターのHPにある。つまりHis Master’s Voiceに耳を傾ける姿なのである。
そこで話は飛ぶが—、政権に関わる者は、Their Master’s Voice,国民の声に耳を傾けているだろうか。ニッパーを見習え。
ビクターの商標’His Master’s Voice’
<収録された楽曲>
- A&B パガニーニ作曲 「狂想曲イ短調」 ハイフェッツ
- A&B
- A&B ヴェルディー作曲 歌劇「トラヴィアータ 第一幕、(あヽ、そは彼の人か)」 ソプラノ独唱 アイデ・ノレナ
- A&B ヨハン・シュトラウス作曲 管弦楽 歌劇「蝙蝠 序曲」ミネアポリス交響楽団
- クラヴサン独奏 ランドルフスカヤ
A「燕・愉しき夢」
B シャコンヌ 円舞曲」 - A&B ハイドン作曲 「弦楽四重奏曲ヘ長調」 プロ・アルト弦楽四重奏楽団
- バス独唱 シャリアピン ムソルグスキー作曲
A ヴォルガの舟歌
B 蚤の歌 - チェロ独奏 ピアティゴルスキー
A ウエーバー作曲「アダヂオとロンド」
B フランクール作曲「ラルゴーとヴィヴォ」 - A&B 管弦楽 バッハ作曲 「トッカータとフーガ」 フィラデルフィア管弦楽団
- A&B ベルリン独唱者連盟
A バリトン独唱 ベートーベン作曲 「自然に顕はる神の栄光」
B ソプラノ独唱 ヴェルディー作曲 「アヴェ・マリア」 - A&B ヴァイオリン独奏 ヴェラチーニ作曲 「奏鳴曲ホ短調」(ティボー)
- A&B 管弦楽 ワグナー作曲 歌劇「ローエングリン」(第一幕への前奏曲) ニューヨーク愛好家協会
「青二才」の道太君 古藤 黎子
彼の名前は、小椋(おぐら)道太。道太君を知ったのは、かれこれ13年ほど前、九段下の和食のお店だった。その店に初めて行ったとき、カウンターに座って、料理長に向かって「この魚は好きじゃない」とか「タバコの煙は大嫌い!」とか、私が勝手なことを言うのを聞き、彼は“触らぬ神に祟り無し”と思っていたそうだ。然し、その私が彼に「何か白ワインをボトルで」と注文した。
彼が注いでくれたワインを一口飲んで、私は「甘いわ」と思わず言ってしまった。
彼はその時、料理に合う辛口で価格帯もそれほど高くないものを選んでだしてくれたとか。
ところが「何、このワイン、全然ダメよ。甘いわ」と、料理長も店長もいる目の前で放たれた一言!23歳の道太君は頭が大混乱。よりによってこの癖のある客に知ったかぶりをしてワインを出して、そのワイン選びを失敗してしまった・・・。
それが道太君との、初めての出会いであった。
しかしその後、私はそのお店に行き、彼に「ワインを」とオーダーをし続けた。
彼は毎回、緊張しながらワインを選び「うん、いいわね」と私が言うまで、何時もずっと緊張の連続だったそうだ。
彼は自身のブログで、
「僕に、次は失敗しないぞ、という意気込みを教えてくださったのは古藤さんです。いつも自分の帯を締め直す感覚にさせてくださって有難うございました」と書いている。
数年後、彼は九段の店をやめて、阿佐ヶ谷にお店を開くことになった。
阿佐ヶ谷店の名前は「青二才」。なぜ、その名前になったかという経緯は知らない。ちょっととぼけた名前だな、と思ったが、その数年後、今度は中野駅近くに2店目を開店した。
阿佐ヶ谷店は、大繁盛。処が、余りに毎夜毎夜、店周辺がうるさいので、近所から苦情が出た。彼は、付近の通りの掃除をやることで、却ってご近所さんに感謝されたという。その掃除は未だに継続しているそうだ。
阿佐ヶ谷店の2階は、道太君たちの手作りで、ちょっぴり古風なたたずまいだった。私はいつも後輩と一緒に「青二才」に行っていたが、その日は道太君が、テーブルに「古藤黎子様ご一行」などと書いてくれる。
今年の5月に、道太君が3番目の店を神保町に出した。阿佐ヶ谷店開店の時から彼に「神保町にこういう店をだしてよ!」と会社の仲間とよく言っていたので、それが遂に実現したのだ。しかも店は学士会館の並びの、新しいオフィスビルの1階の一部を占めている。相変わらず、神保町店も大賑わいである。
道太君は、彼の神保町店開店の挨拶状に、次のようなことを書いている。
“高校時代に一度だけ、母親の弱音を聞いたことがある。自分で小さなお店を切り盛りし、女手一つで育ててくれた母親が「もうこのお店をやめてしまいたい」
営業後の誰もいない店内、僕にそれだけ言って一人で静かに泣いて「道太にこんなことを言っても仕様がないよね」と言い、また何事もなかったように次の日から仕事をしていた。えもいわれぬ辛い思いがあったのだと今だからこそ思う。だがきっと、その母の頑張りのお蔭で今の自分がいる。
1月末、頼りにしていた銀行の融資審査に落ちたとき、母に電話したら「頑張れ」とだけ言われた。相方である神谷に連絡したら「大丈夫、何とかなる」と言われた。ありきたりな言葉だが、心に沁みた言葉だった。人生にはきっとこういう日が何度かある。何かにチャレンジするということはきっとこういうことなのだろう。
いろんなところを駆け回った二か月。最後の最後、すでに三月も終わろうとする頃、ついに別の融資決定にこぎつけた。泣けた。“
頑張り、挑戦、熱意、そしてスタッフやお客様に対する信頼や気遣い。お母さんの働く現場を見、親友の神谷さんに支えられ、彼の人生に対するチャレンジ精神が、過酷な食の店の三店目の出店を生んでいるのかもしれない。
今日も元気一杯「青二才」で頑張る道太君。正直なところ、道太君、道太君と言い続けたのは、彼が本当にイケメンだったからかもしれないが、現在36歳の道太君は、今こそ、本当のイケメンというのかもしれない。
道太君はもはや「青二才」の道太君ではない。
四季の記憶35 「ヒガンバナ」 鈴木 奎三郎
残暑がことのほか厳しい昨今だが、もうひと月もするとお彼岸を迎える。この頃になると、ヒガンバナがお墓や水田の近くによく見られるようになる。真っ赤な美しい花を花火のように咲かせて、彼岸から戻ってきた仏様を迎えてくれるのだ。この植物は中国から弥生時代の稲作とともに渡ってきたそうで、畦道や水田近くの平地などに群生しているのは、もとはといえば凶作の時の救荒作物として、球根を水にさらして有毒成分を抜いて食用にしたようだ。弥生文明の米作りにヒガンバナが関わったロマンチックな話しである。
それにしてもこの暑さはいかにも耐え難い。 細身の体型ゆえ夏場には絶対的な自信のようなものがあり、それがまた自慢だったが、どうも70代になってから体力気力ともに衰えを感じるようになり、なにをするにも億劫な気持ちが先行する。頑張らない、無理をしない、いやなことはしない、嫌な人には会わない・・などのことを言い聞かせているが、なかなか思うようにはいかない。要するにトシ相応の変化なのであろう。変化といえば聞こえはいいが、体力気力の退化、劣化である。70才を少々過ぎた現在がこんな状態だと、果たして80才ごろ(生きているとして)にはどんな精神的、肉体的変化が起こってくるのか、はなはだ心もとないことである。
人さまだけではなく、大型の老犬もこの季節は辛そうだ。排泄のために朝夕はかならず外に連れ出すが、それがすむと足を踏ん張ってすぐ帰る・・と催促する。考えてみれば、厚い被毛に覆われた汗腺の無い犬にもこの暑さは気の毒だ。特に夏場のアスファルトの焼けた歩道は40Cを超えるという。逆に猫は、そもそもアフリカ各地、中近東、インドにかけて生息するリビア山猫がルーツだそうで、5千年ほど前にエジプトで大事にされ、ヨーロッパやアジアに渡っていったそうで、暑さに強いのは生得の性質なのだ。
お彼岸の9月23日は秋分の日である。祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ日である。以前から決まっていたわけではなく、1948年に法律で制定されたとのことである。
この時季になるとなぜか毎年両親のことを思い出す。秋の彼岸には、父母が眠る長野市郊外の菩提寺に線香をあげに行くことにしているが、これがなかなか毎年というわけにはいかない。
父は、ぼくが小学校3年の秋に亡くなった。亡くなるまで数年間入退院を繰り返して、1952年に44才で不帰の人となった。従って父との記憶は数少ない。亡くなった日の昼下がり、番頭さんが学校まで迎えに来て、先生から早く帰りなさい・・と言われたことを鮮明に覚えている。善光寺に手を引かれて1,2度行ったことと、映画に連れて行かれた記憶くらいだ。どういうわけか、この映画のことは覚えている。後で調べてわかったことだが、三船敏郎のデビューした「銀嶺の果て」であった。釣りや猟を趣味としていて、家には数匹のポインターやセッターなどの猟犬がいた。長身痩躯で青白い顔に丸メガネをかけていた。小さい頃に、弟と長野の旧家に養子ではいり家業を継いだ。ぼくに残された遺品は、早稲田大学馬術部の馬蹄形のカフスボタンと、父、長兄から譲り受けた角帽と数少ないふれあいの記憶だけである。角帽は引っ越しなどでどこかへいってしまった。
母は2011年、数え1000才で多摩プラザの老人ホームでなくなった。38才という若さで4人の子供を残されて未亡人となった。厳格な養父母や大勢の番頭さんに囲まれての苦労はいろいろとあったはずだが、多くは語らなかった。10年ほどこのホームにいたが、亡くなる前の2年ほどはジーットぼくの顔を見ているだけで、会話らしい会話はできなかった。認知症だったのだろうか。母がぼくにくれた70才頃の手紙がある。ここに同封されていたのは、木箱にはいったぼくの「へその緒」である。手紙には「ここぞという大病の時には、これを煎じて飲めば必ず助かる・・」と記してある。これと、若い母に抱かれたぼくが、生後100日目に写真館で撮ってもらった一枚の写真である。机上の写真はセピア色になって、年月を語っている。
菩提寺には、今年もそろそろヒガンハナが咲きだす頃だろうか。
一片の名詞の重み 谷川 亘
最近“ママ名刺”なるものが炎上している由。
これは子育て中の女性がママ友間で交換する名刺を指し、子供の名前や年齢は当然ながら、なんと、旦那の職業や年収まで誇らしげに書き込む例もあるようです。
あきれ果てて、言う言葉さえ失ってしまいます。
翻って、今、両腕組んで机上にある一片の名詞と対峙しております。
私の仕事用の名詞。
必要最小限、縦書き黒の単色、「○○株式会社、会長 何野・太郎兵衛」までで良いのに。
いくら様式統一しているとは言え、なんだ、この安っぽい品格のない名刺は!!
人様に差し出すのもこっぱずかしい。
何て怒って見せる反面、主はとっくに一線を退き、仕事の用向きで差し出す機会なんて皆無に近いのに・・・。と、自嘲気味に自問自答。
みっともない。何故お前と縁切りが出来ないのだろうか?いつまで、未練たらたら、仰々しく名刺入れなんかに差し込んで連れ歩いてんだ?
「無くて然るべき」とは理解しつつも、無いと不安なのだ。
仕事人生時代には、礼儀に則った名刺交換はビジネスの第一歩とまで言われ、名刺はその人の“顔”そのものと教わってきました。
従って、現役時代にいただいた名刺は、処分するには畏れ多く、底の浅い上段の平たい引出し満杯になり、時々まさぐっては、仕事冥利に尽きた日々。それよりも、奮闘し続けた、圧倒的に長い苦節の時代を思い起こしております。
いただいた名刺には交換した日時を記載してきたので、ふと、昨日の出来事だったような錯覚に陥っては往時を彷彿とさせ、仕事を通じて得た“Job友”やオエライサンのご尊顔が、走馬灯のように巡り来ては去ってゆきます。
かねては、名刺は男のステータス。
今では、女性陣も力量発揮。手のひらにも収まってしまう、吹けば飛ぶような紙ッペラが、紳士淑女の“顔”であると同時に社会的地位や身分をも表わす。
官尊民卑ではないが世に言う“先生”。役所のエライサンの名刺は角が立って見えがちだし、新入社員だった肩書なしのお坊ちゃまが今や一流企業のトップ。やっぱしそうか。彼は優秀にして人望厚く“角張って”いなかったもんなあ~。惜しまれつつも“宮仕え”に見切りをつけ、一念発起して起業して成功された同期生あると思えば、力及ばず苦杯をなめられた先輩。家業を継いで先代を大きく凌駕した御仁や廃業止む無しに至った敗軍の将・・・。
いただいたものの既に鬼籍に入られ、あるいは、お付き合いの短かった方。あまりに遠い昔で顔すら思い出せない方が多くを占めるのは致し方ないとはいえ、私の貴重な“Job友”なのです。
人生それぞれ。時の流れと共に移(うつ)らふ、“軽る~い”名刺が担う、立派な紳士録としての役目なのです。
国政から市町村に至る議員諸侯にしても、子会社役員を順繰り総なめにした、かねての大企業のトップも、中小企業の“シャチョーさん”でさえ、落選したり仕事人生終結と同時に“只の人”に成り下がる。これまで、自分のステータスを物言わずして代弁してくれた筈の、挨拶代わりの燦然と輝く名刺がない。
これには大いに困るらしい。
そこで、慣れないパソコンおっかなびっくり。「名刺作成ソフト」なるものを探し出して悪戦苦闘。私製名刺は止む無しとしても、まるで“箔”がつかない。企業名と役職名なしでは何とも体裁を成さない(と思いがち)なのだ。
“箔がつく”とは、経歴などの貫録がつくとか、値打ちが高くなる、あるいは、重みを加えることを意味するそうだが、そもそも“箔”自体が、アルミ箔、金箔のように、金属を薄く延ばすことが転じて、人から重んじられるように外面的に付加された、所詮、金閣寺や中尊寺の金色堂みたいなもので、表ヅラだけ“着飾っている”に過ぎないもの。
話それるが、私もアルミ箔業界のお世話になってきた「軽薄(箔)短小」組。最近でこそ褒め言葉になってきたようだが、かねて「重厚長大」の時代には揶揄されたものです。
主は既に野に下り、冠外されて名刺も肩書も剥奪されて年金生活に無料パス。
なのに、栄華の時代の習い性が身から離れず、やけに名刺、取分け、肩書にこだわる。名刺なくして老後の交流をスムースに始められない。
でも、正直、この気持ち、理屈は抜きにして、何となく理解できませんか?
そこで窮余の一策、具体例を一つ。
私の出たのはマンモス大学のひとつで、東京N区のOB会は増え続けて500人目前。会長以下役職者も数十人に及び、その殆どが第二の人生卒業者。
“誉れに満ちた”役職を全うしてもらうにも、ご挨拶代わりに役職名入り名刺は必携品。
大学のロゴマーク入り役職名付きの名刺は、持ち主の“言葉では表現しがたい”おぼろげな不安を払しょくさせる妙薬。効果の程は定かではない。だからと言って飲用しないでいると不安な“健康食品”みたいなものではないのでしょうか?
OB名刺こそが第三の人生のステータスなのだ。
ケルトと日本 Ⅰ 田原 亞彦
ケルトに関心を持ったのは、平成10年に秋田 の鹿角市の「大湯環状列石」を見てからである。類似のものが英国に多く、ケルトにかかわるらしい。ケルト人は、インド、中近東、特に西欧の歴史の基層をなした印欧語族の一氏族である。印欧語族は南ロシアの草原地帯からBC2000年頃に鉄の文化を備えて騎馬で移動を始めた。鉄の発祥はウラル山脈東方のタタールスク(たたらの語源か)と言われる。
ケルト人はBC1500年ごろライン川の右岸に定着後、ヨーロッパ各地に分散したが、BC58のローマのカエサルの侵攻やゲルマン民族の移動によるフランク大国の建国などで追い立てられ、現在は、アイルランドと北部スコットランド、西部ウェールズ、とフランスのブルターニュに生存する。
ケルト人は、日本人とかなり類似する面がある。汎神論的でアニミズム的で、蔓草や木の渦巻き紋があり、巨木・巨石を好む多神教である。ユーラシア大陸の東端の島国と西端のアイルランドが同様の宗教心を持っている。大陸にはキリスト教、イスラム教など強力な一神教や仏教があるが、その影響を強く受けながら土着の信仰とうまく雑居し習合しているのである。だだ相違点もある。神は、日の出ずる日本では天上にあるが、日の沈むアイルランド(ケルト)では、神は地下にある。泉、池など地下を敬拝する。
ケルトには、知識人であり、シャーマン、苦行僧でもある「ドルイド」と言われる階層がある。ドルとは聖なる、どんぐりの取れる常緑の木、樫の木である。ドルイトは立石(メンヒル)を設け祭儀を行う。またその上に石を横たえドルメンと言う祭壇を造る。
ケルトは三を聖なる数とする。三つ巴の渦巻き紋は日本の神社の三巴紋と同じである。「生・死。再生」、「現世の上の世界・下にある陰鬱な世界・現世」など輪廻転生を信じている。キリスト教でも三は「父・子・聖霊」などにみられる。
ケルトと日本と共通の、信仰の雑居性を見た。日本は元来の自然崇拝的な神祇信仰に仏教が伝来し聖徳太子が国家秩序としてとりいれたといわれる。ケルトではキリスト教を取り入れたが王権とは結び付かず民間信仰にとどまっている。
西欧の科学的論理性の世界と土着的アニミズムの世界の融合・二重性から時を経て18~19世紀に至り、西欧でケルトリバイバル、日本で本居宣長などの神道リバイバルが起きた。また、美術の世界でもゴッホ、モネなどのジャポニズムやピカソ、ミロなどアフリカ美術の取り入れなど再構築・活性化の動きがある。キリスト教も遠藤周作が「キリスト教のなかでは生命の中に序列がある」と指摘したように厳しさがあるが、キリスト教もその後、地母神的な聖母マリア信仰を取り入れて現在にいたつている。
日本におけるケルト的なものとして、その列石・サークル・ストーン以外に、木を立てる風習がある。ケルト人がアレキサンダー大王に「何も怖くないが天がいつ落ちてくるかが恐ろしい」と言ったと伝えられる。類似は諏訪神社、能登の真脇遺跡、金沢のチカモリ遺跡などの立木遺跡がある。BC7世紀頃、中国の河南の杞国で天が落ちることを恐れて騒ぎが起こり、杞憂の語源になったと言われる。また山口・萩市の大島にはケルトのオガム文字の彫られた石が発見されている。
「芸術は爆発だ」で有名な岡本太郎はケルト文化を日本の縄文文化と同じく、その生命力・ダイナミズムを絶賛している。
ポツダム宣言と玉音放送に70年の体質が? 大野 力
7月27日に日本が知ったポツダム宣言と8月15日の玉音放送をよく読んでみた。、内容は、
(1)日本軍隊の完全な武装解除と降服、日本人民を欺き、世界征服を企んだ影響勢力及び権威、権力の永久排除。連合国の捕虜の虐待を含め、すべての戦争犯罪人に対し断固たる処置を課する
(2)日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去し、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重を確立する。
(3)日本国が戦争のための再軍備を可能にする産業を排除すること。
(4)この目的が達成され、日本国国民の自由な意思による、平和的な傾向を有する責任ある政府の樹立が確認されたならば、連合国は直ちに撤収される。と述べている。これ以外の選択は許されず、拒否は迅速且つ完全なる壊滅に通じる、と無条件降伏を要求している。ポツダム宣言には天皇の扱いは一切触れられていない。 天皇の存続の保証が無いこと、これは日本国の国体の否定に通じるとも考えられ回答は躊躇された。8月10日の朝、外務省は中立国を通じて天皇への言及がないことは、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもと」ポツダム宣言を受諾する、と連合国米国に伝えた。
天皇を統治者とする国の在り方の保証、の要求は、米国に苦渋の決断を迫ったこととなる。当時直近の米国の天皇に関する世論調査では、天皇は死刑にすべきが33パーセント、終身禁固が11パーセント、追放が9パーセントと厳しい状況であったという。米国の議論は紛糾したが、これ以上の戦争の継続は、本土決戦を意味する。硫黄島、沖縄戦での日本軍の戦いぶりから判断するに本土決戦となれば米軍の戦死者は想像を超える、自国の膨大な損害を考えると、天皇の存続は比較にならないと判断し、条件つきではあるが、日本の要求を認めた以下の回答を通達した。
「天皇および日本国統治の権限は、連合国最高司令官の権限の下に置かれる。」との条件付きではあるものの、「天皇」と云う単語を使いその地位と権限を認めることを明示した表現、と解釈できた。回答に紛糾する内閣は結論の一致を得られず、8月14日早朝天皇に二度目の聖断を求め、承諾の聖断を得た。この辺りの状況は映画「日本のいちばん長い日・42年岡本喜八」「昭和史・半藤一利」NHK「天皇のそばにいた鈴木貫太郎」等で知ることができた。
玉音放送は、天皇がポツダム宣言の受諾を直接国民に知らせ、その理由とこれからの苦難を国民と共にする、との天皇の決意を述べたものであり、国民の団結と協力を求めたものであると考える。
私は二点に強い関心を持った。一点は、「米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ国ノ自存ト東和ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ犯スガ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と述べていることだ。これはさきほど記した(1)の世界征服を図った平和への罪に対する反論弁明ではないかと思へることである。連合国が新しく設定した「平和を犯した罪」を裁いた東京裁判で、天皇が起訴されなかったことを思うと興味が深い。マッカーサーの意向の反映かと思う。
二点めは、[国体]が二か所述べられていることである。「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ.・・・、誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後サランコトヲ期スヘシ」と述べている。日本国政府は、連合国最高司令官の権限の下とはいえ、天皇の存続は国体の保障に通じると判断したのであろう。ポツダム宣言は、日本国民による自由な意志による責任ある政府の樹立を求めている。敗戦直後の状況下では、言論、思想,信教の自由を保障する政府が樹立される過程の中で、政府は天皇制廃止の動きを強く警戒していたと予想される。横浜事件をはじめ、共産左翼の弾圧の実感が強く残っている状況下では、天皇制を否定していた彼らの動きは当然考えられる。国民が天皇を畏敬していることを知っているマッカーサーは、天皇が日本の占領の成功には不可欠と考えていたという。天皇制の維持を大命題とする日本政府と両者の思いの一致があたと考える。わが国はドイツのように自ら戦争の総括をしていない。ヒトラーは万世一系の皇帝ではない、普通の民衆人であり、裁くのに障りは特にない。天皇は永い歴史の国体の基礎である。天皇に触れる総括はできない。もし敗戦直後のあの時期に、自ら戦争責任を問う総括をおこなっていたら、統帥権を有し、統べりし天皇の責任が問われたことは、当然考えられる。政府が最も恐れたことだろう。東京裁判はその代行だと考えてやり過ごす、仕方がないことだったかもしれない。敗戦国家再建の前であり、一々の責任の追及よりも、一致団結、力を合わせることこそが重要であった。この考えは都合よく踏襲され、今に続く特に官界官業の無責任体質の元と考える。
戦後70年となった。憲法をマッカーサー憲法、押しつけ憲法と云う人も多い。自民党は天皇を元首とする憲法改正をかかげる。安倍総理の安保法制の主張は70年間の国策の基本的変更を意味している。ここで現行憲法を承認するか否かの国民投票をしてはどうか。天皇が象徴か元首かの決着後に、戦争の総括を行ったらどうだろう。無責任体質の元がたてればいいと思う。
国立競技場の建て替え問題が白紙になった。ドタバタぶりは見るに堪えない。この問題の当事者の元締めの元総理は「責任者はいない、一々責任者を追求するよりも、今後にむけて一致団結が重要だ。敢えて言えば責任は文科省でしょう、最初から生ガキの垂れたようなデザインは私は反対だった。このデザインを決めたとのは民主党政権ですよ、文科相は田中真紀子さんですよ」。文教族のボスと謂われている元総理評論家の発言です。
【2015年6月20日定例作品】
東京オリンピック 田村 公雄
1964年10月10日東京オリンピック開会式の日に我々は婚約した。銀座のレストランに、我々の結婚に強い反対を示す両親を呼んで話し合った。親や家のために結婚するのではなく、自分の一生の問題であることを訴え、了解してもらった。鬱陶しかった心も晴れて、上を見上げると雲ひとつ無い快晴の空に五機のジェット機が五色の輪を描いていた。日本中が婚約を祝ってくれているようで非常に嬉しかった。
以来50年、孫7人を含む15人の大家族に恵まれ幸せである。5年後にまた東京オリンピックが開かれる。日本列島に大災害が起こらず、成功裏に東京オリンピックが開催されることを期待したい。しかしここにきて新国立競技場の建設計画が揺らいでいるとのこと。多くの専門家が頭をつっこんで、何を計画し、どのように管理しているのだろうか?見積の推移は次のようになっている。
決定事項 見 積
2012/11月 英国建築家の流線形デザイン採用 1,300億円
2013/9月 東京五輪招致決定 3,000億円
2014/5月 規模縮小の新デザイン 1,625億円
2015/5月 ゼネコン見積(大成&竹中) 3,000億円超
英国の女性建築家(イラク出身)のデザインを採用した時の見積が1,300億円なのに、招致が決定すると一年も経っていないのに3,000億円に急騰する。それではまずいと規模を縮小してデザインを変えて1,625億円の規模にしたが、ゼネコンは3,000億円以上かかると主張する。ゼネコンの凄いのは金額見積だけではなく工期の見積も50ヶ月と言っている。従って(1)2019年9月開幕のラグビー・ワールドカップに間に合いません。(2)開閉式屋根は五輪後の設置になります。(3)可動式1万5000席は仮設席になります。(4)材料は安価な部材に変更します。(読売新聞2015/6/5参照)
これだけの無理難題をこの切羽詰った時期によくぞ言えるものだと恐ろしくなる。後には引けぬ国家的事業の足元を見た「ぼったくり商法」である。ヤクザでも、国を困らせるこんな無茶は言わないのではないかと思う。参考までに日本最大収容能力(7万2千人)を誇る日産スタジアムの総工費は600億円、2012年ロンドン五輪のメインスタジアムの総工費は610億円である。
いままでも他国のW杯会場や五輪メイン会場の工期遅れにやきもきしたことはあるが、日本ではこんな心配は無用と思っていたのに・・・・。国の威信を賭けて、売りである開閉式屋根や可動式座席を会期に間に合わせ、8万人の観衆の安全のためにも金額合わせに安価な部材への変更等をしないように厳しくチェックして欲しいものである。
東北復興の逞しさと共に、コンパクト五輪の素晴らしさを世界に見てもらいたいものである。日本人の勤勉さ、質の高さ、完遂能力を示すことで、日本への信頼感を向上させる好機である。人生で二度東京五輪を楽しめる喜びに水を差さないで欲しいと願う。
最近、時の流れの後進国の生活水準が向上した後、世の中はどう変化するのだろうか。
ミートソース 古内 啓毅
この1月に後期高齢者の仲間入りとなったとたんに2月に鼻茸、4月に鼠径ヘルニアと手術が続きそれぞれ短期間ではあったが入院生活を余儀なくされた。また10年余前の頚椎、腰椎の大手術の後遺症かこのところ腕のしびれ、下肢のむくみや歩行障害に悩まされている。
一方、政界を眺めると安全保障関連法案について、アベ・シンゾウ政権は、保守系のベテラン政治家や著名な憲法学者らが「憲法違反」として相次ぎ異議を唱えているにもかかわらず今国会の会期を延長してまで成立を目指すという強気の姿勢を変えず、当方のイライラがつのる。
何れの状況もにわかには好転に向かう兆しは見えない。しばらく愉快ならざる状況が続くことになろう。ぼやいても致し方ない。ストレスで晩酌の量が増え身体に障るようなことがあっては元も子もない。
今月末に時期はずれるが「父の日」の祝いと娘二人の婿殿の誕生日がともに6月なのでその祝いを兼ね我が家に家族皆が寄りあうという。寄りあう時は私が一品作るのが習わしだ。して、こんな時だ、厨房に入ってストレス解消を図るのも一考か。
さて何を作るか。私の所有するメニューはそう多くはない。大人6人分となると作る量は多くなるが、コストや手間はあまりかけたくない。となるとスパゲテイはどうか。
我が国の数あるスパゲテイの中で代表格といえば子供たちも大好きで大人にも人気があるミートソーススパゲテイだ。私もスパゲテイが食べたくなるとミートソースを作る。作るときは我が家は妻と二人きりであるが6人分から10人分ぐらいと多めに作る。妻と食べたあとは小分けにして冷凍保存にしておく。しばらくは楽しめる。
最近の我が家のミートソースは、なかなかの人気で予約が取れない銀座「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」のオーナーシエフ落合努氏の「ミートソース」レシペを参考にしている。
その落合流ミートソースの作り方をおさらいしてみよう。
材料は約10人分で、牛ひき肉1kg、トマト水煮缶2kg=1缶400gで5缶使用、オリーブオイル大さじ4、赤ワイン500ml、塩-適宜、胡椒-少々、ローリエ(生)2枚。以上が本体で、このほかに「ソフリット」(120g)=香味野菜などを油で炒めたもので、味に深みを与え、調味料的な役割を果たすもの=を予め作っておく。材料は、玉ねぎ1個、セロリ1本、にんじん1/2本で、これらをミキサーにかけるとトロトロになる。フライパンにオリーブオイル大さじ3を入れ、トロトロになった野菜を入れ、弱火で1時間ほどかけてしっとりするまで炒め、冷ましておく。
牛ひき肉は、出来あいを求めてもいいが、私は肩ロースやもも肉などグラム400円~600円ぐらいのものを求め、フードプロセッサーで自分で挽く。トマト水煮缶は1缶400gのもの5缶で2kg使うが、1缶100円前後の安さで求めることが出来る。缶を開けて大きなボウルに入れトマトの塊を手でもみほぐしておく。ワインは500ml使うが1本(750ml)1,000円以下の安いものでOK。牛ひき肉はボウルに入れ塩を加え手でこねる。塩の量は食べてみてそこそこおいしいと感じる程度に。
厚手の寸胴鍋を強火にかけ、オリーブオイル大さじ4を入れ、ひき肉を入れる。強火のままひき肉をほぐさず焼きつける。焦げ目がついても動かさない。全体に弾力が出て、肉が焼けてきたら木べらで軽くほぐして他の面にもしっかり焼き色をつける。
(裏面へ)
焼き色がつき小さな団子状くらいのほぐし具合になったらソフリット(120g)を加える。この段階でもずっと強火のままだ。さらに赤ワイン(500ml)を加え、へらで鍋についた焦げ目をこそげながら混ぜ合わせる。ワインでなべを洗う気持ちで。
耳を近づけグツグツという音が油のはねるパチパチという音に変わったらトマト(2kg)を加え全体を混ぜる。ローリエ、2枚(乾燥でなく生の葉。なければ入れなくてよい)を加え、沸騰したらここでやっと弱火にし、それから30分~40分煮込んで胡椒(少々)を振って完成だ。
このミートソース作成のポイントは、上述の通り、鍋にひき肉を入れてから、途中でほぐしたくなるがそこをじっと我慢し焦げてもいいからずっと強火で焼くこと。途中でほぐすと、鍋が冷めて肉から水分が出てまずくなるのでそれを避けるためだ。それから、完成したその日にいただくのをがまんして一晩寝かせるとよりおいしくいただける。
で、翌日、二人で食べる場合は、スパゲテイ(1.4mm)160gを袋の表示通りに茹でる。フライパンにミートソース、300~350gを入れて温め、沸騰したら火を止め、ゆで上がったスパゲッテイを加え、すりおろしたパルメザンチーズ35g、バター15gも加えて手早く和え、皿に盛る。「スパゲテイ・ポロネーゼ」の出来上がりだ。
残っている赤ワインで乾杯し、小さく団子状になってゴロゴロしているひき肉といっしょにスパゲテイを食するとささやかな幸せが口の中に広がる。日頃のストレスも解消するというものだ。家族皆で食するならば家族の絆が一層強まることになろう。
もちろん、安保法案が廃案になればそれに勝る幸せは無いわけでそうなるようひたすら念じ上げることにしよう。 止
気になること Ⅱ 田原 亞彦
最近、時の流れとか世の中の変遷の速さを強く感じる。加齢の為か客観的に速いのか、多分両方からなのだろう。ここ数十年の変化は、明治維新、敗戦以来ではなかろうか。変化の内容を項目にしてみた。情報の収集伝達手段の高度化・スピード化、国内外の道路・鉄道・航空などの交通インフラの整備。国内外の物流システムの発達がある。そして軽量・小型化、省資源化、耐久性向上、低価格化を支えているのは、素材の改革である。
コンピューターの発展(無論半導体やコンデンサーなどの部品の発展も含めて)により世界中がネットで情報を瞬時に共有出来るようになった。携帯電話・スマホなどの媒体も発達してきた。今では来日する外人は我々以上に観光の穴場情報を知っている。
豊かな情報は知的物的欲望を掻き立てる。そこに行きたい、見たい。知りたい。直ぐに物を手に入れたい。 それに対応する、国内外の交通インフラも急速に発達してきた。並行して宅配も含めて物流システムも充実してきた。ネットで注文すれば当日・翌日にも自宅に届く時代になった。食品の出前は無論即時である。
デジタル化もカメラや時計などに革命をもたらし、軽量化・コンパクト化に大きく貢献し、記憶デバイスの大容量化で分厚い写真アルバムは不用になり、国会図書館の大量の書物もデジタル化されパソコンで閲覧できる。
小売業などの世界でも大きな変革がある。コンビニの発展、家電・衣料品・DIY・食品や家庭用品雑貨のスーパーの出現は従来からの小売専門店を圧迫して淘汰している。
高度の情報化社会では、大量の資金が国際間で移動する。為替を交えて主に短期証券(TBなど)などの証券を媒体として24時間動いている。国、中央銀行、金融機関、機関投資家、投資ファンドなど参加者は多様である。
素材革命によって、最近の住宅や建築物の内装や外装も感じが変わってきた、無論設計の和から洋風への転換もあるが。衣類や包装資材、家庭用品やDIY関連品など軽くて丈夫なものが出来ている。
生活、暮らしが文化であり、それに物質を加えたものが文明とすれば、ある意味では現在は史上最大の文明改革中ではなかろうか。生活環境の変化は必然的に物心共に価値観に変化をもたらす。敏速な情報のネットワークは、価値観の変動を加速し、商品でいえば販売が急増・急減したり、そのサイクルが極めて短命になる傾向がある。
氾濫する情報に振り回されないようにしたい。冷静に必要なことを選択して活用したいものである。科学の進歩は医療にもおよび長寿社会が実現されたが、決して無限ではない。時の流れを自分なりに有効に過ごしたいものである。 このところ産業基盤の半導体はじめいわゆる家電業界が少し元気が無いのが気になるがひとつの大きな山を越えたかもしれない。アジア・アフリカなどの後進国の生活水準が向上した後、世の中はどう変化するのだろうか。
知性的or反知性的 大野 力
安全保障関連法案の審議がおかしくなってきた。憲法学者の発言が原因らしい。政府提案法案の集団的自衛権が、違憲か合憲かの議論の紛糾のなか、憲法審査会に参考人として呼ばれた長谷部早大教授ら3人の憲法学者が、提出法案は違憲と明言したことで、政府自民党にかなりの混乱を与えている。長谷部教授が自民党の推薦だったので、尚更のようだ。彼本人は自民党推薦の事実はまったく知らず、後ほど知ったという。自民党の中では、誰が呼んだのだ、とピントはずれなことを云う者もいるそうだ。 そんな中での気になる発言。
高村正彦自民党副総裁 「国民の安全と幸福を守るのは憲法学者ではない。我々政治家だ」。この発言は開き直りの感が強く、憲法学者の立場を理解していない。本人も弁護士資格を持っていると云うから法律家ではあるだろうが、憲法学者にたいしてコンプレックスを持っているのでは、と思われっても仕方がない。ともかくこの発言は感情的で、典型的な反知性主義者の範ちゅうに入る。
平沢勝栄自民党議員 「憲法栄えて国滅ぶ」。この断定的な発言は、自分の考えは絶対だ、と聞く耳を持たない。本人は東大法学部の出身であるから、憲法99条の国会議員の義務ぐらいは知っているはずだ。この発言も情念的で反知性的だ。
内田樹氏は「日本の反知性主義」の中で、個人的な定義だがとしたうえで、「知性的な人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものを、そのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新を言うのだろうと私は思っている」と云っている。 また
「反知性主義者たちは、一つのトピックについて恐ろしいほどに物知りである。・・正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を他に委ねる気がない。あなたが同意しようとしまいと、私の語るところの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーであると述べている。
二人の発言に共通なのは、「この結論は変わらない」ということだろう。高村氏は知の上位を、平沢氏には情念中心を感じる。
中谷防衛大臣が「この法律に憲法を合わせようと考えた」と発言した。野党議員から、逆だろう、憲法に法律を合わせるのだろうと、詰め寄られ前言を撤回した。彼の場合はただ防衛大臣の任務として、彼の経歴経験から考えられるのは、彼の米軍との実務的やり取りから感じ取って来ている負い目の結果として、集団的自衛権を認められたい一心なのだろう。目立つ答弁の乱れの中に、ひた向きささせ感じさせる。
安倍首相が「早く質問をしろよ」。 民主党の辻元議員が質問に関する所見を語っている最中のことである。その模様がテレビで度々放送されたので、強く印象に残っている。一国の宰相として品がなく幼児性さえ感じさせ。彼は質問者の発言を枕にして、自分の答えだけを言いたいだけのだ。他人の意見を参考にして、自分の考えをより高めるなどとは思ってもいない、自分は練りに練った正解をすでに持っているからだ。憲法学者の違憲の見解に対しても「正当性、合理性には完全に確信を持っている」と全く聞く耳を持たない。彼は反知性的の代表といえよう。
彼は日本国憲法はGHQ主権下で、彼らの誘導で作られたと思っている。日米安保は対等ではなく不平等条約だ、それを解決するためには、相互の防衛軍事協力が必須である。その手始めに、条件付きの集団的自衛権を設定し、その先には憲法改正がある、と決めているのだろう。これは尊敬する祖父の思いを引き継いだ彼の信念となっている、それは岸伸介氏のDNAなのだろう。彼の思いと考えの基底は不動のようだ。他者の考えには耳を貸すこともない。そう仮定すると、彼こそ反知性主義の代表者との結論に至る。
安保法制の国会審議がかみ合わない、何故だろう。内田樹氏の「日本の反知性主義」を参考にして、私の頭の整理してみようと思ってやってみた。ひとまずはすっきりした。だがこの結論に拘る瞬間に、自分も反知性主義に陥ることになる。人間の知性とはこの繰り返しだと思われて来る。
お下がり人生 横山 明美
人生ここまでくるとあれこれ問題をやりすごしながらもなんとか日々生きているのだが、時間はやたらとあるので、ある日じっくりと自分の生活を端から端まで検証してみた。
家にいるのになぜか重くて大きな男性用腕時計をはめている。文字盤は少々黄ばんでおり小さな窓が開いて日付もある。四月は30日でおしまいなのに31日まで行ってしまいその修正が面倒だった。そこらへんに放置しておくと時間が止まってしまう。でもこの腕時計、なんか放っておけない。夫が学生の時父親からお下がりとしてもらったらしい。
私の手持ちの最高品は「たしか3,000円くらいだった」という家人のスペインの田舎まちからの土産品で、ゆめゆめ骨とう品などではなくただ時間を示す道具である。これよりは50年以上まだ動いている舅由来のもののほうがずっと愛しいと思ってしまうのである。
舅はたくさんの人の面倒を見、慕われた人でもあった、ご利益もあるかもしれない。
私はよく手紙を書く。そういう世代の生き残りというところにいるのかもしれない。敬愛する人からは必ず万年筆で書かれてくるので、私もぜひそうしたいと思いそこら辺を眺め回したら家人の机の周辺に何本もの万年筆がほとんど使った形跡もなく転がっていた。
ペリカン、ウォーターマン、モンブランと刻印があるがどれもインクがからからである。「好きで買ってみた」というがあまりにひどい扱いではないか。
モンブランは高校か大学の入学祝だったという。それにしても50年以上もじっと机の片隅で耐えていたのである。銀座のモンブランまで直してもらいに行き、時間もお金もかかった。その後は私のものだから大切に使っている。あとのものはやはり銀座の鳩居堂にもちこんだが長のお泊りののち「もうどうにも直りません・・・」と返され、「これを」と店の商品の匂袋まで気の毒そうに渡された。さすがに老舗、古いものへの慈しみの心をわかってくれたのかと心ウルウルであった。家人には反省してほしい。買うなら大事にせよ!
私はよく旅に出る。全国あちこち、ふうてんの寅さんみたいな旅が実は理想だが、いまどきなかなかそれは難しい。娘が大きな病気をして10年ほどはままならなかったが、このさき生きていけそうだと診断がついてからはホッとしてあちこちに出かけけた。母のルーツを探して雪の新庄へ、、十一面観音を訪ねて琵琶湖の周辺へ。 一人旅には大きな古い旅行鞄をもっていった。父が昔使っていたいかにも時代遅れの革の重たいもの。角の薄れているところに靴墨を塗り荷物を詰めようと中を点検すると内ポケットに「この鞄をお使いになるととても良い旅行ができます」と書いた製作会社の白い紙がひっそり入っている。なんという初々しい生のことばだろう!と感動してしまった。心を込めて作った職人さんの気持ちがそのままである。
山形の旅の帰り、新幹線の時間待ちに駅ビル内の美容院に入ると「荷物をあずかります」とよっこらよっこら棚に収めてくれる。「お父さん!カット、シャンプーが終えるまでずっと見てきた山形の風物思い出しながら待っててね」という気持ちになった。鞄に乗り移っていた父も女性ばかりのフロアで気恥ずかしかったと思うが。
今は必ず連れ合いとその一つ年上の認知症一年生の私の姉が一緒で、手にするのはガラガラキャリーバッグだが、なにがしかの刺激にもなると思い三人のうちの誰かが完全に「人間失格」になるまで旅は続けるつもりである。いまかつての旅行鞄は家族の最重要思い出書類を収めてある。
秋口になると私は納戸から大きなレインコートを取り出す。いよいよこの季節が来たのだ。父は明治生まれだが巨大な人だった。偉大な人、とは少し違うかもしれないが。時代の波に乗って父自身の体もどんどん膨らんでいった。スーツの上に羽織るコートはさらに大判のもので、田舎では入手できずわざわざ上京し求めたと思われる。決して今はやりのバーバリーなどでなく日本製だったがこれが今着てもしっかりしていで暖かいのである。
札幌に赴任していた時これを着て訪ねてきてくれた写真があるから45年前まで来ていたのだろう。父が亡くなると私はこれを持ち帰り、擦り切れた襟を補修し袖も丈も幅もつめてもらって断固着ることにした。女のコートと違いデザインがそうひらひら変わるものではないしなぜか自分ながらにこれを着るとしっくり落ち着いて何とも言えない安心感がわくのである。しかもちょっと前立てを返せば内ポケットには私の旧姓が縫い取ってある。長い間ご無沙汰していた名字である。
ずっと住んでいた家そのものも50年以上経っていたが、あの東北の大震災を機に新世代に「安心のために」と新建材のやたらと白い家を建てられてしまった。便利さはありがたく享受しているが残念無念である。
私の連れ合いももう相当古いわけだが、古いものを大事にしてきたということでもあり、それなりの理由づけもないわけでもないので、まあ大事にしていくのでしょうかね。
田植え風情 谷川 亘
米飯は老齢世代の常食にして、若年層はパンが主食。
戦後の、粉ミルクとパン主体の給食に始まり、それに馴染んで育った世代が米食世代を上回り、米離れは着地点の見いだせないまま、ますます進んでいるようです。
我々戦中派にとって“銀シャリ”は、わが民族に、御天道さま、浄水、それに、お百姓さんが与えてくれた“粘(燃)力”の根源。
米飯なしに日本人の食生活を語ることはできません。
TPPの交渉は国運かけて明暗の分かれ道。最後の、微妙な“エイヤッツ”的判断の段階に差し掛かっていると聞いております。本欄でそれを論述する積りも知識もありませんが、こと、日本にとって、関税の動向次第では安価な外米がどっと押し寄せて、米作農業そのものが自滅してしまうなんて本当にありうるのでしょうか。
一方で、食料品の自給自足の原則は、有事を想定すれば尚更堅持しなければならず、その塩梅、矛盾と言うか、懸念要因を俎上に挙げて整理して、その着地点が交渉の“落としどころ”なのでしょうね。
私にとって、米をイメージして咄嗟に浮かぶのは、疎開先での田植え風景です。
正しく立夏。今では、西茨城近辺では5月連休に田植えの“日程”が組込まれ、家族総出、助っ人まで加勢して、照ろうが降ろうが否応なしに田植え機操縦して一斉に済ませてしまいますが、その頃は月をまたいで梅雨の季節。
しょぼ降る雨の中、娘も母親も、そしてバッチャマまでもが菅笠かぶって痛い腰さすりさすり、横一列に並んでは一本一本苗を植えて行く・・・。 田植え歌なんてあったのかなあ?戦時ですもの、田植えは女性の、男抜き時代の役割分担。どんより曇って湿度上限いっぱい。田の向こうからは筑波山系の黒影が覆いかぶさって来る。
これが、それまで東京で育った私にとっての米作に関する“原風景”なのです。
疎開先にお世話になった頃の色調が陰影的風情ならば、避難先への往路も帰路も超過密列車。御茶ノ水駅で車窓越しに、聖橋の川面を射す真っ赤な太陽を仰いだのが往路ならば、復路は、上野駅にたどり着き、摩耗しきってレールから剥がれ落ちた鉄粉が一面に乱反射して、鉄路がキラキラ輝いて見えた光景なのです。
これらの光景は、“なにか”を私に示唆したのでしょうが、子供心にはそれが“なにを”暗示したのかは分かる由もありません。
私にとって、戦時の、田植え風景につながる暗黒の時代を挟んで、入り口と出口で射した強烈な閃光なのです。
我社の工場は栃木県境間近の茨城県桜川市にありまして、工業団地とは名ばかりの周り一面が田圃に囲まれた田園風景真っ只中。
先月初旬の連休に田植えを済ませ、稲は蛙の大合唱を子守唄代わりにすくすく育っています。
この季節、茨城に赴いて稲田を眺められる我が身にとって、田園風景は安らぎと言うか“癒し”そのものです。
日の出時刻が過ぎて、名峰筑波は頂上の鉄塔こそ燦然と光彩を放つものの、裏筑波はその山容に塞がれて、陽が射すまであともう僅か。
早苗は霞ヶ浦上水に身を委ねてすくすく成長し、水面から直立して整然と連なる。
この若苗と水との織りなす早朝の、連携プレーと言うか佇まいは何と表現したら良いのでしょうか。
晴耕雨読、好き三昧を通した従兄弟が急逝し、急きょ通夜に行った時の田圃の話。
バス、タクシーの類もあるが、調べてみると水戸と大洗の中間あたりで、鹿島臨海鉄道で水戸駅から一つ目で降り、歩いても小一時間と踏んだのがいけなかった。
法事終了そこそこに、送りを断って、「今日は二万歩達成」しようなんて歩き出したものの既に闇の世界。道は狭いし、前方からヘッドライトに照らされると、避ければ脇の田圃にまっさかさまになること必定。
通り過ぎるまではひたすら道端“石の地蔵さん”。歩き始めは兎に角空恐ろしかったのです。しかし、しばらく経つと、“我ひとりひたすら暗黒の路地を行く”の心境。
車の往来も減って暗がりにも目が慣れ、夜目にも輝いて見える水面と田植え終ったばかりの田圃の世界。
泥土の臭いとでも言うのだろうか?懐かしい田舎の臭い。それに、四方四面に響き渡る蛙の五月蠅さと言ったら・・・。月影が、流れる雲に呼応して水田を照らしたり曇らせたり。また、時に暗黒の世界に連れ戻したり。
蛙の読経の中で、たった今命授けられた田圃の早苗。
彼の“生まれ変わり”と思い込んだのは、正しく“認知症入口”症候群のなせる悪戯なのでしょうか。
水戸駅乗り換えたったの4分。しかもキヨスクはとっくに閉店。車中、清めのお神酒はお預けとなりました。
傷だらけでやっとたどり着いた傘寿 石岡 荘十
「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」。つまり、わが身体は両手・両足から毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から頂戴したものである。それを大切に守っていわれもなくいたみ傷つけないようにする。それが孝行の始めなのだ、と「孝経(孔子)」は謂う。
そこで、振り返ってみると、小さいころはよく悪ガキどもと喧嘩をして頭から血を流して帰ってきたり、柿ノ木から転落してウデを骨折したりして生傷の絶えることはなかった。
しかし幸いなことに、父母の存命中には入院するような大病もせず、30歳で母を、50歳で父を失った。その後、一度も医療保険の世話になるような大病もせず、還暦に達した。ところが64歳のとき、心臓にある4つの弁のうち、全身に血液を送り出す最後の扉とでも言うべき大動脈弁の不具合が見つかった。手術は喉元から鳩尾まで胸骨を24センチ、真っ二つにのこぎりで縦割りにして胸板を観音開きに—。心臓を露出、大動脈弁を切り取って、代わりにチタンとカーボンで出来た人工の弁に置換するという怖い経験を強いられた。このとき初めて、遺言書を用意した。両親ありせば、親不孝もいいところだ。
そして14年後の78歳のとき(一昨年)、今度は心臓の中の血液の流れでいうと大動脈弁の川上にある僧帽弁に不具合が生じた。これまた人工弁に取り替える手術が必要となった。二度目の心臓手術も胸骨を縦割り。インフォームドコンセントでは、手術で一ヶ月以内に死ぬかもしれない確率(予測死亡率)40%、つまり10人のうち4人は死ぬかもしれないというリスキーな手術だった。手術前夜、病室のベッドの中で二度目の遺言を書いた。手術は10時間、入院は70日に及んだが、よく耐えた。ただ麻酔覚醒まで丸々4日間かかった。そのせいで、しばらく“麻酔ボケ“が残った。一般病室に戻ってテレビをつけると見覚えのある女優さんが写っていた。だが、名前が出てこない。見舞いに来ていた妻に「だれだっけ」と訊くと、「なに言ってんの?あなたの大好きな吉永小百合さんでしょ—」
長期の入院で足が萎えていた。体重は14キロ減。退院直後から、歩行訓練開始。5,000歩歩けるようになるまで、3ヶ月の苦しいリハビリだった。それなのに親不孝はまだ続く。
傘寿を2ヶ月後に控えた3月はじめの深夜、腹痛で目が覚めた。息子をたたき起こして行き着けの病院へ駆け込んだ。CT検査の結果をPCで見ると、胆嚢にそらまめ大の2つの白い影(胆石)が写っている。その上,胆嚢そのものも相当化膿して、周辺臓器と癒着している。で、そのまま入院。出来るだけ早く胆嚢摘出手術を、とのご託宣である。
胆嚢は動物性の脂肪を消化する胆汁を蓄えるいわば倉庫であり、大量の肉を食った後などに十二指腸に分泌され、消化を助けるということになっている。しかし、これを摘出しても、必要なとき肝臓から胆汁が分泌されるから問題ない。盲腸(虫垂)が役立たずのなくてもいい臓器だということは若いときから知っていたが、胆嚢もまたなければなくともいい臓器であることを、思い知った。10人に1人は胆石を持っているといわれ、毎年20万人が胆嚢摘出手術を受けている。
手術は、鳩尾から臍まで縦に16センチの開腹。喉元から測ると心臓手術の傷とあわせて、臍まで真直ぐ40センチの手術痕が残った。これで、帝王切開をやれば,マージャンでいう「一気通貫」—だが、これはあるまい。
それにつけても、還暦後3の大手術、トータル120日の入院で、髪や皮膚どころか内臓まで切り刻む満身創痍—それでも、しぶとく大手術に耐える生命力を授けてくれた両親に、改めて感謝しながら迎えた傘寿である。
骨材見聞録 小林 康昭
コンクリートは、セメントと水と砂利と砂を混ぜて作る。セメントはコンクリートの肉、水は血液、砂利と砂は骨である。だから、コンクリートで使う砂利と砂を骨材という。その昔、砂利と砂は、河原や川底、海岸を掘って手に入れた。国鉄や私鉄が、多摩川や相模川の河畔まで専用の線路を引き込んで、砂利や砂を都心に運んだ。
ある時、川を渡る鉄橋の橋脚が傾いて、電車が橋の上で急停車する事件が起きた。それで、河原や川底を掘ることが禁止になった。砂浜を守るために、海岸を掘ることも禁止になった。そこで、山奥の岩を砕いた砕石と、砕いたときに発生する石屑や石粉を、砂利と砂に代えて骨材に使うことになった。骨材は苦労の種になった。
* * *
外国では相変わらず、河原や川底や海岸を掘って手に入れている。だが、思うようにならない国もある。バングラデッシュは、そんな国である。国土の全域が、ベンガル湾に注ぐガンジス河口の三角州を成す湿地帯である。ヒマラヤ山系を発したガンジス河は、中流のインド領内に砂利や砂を堆積する。下流のバングラデッシュには、細かな粘土しか届かない。粘土を含んで味噌汁のように濁った水が、ゆっくりと流れてくる。
ところが、雨期の激しい流れによって、インド側から国境を越えて、大量の石が流れてくる。これが千載一遇のチャンスである。雨期が終わって河の水嵩が下がると、インド国境近くのガンジス河で石を採掘する。イギリスが植民地時代に河畔まで引き込んだ専用鉄道で、採掘した石を首都のダッカに運んで骨材にする。
その後、インドは上流にダムを作った。石は流れてこなくなった。骨材は飢餓の種である。
* * *
奇妙な光景が目に入った。ダッカの平坦な家並の上を、赤っぽい靄がドームのように覆っている。翌日、その靄は、別の場所に上がった。タクシーを走らせていると、前方に例の靄が上がっている。
徐行させながら近づくと、猛烈なけたたましさが襲ってきた。空き地で、黒山のように群れた女たちが、一心不乱に腕を振るっている。女の手元からは埃が舞い上がり、埃は空き地一帯を赤っぽく煙らせている。窓ガラスを下げた。途端に湿っぽい空気が生暖かく車内に入り込んできた。猛烈なけたたましさは一層、凄まじい響きになった。女は、左手で赤黒い塊を小石の上に載せて、右手に握った短い鉄筋棒を振り下ろす。塊は硬く、容易に砕けない。女は、何度も何度も繰り返して鉄筋棒を打ちつける。この打撃が、凄まじい響きの正体である。やがて、塊は砕ける。砕けた破片を、見回りの男が重さを計って回収する。回収された破片が骨材の代用になる。
この赤黒い塊は、煉瓦工場の高熱で焼き過ぎた欠陥品である。焼き過ぎた煉瓦は、形がゆがんで使い物にならないが、非常に硬い。骨材の代用品には都合がよい。そんな欠陥煉瓦が、空き地に積まれている。煉瓦に使う粘土は、湿地帯に無尽蔵にある。だから、この国では、煉瓦が、唯一の建設材料である。
子持ちの女が多かった。地面や煉瓦の上に寝かされた赤ん坊が、上着や頬に赤い粉を被って眠りこけている。垂らした鼻汁にも、真っ赤な粉がこびりついている。これが、赤っぽい靄の正体だった。
求めがあると、女が集められる。鉄筋棒と小石を持つ女だけが採用される。持たない女は仕事にありつけない。貧しい女に、鉄筋棒は貴重品である。小石と言えども、易々とは手に入らないのである。仕事を終えた女は、僅かの労賃を手に、幼子の手を引いて家路に就くのである。そして、次にまた、煉瓦を砕く仕事にありつくために、鉄筋棒と小石を後生大事に抱えて。
骨材は、生計の種である。
* * *
アフリカのサバンナ地帯は、テレビの映像で観るような、生易しい土地ではない。殆ど、不毛の地、である。勿論、骨材に使う石はない。そこで地質探査で、地中に横たわる岩塊層を探し出す。そして、その深さまで掘りさげ、露わに剥きだした岩塊を爆破して砕石を作る。火薬や、掘削や砕石の機械は、日本から運ぶ。
費用をかけて作った砕石は貴重品である。当然、現地人には垂涎の的である。日本人は迂闊にも、そのことに気がつかない。砕石は不用心に、現場に野積み状態で放置される。その砕石を狙う盗難が頻発する。砕石は良い値段で売れるのである。コソ泥は、やがて大規模な盗難に日常化する。砕石の置場に番人をつける。誰何する番人は脅迫され、番人が窃盗団を手引きする。
そこで、責任者の社員自ら、陣頭に立った。窃盗団が砕石を満載したトラックを発進させようとした深夜、彼はトラックのヘッドライトのなかに、全身をさらして仁王立ちになった。窃盗団は彼の姿を見て暴徒と化した。トラックは彼をめがけて突っ込み、彼を乱暴に引き倒して、闇の中に消え去った。彼は直ぐに病院に運ばれたが、内臓破裂と出血多量で手の施しようがなかった。
悲報は、その日のうちに東京に届いた。本社は使者を留守宅に送った。留守宅では夫人が、二人の幼児を脇に座らせて、その悲報を気丈に受けとめた。使者を勤めた課長は、夫人の気丈ぶりに安堵して暇乞いをした。課長は門口を出て、生垣沿いに歩いた。
生垣の間から、ガラス越しに室内の様子が目に入った。両腕で抱きしめた二人の幼児に、顔を押し付けた夫人の姿。夫人の背中は、震えている・・・。
骨材は、悲劇の種である。
【2015年4月18日定例作品】
武甲山 照山 忠利
武甲山は神の山である。その昔日本武尊が東征の砌、戦勝を祈願して武具甲冑を奉納したと伝えられ、以来この山は秩父地方の神奈備山として信仰の対象となってきた。秩父の人たちは朝な夕なにこの山を仰ぎ見ながら生活し、いわば武甲山は秩父のシンボル的存在となっている。この地方の冬の風物詩「秩父夜祭り」は武甲山の男神と秩父神社の女神が年に一度の逢瀬を楽しむ日とされている。だから祭りの日は12月3日と決められ、何曜日になろうと動かすことはない。秩父っ子は盆や正月よりもこの夜祭りを心待ちにし、秩父音頭にも「秋蚕しもうて麦蒔き終えて秩父夜祭り待つばかり」と謡われている。
この武甲山は神霊が宿る神域と崇められる一方で、石灰岩という貴重な資源が存在する山でもある。山の北側には良質な石灰岩が賦存し、日本屈指の大鉱床を成している。大正時代から地元の旧秩父セメントが採掘を始め、続いて旧日本セメント(いずれも現太平洋セメント)、旧三菱鉱業セメント(現三菱マテリアル)が採掘に加わり、これまでに累計約2億6千万トンを採掘してきた。今も年間7百万トンを産出し、残鉱量は約5億トン70年分と推定されている。
石灰石の用途は幅広くセメントの主原料となる他製鉄の還元剤としても使われ、骨材、製紙原料、食品、化粧品などにも用いられている。
私はこの武甲山の採掘とセメント生産における現地企業の社員として11年を過ごし、信仰の山、自然環境の山、資源開発の山という相互に対立する命題をもつ山を対象とする空間の中で様々な経験をしてきた。なにしろ資源としての石灰岩を採掘することはご神域を崩し景観を損ね、また貴重な植生の喪失につながることにもなりかねない。これらの相反する課題を調和させながら、いかに円滑に国民共通の財産である資源を産出して社会の要請に応えるかが仕事であった。かつて山頂(1,336m)にあった御嶽神社は石灰岩の上に建っていたので30m下の地に丁重にご遷座したが、これをめぐっても悶着があった。開発関係者が亡くなると神罰が下ったとか祟りだとか言われたりした。
5月1日の山開きには神主の先導で氏子、行政、産業界、開発関係者などが山頂の神社に詣で神様のご安寧と操業の安全を祈願している。チチブイワザクラなど貴重な植生については別に培地を設け当局の指導のもと保全を図っている。山の北側斜面の採掘フィールドは当初の標高1,300mが今は900mにまで下がり、400mの長大な残壁がそびえている。このむき出しの採掘跡を緑化して景観を保つ試みをしているが、北斜面で樹木が育つのに時間がかかっているものの、着実に成果が挙がっている。
鉱公害の防止も大きなテーマである。かつては山腹の岸壁に孔をあけ爆薬を装填して発破で崩していた。秩父中にその音が鳴り響いていた。今はベンチカット方式といい上から階段状に安全に採掘して鉱害を出さぬようにしている。製品のセメントはかつては貨車で輸送していたが時代の流れでこれを廃止し、全面的にトラック輸送に切り替えて今日に至っているが、交通公害を起こさぬよう地元の住民と対話を重ねながら万全を期している。
秩父地方は昔は養蚕や絹織物(秩父銘仙)、木材の産地として栄え、その後はセメント産業や電子部品などが地域を支えてきたが、時代の変遷とともにいずれも衰退の一途をたどってきた。今はセメント産業が一時の勢いを失ったとはいえ、唯一の基幹産業としての地位を保っている。武甲山の神が自らの身を削りながら地域社会に恩恵を施してくれているという感謝の気持ちを忘れずに仕事をする姿勢が、武甲山の開発に携わる者には何よりも求められているというべきであろう。 (了)
セメント黙示録 小林 康昭
日本からの第1船が着いた。東南アジアのこの国で、いよいよ工事開始である。早速、荷揚げをして、バッチャープラントや試験所を設営する。バッチャ―プラントとはコンクリートを練り上げる機械設備である。試験所とは練り上げたコンクリートの品質を確かめるために試験する施設である。設営の完成時期に合わせて、セメントを取り寄せることになる。そこで、発注機関の許可を貰って申請した。この国のセメント工場は国営で、国内市場を独占している。だから態度は横柄。注文書でなくて申請書である。セメントが入荷した。
試験機の検定を済ませて、試験練りに着手した。目標の強度は280kg/cm2。セメント量を300kg/㎥から360kg/㎥の4種類で練ることにする。強度は、セメント量が多いほど大きくなるのである。だから、常識的には問題ない筈だった。練り上げて4週間後、試験に立ち会うために、首都から発注機関の監督官がやってきた。彼は私と同年齢。国費で米国留学から戻ったばかり。英語が巧みでプライドが高かった。彼の面前で試験を行う。出てきた強度は140kg/cm2。何と目標の半分! 余りの低さに、私は狼狽した。
直ぐにセメント量を増やした。400kg/㎥から460kg/㎥の4種類で練り直す。4週間後、再び来訪した監督官の前で、2度目の試験を行う。だが、強度は200kg/cm2。セメントを増やした効果が出ていない。監督官は軽蔑の色を隠さなかった。あらためて、セメント工場に新しいセメントを注文した。試験練りに着手してから、2か月が過ぎていた。新たに届いたセメントで、3度目の試験練りをした。だが、結果は思わしくない。東京から専門家を招いて、調査を依頼する。その結果、セメントの品質が悪いとの結論になった。この国は、遠い昔の植民地時代に、当時の宗主国が作ったセメント工場が今も、当時の設備のままでセメントを製造し続けていた。工場は老朽化が激しかった。製造工程の管理も品質管理も杜撰だった。
監督官は「強度が低いコンクリートの使用は許可しない」と怒鳴った。セメントを日本製に変えることにする。そこで、輸入許可願を発注機関に提出した。契約担当官から回答が来た。「国産品を使え」。輸入許可は却下されたのである。この国では、国産品を使うことが国策になっていた。国産品がある材料は輸入が許可されない。その国産品を、監督官は「使うな」と言う。契約担当官は「使え」と言う。にっちもさっちもいかなくなってしまった。だが、彼らも国産品が使い物にならない実態は、先刻承知している。国策の網を、如何にして外国人の我々が潜り抜けるのか、お手並み拝見、と言うことである。迷い悩むうちに、時間はどんどん過ぎる・・・。
勝負は、知恵の絞り出し方である。
* * *
西アフリカの港町。我々は何ヶ月間も、第1船の接岸を持ちわびていた。この国は、港の埠頭が少なく荷揚げ設備が貧弱で、沖合に何カ月も順番待ちさせられることで、悪名が高かった。通知を受けて埠頭に赴くと、船から荷降ろしが始まっていた。沖には、おびただしい数の船舶が停泊していた。滞船料が嵩むのを嫌った荷主が、手練手管を弄して接岸を早める画策を講じる。図に乗った乙仲業者や役人が、荷主や船主に横柄な態度をとる。
クレーンが荷物を地上3mほどの高さまで下げてくると、いきなり乱暴に地上に放り落す。梱包が壊れて、なかの品物が飛び出して散乱する。周りで傍観していた野次馬たち(と思った連中)が群がって、散らばった品物をかき集めて袋や鞄に詰め込む。狼藉がしばらく続く。やがて、数人の警官がおもむろに近づいて、大声で彼らを追い散らす。彼らが引き下がった後の狼藉の跡に、代理店の男がカメラを向ける。被害の状況を保険金請求の証拠に残すためである。
次にセメントの梱包がおろされた。これも、乱暴に落とされる。壊れた梱包から沢山のセメントが放り出された。袋が破れてセメントの粉末が舞い上がり、地面に散らばった。待ち構えた連中が群がり寄った。彼らは、用意していた袋や手押し車を使って、セメントをすくいあげて運び出していく。荷主の我々の手には戻ってこない。彼らの手回しの良さは、すべてが地元の関係者たちのつるんだ仕業であることを物語る。
外国からの輸入品は、このようにして彼らの餌食になっている。だが、詮索や非難は、差し控える。彼らの意に逆らうと、囲まれて威圧を受けるかもしれない。下手をすると、殺傷の危険もある。すべては、見て見ぬ振りするに限るのである。
荷主は、狼藉で失われる被害を補填するために、保険をかけておく。保険会社は悪名高いこの国の港の狼藉を承知して、高い保険料率を要求する。前もって保険会社から引き合いをとったとき、提示された料率があまりにも高かった。何度も掛け合ったが、保険会社は譲らなかった。
現地に来て、理由が分かった。
「琉球は薩摩と出会って」 大野 力
昨年の知事選後、ようやく実現した菅官房長官と翁長沖縄県知事との会談での両者の主張は、予想どうり溝はまったく埋まらなかった。報道によると、官邸幹部は両者の会談について「議論の原点が沖縄は終戦の1945年以降で、政府は辺野古移設が浮上した1990年だから、どうしてもあの様な言い合いの形になってしまう」と指摘していた。翁長氏は、長い歴史の中で見なければいけないと云ったうえで、「粛々」と工事を進めていくとの、官房長官の物言いは、上から目線で、「粛々」という言葉は沖縄県民に不快な思いを与えている、と物言いをつけた。官房長官は、「粛々」との言葉が不快感を与えているのであれば、使うべきではないと思うと、今後は使わない意向を示した。「粛々」という言葉がこの場合この様に使われていたことに、違和感を感じていた。辺野古への基地移設問題に、怒りと反対をとなえている沖縄県民の心情に耳を閉ざし、「粛々」とした事務的で官僚的な物言いと態度は、人間味のない機械のような無機質さだ。政府は前知事と決めたことは、既成事実として実行することに一切の変更はない、引き締まった気持ちで遂行していきます、と云っているように聞こえる。問答無用をあからさまにして、政策を実行してきた戦前までのわが国と、慇懃に包んで、「粛々」との言葉に置き換えて、政策を遂行している戦後のわが国も、琉球沖縄への思いの欠如と本土中心主義から考えると、基底は本質的には変わっていない、と思えてならない。知事はこうも言っている。普天間は世界一危険な軍事基地だ、その解消には辺野古に移転するしかない、あるのなら対案を示せと政府は云うが、今ある基地は全て米軍に接収されたものだ、米国に手つかずの辺野古にまでなぜ拡げようとするのか、それは政治の堕落だ、といっている。
思えば民主主義の中にいる以上、堕落した政治を作っているのは我々ということにもなる。それは我々の堕落にも通じる。本土に住む日本人の一人として胸に響いた。確かに我が国は16世紀以降、琉球沖縄にたいして、本土の利益のために、勝手なことをして来た歴史であったと思う。若いころには、沖縄は米軍基地のお蔭で食っているのではないか、沖縄も日本である以上、それは日本の安全上仕方ないことであり、我慢して欲しいと思っていたし、いまでもそう思ってもいる。ただ、沖縄だけに米軍基地を集中させておくことはよくないことであり、本土も応分の負担をすべきだ、と思ってはいたが、今ではその思いは強くなってきている。歳をとり、現役時代には狭められていた興味関心が拡がってきて、琉球沖縄と我が国の関係の始まりを多少知ってくると、彼らへの思いが変わってきている、何時の時代でも弱小な国家は、より強力な国家の存続強化のための材料にされてしまうものだ、との思いを強くしている。AERA4月13日号はこう伝えている。「本土と沖縄のとの間には構造的差別がある」と何度聞いただろうか。この「差別」を説明するとき、沖縄の人々は大抵、「琉球史」から説き起こす。琉球王国が薩摩に侵攻され、次は明治政府の琉球処分。沖縄戦では大量の民間人犠牲者を出した。戦後も米国の占領下に置かれ、復帰後は基地の大半が沖縄に集中し、その状態が長く続いてきた。500年の歴史そのものが「構造的差別」で、「基地という嫌なものは、沖縄が持っていて当たり前、という感覚」がそこに生まれるのだという主張だ。
この「構造的差別」を生んだ歴史の始まりは、琉球と薩摩の接触から始まったと考えられる。この接触で薩摩が己の欲望的目的を納め得たことが、以降の日本の琉球沖縄にたいする行動態度の決定に大きく影響したと思う。薩摩と琉球の交渉の次第と背景をみてみたい。
15世紀に入ると、南部から出てきた按司・尚巴志が三山を統一して琉球王国を興した。尚巴志は明に朝貢し明の冊封下に入って勘合を得て、明をはじめ東南アジア、朝鮮、日本と積極的に貿易を行い「大交易時代」と呼ばれる時代を築いた。なかでも、統治組織を整備し、中央集権的国家を創った3代の王、庄真の時代は琉球の黄金時代と呼ぶにふさわしい時代だったという。16世紀に入ると日本は戦国時代となり、各藩は財政に苦労するようになてきていた。薩摩の島津氏は、戦国時代を通じて疲弊した自家の財政を立て直そうと、琉球を通じての明との貿易を考え、琉球に対する圧力を強めて行った。琉球は、明が中国船の海外渡航を日本を除き許可し、中国商船の東南アジアの諸港での活発な活動と、スペイン、ポルトガルなどの南蛮勢力の台頭で窮地に直面し、1570年ごろには明との貿易以外は縮小せざるを得ない苦境に追い込まれた、明との貿易のみが、琉球を独立国家として存続させるための、経済的活力となっていた。
秀吉の九州征伐軍に敗北した島津は、秀吉に服従する。全国統一をなした秀吉は朝鮮・明を含む東アジアの征服を試みた。先ず、朝鮮侵略のための軍役令を全国に発した秀吉は、当時独立国であった琉球へも、島津を通じて軍役を要求した。その内容は、琉球と薩摩をあわせて1万5000人の軍勢を派遣しなくてはならないが、琉球は戦闘の経験がないので、軍勢は免除する。代わりに兵糧米を7000人分10か月を出すように、とのことだったという。琉球は財政が苦しく余裕がないこと、宗主国はあくまで明であること、しかし、拒否した場合、琉球支配欲の強い薩摩の侵攻が考えられることから、激論苦悩の末、要求の半分を受け入れることとした。この一件は、薩摩が琉球という外国をも支配している力を秀吉に見せること、併せて薩摩の負担を軽くするために、薩摩が謀ったことだという見方も多くあると云われている。
島津は関ヶ原の戦いで徳川に追撃され、九死に一生を得て薩摩に生き延びた。1603年江戸に幕府を開いた徳川は、明との通商を考えたが、そのためには明に服属しなければならない。従って琉球を介した間接貿易を画策したが、琉球は、これは日本による貿易操作であり、日本への服属を意味するものだとの考えから、これを拒否した。1609年薩摩は徳川の許しを得て、島津軍3000余名を乗せた100艘の軍船で琉球を襲った。琉球は4000名以上の兵で抵抗したが、実戦経験豊かな薩摩軍は、瞬く間に首里城を落とした。第7代琉球王尚寧は和睦を申し入れ首里城を離れた。翌年尚寧は薩摩藩主島津忠恒の同道で、江戸へ向かった。途上の駿府にて徳川家康、江戸城にて将軍秀忠に謁見した。忠恒は家康から琉球の支配権を認められた。1611年,尚寧は琉球に戻された。その際、島津氏へ忠誠を誓う起請文(琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため、琉球はいったん滅んだが、島津の温情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再び与えられた。このご恩は子々孫々まで忘れず、決して島津にそむかない)を尚寧王と王を補佐する三司官は提出させられたうえ、島津の検地による年貢の上納が義務ずけられ、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなり、薩摩藩は尚氏を存続させながら、幕府公認で琉球を間接支配することとなった。以後、尚氏代々の王は、江戸幕府の将軍に琉球王の代替わり毎に謝恩使を、将軍の代替わり毎に慶賀使を派遣する義務を負った。また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩が握るようになった。すなわち薩摩の密貿易である。琉球は清に朝貢を続けた。薩摩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。薩摩藩は、江戸への琉球の使節には、琉球に清の使節が来た際に用いる中国風の衣装を着用させ、琉球が異国であることを強調させた。これは、幕藩体制下の日本にあって、琉球という異国を伴ている薩摩の権威と地位を向上させる狙いがあり、幕府にとっても、中国の中華思想に基ずく朝貢貿易と同じ性格の関係を、琉球と持つことにより中国とは対等である、という意識が持てる利点があった。このように考えると、秀吉、家康との戦いに敗北した島津が、自藩が生き抜くために両者に忠誠を示し、同時に自身の経済的利益を確保するために、琉球を利用した薩摩の策、と思われる。
明治新政府は、明治5年琉球王国を強制廃止して琉球藩とした。12年に明治政府は軍隊と警官を派遣し琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年に沖縄県とし、琉球王国はここに消滅させられた。国王であった尚泰は王位を奪われ、侯爵に叙せられて、東京への定住を命じられた。他国によって利用されたあげく、国は潰され、吸収され、王位は剥奪された。琉球人の心の傷は深く沈殿していったに違いない。以後、強められていく皇国史観と比例するように、琉球王国の文化と母語は否定されて行ったという。その後の沖縄の受難はいまさら言うまでもない。
何事も「粛々」とは行かない。よろけながら、足元(始まり)を見て行こうと思う。
四季の記憶33 「牛に曳かれて・・」 鈴木 奎三郎
立春から数えて88日目は八十八夜と呼ばれる。種まきや新茶の摘み始めを示す日で、新暦では5月2日頃である。「夏も近づく八十八夜」と歌う唱歌は、小さい頃に母から教えられた。この歌をたまたま耳にすると、若かりし頃の母の面影が浮かんでくる。この時季になると、近くの公園の木々は若葉が艶やかに育っていく。その間を吹き抜ける爽やかな風は、俳句の季語でいう「青嵐」だ。青嵐は緑の風とともに、緑の香りも届けてくれる。
新暦の5月はこの東アジア地域で一番快適な季節ではないだろうか。それに5月5日の端午の節句を始めとして、心が浮き立つようないろいろな催しがあるけれど、その多くは名前だけが残って習慣は無くなりつつある。男の子の節句を祝う鯉のぼりは、大都会の高層ビルに住む家族には揚げるところもない。わが家でも子供が小さかった頃、戸外は諦めて、リビングルームにミニチュアモデルを飾った。それでも子供は喜んで、それを持って家の中を走り回っていたことを思い出す。往時茫々である。
「牛に曳かれて善光寺まいり」という故事がある。思いがけないことが縁で、また自分の発意ではなく他のことに誘われて、物事が偶然に良い方向に導かれる・・というような意味である。話の原型は12世紀に編まれたという古代説話集「今昔物語」にあるといわれる。布を角にかけた牛を追った老婆がたどり着いたのが善光寺で、この牛は観音菩薩の化身であるそうだ。
日本三大聖地といわれるのは伊勢神宮、金毘羅宮。そして創建1400年の善光寺。そこに祀られているのは、絶対秘仏の阿弥陀如来である。この仏像は門外不出で、誰も見たことがないそうだ。この身代わりとされる「前立本尊」が一般公開されるのが善光寺の「御開帳」で、6年(数えで7年)に一度の盛儀が始まった。
4月5日に始まったこの行事は、本堂の前立本尊と金糸で繋がれた10メートルの回向柱が建てられ、それに触れると如来さまとのありがたい吉縁ができてご利益があるとされている。
折から、北陸新幹線の延伸開通で信州、北陸はこの連休にかけて多くの人出が見込まれていて、過去最多だった2009年の前回を凌ぐ700万の人出が見込まれているそうだ。小さい頃に、父母に手を引かれて、初めて御開帳に行ったのは何才の時であったろうか。早世した父も一緒だった記憶が微かにあることから、多分4,5才のことであったろう。長野駅から善光寺に至る参道は、歩いて30分ほど。ぼくが通った高校は、善光寺の裏手歩いて15分ほどのところにあり、参道の後半はかなりの上り坂で、自転車通学は結構きつかった。善光寺の周辺には、城山公園や東山魁夷の信濃美術館もあり、また裏山のふもとには、戦没者の納骨堂が作られていて、そこに至るつづれ折りの道は見事な桜のトンネルとなる。これからの季節、北信五岳や北信濃は煙りたつような紫や濃淡の緑で覆われる。
長野市にいる長兄は、古くから善光寺・大本願の信徒総代の役を仰せつかっている。終身だそうである。2003年の御開帳の折、たまには見に来いよ・・というので兄弟夫婦一同で初日の式典に参列する兄を見にいった。参道の周辺は恐ろしいほどの人垣ができて、背伸びしてもその晴れ姿はなかなか見ることができない。いたしかたなく、ちかくの灯篭によじ登りしばし行列をみていたが、お巡りさんに叱られた。お昼には、信州そばに名品の「八幡屋磯五郎」の七味唐辛子をたっぷりかけて味わった。
今年はどうしようかとまだ決めかねているが、回向柱のご利益は魅力的である。ただし、俗世の欲があるうちはご利益も効果がないそうである。いまや、欲得もなくなってきた昨今ではあるが、家内安全、衆生安寧を願って、いま一度如来さまの吉縁にすがってみようか・・。
青あらし回向柱で結ぶ縁
財 布 照山 忠利 2015年2月21日
昨年秋のある日の夕方、ゴルフ場から飯能駅へ向かうクラブバスに乗って発車を待っていた。すると発車間際になって一人の男があたふたと乗り込んできて、私の横の席に座った。どうやらクラブハウスの食堂でバスが出るまで一杯飲んでいたらしく、少し酒気を帯びているようにみえた。多少の酔いに口が軽くなったのか、なれなれしく話しかけてきた。「あなたは財布を持っていますか。財布には若い処女のあそこの毛を入れておくと、お金が減らずに増えていくそうですよ」。どうも初対面の見ず知らずに対して発する言葉としてはあまり適当ではないと思いながら、こちらがその程度の人間とみられたのなら仕方がない、駅までの車中15分をつきあうことにした。
「そういえば大学時代に吉永小百合の毛だとかいってインチキ商売をしていた奴がいましたな」と私。「あ、そりゃ嘘ですよ旦那。大方銭湯の排水口からでも採ってきたものを騙して売ってたんでしょう」。「でも若い処女の毛といっても簡単に手に入るものでもないし、女房のもんで代用するのはどうですか」。「ダメダメ、そんなことしたら金がいくらあっても足りなくなりますよ。いいですか若い生娘の毛ですよ」とその男は念を押すようにバスから降りて、駅舎の方へ小走りに去っていった。
これまでの人生を振り返ってみれば、財布では一再ならず失敗した思い出がある。あれは15年ほど前の大阪勤務の頃。大学級友のH君が某大手新聞の大阪本社で編集総務をしていた。新聞社の総務というのは随分羽振りが良かったようで、何度かご相伴に与った。そのうちの一つ、確か店の名は「夢候」とかいった。カウンターに座り上着を椅子の背にかけようとしたら「こちらで預かります」といわれた。専用の上着の収納スペースが入口近くにあって簡単な扉がついている。
ひとしきり飲んで食べて、さあ次は北新地へと立ったところで手渡された上着が心なしか軽い。内ポケットを探ったら財布がない。あれおかしいなと周りを探したが落ちているはずもない。もしかして会社に置き忘れてきたかと車で10分の事務所に戻ってみたがやはりない。さあ大変だ。現金は別としてカード類が何枚も入っている。ただちにカード会社に連絡してクレジットカード、キャッシュカードを止めた。中村玉緒のような店の女将もオロオロ。さっきまで、うちのバカ息子が灘高から東大を出てNHKに入りましてなぁとかいっていた勢いはどこへやら。「おかしいですなぁ。ウチは一見のお客さんはとりませんし、今日のお客さんも住友さんに大日本製薬さん云々」と当日の受付名簿を繰っていたが、「あっ、あいつらやわ」と思い出したように叫んだ。どうも3人組の男が入ってきて、そのうちの一人が「席空いてないか」と店の奥まで行き注意を引いている間に、仲間が入口近くの上着入れの中を物色して財布を抜き取ったらしい。上着を預ける際に財布を入れたままにしていた我が方の落ち度である。
窃盗団は店を出て直ちに日本橋の電気街で家電製品80万円を買い付け、次に「コクシメール」とかいう宝石店でジュエリーを買ってサインするとき店から怪しまれて逃げたという。家電品は買ったものの運べず、宝石も未遂だったが、後日会社の本社総務の女性から電話があり「東京から成田空港往復のタクシー利用がありましたか」との問い合わせを受けた。財布に入れてあった東京のタクシーチケットが使われていた。
事件の2日後、夢候の女将が大阪支店の事務所に、新しい財布に10万円を入れて詫びに来た。「あいつら絶対捕まえてやる」と息巻いていたが、残念ながらその後犯人検挙の報にはついぞ接していない。
その昔、炭鉱の労務係をしていた頃は財布にはいつも20万円ほど入れていた。別に何に使うということでもなかったが、カードが普及していない時代、労組相手に飲むのにイザというときのために紙幣を入れて持ち歩いていた。今はその10分の1も入っていないが、年金生活者はそれでも特に不自由を感じることはない。だが一毛を入れるだけで財布が膨らむのならこんなにうまい話はないというもの。バスから降りて小走りに去ったあのオッサンの後ろ姿が眼に浮かぶ。その後、その御仁にお目にかかったことはない。どうも飯能の狐に誑かされたような気がしている。 (了)
「有志連合」は「十字軍」か 大野 力
ISIL(イスラム国)によって2人の日本人が殺害された。彼らが報道する映像と声明から、彼らのやり口の非道さ残忍さに、言語に絶する怒りを覚える。
11月20日の湯川、後藤両人を拘束し、解放の条件を示したビデオ声明の中での発言が、大へん気に掛った。「日本の首相へ。日本はイスラム国から8,500キロ以上も離れていながら、進んで十字軍に参加した。われわれの女性や子供を殺害するのに、そしてイスラム教徒の家を破壊するのに、1億ドルを提供した。・・・そしてまた、イスラム国の拡大を止めるために、イスラム戦士と戦う背教者を養成するために1億ドルを提供した」これは声明の一部であるが、気に掛ったのは、十字軍と、それに連なる一文と、背教者、の言葉である。
彼らは、有志連合を十字軍に見立て、十字軍は1000年ほど前、ムスリムの女子供を殺害し、家を破壊してきた、今、クリスチャンとごく一部の背教者のムスリムは、われわれを攻撃している、憎むべき十字軍と同じことをしている有志連合は、現代の十字軍だ、その十字軍と戦っているのがイスラム国だ、全てのムスリムに主張し、自己の残虐を逸らし、理解と賛同を求めたものだと思う。
私の周りでは、十字軍はキリスト教徒が聖地エルサレムを奪還するために、イスラムと戦った正義の軍団だ、と思っていた者が多かった。手元の小室直樹、宮田律氏の書物を読み直してみた。
610年、大天使ガブリエルから、アッラーの啓示を受けたムハンマドは、コーランを最高で唯一絶対の法典として、イスラム教を興した。アラビア半島は短期のうちにイスラム教に教化された。ムハンマドの死後、彼の後を継いだ、アラビア半島を超えてイスラム教を拡大させた、2代目のカリフ、ウマルによって、エルサレムは638年に征服され、イスラム化された。ウマルはエルサレムを聖なる都と思っていたのだろう(ムハンマドは生前しばしばエルサレムの地に向かって礼拝をしていたという)、ウマルは教会などの建造物や遺跡を破壊しなかった。彼は先ずモスクを建立し、岩のドームを完成させた。以後イスラムにとって、メッカ、メディナについで、第3の聖都であるエルサレムは、数代のイスラム王朝によって支配されたが、638年ムスリムが占領して以来、キリスト教会やクリスチャンは、極端な宗教的迫害を受けることはなかった。由緒あるキリスト教会や遺跡は、巡礼者たちの訪問が許されていた。以前のキリスト教支配下では、信仰が禁止されていたユダヤ教徒たちも、エルサレムへの帰還が許され、かってソロモン王やダビテ王が支配した町での礼拝も許された。クリスチャンやユダヤ教徒の巡礼にも寛大だった。世界各地から多くの巡礼者が集まるようになっていた。宗教の共存が行われていた。
1099年にエルサレムは、突然のキリスト教の十字軍によって進攻占領され、エルサレム王国が建てられた。この十字軍の占領は、ムスリムやユダヤ教徒たいする大規模な殺戮をもたらした。わずか2日間で数万のムスリムが、老若男女の区別なく殺戮された。イスラムの聖地である岩のドームはキリスト教会に改修され、モスクは十字軍騎士団の宿泊施設とされた。十字軍クリスチャンによるエルサレム支配は、異教徒の宗教活動を認めることはなかった。
小室直樹氏は彼の著書のなかでこう言っている。「謂われもなく、このような殺戮をされれば、いかに平和を愛するムスリムといえども、怒り心頭に達すると云うものであろう。前にも述べたが、コーランはイスラム側から戦争を仕掛けることを固く禁じている。だが相手が一方的に攻撃をしてくれば話は別である。「汝らに戦いを挑むものあらば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義を仕掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なすものどもをお好きにならぬ(コーラン2-186)」十字軍は、何の正当な理由もなく、イスラムを攻撃し、しかもムスリムを非道に虐殺した。ここにおいてムスリムたちはコーランの教えに従って行動されたのである。聖戦の発動である。何が何でもキリスト教徒を撃退せよ。その戦いで死んでも悔いることはない。聖戦に倒れた者は死ぬことなく、緑園・天国に行くであろう。ここにおいてイスラムは聖戦を発動し、ヨーロッパと相みまえることになった」と。
小室氏の言をこう理解している。1099年の十字軍の行動、イスラムが示してきた寛容にたいしての残酷非道が、キリスト教国とクリスチァンに対して聖戦を決意させ、その極悪非道はムスリムの心底に沁みこみ鉛のように沈殿し、怨念となって今日に繋がっている、と云っているのだと。
宮田律氏は著書の中で、「十字軍によって、イスラム教は悪魔や偽キリストによって吹聴された下賤な宗教、とのイメージが意図的に創られていった。こうしたイメージはダンテ(1265-1321)の作品「神曲・地獄篇」にも表れ、その中で、体の不自由なムハンマドが、宗教分裂を煽った者として、地獄でもの悲しげにしている様子が描かれている」と。これは最高の侮辱であろうと思う。十字軍の遠征は、1244年を最後にイスラムの勝利で終わり、1917年にイギリス軍によってオスマン帝国軍が敗れるまで、エルサレムはイスラムの支配下にあった。近代まで、軍事的文明的にもヨーロッパを凌駕していたムスリムにとって、十字軍は重いコンプレックスとなっているという。
イスラム国の残虐非道は、ムスリムの中で、コーランに反するとの非難の声が強い、有志連合に加わる国を背教者と呼び、イスラムの分断を狙っている。十字軍を出すことによって、己が行為を他に逸らそうとする。彼らの焦りを感じる。ヨルダン、UAEの空爆が再開された。アメリカの限定的陸上部隊の投入も検討されている。イスラム国は、人質として拘束中の、キリスト教コプト教徒のエジプト人21人の殺害を、ネットで放送した。非道はどこまで続くのか。それにしても十字軍の残したものは、怨念以外に何があるのだろう。
四季の記憶31 「俳句事始め」 鈴木 奎三郎
年が改まって、大寒の新暦1月22日頃になると、厳冬の寒さにもかかわらず早咲きの山茶花や寒椿は、雪や風を避けてそろそろと咲き出す。冬の枯木立の下で山茶花の低い垣根にもチラホラと赤や白の花が見えるその景色は、これからめぐってくる春の先駆けである。
毎年12月初め頃になると、必ず狭いわが家の庭先にやってくるヒヨドリやメジロのために、小枝の先にリンゴやミカンを準備する。その在庫がそろそろ少なくなってくると、冬から春へと巡りゆく季節の移り変わりを実感するのだ。ヒヨドリもメジロも、果たして去年飛来した個体なのかどうかはわからない。しかし、ガラス戸を開けても逃げないのをみると、再訪者のようでもあり、あるいはその子供であるのかもしれない。それはともかく、近年訪れる人の少なくなったわが家への貴重な来客であることは確かだ。
さて、俳句を初めてちょうど3年になる。正確には“俳句らしきもの”といった方がいい。勤めていた頃は、自分から望んだわけではないが、ほとんどの期間を、広報や渉外、トップの補佐役として過ごしたこともあり、言葉にまつわる仕事やトップのスピーチライターに関わることで苦労した。しかし、文章を書く作業は決して嫌いではなく、なんどか頼まれて専門誌や大学の機関誌に寄稿してきた。また、いくつかの大学からの依頼で、広報論やコミュニケーション論の講座を務めたこともある。
俳句との関わりは、勤めていた会社の先輩OBの発案で始まった会がキッカケである。仲良しの数人で始まった食事会、ゴルフ会が、俳句でも始めてみよう・・ということになり、おそるおそる作り出したのがちょうど3年前のことだ。その気になってやりだすと、これがなかなか面白くどんどんできる。怖いもの知らずの無手勝流で、季重なり、字余りなんでもござれの粗製乱造である。
幸いなことに、このメンバーの中にひとつ先輩の中尾良宣さんという俳人がいた。俳人星野高士さんが主宰する「風の会」の同人である。中尾さんは國學院大學を出て、本来であれば讃岐の神主になるはずのところを、どこでどう道を間違えたか資生堂に入り、宣伝部で映像プランナー、CMディレクターとして辣腕を振るった人だ。俳号を“良茸”と称する。この謂われは“良い宣命を書くべき良宣が、良い椎茸を作るべく命名した・・”そうである。70年~80年代にかけてサントリー、松下電器とならんで時代と風俗をリードした資生堂の黄金期を作ったひとりである。若き日の薬師丸ひろ子、山口小夜子を起用した企業CMCMを始め、岸惠子、宮沢りえのCMも記憶に残る。このほかにも、ラジオCM,PRスライドのコンテなどの演出、プロデュースなどCMに関わる業務をすべて網羅する。ACCグランプリ、カンヌ国際広告賞金賞などの受賞歴もある。
鬼才ともいえる人だが、人柄は春風駘蕩、いつも笑顔で仕事も早く現役時代ぼくもずいぶん助けてもらった。こういう人柄だからこそ、みんながついていくし、上質のCMも作り出してきたのだろう。
この師に俳句の基本を教えられながら始めたのが「事始め」のいきさつである。おだてられ励まされ、いい仲間に囲まれて挑戦する句作は、ゴルフやマージャンとは違って何ものにも代えがたいものがある。付言すれば、コストがほとんどかからないのも年金生活者としてはありがたい。これまでぼんやりとしか見ていなかった新聞雑誌でも、何か句材になるものはないかと気をつけるようになってきた。句材になりそうなワードは不思議なことに立ち上がって見えてくるのだ。それに、考えてみたら足腰が弱くなっても、どこかに出かけなくても、一人でできるという利点もある。認知症にならない限り続けられる、またとない高齢化社会の文芸のひとつである。願わくはもう10年早く始めていれば・・と思う昨今だが、もう少々俳句なるものに挑戦しようと思っている。
中尾良茸師のぼくの好きな俳句を「風の会」句集よりをご紹介する。
屋根光る今日結納や桜鯛
ちくわぶに息吹きかけつ春を待つ
汽車過ぎて何事もなし秋の山
Home pageの思わぬ効用 谷川 亘
何時までも若々しくありたいものですが、人生そんなに甘いものではありません。
今や、高齢者の“身近な病気”と言われている認知症にあっては当然の事ながら、単なる加齢現象によっても記憶障害が進み、人さまのお名前や固有名詞を始めとして記憶力が萎え、日時の感覚まで薄らいでくると聞き及んでいます。
どうも、「我のみは例外」なんて、脳天気でいられないことを実感せざるを得ない年令に達したようです。
所謂“シミ”は、顔面だけでなく、私目の脳にもあって、記憶をつかさどる“海馬”にもしつこくはびこっているのでしょう。
仕事人生を退くと、日長一日自室に幽閉され、あるいは、自ら蟄居することになり、外的刺激が薄れることも、悪の連鎖を更に増長させるのでしょう。
オーナー系アルミ・コイルセンター業の主であったから引退が遅目になるのは仕方ないと観念していたものの、卒業間近にリーマンショックにつまづいて、古稀のゴールだった筈の引退がずれ込んだのは止む無しとして、その分老後への準備を怠ってしまったと反省しても後の祭り。これから先、“廃棄基準”に至るまでの人生に不安を感じています。
歩くことは、体力増進に役立つばかりか、歩行リズムが海馬を刺激して活性化させ、心身の衰えを防ぐと聞いて定期的に山行を続けてきましたが、体力面での老化防止は既に限界に達したようです。
だったら頭鍛えてボケ防止をはかり、同時に、外的刺激を求めて内に籠るのを防ぐには如何に?
何があるかを模索していた折も折、OB会の、パソコン教室を主宰する後輩からHome pageを出してみたら?とのアドバイスをいただき、難渋覚悟で踏み込んでみると素人向けのソフトも出ており意外に簡単。
すっかりその気になって月一更新して既に三年にもなりました。
電子計算機やワープロから始まって、パソコンは悪筆代行人として大いに重宝させていただきました。個人の用向きとしては、日記をペンからキーボードに切り替えて、過去事例の検索などで重宝していますがその辺止まり。
業務遂行に不可欠のツールの域を出ることはなく、“A4・横書き・簡潔1頁”を金科玉条としてきましたから、所詮、仕事にかかわる報告書や指示書の類で無味乾燥のうえ片側通行。メールも画期的通信手段として重宝いたしましたが相手あってのこと。自分の思いを、文字を媒体として“不特定の読み手”に発信するなんて考えたこともありませんでした。
書き出しの頃のテーマは「メタボリック・シンドローム解消」と定めて自らにプレッシャーを与えると共に、上限値に張り付いた数値を如何にして下げるのか?あるいは、努力の甲斐なく何故に下がらないのか?何て書き連ねるうちに、回こそ重ねたものの、このテーマの連続では陳腐化のそしりを免れず、最近はテーマ探しに汲々としております。
最近亡くなった河野多恵子さんの名文句、「物書きは、書きたいことが向こうから押し寄せて来たら、見逃さないことが大切」。にあるように、間断なくテーマが背中を押してくれれば良いのですが、そんなこと願うべくもありません。
私と言えば、“文学的心”とは何十年も縁を断ってきた、世に言う“カンバン”(ジャストインタイム生産システム)仕事人生。自動車関連にあって、向こうから押し寄せてくる、世に(トヨタ)カンバン方式と呼ばれる、納期厳守と品質無欠陥要求に攻め立てられて、当方から発信できたのは“悲鳴に近いうめき”位なのでした。
私の、写真付きHome pageをご笑覧いただいている御仁はほんの一握り。
だったら何故苦悶しつつも続けるのか?それは、他ならぬ自分のボケ防止と、今頃になって気づいた、作成には苦心惨憺するけれど我が主張を「文字」と言う媒体を通して発信できる喜びなのです。
それに加えて、わが想いや主張を、なんの変哲もない無味乾燥した変換文字経由だからこそ、尚更のこと思いの丈を込めて打ち込まねばならなりませんし、また、正々堂々と“公的通信網”を通じてなし得る自己主張ともなるのです。
電話、手紙では流石に憚るような、久しく音信途絶えた昔の誼にだって、ブログに託してわが想いを伝えることができるのです。
ひょっとして、あるいは偶然にでもこのブログ観てくれたらな~。
な~んて勝手に想像する。それだけでも、ぞくぞく、ムズムズするような快感なんです。
我がHome pageの構成はいたって単純明快。「四季の便り」と名付けた月初のご挨拶と「フォトアルバム」の二部構成。
拙文を写真で補う。いいえ、その逆。とんでもない。出来の悪い双子でございまして、これぞ「枯れ木も山のにぎわい」。
この諺の本来の意味は,「つまらないものでも、ないよりはましである」という意味だそうで、しかじか左様、全くその通りでございます。
写真の方も、掲載してみて気付いたのですが、「月遅れのお盆」みたいな感じで、梅の写真出すと既に桜の季節、ふきのとうが芽をだす啓蟄と言うのに厳寒の写真だったりして、その間の時間差埋めがたく、新鮮味に欠ける嫌いがあります。
季節感ある写真を!!と思ってはいるのですが、如何ともなりません。
サヨナラは言わない 小林康昭
現地の空港建設工事は、着工直後から難渋した。次第に資材の入荷が遅れだし、やがて、催促しても入荷しなくなった。セメント、アスファルト、木材、採石、燃料・・・。社会主義のこの国では、ことごとく国営機関が供給する。
この建設工事は、日本政府資金の国家プロジェクトなのに、彼らは、要求に応える力がない。この国は、長期にわたる独裁政治が原因で、世界で最も貧しい国に堕ちていた。
現地従業員の欠勤が増えた。燃料不足でバスが運行を休止している。現場の車両を動員したくても、我々自身の燃料も不足して、通勤用に回せない。窮して、発注機関に斡旋を要請する。発注機関とは、この国の運輸省航空局傘下の建設事務所である。だが、事務所長のProject Directorは、その要請を蹴った。曰く「資材調達は、お前たちの契約義務じゃないか」
彼は、我々の要請を上に上げたくないのだ。悪い話を耳に入れると、要路の上司たちが、下僚のProject Directorに向かって、管理責任を問うからである。
連日、Project Directorと応酬が続く。資材の枯渇した部分から、工事が中断した。なけなしの資材を狙う盗難が頻発した。始めはコソ泥だった。やがて、大胆に集団で強奪するようになった。巷も、物資不足に苦しんでいる。公安機関への対処をProject Directorに要請する。だが、その対応もProject Directorは、拒んだ。Project Directorとの間は、次第に険悪さを加えて行く。
* * *
大臣がやってきた。威儀を正して、現場を案内する。重機が走り回る現場の活気に、大臣は満足そうだった。一方、随行するProject Director以下の面々は、大臣の前で緊張している。視察が終わった。一行を現場事務所の会議室に招き入れる。そして、茶菓でもてなす。
上座でふんぞり返った大臣は、羊羹を口に放り込んで「As I had been in Tokyo・・・(東京にいた頃・・・)」皇室主催の宴席で、食べたことがある、と自慢した。室内が、和らいだ。大臣は現役の空軍中将。若い頃に、在日大使館の駐在武官だった。
「By the way・・・(ところで・・・)」と大臣の口調が変わった。私に「困っていることがあるなら、何でも言いなさい」と促すのである。途端に、室内の空気が固まった。Project Directorたちの瞳は語っている。私が大臣に讒言し訴えるのを、心底から、恐れているのだ、と。
静まり返ったなかで、口を開いた。「I think Project Director and his people、・・・(私が思いますに、所長さんとその配下の方々は・・・)」 Project Directorたちは、一層、表情を固くした。「お仕事ぶりは誠に献身的で、立派にやっておられます。感謝しております。でも、うまくいかない、とご判断になる時があると思います。それは、この方々の怠慢や能力ではなく、職分や権限を超えた問題だと思うのですね」 大臣は頷いている。「At this moment、Your Excellency and Other Dignitaries concerned・・・(その時には、大臣閣下やその他の関係各位のお歴々が・・・)」是非とも力になって頂きたい・・・。整列して見送るなかを、大臣はご満悦で帰って行った。
車が見えなくなると、途端に「Thank you! Thank you!」 私の両手を握りしめて叫んでいるのは、Project Directorである。「何でも言ってくれ! 何でもする!」
大臣はProject Directorを呼びつけて言ったそうだ。「あいつは・・・」私のことである。「お前が言うほど挑戦的な男ではない。お前はラッキーだ」 Project Directorの態度は、豹変した。だが、工事の進捗は、まったく好転しない。
* * *
この国の人々には鬱積がたまっていた。些細なきっかけで火がついた。シュプレヒコールが首都の街路を埋めつくした。群衆が地方からも集まってくる。政府機関は攻撃の的になった。官僚は難を逃れて姿をくらました。公共機関は機能を停止した。空も海も陸も、交通は途絶した。放送も止まった。無人と化した職場は、狼藉の場になった。国営の養鶏場から、鶏がわしづかみにされて持ち去られる。深夜の墓地に、人影がうごめいている。棺を囲む煉瓦を盗掘する輩たちだ。墓場を暴くほど、この国は貧していた。遂に、高齢の独裁者は、政権を投げ出した。突如、指名された後継者は、為すすべがない。無警察状態に陥った。治安はますます悪化した。
工事は完全に止まった。黙っているとBreach(契約不履行)の責に問われる。書簡でAct of God(不可抗力)の確認をProject Directorに申入れる。反応はない。上司が職場を放棄して、彼は動けないのだ。
クーデターが起きた。群衆と兵士が衝突する。武器を手にした群衆が銃撃する。軍が反撃する。外国人が一斉に出国を始めた。やがて、在留外国人は我々だけになった。テレビ局や新聞社も特派員を引き揚げた。彼らが、東京から連日、現場にFaxで訊いてくる。
「現地は今、どうなっていますか?近況をお願いします!」 国際電話の回線だけが機能していた。日本と結ぶFaxが頼りである。
* * *
工事を進める見込は、ついえた。本社は、社員の身柄を案じて「現場をほったらかしにして、即刻、引き揚げろ」と言い続ける。だが、ほったらかしにして引き揚げれば、Abandonment(契約放棄)の誹りを受けて、弁償金を課される怖れがある。興奮する本社を、説得する。「けじめをつけて引き揚げたい」 現場近くまで、銃撃が迫ってきた。猶予はならない。Frustration(契約目的の達成不能)の確認を求める書簡を届ける。やはり、回答はない。遂にSuspension of Contract(契約の中断)の通告を決意した。ペンを持つ指先が痙攣している。連日の、極度の、ストレスのせいだった。苦労して、書簡を書き上げる。その書簡を携えてProject Directorを訪れた。
書簡を、彼の机の上に、黙って置いた。彼も無言で、書簡を手に取った。そして、書簡からいつまでも、目を離さない。何か言わないと・・・。「私は外国でずっと、仕事をしてきました・・・」声が上ずっているのが、自分でも分かる。「この仕事が、最後のご奉公と予想していましたが、こんな形で終わろうとは・・・(ザンネンデス)」高揚して、言葉が続かない。
促されて、椅子に腰を下ろした。彼を直視できなくて、顔を俯せる。ずいぶん、時間が過ぎたような気がする。気配を感じて、顔をあげた。目の前に、先ほど手渡した書簡がある。
その余白に黒々と、ACCEPTED BY(受諾)のスタンプ。BYの後に、Project Directorのサインがインクで光っていた。彼は、私の顔を覗き込んで、初めて、口を開いた。「これはSuspension(契約の中断)ですネ、Termination(契約の打切り)ではありませんヨ。必ず、戻ってきなさい。だから、サヨナラは言わない」 返事の科白が、出てこなかった。
現場に戻って、皆に顛末を語った。そして、サインされた書簡を掲げて見せた。「Project Directorは多分、馘首(クビ)を覚悟で、サインしたのでしょうネ」と、現地人の幹部が言った。
* * *
帰国して、本社で待機した。だが、再開の目処は立たない。辞令が出て、アメリカの子会社に、副社長で出向した。任地に、訃報が届いた。現地の空港に飛んだ。
現場を閉じて現地を脱出してから、既に6年。遺族の前で、遺影に花束を捧げた。淡紅、赤、黄、紫、白・・・、と咲き誇る7月下旬の昼下がりだった。その花の、花言葉は「 亡き人を想う」である。
向こうへ行ってしまった友 石岡 荘十
昨年暮れ、若い時から世話になっていた元NHKの先輩記者が逝った。彼は、連合赤軍が軽井沢の別荘に人質を取って立て籠ったあの「あさま山荘事件」の中継で、長時間ナマ中継の記録を作った。業界ではよく知られ、とりわけ公安事件に強いジャーナリストだった。筆者も現場で事件の取材に当たった記憶が蘇る。みんな若くて元気だった。が、それから半世紀、この歳になると、天寿を全うする先輩だけでなく、順不同で幽明境を分かつ同輩、後輩が後を絶たない。高校の同級生のうち、既に3割近くが逝った。
それは致し方ないとして、その先輩の葬儀に当然、まっ先に駆けつけるべきSの姿が見えない。法事の世話役を務めている後輩に尋ねてみた。
「Sの姿が見えないけどどうした?」
「実はSさんダメなんです。数日前訃報を電話でお知らせして、そのときちょっとおかしかったので念のため今朝も電話で念押しをしたんですけど、『何の話だっけ』と言うんです。覚えていないんですよ」
S君はNHKでは私と同期入局の記者で、70年安保時代には同じ警視庁担当で、他界した先輩が我々のキャップだった。安保がひと段落して、スタッフは地方局を含め、いろいろな取材先へと散っていったが、S君も初任地北九州のデスクを経て社会部に帰任。昭和天皇崩御の時には社会部長として取材の陣頭指揮を取った。その後、東京本部人事部長、札幌局長、そして報道局長と上り詰めていった。退職後は関連企業の社長を数年やったあと本部にカムバック。民間企業で言えば重役に当たる本部理事と、30人の同期の仲間の中では、位人臣を極めた出世頭であった。が、先輩葬儀の参列者にいろいろ聞いてみると、実は理事になった頃(60歳)から、周辺では「ちょっとおかしいのでは—」という噂があったという。S君はそれから十数年で、知らないうちに認知症が進み、遂に向こうへ行ってしまった。
高齢者人口の急増とともに認知症患者数も増加し、2020年には325万人まで増加するといわれる。認知症の高齢者は、団塊の世代が全て75歳以上となる2025年には多い場合で730万人となり、高齢者の5人に1人に上るという。これだけでも十分衝撃的だが、認知症の予備軍である軽度認知障害(MCI:Mild Cognitive Impairment)を含めてカウントすれば、もっと厳しい現実が突き付けられる。25年時点で同じ割合でMCIがいるとすれば、認知症と足し合わせると1314万人、3人にひとりはやばい「認知症社会」がやってくる。(『週刊ダイヤモンド』2月21日号 )。
S君ほどではないが、高校時代の友人I君は、有名IT企業で「営業の神様」という異名で呼ばれるやり手だった。高校時代から自宅を行き来する中だったし、社会人になってからは、ときどき浅草で会って、鶏すきを二人で突っつくポン友だった。しかし、近年同窓会などでときどき会うと、会う度に、名前はわかるのだが、「どこに勤めてたんだ」とか、「両親は健在か」などととんちんかんなことを何度も聞いてくる。軽度の認知症を疑わせる症状が出始めている。向こうへ行きかかっている。寂しいことだ。
「倶會一処」。極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができるという。最早、旧交を温めるためには、その日を俟つしかないのか。