2016作品集

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       【2016年12月9日定例作品】

隠れトランプが「意味するのは」      大野 力   

マスコミ、評論家知識人の大方の予想を裏切って、トランプ氏が次期大統領に決まった。選挙中の、彼の言動や女性に対する過去の振る舞いに、下品さと品格の無さを感じている。クリントン氏が嫌われているとはいえ、まさかアメリカ人は彼を選ぶまい、と強く思っていた。私の強い関心は、テロとイスラム教徒を同一視しての入国拒否、麻薬とレイプの多くは不法メキシコ移民であり、加えて、彼らが白人労働者の職を奪っていると、彼が繰り返し主張していることだ。当初、マスコミ知識人たちエスタブリッシュメントは、トランプの支持者の多くは、低学歴、低所得の白人たちだと言って、クリントン氏の優勢を主張していた。選挙後彼の当選は、高学歴の白人層の多くにも支持があったことが分かってきたと、マスメデイアは報道している。彼らは30年後には、白人のアメリカの人口が、現在の60パーセントから40パーセント台に転落してしまい、このままだと、白人たちが、傍流に追いやられてしまうと云う恐怖と、不安を感じていることが、表出したことと推測する。彼らはトランプの女性蔑視や人種差別の言動の下品さを恥じて、表立って支持の表明ができず、隠れていたのだろう。それでもトランプを支持したのは、アメリカ人の深層心理にある、白人中心主義、の強さを感じさせる。
 移民問題は建国以来繰り返されてきた。1830年から1860年の間に、非常に多くの、ドイツとアイルランドのカトリック系の移民が、合衆国に押し寄せた。彼らの大半は貧しい小作農あるいは労働者で、大都市の安アパートに密集した。彼等の犯罪と福祉のための対策費用が急上昇した。例えばシンシナティ市の犯罪率は、1846年から1853年の間に3倍となり、殺人の件数は7倍になった。ボストン市の貧者救済費用は、同じ時期に3倍になったと云う。カトリック教徒移民に対して恐れたのは、多くの都市の指導者は、アイルランド系カトリック教徒であり民主党であった。民主党は信教には比較的に自由であった。彼ら移民者の背後には、集権的な君主制を支える大陸のカトリック教会があると、信じたプロテスタント達は、彼ら移民が大量に押し寄せることに強く反発して、反移民運動を起こした。                    
 活動家たちは、イギリス系の血を引く、プロテスタントの男性に限られていた。著名な指導者はおらず、草の根的であった。大部分は中産階級だった。彼らは信教に寛大な民主党を嫌っていた。当時大きな政治問題となってきた反奴隷制問題に対しては、彼らの思いは、二分していた。(1854年に反奴隷制度を掲げた共和党が結成された、リンカーンはこの時、共和党に入党している、すぐ後に初代の共和党の大統領になっている)。この運動の幹部たちは秘密の集団を作り、党員たちに投票を操作して、自分達に同調する候補者に投票をさせていた。党員はその組織と目的について尋ねられたときに、私は何も知らない、KNOW NOTHING、と答えるようになっており、そのことで彼等は、ノウ・ナッシング党、と呼ばれるようになった。彼らは、マサチュウセッツ州議会を制し、同州知事にも当選した。これは、1620年、オールドイングランドの国教会の迫害に抗して、プリマスにたどり着き、ニューイングランドを創立した102人のピューリタン、所謂、WASPが、アメリカ建国の祖であるとの信念の表れであり、それは現在でも白人達の深層に強くあるということだろうと思う。
 彼らが活動の目的を隠したのは、アメリカ合衆国は、自由・生命・幸福の追求が、万人に平等に与えられた地であり、思想信教の自由な多民族を包み込む多元主義の共同体、との独立建国の基本理念に反することを意識していたからであろうと思う。
 このことは今回、多くのトランプ支持者、特に高学歴の知識層が自分を隠していたのは、上述の基本理念を確認し合う知識人やマスメデイアの、嵐のようなトランプ批判の中での、トランプ支持への恥じらいが、そうさせたのであろう思う。理念ではコントロール不能な情念、アメリカはWASPが中心となって創った白人の国、との信念がDNAとなっているのだろう。元々アメリカ合衆国は、宗教、人種による分裂を抱えている。ジェフアソン、リンカーンはじめ多くの大統領は、分裂が分断にならず、合衆国と云う、一つの連邦国家を維持するため苦闘してきたことを、歴史は教えている。
 トランプは人種宗教の分断を造ったとの報道が多い。もしそうだあるならば、彼はアメリカ合衆国の異端者か、それとも再構築者なのか、アメリカをベストにというが、彼のアメリカとは白人と同義語のそれなのだろうか。
 勝利宣言でトランプ氏は、壇上で後ろに派手目な、白人のいわゆるアメリカンビューテイーを並べ、大勢の白人に囲まれ、黒人はひとりも目に入らなかったが、このようなスピーチをした。「先ほどクリントン長官から、おめでとうの言葉をもらった、ここは分裂ではなく一つになる場所だ、私はアメリカ国民全員の大統領になる」。彼にマッチポンプ的なものを感じた。
 彼をみて空々しい虚しさを感じた。画像に映し出された、興奮気味の聴衆の中には黒人はあまり目に入らず、白人で溢れていた。 
 彼の動向を疑い深く注視していきたい。
 

神事                   照山 忠利

11月27日の朝、NHKラジオに耳を傾けていた。7時前に「今日はなんの日」というコーナーがある。過去においてその日に何があったのかを知らせてくれるものだ。あるいはもしかしてと思いながら聴いていたら案の定。「1986(昭和61)年、長崎県の三菱高島炭鉱が閉山しました。三菱財閥の基礎となった高島炭鉱が105年の歴史に幕を下ろしました」とのアナウンス。今からちょうど30年前のことである。その当時私はこのヤマの総務課長として閉山のための労務対策に没頭していたので、この朝苦い思い出とともにその頃を振り返ることとなった。
 閉山の前年の昭和60年に、国は国内炭保護のための第8次石炭政策について石炭鉱業審議会に諮問していた。生産規模を何万トンにするか、どこの炭鉱をつぶすかという議論である。高島は私企業の限界をはるかに超えるコスト高のため、生き残りは厳しい状況に置かれていた。そこに降ってわいたような大災害。4月になんと11名の死者を出すガス爆発事故が起きた。坑道に溜まっていたメタンガスに機械の起動スイッチの火花が引火し、坑道を歩いていた作業員が吹き飛ばされたのである。高コストに加えてこの大事故が閉山の引き金になったことは明らかだった。
 ヤマでは毎月初めに山神社において安全祈願の神事が行われていた。神官はその日のために、長崎の神社から船で出張してきた。「かけまくもかしこきイザナギのおおかみ、つくしのひゅうがのたちばなのおどのあはぎはらに、なりませるはらえどのおおかみたち、もろもろのつみけがれあらむをば、はらいたまえきよめたまえともうすことをきこしめせと、かしこみかしこみもうもうすー」。10年も炭鉱にいて毎月神官の祝詞を聞いていると、門前の小僧ではないが、清祓いのせりふも自然と覚えてしまった。神社ではこの毎月の祈願祭のほか、季節ごとに様々な神事を営み、ヤマの安全と人々の平穏を祈願してきた。この神のご加護があればこそ、戦後ずっと大きな災害に見舞われることなく過ぎてきたのに、よりにもよってヤマの命運がかかる大事な時に大惨事が起きてしまったのだ。神のご加護は人間がきっちりとなすべきことをした上で求めるべきものであろう。やはりどこかに綻びがあったのかもしれない。
 高島閉山後、秩父のセラミックス工場へ転勤した。海上の島から山中への移動、しかもオールドエコノミーの石炭からニューエコノミーの電子部品である。転勤というより企業内転職といってよかった。そこでは工場建屋の増築が相次いでいた。その起工式や竣工式には必ず神事が行われる。ある日、積層コンデンサーの工場建屋の起工式があった。年配の神官がオートバイの荷台に神事の道具をくくりつけて神主のいでたちでやってきた。その神官の発する言葉や立居振る舞いが、高島の神官とはえらくちがう。「かけっまくもかしっこき、イザツナギのおおかみ・・」とぽきぽきした口調で、動作といえばまるでひげを生やしたロボタンがゼンマイ仕掛けのようにピョコタンピョコタンしている。見ていて吹き出しそうになるのをこらえるのがやっとだった。
 一連の神事の終いに御神酒拝戴がある。神官が持参の酒器からかわらけに神酒を注ぐのだが、酒器を傾けてもなかなか酒が出てこない。ゆすってしばらくしたらどろっとした気味悪い色の液体が出てきた。なんと前の神事で使った酒器に酒が入ったままになっていたらしく、それが青かびとともにお出ましあそばしたのだ。とんだ「御神酒」があったものである。それでケチがついたのかどうかは知らぬが、会社が事業の柱に据えようと意気込んだ積層コンデンサーは大幅赤字から脱却しえず、やがて売却の憂き目となった。この例はご加護を得る前に神様に対して非礼をなしたというべきであろう。
 神事恐るべしといわねばならない。
(了)  

和菓子とわたし その幸せ          横山 明美

 冬は和菓子がおいしい。歳とともにどんどん和菓子党になっていく。今の時季ならだんぜん栗蒸し羊羹である。高級なものではない。そのあっさりした甘さと、体内にも心にもどさどさ攻め込んでこないおっとり加減がなんともうれしいのである。いなかで育ったころ、母はよくふかし饅頭や茶通、かりんとなどを作ってくれた。ものが今ほど豊富でない時代、父が甘辛両刀遣いだったこともあり、家には父の出張先からのみやげも含めいつも何かしら甘いものがあった。娘が三人というのもその在庫量に関係があったかもしれない。
 歳をとるにつれ、父は肴を調えるのに難渋し、ときに大福や饅頭も酒の友にしていた。ためしてみたらよく合うのだという。私は帰郷の際にこれという豆大福などを探していき、相手をしながら講釈を聞かされたりたりするのも楽しかった。それから和菓子との長い付きあいのうちに、和菓子好きにそう悪い人間はいない、とさえ思うようになってしまった。
 街に出ると、おいしい和菓子屋はないかとつい探してしまう。たまに、えーい!と気合を入れてほんの何個か買う店があった。日本橋やお茶の水の小さな構えの名店である。ごめんくださいと引き戸を開けると、値段の付いてない見本品をこわごわ眺め、これとこれをと頼むと、奥から恭しく盆にのせて運んでくる。二、三人でいっぱいという店内の土間はたいてい「領収書をください」という社用の手みやげを求める客で、私など包んでもらうとなんとなく、どうもすみません、などとそそくさと店を後にしていたのである。ところが灯台下暗し。最寄りの富士見台駅から帰宅を急いで近道をしようと路地に入ると、自転車が二三台停めてある間口の小さい和菓子屋がある。古い立てつけのガラス戸を開けると、見覚えのある主人がおじいさんになっていた。子供の小さいころ一緒に来たことがあった。今は私もすっかりおばあさんではある。歌舞伎役者にしてもいいような柄も大きくしっかりした顔立ちなのに、恐縮の体で前傾したまま狭いところをマメに動き回る。思いのほか声が甲高い。目が合うと「いらっしゃいまし。少々お待ちくださいまし」ときれいな東京言葉で、不釣り合いに早口でもある。白い被り物と上っ張りも以前のままだ。自転車の奥さん方が引いた後を見ると栗蒸し羊羹のトレーだけ空になっていた。思わず「あらーーー」と嘆息するのに明日の約束をしてくれた。翌朝駆けつけると「できたてでほかほかでございます」とコロコロ笑って迎えてくれた。
 一切れの羊羹に栗がこれでもかというほどめり込んでいた。「今が一番おいしいんでございますよ」ということ、その通りであった。「栗が多いもの選んでおきましたですからね」。数日後ご近所の引越しに、その羊羹の詰め合わせとお赤飯を一箱調えてもらい持って参じた。気に入れば馴染になることはなんと早いことだろう。
 和菓子には季節が映る。それが何より日本人としての心に訴えてくるのではないか。気取りがない饅頭・大福から技と感覚が冴えて美しいお茶席の菓子まで,奇をてらわない和菓子は、裏切ることのない長年の友みたいなものである。この世にたった一人になったとき、寂しさに寄り添ってくれるのはきっと和菓子に一杯の熱いお茶だと思う。

組織の意志決定メカニズム         小林 康昭   

 組織の意志決定メカニズムについて、触れようと思います。組織の意志決定は、基本的に、上意下達の命令指示系統を通して行われるはずです。これをトップダウン型の意志決定プロセスといいます。いわゆる率先励行、陣頭指揮です。しかし、わが国では、組織内の意見調整、交渉、根回し、会議、委員会、打合せなどを含めると、日常的に集団的な意思決定が普遍的に行われています。その結果、わが国では、ボトムアップ型の意志決定プロセスが、慣習的に採用されています。
*  *  *
 ボトムアップ型の意志決定のプロセスでは、組織構成員全体の意向を吸い上げて、組織中央で集約する実務階層主導型の意志決定をします。ですが、全体の意向とは言うものの、現実には意志決定に参画する者は限られます。この意思決定の形態には、伺い書、稟議書などの形態があります。
 伺いとは、目上の人に指図を求める形態です。上司の命令・指示・許可・承認を請うために下位者が出す文書が伺い書です。神聖な神仏に俗事を煩わせることは非礼になるので、俗人である氏子や檀徒の側から発意して、その行いの許しを得ることに真意があります。この真意が、現代社会で行われている伺い書の制度の源泉です。上位者を尊んで業務上で労力を課すことを遠慮して、行動内容を決める労を下位者が担い、上位者の労を可否や是非の選択だけに限定する構図です。
 稟議とは、会議を開くほど重要ではない事項について、実務の主管者が決定案を作り、関係者の間を回付して承認を求めたり、決裁権を持っている上層部の幹部たちに、決裁承認を求めることをいいます。そのために作る書類が稟議書です。
 これらの意志表明の形態には、照査や承認があります。承認は下位者の主管者の提案・意見に異論なく賛成して、その実施に許可を与えることです。照査は下位者の主管者に対して賛否や是非を即断せずに、意見を留保することです。即断せずに留保する表向きの理由は、時間をかけないと承認は出せないから、ということですが、実際には照査に時間をかけることはなくて、即座に照査の欄に捺印して、更なる上位者に承認を求めるべく書類を回します。中間管理者が承認を与えると、更なる上位者が承認権を行使できなくなります。上位者の体面を保ち、中間管理者にも意思決定の機会を与えるために、照査という機能があるわけです。ですから、照査と称しても、意思決定の留保を意味するわけではなく、捺印は同意を意味しています。それ故に、更なる上位者は、照査の欄に捺印がなければ、承認印を押しません。つまり、照査者の同意を担保したうえで承認するわけです。
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 豊洲への移転が決定した時点では、既に所管する局と部が決まっていた筈です。そこで、下位の参事か係長のクラスが伺い書か稟議書を起こします。これが局長レベルまで回付されて、実態を技術的に調査する方針が決まります。調査会社から報告書が届きます。担当者は、報告書を検討して必要な対策の意見を付して、関係する上位者全員に回付します。
 回付者たちの照査と承認を得て、担当者は検討案を作成するために、設計会社を決めます。通常の公共事業では、発注者が方針を決めます。だから、設計会社は、東京都の技術担当者の意向に従います。出来上がった検討案を、担当者は関係する上位者全員に回付して照査と承認を得ます。
 次いで、担当者は専門家の委員会の編成を計画します。専門家とは、部外の学識経験者、主に、大学教授、言論人、新聞社の論説委員などです。業界の人は選びません。その編成案を、関係する上位者全員に回付します。回付者の照査と承認を得て、委員を委嘱し、委員会の開催を準備します。移転の方針、地盤状況、構造案など、多分、A4判で200枚とA3 版が10枚程度の資料を準備します。この資料が委員会当日、各委員に渡されます。委員たちは初めて目にする資料を、実務担当者から説明されます。その時間は、およそ40分から1時間。“縦板に水”のような説明を受けた後、委員たちは「ご意見をどうぞ」と促されます。残り時間は1時間から1時間20分。委員は思いつく限りの意見を述べます。方針を否定する意見は出ません。予定の時刻がきて、委員会はつつがなく終了です。その報告が、関係するすべての上位者に回付され、実施に移ります。
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 詳細設計の段階で、例えば、地盤に含まれる有害物質を完全に取り除くには、敷地全体をくまなく調査して、有害物質の分布状況を把握する必要が出てきました。それには膨大な費用と時間がかかります。取り除かないで、建築構造物と有害物質を盛り土で遮断すればよい、と考えます。そこで、設計を変えます。元々の検討案は実質的に内部で考えたものだから、設計を変えても委員会にかけるまでもない、と担当者たちは考えます。それで、内部だけの意志決定にします。関係する上位者たちに書類を回付して、照査と承認を取り付けます。その後、さらに土を盛るよりも、コンクリートの壁と柱で空間を作って遮断する方が安上がりで工期も短い、と再変更します。再変更に際しても、やはり、書類を回付して、照査と承認を取り付けます。
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 新しく変わった都知事は、委嘱した委員会に上申した検討案と現状の違いに気が付きました。メディアが騒ぎ出しました。当事者も関係したすべての上位者も、とても迷惑しています。元知事は、回付された書類に承認を与えたのだが、その内容は知らない、といっています。書類に捺印した副知事も局長も部長も同然です。担当者は上位者から許可を得ているから責任はない、と思っています。書類の捺印が、責任を特定する証拠にならないのです。何のための捺印か。捺印する資格を誇示するための捺印制度なのです。新聞社やテレビ会社も、同じメカニズムで組織の意志決定を行っています。他所のことはいえない筈です。
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 アメリカはトップダウンを採用しています。上位者は権限を、日本のように機能(実施、照査、承認のように)で委譲せずに業務で委譲します。業務を委譲された下位者は、その業務の実施に全権限を持ちます。上位者の照査や承認はありません。上位者は、口出ししません。口出しすると、上位者が責任を取る羽目になるからです。だから、責任の所在は明確です。 

四季の記憶42 「本読む幸せ」      鈴木 奎三郎  

 旧暦11月の中気は冬至になる。現行歴の12月22日ごろである。冬至は一年のけじめをつけるような感じがあり、一番日の短い寂しさもあるが、これからは畳の目ひとつずつ日が伸びて、やがて春が来るという楽しみもある。
 小さかった頃、信州のわが家では冬至の日に冬瓜を食卓に乗せる習いがあった。母は子供たちに、この日に冬瓜を食べると健康になって、トシをとっても中風にならないというようなことを言っていた。また5月5日には柚子を半分に切ったものを手拭に包み、口をしぼってお風呂の中に浮かべ柚子湯の香りを味わった。お風呂場は柚子の香りが満ちて、いくぶんお湯もオレンジ色に染まった。端午の節句に沸かすしょうぶ湯とともに四季の記憶となっている。
 それに、野沢菜も信州を代表する郷土の漬物だ。これは「お葉づけ」といって、それぞれの家庭に守り続けてきた“レシピ”がある。12月になるとどの家も大量の野沢菜を漬け込む。どの家でもわが家のものが一番と思っている。いまでも家人は、冬至の頃になると雪深い野沢温泉の物産館から取り寄せている。小さかった頃の記憶がよみがえって、この味だけは期待を裏切らない。

 さて、年の瀬を迎える頃になると新聞や雑誌は一斉2016年を総括し回顧する特集を始める。ある新聞に、今年の文芸書のベストセラーのランキングが載っていた。出版不況が言われて久しいが、いい本は売れているのだ。1位は「ハリーポッターと呪いの子」で、以下10位までが列挙されているが、なんとこのうちの3冊は読んでいる。
 その3冊は、ベスト2位の「コンビニ人間」、4位は「マチネの終わりに」、6位「九十歳。何がめでたい」だ。若いころから文芸書を中心にずいぶんいろいろな本を読んできたし、仕事をしていたころは1日1時間の読書時間を確保するには睡眠時間を削らざるをえなかったが、今や時間だけはたっぷりある。それに、夜になると目がショボショボして特に文庫本は読むのに一苦労していたが、書友に勧められてキンドルのブック・リーダーを使うようになって劇的にラクになった。それまでは、なにがなんでもハードカバーの新刊を良しとしてきたが、寄る年波には勝てない。このブック・リーダーにはすでに30冊が入っている。
 
 村田紗耶香の「コンビニ人間」は第155回芥川賞を受賞した。コンビニで働くことで充実感を得られる独身女性が、“普通さ”を維持しようと奮闘する姿はおかしくも胸に迫る。すでに50万部を売り上げているヒット作だ。著者の父上は最近裁判官を退官した高校同期の仲間で、以前から「うちの娘は36歳にもなるのに嫁にも行かず、コンビニでバイトしながら売れない小説を書いているんだ。困ったもんだよ・・」といっていたが、これは返上せざるを得ないだろう。
 芥川賞作家の平野啓一郎「マチネの終わりに」は、男性ギタリストと国際派ジャーナリストの大人の女性の恋愛を描いている。かなりの大作だが経済や国際情勢などの描写も活写され、久しぶりに上質な恋愛小説を堪能した。
 佐藤愛子著「90才。何がめでたい」は、女性週刊誌に連載していたものの単行本だ。この秋に93歳になった著者が、世の中の様々なことを辛口に論評する過程で、書くという行為を通して老人性ウツ病から抜け出していくさまを面白おかしく書いている。ご夫婦で楽しく読めること請け合いだ。
 このほか、ミステリーのジャンルに入るが、キュレーターの資格を持つ原田マハの「暗幕のゲルニカ」も読みごたえあり。史実をもとにパブロ・ピカソの反戦の名画“ゲルニカ”の数奇な運命と、これをめぐる現代の陰謀劇を描いた迫真の美術ミステリーだ。それにすでに80刷りを超えている外山慈比古の「思考の整理学」。初版は30年前だが、優しく論理的なエッセイストの文章は、何度読み返しても発見がある。
 足腰がなえてスポーツや外出が叶わなくなっても、気力と視力さえあれば、読書を通してなにがしかの生きる楽しさを見つけることができるのではないだろうか。

飽和経済と金利             田原 亞彦

 昭和40年代から続いた安定経済成長から、平成に代わった頃にバブルが崩壊して失われた20年といわれる長い低成長期に入った。1989年の大納会にはダウ平均は最高値の38,915円を記録した。当時は米国を抜き世界最大の時価総額で、600兆円位であった。現在は米国の5分の1の500兆円程度である。GNPは当時名目で450兆で現在500兆円であまり伸びず横ばい圏である。個人金融資産は増加して当時は600兆円現在は1700兆円で資金は持っている。当時の日本の人口は1億2300万位で現在とあまり変わらない。米国は当時の2億5000万から3億2000万位に増加している。今後の人口減少社会では日本は益々苦難が続きそうである。
 人口増が見込めなければ、無理して国内の消費を増やすか、輸出か、後進国への現地生産・消費に頼るしかない。しかし中進国の中国などとの競合は激しく収益の旨味は低下しているだろう。
 日本の経済社会は飽和状態ではないか。一時の米国のような過剰な消費・浪費の使い捨て文化にはある種の嫌悪感を感じていたが、日本人はいい意味で慎ましさがあるように思える。その意味でも現代の中国人のように暴買いの意欲もないし、事実必要なものは贅沢しなければほぼ足りている状態つまり飽和状態なのである。6年前上海・蘇州などへの旅で印象に残ったのは3点ある。ガイドが言う、「日本人は欲しい物はほとんど持っているでしょう、特にほしい物ありますか?」、港の竹の矢来で建設中の建物を写してたら軍人に怒鳴られた、日本の森ビルが建てた高層ビルを監視、盗聴されうのを恐れてかガイドは無口で認めない。やはり他国・監視国家である。
 証券市場といえば株式と一般には思われるが、機関投資家間などの金融市場では、ボンド(債券)市場のほうが桁違いに規模も金額も大きい、金利の世界である。バブルの崩壊前ごろだったか、あるアナリストの分析に注目した。「これから低金利になる、それも長く続きそうだ」。それから20年以上低金利がつづき最近はマイナス金利である。そしてその傾向は最近世界的になってしまった。日本の公定歩合は昭和48年の9%、55年の9%以来低下し62年には2.5%である。国債の発行条件も55年の8.7%をピークに62年は3.9%に下がっている。53年に6.1%の国債が大量に発行され、クーポンが低いことからロクイチ国債と揶揄されたものだが、今日から見ると高クーポンである。62年に20年償還の超長期国債が5.7%で発行されたが既に償還になっている。
 飽和経済で低成長、自然成長率の低下は構造的な低金利時代を生み出した。デフレ経済からの脱却は容易なことではなかろう。昔なら戦争で需要喚起を考えたのかもしれないが。昨今の政治の世界でも国民に閉塞感がたまり、それを打破したい欲求が現れているように思える、ナチや軍国主義的方向に向かわなければよいのだが?


       【2016年10月15日定例作品】

秋おんな                横山 明美   

「花」は春で、「お花畑」は夏、草花が一面に咲き乱れる「花野」は秋の季語、ということになっている。花野は、野菊や吾亦紅、萩や竜胆や女郎花などが誰に頼まれるでもなく咲き競う野原のことらしい。暑さにげんなりした夏が過ぎ水も空も澄んでくると、なんともうれしくなる。秋は寂しいもの、と感覚の上で思い込んでいる人もいるようだが、花野が一抹の寂しさはあるもののなかなか賑やかでもあるように、食の豊かさも加わって元気がみなぎってくるのだ。そもそも私は秋たけなわの十月が誕生月である。
 体格だけは堂々としているのに、思いのほかささやかなものが好みである。秋になると、玄関わきの傘立てに使っている大きな甕に秋の草花をとりどり投げ入れる。一種一種は主張することもなく地味なのに、まとまると姿かたちも色合もさまざまで、懐かしい人々がそよそよと集まってきたような気になってうれしくなる。これが胡蝶蘭やバラの花束だったりしたら、自分が自分でないような、また自分の住み処でないようで落ち着かないことだろう。ハレの場でよく胡蝶蘭の鉢やバラの大きな花束が贈られたりするが、私なら断然お断りである(そんな心配はないが)。竜胆の青紫や小菊の赤や黄、芒の樺色や吾亦紅の濃茶などは、古の人の穏やかでゆるりとした季節への寄り添い方をそこはかとなく思い起こさせてくれる。墓に携える花は野の花が多い。彼岸に参ると墓苑一面が絵具を落としたようでとても美しくなる。どう見ても胡蝶蘭は銀座のホステス、バラの花束は人気者の芸能人、である。胡蝶蘭で墓が埋めつくされたら、しみじみとした心持ちはふっとんでしまうにちがいない。
 去年、身近に秋草の風情がほしくなり、窓の下の風呂場程度の狭い土に萩を植えてみた。紅い花が咲きこぼれ、そこに立つといっとき古典の世界の女御になったような気がした。うれしさに次は芒もコスモスも・・・と狭さも忘れて考えていたが、花のあと萩は人の背丈をずんずん越え、長く留守をしている間に、若い者に無残にもばっさり伐られてしまった。世代と文化の違いを憎むばかりである。今年はどうも花をつけそうにない。また玄関わきの甕の出番である。そして従来の貧乏性から、そのうちの色味のよい花を一輪切って古箪笥や長火鉢の脇に飾るのである。箪笥は、母がその昔継母に持たされた当時から「お古」で、木目が浮き出てしまったところへ鉄の頑丈な取っ手がついている。飾り棚にでもしよう、と姉と分けて二段分もらってきていた。からの抽斗には見かねた叔母があれこれ詰めてくれたのだという。そこに入っていたきものは、母の新婚時代を飾ってくれたのだろうか、とふと思う。いま中には気に入りのアクセサリーやスカーフを入れてあるのだが。
 長火鉢は父がよく酒の燗をつけていたが、テレビの時代物などでときどきお目にかかると、なんとも懐かしさがこみあげてきてしょうがない。家を出る時、それをくださいと言うと、父は何度も「ほう、こんなものそんなに気に入ったのか」と言い、古布でうれしそうに磨いてくれたものだ。「お父さん、一本つけようか」などと言ってみたい秋である。飾り箪笥には小石原焼の一輪挿に竜胆を。肴は海鞘の燻製と里芋のゆず味噌がけでも。

散 骨                  古内 啓毅

今月8日、ともに10月に86歳で亡くなった長兄の3回忌、85歳で亡くなった父の27回忌の法要があり、昨年の長兄の1周期以来の帰郷(宮城)だ。実家での法要が済みお寺さんに向かうところで小雨となりあいにくの墓参となったが、料理屋さんで供養膳を食し杯を重ねながら故人を偲ぶ会になった。
 私のきょうだいは男五人、女二人の七人で、昔は珍しくはなかったが現在の少子化時代では表彰ものだ。が、一昨年、はじめて第1子の長兄が亡くなり6人となってしまった。この8月に末っ子が70歳となりきょうだい全員が70歳越えの高齢化入りだ。長兄存命中は、毎年10月にきょうだい会と称して、弟が住まう長野の別所温泉、宮城の松島、鳴子、秋保の各温泉、それに地元のやくらい薬師の湯などその都度場所を変え、きょうだい、その連れ合い、子らが集い、にぎにぎしく親交を深め絆を強化してきたものだ。が、今回、法要ではあったが、次姉が体調不良で、次兄が妻の看護で欠席。きょうだい全員の集合とはならなかった。
 法要、供養膳が終わって、姪の家でひと休みし、この日のお宿、地元の天然温泉の宿ゆ~らんどに荷を下ろし、いつもより寂しい人数ではあったが、きょうだい、姪、甥たちとのおしゃべり、地元の料理、地酒などを堪能し、最後は別室でのカラオケで盛り上がり、英気を養う故郷の一日であった。
 そんな中で、談たまたまお葬式やお墓の話となり、甥が、昨年4月に、近所のお寺さんに樹木葬墓地が開園したので見学、検討した結果、契約することにした、という。現在ある墓を処分し、自分たちは樹木葬に。費用は1名、埋葬料30万円、管理費5万円の35万円。管理費5万円は10年分(5千円×10年)で11年以降は不要。墓の処分、いわゆる墓じまいには別途に費用が発生するのでトータルでみると相応の当初負担になるようだ。そのお寺さんでは、しだれ桜13本をメインに樹木を選んで、直径30センチ、深さ60センチ程度の穴を堀り埋葬し、地表に木製等のプレートを設置することが出来る、とのことだ。
 彼らには子供が二人いるが、それぞれ千葉、埼玉で独立して所帯を持っており、地元に戻ることはなさそうだ。何れ墓守りはいなくなる。樹木葬を選んだ所以であると。
 私もかねてより、家族や周辺に、墓は持たず、葬式もせず、散骨とする考えを表明してきている。散骨については、1995年に旧厚生省が、相当の節度を持って行う場合は、死体等遺棄罪(刑法190条)、墓地・埋葬等に関する法律(墓埋法)等の処罰の対象にしないという見解を出している。相当の節度とは、遺骨を細かいパウダー状にして、場所的には陸地よりかなり離れた海域で埋葬するのが望ましいという考えだ。海洋散骨について調べて見ると、散骨代行業者がおり、費用は必要な全てのサービスを含めて5、6万円程度ですむとある。
 妻は、池袋駅南口から数分の所に自分の両親らが眠る墓所があり、葬儀、埋葬に心配はない。が、最近、本堂をビル化するなど住職の寺院運営にいまいち納得できないようだ。また、敬愛する叔父夫妻が献体することを聞き及び、従来方式の葬儀、埋葬に迷いを感じているらしい。
 ともあれ死後の世界への準備もさることながら、生きて元気でいるあいだのおつき合いの方がもっと大事だ。故郷にいる85歳になる長姉はやや耳が不自由になってきているが野菜作りなど畑仕事に精を出し故郷を守ってくれている。長姉が健在のうちは父母や長兄らの墓参も兼ねて年に一度は皆で寄り合いたいものだ。寄りあうとしてもあと何年続けられるか。足腰が弱り出かけられる条件が次第に厳しくなってくる。これからの一年、一年を大事にしてゆきたい。散骨はその先だ。妻や子らに異論なく実行してもらえるようお願いしておこう。        

駅は語る                加藤 厚夫

 年を取ると痴呆になるまえに、思い込みが激しくなり容易にあたまの切り替えが出来なくなる。最近氷川駅から奥多摩湖手前のバス停で降り、「むかしみち」を走って戻るつもりで行先板を見た。しかし自分は氷川としか頭にないからウロウロすること20分あまり。奥多摩駅は目に入るがピンとこない。スイカだから駅名で切符を買うことがなくなり認知できないのだろう。漠然とした広域名の駅名では困るのだ。
登山口の浅川が高尾に、田口が妙高高原に変わったがこれは具体的で判り易い。
昔なじんだ駅名 若きころあこがれた駅、西銀座(昭39,銀座に)。フランク永井の唄が思い出される。また江戸橋は日本橋に吸収されてしまった。小学校時代まで過ごした東急沿線。第一師範が学芸大学に都立高校が都立大学に変わった。西武線では田無町が団地名のひばりヶ丘に。新宿線の田無と紛らわしいからもあった。
恐ろしい駅 火薬庫前という駅。日本一凄まじい駅名だ。いまは明大前だ。
多磨墓地前、ここに住んでますといいずらい人が多かったので改名したという。敵国に狙われるのはまずいと変えた駅が戦前の昭和15年にいくつもある。横須賀軍港(汐入)通信学校(相模大野)陸士前(相武台下)など被害はなかった
お上の駅 バス停留所みたいな国鉄千葉駅前(昭62京成千葉)。お上に随分へりくだった名だが利用者には安心感がある。似たやつで意味不明なのが西宮北口だ。本当は国鉄西宮駅北口前としたいのだが、お上にたてつく関西人の意地と、常に客を取られている腹立たしさの表明であろう。
お上に取り上げられた唯一の駅がある。西武の川越(本川越)だ。昭15鉄道省が川越線を開通させ東上線と交差した際、返上させたのだ。本は川越だ!と西武の怒りと無念さが伝わってくる。
迷惑な駅(地方勤務時代に) 国鉄がいち早く捨てたのが雑餉隈(ざっしょのくま)だ。九州旅行者にいちいち聞かれ音を上げたからだ。並行する西鉄はいまも同駅名が健在だ。客の大半が土着の人だし、武田鉄矢の故郷だからかも。
広島時代の己斐(こい)。同一会社・同一駅なのに、市内線は己斐、宮島線は西広島だから面喰った記憶がある。やっと最近「広電西広島(己斐)」に統一された。大阪時代、市営の日本橋駅、にっぽんばしと読めず恥をかいた。
最悪の駅名 なんといってもナンバーワンは東京モノレールである。羽田空港の手前に羽田・羽田整備場の二駅があって慣れないひとは空港と勘違いしてとびおりてしまうのだ。続出したので「早まって飛び降りないでください」と悲痛な車内放送を繰り返していた。私立だからすぐ変えれば良さそうなものだが1998年まで頑張り通した。
いまは天空橋・整備場に改正し車内は平穏を取り戻した。いやはやムダな冷汗はかかされたくないもんだ。
  「知恵多ければ、怒り多し」(旧約聖書)

日記と、そして馬淵先生         古藤 黎子   

 中学校に入学して数か月経った頃、国語の時間に先生が「あなた達、日記をつけなさい」とおっしゃった。どういう内容の勉強をしていたのか全く記憶がなくて、ただその言葉だけを記憶している。私は国語が大好きで、その先生も大好きだったから素直にその言葉に従ったのだろう。それが馬淵先生だった。名前通りというのは失礼だが、ちょっと面長で背筋をぴんと伸ばした大変姿勢のいいお姿だった。丁度その頃ロカビリー全盛時代で、先生は「私の甥が佐々木 功っていう歌手なのよ」とおっしゃったことを覚えている。先生の言葉通り、その日から私は日記を書き始めていた。
 以来、数十年、時にはノート6ページくらい書いていた。日記を書くにあたって、日記帖然としたものは避けて、ごく普通のB5判のノートを選んだ。日記だから誰かに見られるとまずいという、警戒心が既にあったのだろう。但し、長い間には、この手のノートが手元になくて、日記帖っぽいのに書いていたこともあるからいい加減なものだ。でも、やはり、書きなれたB5判のノートが一番書きやすかった。一晩で6ページも毎日のように書いていたのは、高校1年生の頃だった。高校生活で一番大切な友情に関する問題が生じ、日々、苦悶の言葉を書き連ねていた。思い出しても「なんでだろう」という疑問を感じる友情に関する問題。クラスの中の4人グループで、いつの間にか私が一人外れてしまったのである。特別喧嘩をしたわけでもなく、いつのまにか居づらくなるという、その頃の年代ではちょっと原因不明の理由で、私が仲間外れになっていった。私は多分心がかなり傷ついて、別の友達のグループに加わり「友情なんてもうどうでもいい。私の青春はおしまいだ!」と思ったのである。しかし、毎夜毎夜まあ6ページとはいかないが、当時、毎晩2~3ページは日記を書いていたようだ。悩み多き青春であった。
 これが日記人生の第1章とすると、第2章は、本当にわが人生の青春時代。大学ではクラブの男の子に惚れて、その気持ちを毎日悶々と書き連ねていた。更に、会社に入って数年間。入社後の編集部の男性に悶々とした時間を費やした。そのうち、毎日日記なんか書いている時間がなくなり、家に帰れば出来るだけ早く寝ないと駄目だと心機一転?いつの間にか書いたり書かなかったりという生活が何十年も続いた。その間、独立して家を出て、日記帖の殆どを家に置いてきてしまった。ノートの表紙にナンバリングしていたので多分200冊を超えていたと思うが、どこにどうあっても誰も読まないだろうとたかを括っていたのだろう。
 家に残した日記帖は、先日兄に聞いてみたら「ああ、あんなもの、燃やしちゃったよ」であった。よかった、とホットしたものだ。私は高名な作家が自分の日記を後世に残して読まれるような存在ではないし、まあ、若いころのちょっと恥ずかしい思い出ばかりで、他人が読んでもなんだか訳の分からないようなことばかり書き連ねていて、読む気など起きっこないだろう。しかし、思い出すと、中一の時の馬淵先生の言葉で私の人生が日記を書くことによって形づくられたのかもしれない。ただ文章は連ねるだけならいくらでも書けるが、編集者の仕事は、人様が読む文章なので、“読んで分かる”、“起・生・転・結の或る”文章を書かないといけない。しかし、ただやみくもに自分の思いを書き連ねていたあの時代があったお蔭で、書くことだけは苦にならないことは甚だ幸運であったと思う。また高校三年生で再び国語の担任をしていただいた馬淵先生は、夏目漱石の草枕の冒頭「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」とか、亀井勝一郎の「人生は邂逅である」などという言葉を教科書で教えてくださった。17歳の少女にとっては、先生は、わが人生の忘れえない存在である。出版社という所で文字というものを仕事のツールにすることが出来たのも、馬淵先生と日記のお蔭ともいえるのかもしれない。

試練の民主主義             照山 忠利

 私の学生時代、早稲田の政治学科では新進気鋭の内田満・助教授(後の学部長)が、アメリカの民主主義の素晴らしさを講義で力説していた。大統領選挙の仕組み、二大政党制による政権交代、多様な圧力団体とロビイストの活躍による政策決定過程などが、民主主義が機能している例として論じられていたと記憶している。
 今のアメリカの状況はどうか。明らかに変貌したというより退歩した感がする。大統領候補の選出ひとつとっても異様としか言いようがない。とりわけ共和党が、暴言吐き放題のトランプを選出したことは歴史的汚点として党史に残ることになるだろう。歴代の大統領経験者や党の要職者がこぞって反トランプを表明する中で、それでも党の大統領候補に選ばれてしまったのである。一方、民主党のヒラリー候補にしても、キャリアは申し分ないとはいえ、健康問題や人柄など初の女性候補である点を除くと、評価は決して高くない。それに両候補とも70歳と68歳という年齢が清新さを感じさせない要因となっている。二人のうちどちらが大統領になっても、今以上にアメリカのステータスが上がるようには見えないし、万一トランプが勝利した場合は大きな混乱と困難がもたらされるであろう。
 かつてのアメリカはお節介といわれるほど他国の問題に口を出し金も使ってきた。とりわけ「民主主義」の輸出に熱心だった。ブッシュJr大統領はイラクのフセイン専制を打倒すれば自ずから民主主義が育つと勘違いし、浅慮にもイラク戦争を仕掛けた結果、今日のIS過激派誕生のきっかけを作ってしまった。多くの中東・北アフリカ諸国で「アラブの春」のドミノにより独裁者が追われて、民主主義が実現すると期待されたものの、そうはならなかった。後に残ったのは無秩序と混乱、内戦、大量の難民発生という目を覆いたくなる惨状である。
 イギリスにおいてはキャメロン首相が、やる必要もない国民投票を強行し、EU離脱という予想外の路線を選択してしまった。英国は再び衰退の道をたどることになると危惧されている。これも直接民主主義の大いなる誤算の一つといえる。
 世界第2位の大国となった中国は、その経済力と裏腹に共産党の独裁政治が続き、民主主義の気配は全くない。北朝鮮に至っては基本的人権すら保障されない恐怖政治が行われている。ロシアも共産党の一党独裁は終わったものの、プーチンの強権政治は民主主義とは縁遠いものがある。親日的といわれるトルコでもエルドアンの強権ぶりが伝えられ、フィリピンでも独裁的な匂いがするドゥテルテが大統領になった。こう見てくると世界の大勢は民主主義の後退局面に入ってしまったようにみえる。
 わが国においては安倍一強体制が確立し、自民党は総裁任期の延長に向かおうとしている。小選挙区制がもたらした弊害のひとつかもしれぬが、民主主義の健全性からみれば多少方向がずれてきている気がする。泉下の内田先生はどう評価するだろうか。
                                    (了)

四季の記憶41 「追憶の街」その3    鈴木 奎三郎  

 10月になっても、雨や曇りの日が続き、一向にすがすがしい秋晴れがやってこない。この夏は例年に比べるとさほど猛暑日も無かったような気がするが、石神井公園界隈では秋の到来もはっきりしないままに、金木犀の香りもなくなり、ヒガンバナも終わってしまったところが多い。
 10月8日は、二十四節気の寒露である。二十四節気は、一年の太陽の黄道(太陽が一年でひと回りする天球上の道筋)上の位置を、春分点を基点に二十四等分して決められている。そして一か月の前半を節気(正節・せいせつ)とし、後半を中期(ちゅうき)とする。すなわち、1年12か月の節気は24あり、これが二十四節気と呼ばれるそうだ。
 先日、雲り空のジメジメしたなかを、吟行で新宿御苑に行ってきた。喧噪と人並の溢れる歌舞伎町から歩いてわずかな距離だが、御苑と歌舞伎町の違和感とその風景の差に改めて驚かされる。御苑はちょうど夏から秋への季節の端境期のせいか、金木犀も盛りを過ぎて色彩に乏しい限りだ。萩も盛りを過ぎて、寂し気に揺れている。

 萩揺れて旅の終わりも近くなり

 俳句に解説は禁物だが、ここでいう「旅」は人生の旅路、人の一生をイメージしたものある。
 この吟行は、30年超の伝統のある「均一句会」である。吟行以外にも例会が隔月で行われる。5年ほど前にジャーナリストの知人に誘われて入会した。入って困ってしまったが、10数名の同人は長年俳句に親しんできた大学の先生や通信社などマスコミ関係者が多数で、俳句歴10~20年。師範格は俳句誌の編集もしているセミプロである。そこへズブの素人がみなさんに伍してやっているのだから、怖いもの知らずもいいとこである。吟行は説明するまでもないが、訪ねた場所を素材に即興で作句するのだ。素人同然のぼくには、とてもじゃないけど即興で作る自信はない。そこで、季節や場所の風景を考えて、事前に何句か準備することにした。

 道ならぬ俳句に恋し秋暑かな

 2時間超の吟行が終わった後は、新宿の喫茶店のレンタルルームでそれぞれの俳句の披露と師による講評、そして採点だ。この日は、前掲の2句をいれて計5句。どういうわけか、合計で最高点をいただいた。この句会に参加して初めてのことである。へたな鉄砲も数撃ちゃ当たる・・とは、このことを言うのだ。

 さて、近年と昔の銀座のことである。リオ五輪のメダリストによる合同パレードが、7日に銀座日本橋エリアの2・5キロのコースで行われた。なんと沿道には80万の人出があったという。前の晩までは行ってみようと思っていたが、朝になって急に億劫になってやめてしまった。すごい人出のテレビニュースを見ていると、以前行われていた大銀座祭りの夜の銀座を思い出す。
 1968年から10月下旬に行われていたこの催事は、夜のメインイベントである“音と光のパレード”が呼び物であった。このパレードに会社のPRのために電飾のパレード車を出品し先導するのが仕事のひとつだった。11屯車の車台に大型の発電機を積み、多数の豆球で電飾をこらし、そのうえで若いモデルが踊り、沿道100万の観衆に会社のPRをするわけだ。製作費2,000万の一夜限りの打ち上げ花火のようなものだ。デパート、ビール、化粧品、宝飾、繊維などの会社からも十数台が出てくる。これらのパレード車に圧倒的な差をつけることが至上命令だった。まさに銀座は若かりしぼくにとっては戦場でもあったのだ。

 2000年代に入り、交通事情や景気減速などから、この祭りは休止となり、その後は姿かたちを変えた祭事に変容した。変貌の著しい昨今の銀座だが、変わらないのは、四季折々、銀座に流れる風なのかもしれない。

古代史探訪 吉野・奈良3         田原 亞彦   

 「山の辺の道」は、天理市から南に三輪まで続いている。まず石上神宮があり三輪には大神神社がある。そしてその南は蘇我氏と関連の深い飛鳥(明日香)であり、飛鳥寺・石舞台古墳や蘇我氏が邸宅を構えた甘樫の丘がある。
 物部氏は、書記にも始祖はニギハヤヒとされ弥生の初めごろ北九州の遠賀川流域から稲の文化を携えて、河内のタケルノミネに降臨し、今の八尾の恩智(神社)に居住した後、生駒を越えて大和郡山の鳥見の里に移った。一族は100を超える支族の集合体で全国に散在している。物部神社も新潟、鳥取などに在る。ヤマト政権の軍事統括者であり兵器・石材・古墳製作などの土木・青銅器製作などの職能集団で物流にも優れていた。5世紀前半の仏教が伝来した欽明朝以来、物部氏は仏教を重んじた蘇我氏と対立してきたが、587年に至り、蘇我氏が物部守屋を倒し物部氏は衰退した。
 石上神宮は物部氏の氏寺であり宮司を物部氏が代々勤めている。多くの兵器を所有しており、ニギハヤヒ関連の十握の剣がある。更に4世紀中ごろに百済王が献上した「七枝刀」がある。其の銘文には、泰和4年(369年)、倭王旨、百済王世子の文字があり、倭王の旨は崇神天皇と同一の説がある。342年頃金海の南加羅の国王であり、当時の加羅と倭国は連合国家の様相である。七枝刀の七は鉄の精製の工程を示しており中国製の説がある。
 大神神社はニギハヤヒと出雲大社と同じ大国主命(大己貴命)を祭る最古級の神社である。 本殿・拝殿は古来無く三輪山そのものがご神体であり独特の三ツ鳥居を通して拝礼する。石上神宮と同じく禁足地であり多くの古代の宝物が埋葬されているといわれる。
 蘇我氏の出自について書記は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の以前に満智・韓子を記しているが始祖はわからない。始祖は在来豪族説、百済高級官人説等があるが、百済王昆支説が有力である。蘇我一族からは多くの女性が皇后になり、血族がら用明天皇がでている。それだけの名族であり、5世紀後半に崇神のイリ王朝に入婿した。 
 飛鳥には馬子の墓と言われる石舞台古墳があり、140トンの天井石と総重量2,300トンの花崗岩で作られている。645年に蘇我入鹿は宮中で中大兄皇子と中臣鎌足に殺され蘇我宗家は滅んだ。乙己の変であり大化の改新となった。
 飛鳥寺は、588年から造りはじめ606年に仏像を設置した最古の寺と言われる。傍らには馬子の首塚がポツンとあるのが印象的である。寺は当初は大伽藍であったらしいが法隆寺や東大寺などに比べると侘しい感じである。中には最古の仏像とされる飛鳥大仏がある。法隆寺の釈迦三尊と同じく渡来人の止利仏師(鞍作の鳥)の作と言われる。両方とも北魏の皇帝を模した服装と様式でつくられ、アルカイックスマイルと言われる口元をしている。一説には飛鳥大仏は用明天皇そのものであるとされている。渡来人の話が多いが、国立の遺伝子研究所によると現代日本人に占める原日本人ともいえる縄文人の遺伝子の割合は12%とのことである。

昭和35年秋の神宮外苑          小林 康昭

 この年の秋の早慶六連戦は、忘れられない。早慶戦を前に、一位 慶大 8勝2敗 勝ち点4、二位 早大 7勝3敗 勝ち点3。ほかの4校は勝ち点3以下。優勝の可能性は早慶両校に絞られていた。早慶戦で慶大が勝ち点を取れば慶大が優勝、早大が連勝すれば早大が優勝、早大が2勝1敗なら早慶両校が勝率と勝ち点で並んで、優勝決定戦に持ち込まれる。早大は、慶大よりも厳しい条件になっていた。下馬評では、慶大有利とはやされた。予定された1回戦の11月5日は雨。翌6日に順延された。
*  *  *
 1回戦 11月6日(日) 観客は6万5千人。学生内野席の学内前売券の割当てに外れたので、学生外野席で応援する。先攻は早大。早大2-1慶大。(早大)安藤-野村、(慶大)清沢・角谷・丹羽-大橋。先勝の早大は、明日勝てば優勝。慶大は後がない。
2回戦 11月7日(月) 今日も、学生外野席からの応援だ。先攻は慶大。優勝がかかる早大は、金沢が登板。3番村瀬と5番石黒を入れ替えた。慶大4-1早大。(慶大)三浦・角谷-大橋、(早大)金沢-野村。早大は、明日勝たないと優勝の芽はない。
 3回戦 11月8日(火) 学生内野席は当日売りとなる。早目に球場へ。開門の1時間前に着いたが、既に長蛇の列が出来ていた。午後1時半、試合開始。先攻は早大。9回に徳武本塁突入を巡って両校の選手がもめる。その裏の回、3塁の守備に着いた徳武を非難して、興奮した慶大応援席からものが投げ込まれた。慶大の前田監督が3塁コーチボックスに立って、応援席を鎮めた。安藤は慶大を5安打完封。早大3-0慶大。(早大)安藤-野村、(慶大)清沢・丹羽-大橋。両校が、9勝4敗 勝ち点4。優勝の行方は、明日の決定戦に持ち込まれた。試合後、場外に出てすぐに、入場券売り場の前にできた徹夜組の列に加わった。
*  *  *
 優勝決定戦第1戦 11月9日(水) 曇天の朝は寒かった。学生内野席中段に席をとる。早大は安藤の連投。先攻は早大。後攻の慶大が2回に3塁打と犠打で先制点。以後、両軍はゼロ。早大は角谷のカーブを打てない。0-1で9回表。早大の敗色が濃くなった。伊田が三塁ゴロで1死。鈴木悳夫が代打に立った。角谷が、外角低めに投げたカーブの初球を、鈴木は振り切った。中堅渡海、右翼小島が打球を追う。大歓声のなか、鈴木は1塁、2塁を駆け抜け、3塁上に立った。早大、起死回生の3塁打。鈴木の代走に俊足前田。石黒が打席に入った。石黒の一打に期待して、熱狂した一塁側は校歌をはりあげる。角谷は石黒を2-1と追い込んだ。石黒は顔面蒼白だ。石井監督が出てきてタイムをかけた。石黒が近寄る。監督が声をかけた。石黒がうなずく。タイムが解けた。角谷が、はずし気味に外角に投じたカーブを、石黒は泳ぐように手打ちで流し打った。小飛球となった打球は一塁手の背後に落ちた。石黒、執念のヒット。前田がホームを踏んだ。この後、両投手の投げ合いが続き、11回で日没引き分けになった。早大1-1慶大。(早大)安藤-野村、(慶大)角谷-大橋・田中。連投の安藤は二日で218球。決定戦の再試合は翌々日となった。再試合前日の10日、バイトを終えて、球場に向かった。そして、入場券売り場の前に並ぶ。1000人を超す学生が徹夜の列を作った。ラーメン屋が屋台を引いてきた。新聞社のカメラがフラッシュを焚く。夜更けに、警官が巡視した。
*  *  *
 第2戦 11月11日(金) 快晴だ。前から10列目位の席に座る。安藤の3連投に、どよめきが起きた。試合開始前から、球場内は興奮状態だった。先攻は早大。両校ともに3塁まで走者を進めるが、決定打が出ない。ともに無得点で、延長11回を迎えた。暮色が迫ってきた。風が冷たい。11回表、早大0点。その裏、慶大は安藤統が四球、榎本が右前安打。俊足の安藤統が好走して、無死走者1塁3塁。三塁側は総立ちになった。小島は敬遠の四球、無死満塁。打者は4番、主将の渡海。石井監督が出てきた。右翼の鈴木と左翼の伊田が入れ替わった。渡海は左翼に引っ張るタイプ。監督は、左翼に飛ぶ打球に鈴木の強肩を賭けたわけだ。マウンドに集まる早大内野陣は、顔をひきつらせている。渡海が3塁上の安藤統に声をかける。渡海は投手に向けた左足を後ろに引いて、投球を待った。安藤は外角高めにストレートを投じた。渡海は、左足を前に踏み出して打った。渡海は明らかに右翼を狙っていた。打球は右翼に飛んだ。伊田が前進する。伊田は弱肩。一塁側に悲鳴が、三塁側に歓声が起きた。3人の走者はタッチアップ。前進して伊田が捕った。視野の左隅で、3塁から安藤統が走り出した。大音響の三塁側。生還すれば慶大が優勝だ。伊田が投げた。2塁手の村瀬が中継に入った。伊田が投じた球は、村瀬の頭上を越えて、野村に返球された。野村は本塁から2mほど3塁側の線上で構えた。返球を野村は胸元で受けた。走者安藤統が外側から、捕手野村の背後を回り込む。野村は滑り込んできた安藤統にかぶさった。瞬間、耳を聾する大音声がピタッ、と止まった。その静寂の中、主審の手が挙がった。アウト。一塁側で大歓声が爆発した。「強肩」伊田は一世一代の大仕事をしたのだ。早大0-0慶大、(早大)安藤-野村、(慶大)角谷・清沢-大橋。日没で決定戦再試合になった。今夜も徹夜だ。外苑の空き地で焚火を囲む連中に、警官が何か注意している。
*  *  *
 第3戦 11月12日(土) 今日も快晴。開門は次第に早まって、午前8時半に。入り口で日の丸を渡される。種切れの応援グッズの代用品だ。最前列から3列目に座る。今日も安藤が連投。球場全体がどよめく。先攻は早大。慶大応援席に、応援史に残る大事件が起きた。スタンド最前列の指揮台に上がった少女一人。純白のセーターとミニスカート。胸に三色の慶応カラーのマーク。バトン・トワラー第一号の誕生だ。回が進んで慶大の敗色が濃くなった。飛球に倒れた渡海が、一塁側スタンドの前を虚ろな表情で、慶大ダッグアウトへ走り去った。9回裏、慶大は2死。安藤が投げて、福岡が打った。2塁ゴロを村瀬が捕って、1塁に放った。ウィニング・ボールを好田が受けた。早大3-1慶大 (早大)安藤-野村、(慶大)角谷・清沢・三浦・丹羽-大橋。
*  *  *
 早慶6連戦の全観客数は約39万人。こんなに高揚した早慶戦人気は、もう起きないだろう。ちなみにこの年、プロ野球の日本シリーズを制した大洋ホエールズの1シーズン全観客数が約57万人だった。早大の勝因は安藤の超人的な健闘。6戦までもつれた原因は、主戦金沢、4番徳武、3番村瀬の不調が大きい。慶大の敗因は、安藤を打ち崩せなかったことに尽きた。

パラリンピックの涙           華岡 正泰

 テレビをつけると母親に抱かれた三人の幼女が身を乗り出して大声をあげていた。パラリンピック柔道60㎏級決勝を争う父親 広瀬誠氏を応援する姿だった。次は審判の判定の場面。審判の手が相手方に挙げられた。途端に三姉妹、今度は大声で泣き出してしまった。応援の姿を見ていただけに、何ともいじらしく 可哀そうでこちらまでジーン・・と。表彰式が終ると父親は真先に幼女達に駈け寄り 一人一人に銀メダルを掛け抱きしめた。もう幼女達に涙はなく満面の笑顔。でも、その素晴らしいシーンにこちらは又、新たな涙。広瀬氏は「障害があっても強い父親の姿を見せたかった」「頑張れたのは家族の支えがあったから」と言う。長女5歳、次女3歳、三女2歳。このパラリンピックがどれだけ記憶に残るか知れないが この微笑ましい家族、お父さんを中心にきっと素敵な家族であり続けるに違いない。そう信じたい。
 パラリンピックには胸に迫る場面が多い。選手達の 障害を乗り越えての信じられない程の活躍振りもそうだが、観客席から見守る家族の姿もそうだ。両親、兄弟姉妹が 勝つても負けても選手と共に喜び涙している。
 思うに選手達、家族に支えられ励まされてこそ初めて今日を迎えることが出来たのではなかろうか。家族があったから今日があるのだ。障碍者を変な同情、憐みなしにそのまま受入れることを我々は怠り、彼等を彼等の家族の中に置き去りにしてきたと思うからである。。
 でも、会社に居た障碍者には、本人にも周りにも何の垣根もなかった。パラリンピック女子マラソンで見事 銀メダルに輝いた次男の部下には 社を挙げての応援だった。障碍者に対する偏見、憐みのない世界が生れつゝあるのだ。何れその様な世の中が来ることを期待したい。
 2020年の東京大会が決った時、キレイな英語で喜びを語っていた我らが後輩の女子学生、名前も競技種目も忘れてしまい パラリンピックでの活躍振りを知ることが出来なかったのが残念だ。東京大会を待つとしよう。
                                     おわり

       【2016年8月20日定例作品】

余生の必須課題(永遠を想う心)      田村 公雄   

中学二年の時、私は肺門淋巴腺という肺結核一歩手前の病気にかかった。その頃、父が肺結核で高樹町の日赤病院に長期入院していた。よく見舞いに行っていたのが原因だったのだろう。三ヶ月程学校を休み静養することを強いられた。悶々と過ごしながら、宇宙とか永遠とかを考えるようになった。宇宙は有限だというが、その外はどうなっているのだろうか?永遠に比べて人生は一瞬のことではないか、その一瞬が終わった後はどうなるのだろうか?と真剣に考えた。

その後、受験戦争、企業生存戦争を経て哲学する余裕もなく六十有余年が過ぎた。中学二年の時の命題は進展なしでそのまま残っていた。余生の課題は永遠に対する対処法を考えることだと思う。「永遠」は厳然として存在する。ただ「永遠」は神の領域の事柄なので有限な人間の頭脳で理解したり、時間の概念で理解することも不可能である。しかし旧約聖書には次のような言葉がある。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道の書3:11)神は人を創られ、人の心に永遠への思いを与えられた。その神が、あっという間の短い人生を終わった人に「はい、それまでよ!」と言って永遠の別れを告げるだろうか。

神が人間を創られた目的は、神が人間と永遠に一緒に過ごしたいと思われたからだと思う。だから「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)永遠の過去から、神が天地を創り人を創るまでの間は、神は一人であった。もしこの後、天地が滅び、人類が永遠性を失い絶滅するならば、神はまた一人ぼっちになってしまう。何も張り合いがなく、喜びもなく、永遠をすごせるのだろうか?(いらんお世話?)

先の創世記に次の言葉もある。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)人は土地のちりで造られたので、肉体は死んで土に還るのは当然だが、人に吹き込まれた神の命の息は神の属性ですから永遠であり神の元に還るべきものです。各人に吹き込まれた命の息は、各人の人格と化合しあって個性が形成されていきます。人間だけに命の息を吹き込まれ、人間だけに永遠を思う心を与えられた神は、個性豊かな人格を持った魂として還って来ることを望まれていると考えます。

あの毛沢東でさえ死の間際に「神に会う準備をしなければならない」と言ったそうです。
一瞬の人生の間に永遠への備えをしなければならないのですから大変です。神に会える純度を高め、整えなければならないのです。

人工知能と未来社会           田原 亞彦

 先日、韓国のプロ棋士がコンピューター対決で1勝4敗だったらしい。AI(人工知能)や通信も含んだITの発展は共に現代の最大の開発成果であろう。車の組み立て・塗装をはじめこの50年で相当高度化し汎用化されてきた。コンピユーターは容量、速度ともに飛躍的に高度化している。ベースとなる半導体の開発・製造関連業界は息の長い成長産業であろう。
 スマホの位置情報から人の流れを分析して売れ筋商品を割り出している、膨大な情報処理量である。物どうしのインターネットによる相互制御(ITO)で車の自動運転や不在中の家の家電の制御や保安監視もできる。また最近のボケモンGO現象は世界の人間の同質性を示し、これを先例にして様々な新しい仕組みの試みが生まれることだろう。人集め、売れ筋商品開発、宣伝などに応用されそうだ。
 囲碁の対決では、人工知能は多くの棋士の過去の手口や定石を記憶していると言う。プロとの対決では、奇想天外な布石をするが、それが後々で重要な布石だったと解るらしい。そして驚くのは、自分で最適の解をだすだけでなく、膨大なデータから自ら学習して新しい手口を創造することが出来るらしい。自分でプログラムを創造して成長することができる。、人間的価値観を持っているわけだ。定型的な反復される製造ラインなどの作業は典型的な機能だが、非定型的な動作や判断とかも提案出来るらしい。問題解決の手順の定型化(アルゴリズム)までに到っている。まさに人間の頭脳に近づいている、少し認知症ぎみの人よりはしっかりしているし、ロボットに介護・保護してもらうようになるかもしれない。機械は所詮は人間が作ったものであり、人を超えることは無いと思っていたが、人工知能が自己開発・改革や創造までできるとすれば、ある意味では脅威である。人間特有の、真善美や道徳・規範・倫理の世界まで入り込まれれば、人工知能で裁判される時代になるのだろうか。いま2045年問題がある。人工知能が人間の頭脳を超える年の予測である。  
 近じか小学生にプログラミング教育を始めるらしい。IT化の時代の流れに竿を差す気はないが最も危惧するのは、未来の人工頭脳を頻繁に利用する社会になった時の人間に対する影響である。人間が無気力になったり、思考力が弱りはしないか。ロボットへの依存が増えて脳が劣化しないだろうか。いやいや人類は地球以外の宇宙に進出し益々欲望を膨らませて生き生きしているのだろうか。何よりも今の生活文化や習慣、考え方、価値観が大きく変わる可能性が考えられる。明治以来のこの150年での変化には驚きだが、今後の変化は益々急速に、グローバルに、同時性的に起こるのだろう。世の中は、紆余曲折があってもより良い幸せな方向に向いていると信じているのだが。          
                                       

昭和20年8月の満州           小林 康昭

 71年前を、とぎれとぎれだが、はっきりと覚えている。今でも思いだすと、日付を逆算することができる。
8月11日
 飛行機が高く、音もなく飛んでいく。「あれ、ハヤブサだよね! お父サマ」
 傍らの父を見上げて、叫んだ。隼は、子供にも人気のある戦闘機だ。
 父は、険しい表情で見上げていた。そして、僕の手を引いて、また、歩き始めた。
 松花江省砂力。コーリャン畑の中の開拓部落。
 松花江省の日本人のトップとして、父は開拓部落を訪ね歩き、開拓民を慰撫している。この日は、幼い長男のボクを連れている。開拓部落では、広間に集まった大人たちに、父が話をする。
 その時の話を父は、大人になったボクに語った。「おととい、ロスケが関東軍を攻めてきた。戦場はとても遠く、心配はいらない」と。ロスケとは、ソ連の兵隊のことだ。“さっき、飛んでいたのは、ロスケの飛行機だったのかも。”
 父が話をしている間、隣の部屋でボクは、おばさんたちと晩ご飯を食べる。
 やがて、広間から酔っぱらった歌声が、聞こえてきた。
 ♪ツーツーレロレロツーレーロ、ツーレラレ、ツレトレシャン、ツレラレトレ、シャンシャンシャン♪
 おばさんたちは、黙って食べている。
 ♪まぁちにぃ着いたらぁ、一杯ぃ呑んでぇ、かわいいねぇちゃんのひざぁまくらぁ♪ 
 「おばチャン、ひざまくらって、なぁに?」
 おばさんは、茣蓙の上に座っている自分の膝を指した。「お膝の上に、頭を乗せて、ネンネするの」
 酔興は、終わらない。ボクは茣蓙の上で眠ってしまった。“ひざまくら”ではなかった(と思う)。
8月13日
 お昼頃、公署の広場に沢山の馬車が着いた。公署とは、省の官衙と官舎を塀で囲んだ一画。馬車には砂力の人たちが乗っていた。二日前に、一緒にご飯を食べたおばさんたちもいる。おばさんたちは、キツイ顔をしていた。
 砂力の人たちは、鉄道の駅がある公署まで逃げてきたのだ。“ロスケが隣の省のチチハルまで来ている!”心配はいらないどころではない。“公署が手配した避難列車が待機しているから、ハヤク駅へ!”
 有蓋の貨物列車が、駅に入ってきた。みんながぜんぶ乗込まないうちに、汽車はゆっくりと走り出した。床に散らばる糞を見て「羊だね」と、誰かがいった。公署の男の人たちは、誰も乗っていなかった。父も乗っていない。
 「お父サマは? お母サマ!」「後から来るって」
 大きな駅に着いて、客車に乗り換えた。窓から乗り出して見ると、前にも後ろにも、汽車が走っている。前の汽車が止まると、駅でもないのに、後ろの汽車も止まる。線路わきに集まっていた人たちが、客車の扉や窓をこじ開けて乗込んでくる。父は、まだ来ない。“お父サマが来なかったら、どうしよう!”心配でならない。
 汽車がまた、ゆっくりと止まった。急にまわりが静かになる。シャーシャーシャーと、機関車が蒸気を吐いている。
 「オーイ、みんな、いるか?」見なくても分かった。父の大声だ。父が入ってきたのだ。ボクは、走り始めた汽車の窓から、外を見ていた。「ドーシタ? こっちを向けよ、オイ!」夕方の太陽が、地平線の稜線をこするように見え隠れしている。ほっぺたを、涙が流れるのが分かった。
 日本に引き揚げてきてから、小学校の教室で「満州の話をして頂戴」と担任の女先生に言われて、みんなの前で話した。ここのところで、急に話ができなくなって、みんなの前で泣いてしまった。泣き終わるまで、女先生も、みんなも黙って、ジッとしていた。
8月15日
 いつもは8時間で着くはずの新京に、2日もかかって着いた。新京は、満州の首都だ。新京駅の広い構内には、たくさんの汽車が停まっていた。ホームや線路わきでは、大勢のおばさんたちが、七輪でご飯を炊いていた。
 男の人たちがゾロゾロと歩いていく。駅長室で、特別放送を聴くという。ボクたちは、たくさんの七輪で、跳び箱をして遊ぶ。ホームの水道で、おばさんたちがおしめを洗う。男の人たちが戻ってきた。
 客車の前で、男の人たちが止まった。「雑音がひどくて、聴きとれんかった。書き留めておられたようだったから、みんなに話して下さらんか」
 頼まれて、父が一歩前に立った。そして、手帳を見ながら喋り始めた。途端に、男の人たちが、大きな声で泣きだした。女の人たちも、俯いて泣いている。父は、ボクが大人になってから“天皇陛下が、臣民に直接、戦争が終わったわけを、話しかけられた放送だったのだ”と、その時の顛末を語った。大人が泣いているのを初めて見た。
8月17日
 汽車は新京駅を二日後に出て、南下した。そして、その日のうちに、公主嶺で先回りしたソ連軍の戦車部隊に、行く手を抑えられて、新京に戻された。ボクたちは、新京郊外の収容所に入った。その日から“お父サマとお母サマ”を“お父さんとお母さん”に、変えさせられた。高級官僚や軍人は、身元が分かると戦犯にされる、というのだった。

四季の記憶40 「追憶の街」その2   鈴木 奎三郎  

 二十四節気に“処暑”がある。旧暦7月の半分を過ぎて暑さのおさまる頃で、現在の暦では8月23日頃からの15,6日間だが、年によって必ずしもそうならない。しかしこの時期は厳しい残暑が続くかと思うと、突然秋の気配が朝夕に訪れることがある。小さかった頃、去りゆく夏の終わりが何かしらもの悲しい記憶として残っているのは、母の里で一緒に過ごした多くのいとこ達との別れが近いてきたことによるものだ。母の里は長野の和村(現東部町)の山間にあり、父親は味噌醤油の醸造をしていた。裏には児玉山があり、オオムラサキやひょうもん蝶が乱舞する夢のような空間だった。夏休みになると東京や長野から多くのいとこが集まり、昆虫採集や花火大会に興じた。夏休みが終わりに近づくとひと夏の宴も終わるのだ。そんな記憶がいまだに消えることはない。

 さて、前号で変わりゆく銀座のことを記したが、もう少し銀座にまつわる記憶を辿ってみる。そのひとつは、バブル景気に沸く銀座の夜の喧噪だ。昼間と夜では銀座の姿は一変する。昼間の銀座は銀座通連合会が商店の連合組織とした統括しているが、夜の銀座は銀座社交業組合が仕切っている。宵闇が迫ってくると、裏通りには出勤する着飾ったホステスさんが闊歩しだし、黒い蝶タイのお兄さんがウロウロしだす。そんなきらびやかな情景を見ながら、ぼくたち会社員は店屋物の残業食をとる日々だ。

 1986年から約5年間続いたバブル景気の真っただ中の銀座で仕事をしていたが、好きでもないのに、業務上いくつかの高級クラブにも出入りすることも仕事のひとつだった。「エスポワール」「ラモール」「ニュー花」「ラドンナ」「羊屋」など銀座でも一流と言われていたクラブだ。これらのクラブをお相手によって使い分けるのだが、座るだけでひとり何万という請求も自分で払うわけでもなく別に高いとも思わなかった。銀座は社用族の天下だったのだ。世の中全体が、銀座全体が、そして個人もバブル景気に沸いていたのだ。夜の電通通りには客待ちタクシーが二重三重の車列を作っていた。バブルの崩壊とともに、すべての店はうたかたの如く消え去った。

 銀座の高級クラブの連想で思い出すのは、お酒好きだった高円宮殿下のことである。亡くなったのが2002年11月だからもう14年になる。
 宮さまとの出会いは確か1980年頃である。宮さまと学習院の同級で剣道部でも一緒だったぼくの部下が引き合わせてしてくれたのがキッカケである。皇族ということではじめはえらく緊張したが、何度か食事をしたりクラブに行くたびに、その知的でハンサムな春風駘蕩たるお人柄にすっかりファンになってしまった。
 
 お酒にはめっぽう強く、酔う姿を見たことがない。時として深夜に及んでも、泰然たるスタイルは変わらない。バブルに沸く銀座のクラブで、若いホステスさんが宮さまに向かって「あなたお名前なんて言うの?」と聞いてきた。ヒヤヒヤしながらみていると、宮さまは平然と「うん、みんなは宮ちゃんと呼んでるよ・・」と答える。慌ててママが飛んできてもすまし顔である。機智とユーモアのセンスに溢れた人であった。そんなことが契機となって、資生堂の文化催事にもずいぶん来ていただいた。1983年の武道館での「映像の交響楽・ナポレオン」公演、1987年ミュージカル「レ・ミゼラブル」などには久子妃ともども来ていただいた。

 1998年10月、六本木のオリベホールで開催した「美と知のミーム・資生堂展」には4宮家の妃殿下をすべて案内してくれた。4宮家そろい踏みということで、当時メディアで話題になったこともある。2001年3月には、銀座のパーラービルの改築新装オープンのテープカットにも来ていただいた。お礼の代わりに深夜までクラブでお付き合いした。ご一緒したクラブも無くなったが、47才という若さで急逝されたあのにこやかで気品のある笑顔をいまでもはっきりと思いだす。

ヒラリーサンダースに期待したい     大野 力   

 ヒラリークリントンが民主党の大統領候補に決ったようだ。正式には7月の党大会で決定される。それにしてもサンダースの奮闘は目を見張る。私は彼の主張に、共感し期待もしているが、自らをソーシャリストと公言する彼が、ソーシャリズムという言葉さえ嫌悪すると云われていたアメリカで、これほどまでの支持を集めるとは思ってもいなかった。彼を熱狂的に支持し、選挙運動する学生を中心とした1990年以降に生まれた若い世代には、今やその言葉は実感のない死語になっているのだるうと誰かがテレビでいっていた。それもそうだろうが、彼らの置かれている環境の厳しさと将来不安への大きさが、熱狂的ともいえるサポート活動を生んだのであろう。
 サンダースが訴えたのは、公立大学の無料化、国民皆保険の実現、アメリカの資本主義の本丸巨大銀行の分割などである。これらの主張は富の大きな格差からくるもので、これを作ったのは金融界の牙城ウォールストリートであり、政治の中心ワシントンである、これらが1パーセントの金持ちのために馴れ合って、自分たちの利権のための仕組みを創り、既得権益としている。彼らエスタブリッシュメントが主導しているのが今の政治だから、この政治を変えなければならない。金持ちの所得と財産にもっと税を掛けなければだめだ、全ての元凶は格差であり、それは無くさねばならない、これは政治の問題だ、政治の革命だ、とテレビで訴えている老政治家の懸命さを見た。ちょっと現実離れをしているとは思ったけれど、その通りだとも思われた。この老政治家のひた向きさと若者の真剣さが、全世代の共感を得て大きな塊と成っていることは、格差の深刻さをはじめ、病んだアメリカの表れだと思われる。
 米労働総同盟と産業別会議の直近の発表によると、米国の500の大企業のCEOの年収は労働組合員のそれに比して、1980年が42倍であったが、2015年には242倍になっていると新聞が報じていた。 
 フランスの経済学者ピケティは「21世紀の資本」で、米国の1980年の後半迄の所得税の最高税率は約90パーセントであったが、レーガン政権後は30~40パーセントとなった、一般の労働者と企業役員の収入格差は、レーガン政権以前は今ほど大きくはなかったが、レーガン政権以後に格差が拡大してくる。それは企業役員が従業員労働者を慮ったのではなく、報酬を多くとればとるほど税金に取られてしまうので,さほど高報酬に熱心でなかっただけのことだ、と書いている。米国も欧州も、国が遭遇した第一次第二次大戦がもたらした国家財政の危機に対処するため、課税の高率化を必要とした、さすがに富裕層も国の危機を理解した、これは政治の問題であった、と政治の重要性を主張している。
 また彼は、資本主義は、資本の利益の最大化を目的としている、のであるから、自由に任して置けば格差はどんどん広がっていく、それをコントロール出来るのは政治しかない、今こそ政治の出番だ、資本主義は守らなければならない、個人の自由と幸福の追求を保証するのが資本主義で、今のところそれに勝る仕組みは思いつかないからだ、世界は共産主義の失敗を目の当たりにしている、資本主義は富の偏った集中を促進する、自由は欲望を刺激する、金融の自由化は国境を越えて、金持ちの税金逃れのためのタックスヘイブンを創る、それらからの手数料や管理運用益を財政の基にしている国も在る、タックスヘイブンに集まっている額は、世界のGDPの総額をこえていると思われる、困難だろうが各国は協力して対処しなければならない、今こそ政治のリーダーシップが期待されている、とピケティは資本主義の危機を警告している。人は欲深いものである、特にエスタブリシュメントのモラールの重要性を重ねて主張している。
 オバマ大統領はヒラリーこそ大統領に相応しいと明言し,サンダースが若者の熱烈な政治参加を呼び起こしたと絶賛した。二人とも愛国心が高く、政策の多くも共通している、協力してトランプに対処し、勝利しなければならない、これから自分も積極的に選挙戦に参加する、楽しみだ、とテレビの前で語っている。サンダースはトランプがワシントンに近ずけないよう全力をあげる、そのためにヒラリーと話し合うと語っていた。これはアンチヒラリーの若者たちへの好影響が期待される。
 史上最も好感を持たれない者同士の大統領選といわれている。ヒラリーの悪評の理由は、彼女はワシントンとウォール街の住人で、既得権者でエスタブリッシュメントだ、と言われていることだ。米国ではサンダースの主張は本人が云うように革命に近い。彼女が彼を理解し賛同すれば、名誉心とプライドの高い彼女のこと、蛇の道は蛇の譬えがある、問題解決にその悪評は逆に力となろう。今日の資本主義は金儲け金融資本主義の頂点に上り詰めた。サンダースの革命的主張が、若者の知性と情念に強く支持されるのも不思議ではない。マルクスは、共産革命は資本主義の成熟後の巨大な格差から喚起される、ロシヤはこの順序を踏まなかっただけだ、とニヤついて居るかも知れない。今、マルクス関連本がよく売れていると云う。我が国の多くが共産主義というよりも、資本主義の本質を知ろうとしているのだろうと思われる。近年我が国を賑わしてきた経済学者の多くは、アメリカ金融資本主義の信者か伝道師のようだが、水野和夫、中野剛志、佐伯啓思ら多くの学者知識人が、現下の金融資本主義の問題点を挙げ、提言をしてきている。
 ヒラリーとサンダースの政権に期待している。米国の動向は我が国に大き影響を与える。我々も貧富の格差問題、加えて1000兆円を超える借金を抱えている。基地、防衛、TPPと懸案が多い。大統領選挙から目を離せない。

       【2016年6月18日定例作品】

右・左の優劣              田村 公雄   

 日頃、夫婦で写真に納まる時「妻はどちら側がマナーに合っているのか」とかハグをするとき「右左どちらの頬が先だったけ」と戸惑うことありませんか?東京オリンピックに向けて国際マナーにも関連しますので、気が付いたことを列記してみます。
 茶道に於いては、流派により若干違いはありますが、右が左より上位と見なされています。茶道具の運び出しの時、上位の物から運び出します。茶室に入るときは右足から。右手と左手で別々のものを持って運び出すときは、右手に上位のものを持たせる。例えば棗(抹茶を入れる容器)と茶碗を運び出すときは棗を右手、茶碗を左手にもちます。柄杓と建水(使った湯などを捨てる器)を運び出すときは、右手に柄杓、左手に建水を持ちます。一番最初に持ち出すものは「水指」ですが、両手で持ち、手を放すとき右手は少し遅れて放します。ふくさは棗や茶杓を清めるのに使う大切なものなので右腰に着けます。
 天皇皇后両陛下が並んで、慰霊碑に献花したり、海に向かって英霊に黙祷される時天皇は右、皇后は左、は常に守られている。広島平和公園での慰霊式ではオバマ大統領が右、安倍首相が左。しかし先般何かの慰霊式で、安倍総理と昭恵夫人が献花した時、夫人が右、総理が左であった。しかも夫人が一歩先に歩いたのである。美智子皇后とは大分違う。無知から来るものか、女上位をアピールしようとしているのか。いずれにしても、しとやかさが無いし謙譲の心が無さすぎる。これでは国際的なファーストレディには程遠い。
 東洋の文化は陰陽道(おんみょうどう)や風水の考えが影響して、左が陽、右が陰となり、左優位の考え方であるようだ。それに反し西洋の文化はキリスト教の影響で右優位がはっきりしている。聖書には「キリストは復活して天に上げられ、神の右側に着座された」とか「羊は右に、ヤギは左に仕分けして、右は救いの道、左は滅びの道」と説明されている。
 日本は皇室も政府も右優位を採用しており、サミットでの記念撮影の位置決め、晩餐会の席順等も右優位ルールで決められている。オリンピックの表彰台は金メダリストの右が銀、左が銅メダリストの位置である。感謝状や表彰状を受けるときは先ず右手、次に左手を添えて受け取ります。ひな壇の男雛は右、女雛は左だが、京雛は中国からの左上右下(さじょう・うげ)の影響で関東雛の逆の位置取りである。どちらが優位かはっきりしないのが招き猫である。右手を挙げている猫は金運を招き、左手を挙げている猫は人を招くと言われている。最近、両手を挙げている招き猫が発売されたが、すぐ商売がお手上げになるので不評だそうである。ハグは右頬から。ベッドでは男右が万国共通。
(ここで述べた右・左は全て当事者側から見た右左です) 以上

あの世との交信             照山 忠利

 叔母逝きぬ梅香大姉の衣着て
 今年の春に敬愛する叔母が亡くなったときに、記念に手帳に書き留めた下手な句である。この叔母は私の父の一番下の妹で、嫁ぐ前の家事手伝いの身であったころに、兄の長男として私が生まれた。母親同然に私を可愛がって育ててくれた人だ。
 その叔母に別れを告げた日の清めの席で、喪主の従弟から私に献杯の音頭取りの指名がなされた。「なんでオレが?」と聞くと「一番の年嵩だから」だという。ああそうか、そういえば従兄弟たちの中では自分が一番の年長で、叔父叔母たちはほとんど他界しているから、こういう席ではこういう役回りになるのだと改めて思い知った。だが、ついこの間まで親戚の法事の場面には自分より年上の人たちがたくさんいて、賑やかに故人を偲び酒を注ぎあっていたのだ。それは紛れもない事実なのだが、その人たちがあっという間にいなくなり、自分がこういう席で献杯要員に指名されるようになったことも、また厳然たる事実として受け止めねばならない。まさに世代交代なのだろうが、時の移ろいの速さには驚くばかりである。
 ところで、人は死んだらどうなるのだろうか。肉体は滅びても魂は永遠であるとか、生前の善行と悪行により天国と地獄に振り分けられるとか、あるいは人間とは限らぬが何かの生物に生まれ変わる(輪廻転生)とか、いろいろな説がある。また、死にそうになって生き返った人の口からは「光のトンネル」、「美しい花畑」、「橋の向こうで手招きする人」などを見たといういわば臨死体験が語られる。でもそれはあの世へ行く手前の話であり、あの世から帰ってきた人はいないのだから、来世(というものがあるとして)のことはわからないということだろう。
 ダンテは「神曲」で、現存の人間である自分が、かつて人間であった案内人に導かれてあの世の地獄、煉獄、天国をめぐる情景をくわしく描いた。芥川龍之介は「蜘蛛の糸」で地獄から天国へ這い上がろうとした罪人を描いた。いずれも想像上の物語ではあるが、宗教の勧善懲悪的側面をもちながら死後の世界を語っている。
 青森県下北半島の恐山には死者の霊を招くことができるイタコがいることで有名だ。例大祭には多くの参拝客が所縁の故人に会おうと押しかける。作法は簡単で生前の名前、生年月日、自分との関係、亡くなった場所と原因などを告げるだけで、その死者の霊がイタコに宿り、故人の口調で現在の様子や心境が語られる。誠に不思議といわざるを得ないが、一種の霊的感性を磨く修行をした者のシャーマニズム的特技といえるのではないか。
 結局死後の世界は、神と同じように信じるか信じないかに帰着するのではないか。美術史家の宮下規久朗氏は、3年前がんで一人娘を失うという悲嘆の経験をし、死後の世界の存在を信じなければ生きていけなくなったと述べている。
 故人となった叔母とは生前、しょっちゅう電話で話をしていた。耳が遠くなってほかの人との通話はできなくなっても「あんたの声はよく聞こえるよ」と亡くなる3日前にも話したばかりだった。今でもその声は耳朶に残っている。もしかしたらあの世の叔母につながるかもしれないと妄想しながら、いまだに叔母の携帯番号は消さないでいる。もちろん「この電話番号は現在使われておりません」との自動音声が流れるのみだが、いつかきっと「つながった!」と思ったときはこちらがイカレたときだろう。
                                    (了)

名古屋旅行と桶狭間と飛脚便       岡本 龍蔵  

 練馬稲門会「織田信長ゆかりの地を訪ねて」の総勢30名は、この5月22日新幹線名古屋駅に現地集合し手配の観光バスに乗った。名古屋城、岐阜城、墨俣一夜城、清州城から桶狭間古戦場、熱田神宮までを2日間で巡る。お城研究家で当会会員が行く先々をガイドしてくれた。その夜の宿は鵜飼舟が通う長良川沿いの「ホテルパーク」で、最後に訪ねた山頂の岐阜城天守閣を望見できた。
 私は城より2日目の桶狭間がよかった。桶狭間合戦の狭間に立つと、そこだけが辺りの喧騒から隔離され静まっていた。四方を小高い丘に取り囲まれた狭間に史跡公園があり、「史跡桶狭間古戦場」の碑が立っていた。園内には織田信長軍に討たれた今川義元や将兵の碑が散在していた。
 今では一帯が閑静な住宅街になり、小高い丘の上まで家が押し寄せていた。周辺は堅固コンクリート建築やアスファルトで覆われ、史跡地だけが戦国時代のままの土を露出していた。被覆されない土の場所が音の吹き抜け口になり、地底からの合戦の騒ぎが通り抜ける集音器になっていた。雑兵たちの叫び声は年月に濾過され澄んで聞こえた。日曜日の子供たちの声が丘に反射して戻った。両方の声は時代の違いからか合成されず、時間差ついていた。
 しばらく去りがたくバスへは一番後に戻った。バスは最後の訪問地熱田神宮へ向かった。メモによると熱田神宮まで高速道路で小一時間かかった。
 私は地理や歴史に疎い。熱田神宮を信長が発ったのは5月19日で、桶狭間には何日に着き、そこで義元を討ちとったのか知りたかった。熱田神宮は名古屋の遥か西方と思い違い、よもや桶狭間と同じ名古屋市内にあるとは知らなかった。私の熱田神宮-桶狭間の距離感は大狂いで、その日のうちに討たれた!
 調べて見ると地図上熱田神宮-桶狭間の直線距離は10kmしかなく、観光バスが小一時間かかったのはメモ違いだったようだ。しかも、信長は騎乗だから二重の誤りだった。途中、善照寺砦へ寄り道しても馬なら1時間もからない。
 歴史によると、この日、永禄3年5月19日、信長は明け方4時に5騎を引き連れ清州城(愛知県清須市)を発ち熱田神宮(名古屋市熱田区)へは9時に着いた。ここで戦勝祈願し、馬上6騎と雑兵2百を整えて10時に善照寺砦(同市緑区)へ進軍した。ここで2千の兵を得て桶狭間(同市緑区、3.4km先)へ向かう。13時、視界を妨げる豪雨があり砦に雹が降った。豪雨が止んだ14時、桶狭間山の今川義元本陣を攻める。義元が討たれたのは史跡公園の東側の丘とされる。
 永禄3年5月19日は旧暦ではあるが、奇しくも訪れた5月23日の4日前だった。この旧暦19日は西暦で1560年6月12日に当たる。梅雨入りの頃で、この日の豪雨はうなずける。 
 ここで距離と所要時間のことだ。昔の人はどれくらいの速さで歩いたのだろうか。
 作家の吉村昭が対談で語っている。「歴史小説で困るのは距離感です。当時の人間は足が速いから飛脚は江戸から京都まで2日間で行っちゃうのですから。間宮林蔵という人は1日30里歩いたといいますからね」「松の幹に寄りかかって握り飯を食べてそれでまた歩いてゆく」(文芸春秋2013年8月号)
 東海道は日本橋-京都間127里14町1間で500.3kmになる。飛脚は宿場ごと交代した場合、江戸京都間を最短30時間で走った記録があるそうだ。当時の宿場間は平均10kmだから1人当たり時速16.7kmで走ったことになる。宿場ごとに飛脚が交代すると、江戸から京都まで1日余りの30時間で走ったことになり、吉村昭の話がうなずける。
 今年の箱根駅伝は青学が優勝した。箱根往復を10人で217.1kmを10時間53分25秒で走破した。時速20.0kmになる。現代は路面や装具もよくなり、飛脚の記録16.7kmを更新している。
 本能寺の変の秀吉「中国大返し」は、備中高松城から山崎の戦いの山崎まで200kmを10日で踏破したとされる。恒例「本庄・早稲田100kmハイク」は約24時間で完歩し、時速は4.1kmになる。
 さて、私の450年前を偲ぶ桶狭間の旅を終えた。高速新幹線の名古屋土産は、相も変らぬ「青柳ういろう」と「赤福」だった。

罪と咎                 小林 康昭

 現役時代の横綱大鵬が、アメリカ観光旅行の帰途、所持していたピストルを、羽田空港の通関で見つかって、テレビや新聞に報じられたことがある。アメリカで違法でないことが、日本では違法になる。
 朴大統領時代の韓国に入国した際に、携行していた日本の書籍や新聞を、ソウル空港ですべて没収されたことがある。日本では違法でないことが、当時の韓国では、違法になったわけだ。
 日本の合法が外国では違法、外国の合法が日本では違法、がもたらす誤解や無知が、悲喜こもごもの騒動を生むのである。
*  *  *
 還暦を迎えた頃の大工のMさんは、その時、建設会社に雇われて、インドネシアの建設工事で、現地人に大工仕事を指導していた。一本気だが愛嬌があり、しかも腕の立つ男だったから、職場の日本人はMさんを敬愛して“棟梁”と呼んだ。時に“大棟梁”と尊敬の度が過ぎて、怒鳴られたこともある。
 Mさんは、父親の大工職を継ぎ、棟梁の道を歩む筈だった。だが、金使いが粗い上に、酒好き。Mさんに言わせると「その道の女たちが放っておかない」というわけで、次第に身を持ち崩して、父親から引き継いだ“組”を人手に渡してしまった。それからは、一人、大工の渡世人稼業を続けてきた。「籍に入れた女は五人を超え、同棲を含んだら十人を下らない、そのなかには、よりを三度戻した女が一人、二度戻した女が二人」とは、酒が入った時のMさんの自慢話だった。
 現地人たちが、仕事中に大麻を吸う。その臭いが作業場に充満する。Mさんはその臭いを嫌った。叱りつけたが、誰も大麻をやめない。インドネシアは、大麻は違法ではない。流石の“大”棟梁のMさんといえど、阻止する権限はない。その臭いに、Mさんは次第に慣れてきた。慣れてくると、つい“俺も・・・”と好奇心がわく。ちょっと吸ってみる。悪くはない。そのうちに、病みつきになった。心なし、色つやが良くなった。白髪が減って、黒髪が増えたみたいだ。大麻は湿気を嫌う。だから、Mさんは、大麻の葉を、茶の葉を入れる缶に保存した。そして、大麻を使う時は、その缶から大麻の葉を後生大事に取りだした。
 一年一度の、帰国休暇がやってきた。留守宅には、30歳下の奥さんがMさんの休暇を待っている。馴染みの店で知り合った、という「良い女なんだ」そうだが「お前たちに見せるとけがれる」と写真を見せない。意気揚々とMさんは、ジャカルタの空港から日航機で羽田に向かった。
*  *  *
 数日して、東京から噂が聞こえてきた。Mさんが警察に捕まった、というのだ。1ヶ月して、Mさんが戻ってきた。顛末を知りたくて、みんながMさんを取り囲んだ。「大変だったね」と口では言うけれど、腹の底では誰もMさんに同情していない。他人の不幸は最上のご馳走なんだ。
 Mさんは、羽田空港の通関で、所持品の検査を受けた。スーツ・ケースのなかの衣類に交じって、くだんのお茶の缶が出てきた。検査官が缶の蓋を開けて中をのぞいた。「じいさん、これ、お茶の葉かい?」と検査官は何気ない口調で訊いた。Mさんは、とっさに「アンタ、この仕事をしていて、こんなこともしらねぇのかい、これは大麻っていうんだ!」
 検査官のでっかい目玉が、やけに近くに寄ってきたな、と感じた途端、身体が急に浮き上がった(ような気がした)。両脇を抱えているのは空港警察署の警官。Mさんは、そのまま、別室に連れ込まれた。
 到着ロビーで待っていたMさんの奥さんは、Mさんが出てこないので、業を煮やして、建設会社の本社に電話を入れた。本社は空港事務所に問い合わせて、事情が分かった。本社と警察の間で交渉の結果、Mさんは一晩だけ、署内に留め置かれることになった。
 翌朝、Mさんが食事の場に赴くと、悪いことをして留め置かれた男たちが飯を食っていた。“これが臭い飯ってやつか”とMさんは不承不承、箸を取ったが「これが結構、美味かった」のだそうだ。
 男たちは、既にMさんの事情を知っていて、興味を示した。「じいさん、その歳で外国へ行って稼ぐとは大したもんだ。インドネシアって、どんなとこだい?」
 Mさんは心持ち胸をそらして「貧乏な国だからヨ、隙を見つけて悪いことする奴ばかりだ!」
 言い放った途端、飯を食っていた“悪いことする奴たち”が一斉に、ギョロリとMさんをにらんだ。「流石にその時は、ちょっとばかりあわてたネ」
 Mさんは、建設会社の手配で、自分が放免されたことが分かった。Mさんの本心は、世話にはならず、独力で始末したかった。「組の世話になっちゃ、俺もオシマイだネ」とぼやいた。“組”とは建設会社のことである。

八十道への断崖             谷川 亘

 お役所の勝手で一緒くたに“後期高齢者”の括りに押し込まれたのは3年前。
その頃はまだまだ元気溌剌・・・。とは言いながら、山登りから里歩きに“高度”を落し始めた時期でもありましたから、心身ともにほころびが出始めた頃だったのでしょう。
 今でこそ「ああそうだったっけ?」と、うすら覚えでしかないのですが、長老に、「人生80の大台を目前にして、得てして思いがけないような病魔に翻弄され、しかるべくそれぞれを克服した暁に喜寿を迎えることができるのだと。それから先数年は“柳に風折れなし”。春陽満々、安寧な日々が長く続き、何れは対岸に向かって(櫓を)こぎ出すのだ」と。

 立ち塞がる八十路の絶壁。乗り越えるためには避けて通れない大岩壁。坂なんて容易いものではありません。同級生の訃報に接したり、痛々しい年賀状を読むにつけ、まさしくこの80大台前に事切れた友、新たな病魔に侵されては右往左往している仲間がいるんだと実感するに及んで、老後の“人生の悲哀”を感じずにはいられません。

 私には父譲りの腰痛が持病としてありまして、40代過ぎてから10年に一度の頻度。それは“ドすげえ~”やつで薬石功なく、針灸マッサージ他何の手立ても効かず、患者の方から医者を見限って、歯ぎしりして激痛かみ殺し、ニタッと作り笑いしては堪えにこらえて我慢、がまんの3週間。所が回を重ねて行く度にそれがだんだん長期化。
 途中からは弘法大師様ならぬ“ぎっくり腰大権現”との“同行二人”となり、この年に至っては坐骨神経痛と言う年寄り臭い病状まで加わって“腰痛三重苦”。
 “痛い・疼く・痺れる”。梅雨空のもと、もひとつ“老人性鬱”が加わってしまったかな?
 惰性で通う整形外科。腰痛の見立てなのに暇をかこつ先生。何勘違いしたのか「君はどの位飲酒するの?」と雑談交じりに問われ、ふて腐れて「一日熱燗三合位かな?」と答えたら、即座に骨粗しょう症の検査と仰る。なんと「アルコール性骨粗しょう症」を疑われたのですが、骨密度は同年齢比較で139%、若年成人比較でさえ116%。
 まさか“骨太”の私が腰痛持ちだなんて。と、診察そっちのけで先生と笑いこけたのは当然です。「これで痛ってぇ訳ね~んだよなあ~・・・」。これは名(迷)医の独り言です。
 この話にはオチがあります。亡父は、昭和初期に己が親戚筋と信奉した谷川岳登攀記録を持つ“骨太”山男でしたが、何故か腰痛持ち。親譲りの、この遺伝的欠陥と言うか、並存する矛盾を引き継いだ倅はどう評価されるべきなのでしょうか?
 80路にたどり着けたらその先は春陽あふれる新天地。
 日本人男性の健康寿命71歳を全う出来たこの私。日本人の平均寿命は80歳とあります。
 まあ、二年後には傘寿を祝って平均寿命貫徹。そのあとはお余り人生なんですかね~。

古代史探訪 吉野・奈良 2        田原 亞彦   

日本の国名の使用は7世紀らしい。日本人の成り立ちも諸説が多い。記紀の記録は、藤原氏を中心に年代の加上や意図的改ざんや編纂の為、史実的に疑問点が多く古代の真実が見えにくい。文献実証や考古学的物証に基ずく合理的な仮説が多く出てくる。奈良時代に平城京が今の奈良市の西方に設けられる以前の時代は飛鳥時代であるが、天皇のおわす宮は、長く飛鳥地方にあった。今の天理から、「山の辺の道」が続く桜井・三輪・まき向から少し西南の地域である。そこには香具山・畝傍山・耳成山の大和三山がある。
大和朝廷は4世紀中ごろの成立とみられるが、初代が誰かは諸説がある。記紀は神武が日向がら東征してなったとするが、日本史年表などでは応神から記載するのもある。初代は崇神で加羅の首露王の説もある。中国は別にして、半島と倭国の国家体制の成立の時期には大きな差はない。それまでは人々は近接の地域で混然として、生きる為の活動に専念していた。農耕社会になり、人口が増え富がまして階級と支配が発生して、氏族・民族・国家意識が生まれる以前である。中国の史書にも倭人は広く中国の南沿岸や半島の西と南、北九州にあるとしているし、辰は倭人の国とも言う。今でも米の無い対馬をはさんで韓と九州は往来が多く、生活文化の一体的様相がうかがえる。
 余談だが、古代人の移動は予想以上に広範囲で頻繁だったようだ。1万2千年前は極寒冷・海退で列島は大陸と地続きで多くの生き物が来ていた。縄文の頃は寒冷を避け食料を求めて人と動物は移動した。弥生になり農耕社会になると、戦争からの難民の移動が多くなる。前2千年の殷、前8百年の周、前2百年の秦の滅亡などであり、数千人の除福の渡来伝説がそうである。 半島は有史来延べ千回以上侵略・侵入された歴史があるらしい。7世紀の百済、高句麗の滅亡など、日本にその難民などの影響が無い訳がなかろう。又倭国も多くの知識、技能を必要としたに違いない。古墳、支石墓、津、堤、ため池などの土木技術はじめ、医、仏教・政治機構などのソフト、銑鉄入手と鉄の精練法などがある。記紀にも半島との人の往来の記録が目立つている。現代韓国の高校の教科書にも盛んに日本に先進文化を伝えたことを強調している。地政学的にシルクロードや中国に近いのである。
 思うに正倉院の御物全ての文物の年代と入手由来を調べる、9百に上る宮内庁管理の陵墓の調査を開放する、皇室にあると思われるマル秘の古代文書資料の公開がされれば古代史は一変しそうである。
 埴原和郎氏は渡来について、縄文末頃の人口を7~16万程度で前3世紀から千年後の古墳時代末は540万人として、自然人口増加率を高めにみても、渡来人は最低100~150万人は来たとしている。日本人社会は二重構造で、縄文人に、弥生人・渡来人が加わり混血しながら九州から列島を東進し、長い時間をかけて同化し一体化して日本的な文化を形成したとしている。日本的なものの成立は室町期ではないかと思われる。 
      

旅ごころ                横山 明美   2016年4月10日

 春4月、旅に出たいという抑えがたい気持ちが、身の内にわきあがってくる。新年を迎え、寒さの2月をやり過ごし、梅の満開にホッと気が緩んでやがて3月桃の節句。薹がたってきた娘夫婦と男の孫はほとんど興味を示さず、この歳になって私自身も雛飾りはおっくうになり通過。そして迎えた4月こそ、大げさに言えば自分なりに、生きなおそう、人生リセットしようという気にもなるのだ。
 人見知りで依頼心が強く、いつまでも親きょうだいに迷惑をかけてきた私だったが、30も近いころ、娘が思いもかけぬ小児がんの宣告で、私もオトナにならざるを得なかった。それからの10年、病棟で一緒だった娘の‘戦友’はほとんどが亡くなっていくという当時の医学事情のなかで、生き抜いた娘が大学生になった時、私はなぜかわからないが、無性に一人、旅に出たくなったのである。看病のつれづれに本は何よりの友だったが、平家物語の西海の道をたどってみたい、とか、白洲正子のエ ッセーに書かれたそこここを訪ねてみたい、との思いがふくらんでいった。
 連れ合いの身内は神戸周辺におり、東海道新幹線は乗り慣れてもいたので、まずは琵琶湖の周辺を歩くことがしばしばになった。名古屋を過ぎるとやがて木曽川、長良川、揖斐川の三川をつぎつぎ渡る。帰省でしばしば通りながら、三つの流れに気づいたのはそのころからであった。おおらかでゆったりとした流れに、言いようのない感動をおぼえ、以後、席は必ず左側の窓際をとることにしている。瞬く間に過ぎてしまうのに、川は人生を乗せて運んでくれる厳しくも優しい先達だと思えてくるのだ。水はそもそも人間に常に付き添い命を育んできてくれた、娘も生きている、そんな思いも無意識にあるのかもしれない。だとすると、琵琶湖周辺を歩き回るのも自然のことに思われてくる。
 春の菜の花の頃、歩き疲れて坂本というところで小さな喫茶店に入ると、店の人が「京都よりこっちのほうがよほど歴史の密度が高い。京都ばかりがもてはやされて」と不満気である。まだ勉強が足りない私は、あいまいに笑うばかり。坂本には古い鮒ずしの店があって、これを買って帰ろうと下車したのである。小さな店で客の姿もなかったが、店の人の様子も佇まいもうるわしく、おつりがすべて新札だったことに感じ入ったものだ。高槻の渡岸寺の十一面観音の美しさは古今に言い尽くされているが、初めて訪れたときは触れることができるほどに、古いお堂に静かに立っており、村の当番のお年寄りが人恋しそうに駆け寄ってきて、愛おしそうに慕わしげに説明をしてくれた。中世の度重なる戦火から守るため村人が土に埋めて守り通した、という歴史が、その美しさと守り人を今日あらしめているように思われた。その後足を向けるごとに観音像は立派なお堂に納められ、警護もきっちりとして、マイクも使われ、当番の人の説明にも、女優の誰それが来て日がな一日眺めて行った、などと誇らしげなひとことが入るようになった。湖の北端の小さな集落にも悲劇の親王の落人伝説があったりするが、総じて京都のように観光客で込み合っていないところが好ましいのである。そこから北陸へ抜けることもある。言葉も食も人も景色も、奥へ分け入るとまだまだ人や本からの受け売りでないものが感じられ、歴史ある小さな国に生まれたささやかなな幸せを感じることになる。そういえば、途中病院や図書館、役所など見つけたらためらわずお手洗いにとびこんだりするのも、そこにはその土地の人が在り、なかなかにおもしろいものだ。同じ水辺でも、西海の平家の滅びの跡をたどる旅はまだ果たしていない。歳をとっていくこととこの旅とは、どうも相入れないところがあるのだろうか。これからは、明るく認知症初期に突入した姉も誘って、温泉めぐりでもすることになるような気がする。

田中角栄は歴史的存在で愛国者と石原慎太郎は云った 大野 力   

 石原慎太郎氏の「天才」が好評でよく売れているという。田中角栄の生涯を彼自身に語らせる手法をとっている。私のあまり好感を持てない石原氏が、彼が天敵と思っているだろう田中角栄さんに、何をどう語らせているのか、どうして今書く気になったのか、に興味があって読んでみた。私の予想に反して、悪意は感じられず、高い評価と友情すら感じさせた。(以下それぞれに、敬称略)
 内容はほとんど知らていることだが、強調されているところは、政治的にも経済的にも束縛されている米国からの自立のために、奮闘したことだ。日米繊維交渉、民族資本による原油の確保、総理就任と同時の日中国交回復等である。それは日本の自存のための、米国からの縛りを解くのための懸命な努力であった。敵対者田中排除のためにロッキード事件を演出した米国と国内法を無視して同調した日本国中枢への憤慨。係争中に脳梗塞で倒れ、言語も覚束なく孤立していく田中が愛した二人の女性への思いを、かって観た恋愛映画「心の旅路」と「裏街」に載せて語らせている。二作品とも離れて生きざるをえない男女の、愛の復活の物語である。作家石原の情念が感じられる。
 石原はこの執筆の訳を「長い後書き」に述べている。「私はまぎれもなく田中角栄の金権主義を最初に批判し真っ向から弓を引いた人間だった。だから世間は今更こんなものを書いて世に出すことを政治的な背信と唱えるかもしれぬが、政治を離れた今でこそ、政治に関わった者としての責任でこれを記した。それはヘーゲルがいったように、人間にとってなによりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない。」と述べ、石原は、一時に存在した田中角栄と云う存在を、歴史の過程の存在として認め、自身を責任ある裁定者に置いたのであろう。その訳をこう挙げている。「私たちは今、現代という現実の歴史の中に身を置いている。・・いま私たちは他国に比べればかなり高度な繁栄と、それが醸し出す新規の文化文明を享受しているが、その要因の多くは国家の歴史の中でも未曾有のものに違いない。そしてその多くの要因を他ならぬ田中角栄という政治家が造成したことは間違いない。」と述べている。多くの国民の情操や感性に多大な影響を与えているテレビというメデイア、国土を緻密で機能的なものに仕立てた高速道路、新幹線、各県にまたがる空港、さらにエネルギー資源に乏しいこの国の自活のための原子力の推進を目指し、アメリカ傘下のメジャーからの依存脱却のための独自の資源外交の実行などは、田中角栄の計画立案されたものであると述べている。「そのために彼はアメリカという支配者の虎の尾を踏みつけて彼らの怒りを買い、虚構に満ちた裁判で失脚に追い込まれたが、その以前に重要閣僚としてアメリカとの種々交渉の中で示した姿勢が明かすものは、彼が紛れもない愛国者だったということだ。いずれにせよ、彼の先見性に満ちた発想の正確性を今日の在りようが歴史の現実として証している。」「特に通産大臣として彼が行った種々の日米交渉が証すものは、彼は良い意味でのナショナリスト、つまり愛国者だったということだ。彼は雪に埋もれる裏日本の復権を目指したように、故郷への愛着と同じようにこの国にも愛着していたということだ。」とも述べている。
 石原は愛国者田中角栄という人間が、一時の実在を超えて、歴史のプロセスである実存だと断じたこととなる。ヘーゲルは、一時の実在は同時代中の出来事であって、その一時の出来事が現実在(一時より進歩している)の基と断じ得るのであれば、それは進歩するのプロセスであり、歴史は進歩のプロセスである、と云っていると私なりに解釈している。「過去が歴史ではなく、現在を決定する歴史が歴史である」と加藤周一が云っていたと思う。
 親台派の中心である石原は、かって「君、国売りたもうことなかれ」と田中を揶揄し、売国奴と非難したしたが、今、愛国者と評価している。理由は米国に対する田中氏の行動であって、日中国交回復は含まない。中国をシナと呼ぶ石原氏の彼の右的イデオロギーへの固執性が解ると思う。激しくした金権批判が気になるのか、親しい知人から聞いた話として「ああ、あんな奴、あいつはもともと物書きだからな、仕事として書くのは当たり前だろうよ。第一、俺はあいつに金なんぞ一文もくれてやたことはないからな」と田中が云っていたと、複雑な弁明を記している。「丸山眞男と田中角栄」の著書の中で早野透(元朝日政治記者)は「あいつはいろいろものを知っているけどな。でも石原にできることは障子を破るくらいのことだといったと角栄から聞いた」と紹介している。
 石原の云う現日本文明が田中に起因するとあれば、それは「日本列島改造論」に在る。その「むすび」でこう云う。それは田中の哲学なのだろう。「自由で、社会的な偏見がなく、創意と努力さえあれば、だれでもひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で、尊敬できる友人として、どこの国ともイデオロギーの違いを乗り越え、兄弟ずきあいが末長くできるであろう。私は政治家として二十五年、均整がとれた住みよい日本の実現をめざして微力をつくしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本中の家庭に団らんの笑い声があふれ、年寄がやすらぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う」。道半ばに倒された田中さんの無念さがよく解る。問題山積の今、その無念は私の無念に転嫁してくる。
 「友情とは相手が生きているあいだに発揮するものであって、死んでからでは遅いんだということを、お互いに学びましょうや」という一文が、村上春樹が翻訳した「グレイトーギャツビー」にあることを、博識の文学者石原さんはご存知だとは思います。

お犬さま                照山 忠利

 その犬がわが家にやってきたのは9年前の秋のことだった。ある夜、娘が何の前ぶれもなく子犬を肩にのせて帰ってきた。黒に少しダークブラウンが入った色で腹部と顔が白のツートンカラーのチワワである。「お父さんが孫がほしいというので、孫はまだ無理だけど孫がわりを連れてきたよ」と娘が言った。「なんだよいきなり。孫はほしいけど犬はいらん。すぐ返してこい」と怒鳴ったので、子犬はおびえたように娘の肩にしがみついていた。犬とはこれまで二度にわたってつらい別れをしている。また同じような悲しさにあいたくないのと、家の中で犬を飼う経験がなかったので拒否してみたのだが、所詮無駄な抵抗だった。
 結局はその可愛さに負けて同居犬となることを許してしまい、ジルと名付けた。命名したのはもちろん娘である。以前死別した二匹の名がジミーとマルだったので、それぞれの一字ずつとってジルとしたのかと思ったがそうではなかったようだ。聞けば吉祥寺のペットショップの狭いケージの中で売れ残っていて、あと一週間も買い手がつかなければ処分される運命にあったのだという。すんでのところで娘に命を救われたというわけだ。
 それから半年後、娘がまた唐突に「もう一匹飼う」と言い出した。知り合いの家で子犬が三匹生まれたので、そのうちの一匹を貰い受けたいというのである。「犬は一匹でいるより二匹でいる方が情緒が安定するから」という言い分だ。何が情緒安定か、一匹だけでも大変なのに二匹になったら余計な手間がかかるからやめとけと反対したものの、今度もまた押し切られてしまった。新しく来たのもやはりメスのチワワで色は毛長のきつね色、体形もきつねのようにほっそりしていて、脚の骨は用心しないと折れてしまいそうなほどだ。名前はリタとつけられた。こうしてわが家はメス犬二匹が加わってあっという間にオスメス比率が1対2から1対4という実に嘆かわしい状態になり、以来今日に至っている。
 この犬二匹は情緒が安定したのかどうかはわからぬが、特に仲違いもせず、マイペースの優雅な生活をしている。でもこの二匹は性格から健康状態、食べ物の好み、行動様式までまるで真反対。ジルは臆病ながら食欲旺盛、肥満体に近く歩き方もドスドスといった感じ。散歩も嫌いで、年中家内のベッドにもぐりこんで目と鼻だけをのぞかせている。ブリーダーの手で生まれたせいか病気がちでしばしば獣医のおばさん先生の世話になっている。
 先日も乳腺がはれたり急性下痢に見舞われたり眼の周りに腫物ができたりして、治療を受けた。「あのねお父さん、この子は燃える女なんですよ。ホルモンのバランスが崩れてこういう症状が出るんです。使いたくないけどステロイドを少量使います。アルブミンの値が低下していますので」と先生がのたまう。なんのこっちゃい、それにオレはお父さんじゃねえぞとつぶやきながら、ハイハイわかりましたと看病する破目になった。
 一方のリタはヒョロヒョロやせていて食も細くムラではあるが、病気とは無縁。自然に生まれたせいだろうか、すばしっこくていつもチョロチョロ動き回っている。犬には珍しくブロッコリーなどの野菜やリンゴ、ナシなどが大好物。さんぽーと声に出したとたんに飛びついてくる行動派で、チビのくせに大きな相手にも臆せず吠えかかっていく攻撃的な性格をもっている。
 この二匹を月に一度、近所のペットサロンに連れていく。爪切り、耳掃除、ヒゲ切り、体毛揃えなどしてもらい〆て5,000円ほど。唯一のオスの小生の散髪は2,000円ですむのにお犬さまの身だしなみの方が高いという人畜逆転現象が起きている。でもこの二匹も今では人間でいえば50~60代の中年世代だ。いつ悲しい別れが来ないとも限らない。いざというとき悲惨なペットロス症候群にはなりたくないが、さりとて犬に見送られて先に旅立つことになるのもまっぴらごめんだ。人畜ともに健康維持に気をつけなければと決意を新たにしているこの頃である。
 (了)

心に残る思い出             古藤 黎子

 私が出版社に入社して「小学三年生」という学年誌の編集部に在籍していた当時「小学二年生」では、谷 ゆきこさん描くところの女の子漫画が大変な人気を博していた。漫画の人気が本誌や付録の企画となり、谷ゆきこという漫画家の存在は、学年誌の中では大変大きなものであった。
 谷漫画は「二年生」連載が「三年生」にも続き、「三年生」で一年間連載が続いて「三年生」の3月号で終了、というのがいつものパターンであった。「三年生」の担当は編集部唯一の女性の私であった。
 谷さんのお姉様がスト―リーを考え、絵を描くのが谷さんという役割分担ができていた。もともと、谷さんは関西のかたで、当時から女の子には人気があった高橋真琴さんの絵に影響を受けていたのかもしれない。
 しかし、その漫画も歳月と共に人気が次第に落ち、7~8年は続いた連載は終了してしまった。その後、風の噂では、谷さん姉妹は神戸にご在住とのことだった。
 谷ゆきこと言えば、人気がすごかったということを当時の編集者は知っていたし、私は一世風靡した財産を何とか残したいと考え、停年の数年前に谷漫画の企画をだしたいと思ったのである。ところが、会社の倉庫には漫画の画稿が残っていない。画稿がないと再生するのは大変難しいことになる。
 実は、「小学三年生」に在籍中、神戸の書店さんを取材する企画があり、この機会に谷さんにお声をかけてみようと思った。連絡をしたら、丁度取材の日にいらっしゃれるという。そして、小学生の男の子を連れてお店にいらっしゃった。その子は、連載中に生まれた赤ちゃんだった子なのだ。谷さんは、お元気そうで一安心した。その時は短時間だったがとても嬉しい再会であった。
 以前、漫画雑誌の担当者が画稿を借りたという話があって聞いてみたが、記憶が全くないという。しかし、乗りかかった船、本人なら画稿の所在はわかるのではないか。
 神戸在住というのはわかっていたので、まず手始めに神戸市役所に勤務しているスキー仲間の友人に電話をして事情を話してみた。彼はすぐ神戸のその住所に行き探してくれたが、そこにはその人は住んでいないという。実は探すのにあたって、役所の人間には許されていない住民票を見るという違法行為もしてくれたようだ。万事休す、と思ったが、次に思いついたのは、出版年間である。谷さんの卒業した学校が梅花女子大だということがわかり、電話をかけてみた。事情を話すと電話の相手の方は、谷さんという漫画家が梅花に在席していたことをご存知だった。
 そして「そういうことでしたら、同窓会のほうがわかるかもしれませんよ」とおっしゃって、すぐ同窓会に連絡をとってくださった。電話口で同窓会の方に事情をお話した途端「今、ご存知のかたがいらっしゃっています」という。「えっ?!」と私はこの思いがけない展開に思わずびっくりして声をのんでしまった。勢い込んで電話口で話す私に、電話の向こうでは「よく知ってますよ、近所ですし。」という。
 私は相手の方に、その数日後、宝塚観劇のために作家さんと宝塚に行く予定になっている、とお話した。その折りに、「谷さんのお姉様にお会いしたいのです」と。先方の方は「今姉妹でここへきているので、妹に都合を聞いてもらうためにお宅へ行ってもらいますから。」とおっしゃる。梅花女子大に電話をして30分もたたないうちに、谷さんのお姉様とお会いする約束が出来ていた。谷さんの原稿の所在を尋ねて数か月、谷さんのことをご存知のかたに巡り会えるなんて何たる幸運だろう。夢のような出来事だった。
 その数日後、待ち合わせの宝塚ホテルのロビーで、私は谷さんのお姉様と涙の再会をした。脚がお悪いということで、梅花の同窓会の電話口でお話したその方が、当日は、車でお姉様を乗せて宝塚ホテルまで連れてきてくださったのである。その時初めてお姉様は嘗て宝塚に在団されていたということも知った。
 残念ながら谷さんご自身は数年前に突然亡くなったそうで、夏のある日「ちょっと休む」とお姉様に告げて2階に上がり、お姉様が後で見に上に上がって、なくなっているのを発見したとのことだった。神戸でお会いした折に小学生だった男の子は、もう立派に成人しているという。その後、お姉様は脚の痛みから回復され、お元気になられ、息子さんは演劇関係の仕事をされていると伺った。谷さんの描いた可愛いらしい、きれいな女の子のイラストや漫画の画稿は永遠に失われてしまったが、谷さん姉妹との出会いと別れ、そして、偶然、奇跡のように巡り会った梅花の方たちの温かいお心遣いは、私の胸の中では、決して忘れることの出来ない思い出の一つである。

しかし、晩節を汚す事態だけは避けたい(高齢者免許証更新の是非)
谷川 亘   

 高齢者による交通事故が後を絶たないと最近耳にします。
 何をどう間違えたのか?高速道路を逆走して事故を起こす。常識では到底考えられない、とんでもない“暴挙愚行”を年寄りがいとも簡単にやってのける。複数の選択肢の中から一つを選ぶのに迷って間違えるではない。「入口or出口」なのかの二者択一。
 「一体どうなっちゃってんの?」。
 無様な呼称、“後期老齢者”の括りに入る私にとってさえ金輪際ありっこない。
 とは言え、既に、“逆走年令”に達しているのも事実。我に限ってはそんなこと皆無であると宣言できるか?と、問われれば五里霧中。流行言葉で“クラウド”真っ只中。
 顔洗って、たった今メガネをどこに置いたっけ?若い頃もしでかした些細な日常茶飯事。なのに、同じことでも、この年になるとプレッシャーがかかる。ひょっとしたらこの俺、MCI(軽度認知障害)に罹患してんのかなあ?なんて、余計な心配するから尚更です。

 せめてもの結論は、プロの運転手ではあるまいし、限定付き。近距離の運転だったら、“お任せあれ!!”と、いう結末に至ります。
 海抜26mの東京の西端から湾岸まで26㎞。新宿と銀座を経由して、行きは一時間弱、帰りは渋滞でその倍。これを何年通ったか?
 勿論ハンドル生活半世紀越して勿論無事故・無違反。だから更新の有資格者だと言いたいのですが、唯一こんな事例があったのは事実。読者諸兄姉のご判断を仰ぎたいのです。
 以下が、“立派な”交通違反だと仰るなら、前言取消し、更新する資格なしと相なります。

 福井県三国と言う所に本邦最大級のアルミ圧延工場があり、JR福井駅から京福電鉄経由で赴いていたのですが、同社は、度重なる事故が発生して社会的指弾を受けて経営主体が代り、2003年に今のえちぜん鉄道三国芦原線となったのですが、二社の引継ぎが完了するまでの期間は不通となって、致し方なくJR芦原温泉駅からレンタカーによって行かざるを得なくなりました。
 かねて出張の帰路、電車往来のありっこない踏切で、道路交通法第36条「一時停止違反」で御用となり、大雨の中パトカーの後部座席に押し込まれ、二人の若いおまわりさんに、「ダメなものはダメ」。問答無用の儀式から始まって、最後には、涙流さんばかりで「罰金も講習もないのだから、“付き合ってよ”」。との懇願に変わる。
 純粋無垢は良いとして、思考柔軟性の欠落を指摘し、田舎外れの高校で何教わってきたの?いくら任官してもお堅いだけじゃ能がないよ。と、なだめすかした事の果ては、忍耐負けして「(違反)切符切っちゃったんだから何とかしてよ。」の、懇願に負けてしまった。
 と言うこの事例は、果たして明白な“交通違反”なのでしょうか?
 不肖この私は、「○範金・交通部長表彰」まで受けているのですよ。あと10年、少なくとも3年は優良運転手に徹する自信があると言うのに・・・

 とは言え、何かの話し序に免許更新したなんて自慢げに話をするとまるで罪人扱い。
 今回の検査で不合格になれば、潔く“自主返納”を決めていましたし、実際に運転する車さえ持っていない上、都会住まい故に病院通いやスーパー行くにも歩いて数分。
 生活面での支障は皆無と言って良い。

 反面、自主返納の事態だけは避けたい、男の沽券に関わる。これは本音。
 老い先そう長くはない。“生き残りゲーム”の落伍者に自らを陥らせることは何としても避けたい。たかがカード一枚でも生き抜くがための人生の“通行証”なのでもあります。

 筆を進めるにつれ、多少の“弱気心”が交錯してまいりました。
 今回の更新に当たり、75歳以上になると講習予備検査(認知機能検査)を受ける必要があり、判定こそ、「記憶力・判断力には心配ありません」とのお墨付きを頂戴したものの、瞬発力や運転能力の衰えの指摘を受け、また、交差点における「一時停止」の認識ミスにより、長い運転人生を通じて“停まるべき位置”に停まっていなかった事が判明したり、「車庫入れ」の手法も変わっていることに気付くなど、よくも無事故貫徹出来たなあとため息ついたのも事実です。
 何よりも心臓射貫かれたのは教習所教官の一言。
 「免許取得に通ってくる若造の間では、『(教習所内で)年寄りの運転する車には接近するな!!!』。は、危険回避の合言葉なんだそうですよ」。
 名刺入れの端に鎮座するこの免許証。最後の有効期限まで“お蔵入り”の身分なのだ。

軌道に乗った再生医療          石岡 荘十

 iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥京都大学教授は、受賞後の会見で「(iPS細胞は)まだ、医学や薬の開発になんの役にも立っていない。患者の治療に役立って初めて評価される」と控え目だった。そのヒトを対象としたさまざまな臨床治療が始まっている。
 口火を切ったのは、眼の治療だ。ノーベル賞受賞の翌々年(2014年)9月、神戸理化学研究所の高橋政代医師がマウスやブタなどの動物ではなく、初めてヒトを対象にした本格的なiPS再生医療を行った。手術は、失明の恐れのある難病「加齢黄斑変性」の70代女性に、自身の皮膚からつくったiPS細胞を網膜の組織にして右目に移植するものだった。iPS細胞から作った細胞が世界で初めてヒトの患者に移植された今回の手術で、網膜の組織は移植した場所に定着して機能している。今のところ、拒絶反応や心配されたがん化などの異常は起きていない。
 欧米では、加齢黄班変性が高齢者失明原因の第一位だが、効果的な治療法はない。網膜疾患治療薬の世界市場規模は、今後2020年に173億ドルに達すると予測されている。
 再生医療はこれだけではない。
 歳をとると、膝を痛める中高年の変形性膝関節症の患者は2500万人ともいわれているが、このうち半数くらいは膝関節のクッションともいえる半月板に問題を抱えている。
 東京医科歯科大の関矢一夫教授がこれまで膝の手術でゴミ箱に捨てられていた関節を包む膜のひとつ「滑膜」を採取。大量の幹細胞を培養し、膝の患部に注入して組織の再生を促す。iPS細胞による再生医療の国家プロジェクトに選ばれた。滑膜を2週間培養したものを注射器で軟骨の欠損部に乗せていく臨床実験に成功している。滑膜は、外科的な手術の時にはゴミとして捨てられているものだ。
 40歳代の軟骨損傷の女性では、細胞移植後一年で損傷部分が軟骨様のもので覆われて再生した。膝の痛みに苦しむ人の大部分を占めるのは半月板や軟骨がすり減る「変形性膝関節症」の患者だ。これまで半月板は一度すり減ると二度と元に戻ることはないと言われてきた。しかし、軟骨再生を確認した東京医科歯科大学再生医療研究センター長の関矢教授は「できるだけ多くの患者さんを膝痛から解放してあげたい」と言う。 
 そして最新の再生医療ニュースは、心筋、つまり心臓の弱った筋肉になる細胞(心筋細胞)を高い純度で作る方法を開発したという慶応大学医学部福田恵一教授の研究だ。来年にもヒトを対照にした臨床研究の申請を行うという。心臓の一部の細胞が死んでしまって、心臓移植以外に治療法がないような患者に、培養した心筋細胞を注射することで、弱った心臓の機能を再生させることが出来るという。眼や膝どころではない、再生医療はついに神の領域だとされる心臓に踏み込んだ。
 神奈川県葉山町の心臓専門病院「葉山ハートセンター」の心臓外科医磯村正センター長は2009年、『治せない心臓はない』という本を書いているが、実は例外があった。心臓の筋肉が伸びきって機能しなくなる心筋型拡張症だけは外科手術では治せない。人工心臓を入れるか、脳死した人から心臓をもらって移植するかしかない。しかし、今回のiPS細胞治療が成功すれば、高い可能性で、注射一本で痛んだ心臓を再生することが出来るようになる。
 皮膚(やけど)のほか、食道、歯槽骨、中耳、軟骨治療についてもヒト臨床研究が開始され、肝臓、膵臓などへの応用研究も進んでいる。発毛実験もマウスでは成功している。そう遠くない将来、抗がん剤による脱毛、加齢によるハゲも、この世からいなくなるかもしれない。 
        

四季の記憶38 「追憶の街」その1   鈴木 奎三郎  

 二十四節気の四月節はもう立夏で、ついこの前までは春の日差しが一杯に溢れていたが、紫外線はかなり強くなっていて、爽やかな初夏の日差しはもうすぐである。新暦では5月5日は立夏で、初夏となっているのだ。立夏と聞いてすぐ思い出すのは、子供の頃に覚えた「夏は来ぬ」の忘れがたいメロディだ。歌人佐々木信綱作詞の歌い出しの第一節は、
  卯の花の 匂う垣根に
  ほととぎす 早も来なきて
  忍び音もらす 夏は来ぬ
「忍び音」の意味が分からず、母に尋ねた記憶が微かにあるし、「卯の花」は調べてみると、本名はウツギで、枝を切ると中が空っぽなので空木と名つけられたとか。人間にも“空人”(うつびと)?というような人がいるが、人さまのことではなく自分もその一人かも知れない。

 さて、先日久しぶりに銀座に出かけてみた。これは現役を退いてからの習性のようなもので、久しぶり・・といっても月に1度は必ず出かけてしまうのだ。これは身に染みた習性のようなもので、40年超を職場として過ごした銀座は、ぼくにとっての第2の故郷ともいえる。楽かったことも苦しかったこともアラベスクのように記憶されているのだ。
 初めて銀座に行ったのは田舎から上京した学生の頃。昭和30年代後半の中央通りにはまだ都電が走るまさに“花の都”であった。まさかここが終の職場になるなど想像もしていなかったが・・。月一で銀座に出かける日は“ハレの日”で、お気に入りの紺のブレザーを着て出かけたものだ。行く先は「ACB」か「タクト」。すずらん通りの6丁目にあった「タクト」は当時はやっていたハワイアンを生演奏で聞かせる、いまでいうライブハウスだ。入場料代わりの氷ばかりのアイスコーヒーが一杯350円ほど。そこで聴いたのは、大橋節夫とハニーアイランダース、バッキ―白片とアロハハワイアンズ、ボーカルはエセル中田、日野てる子など当時のトップスターが出演していた。ちょっと甘ったるくハスキーな大橋節夫の“赤いレイ”や“倖せはここに”は、東京での初めての生活の記憶とともに今でも耳に残る。

 この銀座は2020年のオリンピックをひかえて、再開発プロジェクトを軸に大きく変わろうとしている。その一つは、3月末にオープンした「東急プラザ銀座」だ。早速出かけてみたが、銀座の玄関口である数寄屋橋交差点前で、伝統のガラス細工江戸切子をイメージした窓が特徴である。125の最新のファションブランド店、外国人観光客を呼び込む都内最大級の免税店などが立地しているそうだ。ご多聞に漏れず最近急増しているアジア系の観光客が多く来ている。買い物もせず2時間ほどブラブラしてコーヒータイムにしようと試みたが、どこも満席。疲労困憊で帰路に就いた。ゴルフだけでなく街歩きや買い物にも体力がいるのだ。
 再開発の最大の目玉とされるのが、来年1月末に完成する松坂屋銀座店跡地などの「銀座6丁目プロジェクト」だ。百貨店ではなくなるが、高級ブランド店や飲食店が入る大型商業施設を構え、上層部は大型オフイス空間となるようだ。この再開発は2003年ごろに松坂屋と森ビルが組んで、190メートルの高層ビルを計画したが、地元の商店や企業で作る銀座通合会が反対して、ビルの高さの上限を56メートルとする“銀座ルール”を策定した。ぼくは当時、会社から指名されて連合会の広報担当もしていたが、どう考えても銀座に超高層ビルは似合わない、スカイラインの揃った街、表通りだけでなく裏通りも含めて歩き廻りやすい回遊性のあるヒューマンスケールの街であることが銀座の生命なのだ。(ちなみに銀座の会議で“裏通り”という言葉はタブーだ)

 このほかにも、4丁目の門に今年の夏に日産自動車のショールームやレストランが入る「銀座ブレイス」や、3階以上に高級ホテルが入る並木通りの「銀座朝日ビル」が来年秋にオープン予定だ。
 このように銀座は再開発の計画も含め新しいものを次ぎづぎと受け入れているが、不思議なことに“銀座らしくない”ことやモノ“はいつの間にか消えていく。これを称して“銀座フィルター”というが、この伝統は明治5年に政府が巨費を投じ西欧風建物のレンガ街を創ったのが始まりだ。街の王者としての風格は未来永劫に続いていくのではないだろうか。今日も銀座には、昔と変わらない香りが漂っているような気がするのだ。

ボランティア              田村 公雄

 上野の東京国立博物館でのボランティア活動を三年前に始め,先月三月末で卒業した。あっという間の三年間だったという印象だ。このボランティア活動を始めた動機は、生れてこの方七十数年間自分のことだけの為に生きてきたという反省からである。無私の心で人様の為になるようなことをしたことがあるだろうか。「これではわが人生のバランスが取れないではないか」と考えたからである。
 ボランティアの任務は来館者の必要に答えることが主な仕事である。見学の順路、今日の見どころ、お勧めの展示品等をご案内するのである。外国からのお客様も近年大変増えている。2020年に向かって、ボランティアの活躍の場が広がりそうだ。
 国宝級の文化財に囲まれての純粋な無償の奉仕には、さわやかさがある。経済的メリットは全く無くても、こころをリッチにしてくれるものがある。現役時代の効率、採算、収益などの数字に追われ、カサカサの心を癒す間もない非人間的生活とは大きな違いがある。
 ここのボランティアには交通費も昼食も出ず、三年間努めなければならない。しかしステイタスの高さもあって大変な人気なのである。競争率が高い。会社を引退した人や、子育てが終わった主婦が多い。経済性より、自分の世界を持ちたい人達が多いようだ。レベルは高い。心も懐も豊かな人達だ。これらの人達の心を引き付けているのが、ボランティア仲間で運営する自主活動(クラブ活動)である。自主活動には浮世絵、陶磁器、彫刻(仏像)、お茶会、考古学、美術、庭園茶室、刀剣、英語ガイドなど16の活動があり、月に一回又は二回の来館者向けのツアーガイドが実施される。普段の研究成果を来館者にご披露し、喜んでいただいている。
 私はお茶会に所属した。お茶の世界は日本の伝統文化のエキスが結集していて、その精神性の高さに興味があった。しかし自分には遠い世界で生涯縁がないと思っていた。不思議なものでボランティア活動を始めたお蔭で、すんなりこの世界に入ることが出来た。
 この博物館の後方には大きな庭園があり、五つの茶室が点在している。我々お茶会はその五つの茶室のうち、最も大きく歴史的由緒のある応挙舘(丸山応挙の障壁画が描かれている)で毎月一回お茶会を開き、来館者をご招待している。お茶に関して何も出来なかった私は、大泉学園町の茶道教室に通って二年生の後半にはお点前をお客様の前でご披露するようになった。私の流儀は藪の内流という武家茶道で男性的所作が特徴である。大変人気を博し、私のお点前のリクエストが起こるまでになった。三月の卒業記念のお茶会には家内や娘たちにも参加してもらい、私の点てたお茶を飲んでもらった。部員たちからも感動的だったと言ってもらえた。娘たちは大分刺激を受けて、ボランティア活動に興味を持ったようである。
 いずれにしても、素晴らしい仲間たちと充実したボランティア・ライフを過ごせてハッピーな三年間だったと思っている。無償の奉仕が動機のボランティア活動を通じて、結果的に自分の人生の財産を増やすことになった。 以上
      

故郷忘じ難く              小林 康昭

 歯の治療を受けよう、と休暇を所長に申し出た。歯科医院は、ジャングルの中を250キロ、6時間走り続けたP市内にある。その夜は、P市内に泊まる。そして、翌日、戻ってくる。つまり、一泊二日の旅になる。何故か。
 ジャングルの道路は、夜間は通行しないことになっている。街灯も標識もない。路肩を飛び出してジャングルに飛び込んだら、脱出は不可能。途中に、人家は一軒もない。故障して立ち往生すると、夜が明けて走行車と出合うまで動けない。追剥や強盗が出ても、助けを呼べない。ジャングルに棲む虎と鉢合わせすると、虎が見過ごしてくれる保証はない。だから、夜道は危ないのだ。
 P市に出かけることは、千載一遇の機会である。聞きつけた社員たちから、買い物の依頼が集まってきた。所長からは、P市内に住む日本人女性に渡すように、と包みを一つ渡された。
 その女性は、日本の大学に留学していた青年と結婚した。そして、日本の実家と離れ、この国に帰化した。回教に帰依し、現地に浸かった生活を送っている。その彼女を、実家は案じている。それで、機会を捉えて、日本の香りを送り届ける。所長が渡した包みは、日本に出張した所長が、実家から託されたものだった。

 早朝、現場の運転手が運転するライトバンで、P市に向かう。同行者が一人。食堂で給仕をする中国系の少女。この娘も、一泊二日の予定で、P市内の実家に帰る。
 歯科医院で治療を受けている間に、運転手は、ホテルを予約し、給仕の少女を送り届け、日本人妻の彼女へ託送品を届け、買い物や宿題を片付ける。歯科医院に戻ってきたライトバンに拾われて、ホテルに入った。
 大広間から、華やかに音楽が響いていた。結婚式か祝賀会が催されているようだった。チェックインしようとカウンターに近づくと、ロビーの隅に、くだんの日本人妻の彼女が立っていた。彼女は「お目にかかって、直接お礼を申し上げたかったので・・・」と遠慮がちに弁明した。快活さが評判だったが、寂しそうな印象は予想外だった。夕食を誘うと、素直に応じた。食事の場は、大広間を望む個室をとった。大広間のステージでは、楽団が地元のポピュラー音楽を演奏し、参会者たちが次々とステージに上がってマイクを手に唄っていた。ステージを囲む客席から、それに和する歌声があがっている。

 ♪ ノナ マニシャパ ヤンプーニャン、アユ ママ ♪、ランタルー、テルバユ、ブテ、♪シン シン ソー、アンギン マミリ ♪、ハロ ハロ バンドン、ブンガ ワン ソロ、などなど ♪ この国に来てから覚えたおなじみの曲ばかりで、今ではほとんどを、原語で唄うことが出来る。
 彼女は、ぼんやりした視線をステージに向けていた。彼女に訊いた。「唄えますか?」「メロディーは分かりますけど、歌詞は」知らない、とかぶりを振った。鞄の中からハーモニカのセットを取り出した。そして、演奏中の曲のキーを確かめた。「一寸 ご披露しますね」と、彼女の前で、楽団に合わせてみせた。
 曲が変わって、キーも変わった。別のキーのハーモニカを取り出した。彼女は、黙然と聴いている。「お上手ですね」と褒めてくれた。だが、生気が乏しい表情は変わらない。いつの間にか、大広間の宴会が終わっていた。参会者たちが散って、静かになった。守宮が鳴いている。家の外では、犬が吠えている。

 翌朝、チェックアウトの場に彼女が、所長宛のお返しを手にして、待っていた。迎えのライトバンが来るまでの間、ロビーの片隅でコーヒーを一緒に飲んだ。ハーモニカが話題になった。「いつも、キーの異なる5つのハーモニカを持ち歩いている」と、セットを出して見せた。その一つを、唇にあてた。古関裕而作曲の「愛国の花」。この国の初代大統領の愛唱歌だ。現地人は誰でも知っている。案の定、周りに人だかりができた。彼女は、俯いて聴いている。「赤とんぼ」を吹いて、次の曲に移った時だった。
 ♪アオイ ツキヨ ノ ハマベ ニワ♪ 突然、高音の澄んだ歌声。歌声の主は、給仕の少女だった。この娘を乗せたライトバンが、ホテルに着いていたのだった。娘は、現場の日本人の社員や職人から、スマトラのアグネス・チャンと囃されたが、むしろ、二木てるみを彷彿させる。娘は、日本の歌を覚えて、現場の懇親会で披露した。娘が歌うと、涙もろい男は、必ず涙を流す。頬を濡らしながら、男たちは、娘の歌声を求めた。
 そのとき彼女は、額を抑えていた。♪ヌレタ ツバサ ノ キン ノ イロ♪ 彼女の頬を、涙が伝っている。
 「あの奥さんの旦那サン、新しいお嫁さん貰う」現場に戻るライトバンの中で、娘が言った。流石に娘は、地元のことに詳しい。彼女の家庭に、第二夫人が加わる、ということだ。彼女の、心中を察した。

 2年後、帰任の日を迎えた。P市に出て、その郊外の空港から、国内線で首都に飛ぶ。そして、東京に向かう国際線に乗り継ぐのだ。P市内に入った時、搭乗まで余裕があった。それで、彼女の家に寄ってみた。
 玄関に男が出てきた。その男が、彼女の夫だった。男は幼女を抱いていた。幼女の眼差しは、2年前の、あのときの、彼女の眼差しを想わせた。彼女は病死していた。彼女は、今わの際に「オカアサン」と呟いたそうだ。


       【2016年2月20日定例作品】

囚われ                 小林 康昭   

 タクシーの運転手が、急ブレーキをかけた。ウトウトしていたボクは、眠気が吹っ飛んだ。猛スピードで自家用車が、ボクたちのタクシーを追い抜いて、行く手を塞いだのだ。
 周りに、自動車が停まり始める。歩道の人々が、車窓に近づいてきた。隣の部長の腰が、浮いている。
 警官が、窓ガラスを叩いた。車外に出る。警官は、カタコトの英語で「車内から軍事施設を撮ったな」と、部長からカメラを奪い取った。

 空港に向かう道路沿いに、士官学校があった。凛々しい制服姿の若者たちに、タクシーのなかから、部長がカメラを向けた。後ろを走っていた自家用車の男が、それを見ていた。この国では、軍事施設の撮影は犯罪である。男のご注進によって、ボクたちは、タクシーごと警察に連れ込まれた。ご注進に及んだ男も同行させられた。
 警察署では警部が、警官の報告を受け、男から事情を聴き、運転手に確かめた。確かに法律は存在する。撮影は犯罪だ。だが、空文化していた。問題にする人間はいないのである。でも、問題にする者が出てくると、無視はできない。警部は困惑した。
 彼は、上司に指示を仰いだ。指示を受けて警部は、ボクたちに身元引受人を求めた。1週間の出張だから、身寄りもツテもない。警部は、日本大使館の電話番号を示した。そこに電話をかけた。電話口に現地人が出た。日本人職員は不在である。ボクから受話器を取った警部が「日本人が戻ったら折り返し電話をさせろ」と指示した。
 部長は30年間、山中でトンネル工事をしていた田舎者。英語は出来ない。自分の立場を理解していなかった。
 折り返しの電話はこない。

 教室ほどの広さの部屋には、警部のほかに、6人ほどの制服姿の警官たちが、それぞれ机の前に陣取っている。むさ苦しい私服の男たちが、警部たちの指示で雑用をしていた。
 部長とボクは、粗末な椅子に座って電話を待つ。タクシーの運転手と自家用車の男は、壁際に立たされていた。自家用車の男は、明らかに後悔していた。ご注進を褒められるどころか、不興を買って殴られていた。
 トイレに行こうと、ドアを押した。開かない。背後から警部が咎めた。理由を言うと、警部は、引出しから取り出した鍵を、床の上に放り投げた。男の一人が、床の上の鍵を拾い上げようと、上半身を折った。引きずられるように、隣の男も上半身を折る。二人の手首が、手錠で結ばれていた。勾留中の容疑者たちを、署内の雑用に使っているわけだ。廊下に出る。男たちもついて来る。ボクが逃げないように、容疑者たちが見張るのだ。片方の男は、手首から先がなかった。と、いうことは、窃盗の前科者である。この国の国教では、窃盗は本人の手が悪い。悪い手を失くせば罪も無くなる、ということだ。
 相変わらず、電話はこない。警察署に連れ込まれて、9時間経った。その間、食事どころかお茶も出ない。二人の男は、壁際にへたり込んでしまった。午後5時を過ぎると、大使館も勤務が終わるかもしれない。困った。

 電話が鳴った。警部が、相好をくずして、まくしたてた。そして、受話器をボクに渡した。大使館の書記官だった。警部から聴いて、事情を承知した様子だ。
 待っていて下さい」 地獄に仏とは、こういうことだ。
 書記官は、洒落た手つきで、外交官證を警部の鼻先に突きつけた。警部との間で、けたたましく現地語が往復する。書記官の口ぶりの鮮やかさに、室内が静まり返った。警部が「アイム、ソーリー」を繰り返している。
 書記官が書類に署名して、部長とボクは釈放された。二人の男も解放される。タクシーの運転手は、丸一日、稼ぎにならなかった。自家用車の男は、顔にあざを作っている。
 別れ際、警部が耳打ちをした。「問題にしないことにした。でも、やっぱり、犯罪なんだよナ、これって」
 書記官が、深夜の空港のなかを奔走して、深夜便を手配した。到着した空港で、東京行きに乗り換えることになる。書記官は、航空機の搭乗扉の前までついてきた。そして、搭乗扉の向こう側で、ボクと部長に手を振った。
 その後、ボクはその国に行ったことはない。

 部長は、2年後にその国に出かけた。そして、空港で入国を拒否された。部長は、事情を理解できなかった。同伴者も、理解力が足りなかったらしい。2年前の警部のような助言者も居なかったようだ。態度を咎められた二人は、数日間、留置場の檻のなかで過ごしたらしい。らしい、とは、直接、部長に訊く勇気がなかったから。
 2年前のあの時、部長とボクを解放するために、書記官は、再入国禁止を甘受する誓約書に署名した。
 いわゆる“ペルソナ ノン グラータ”。
 あの時、搭乗扉までついてきたのは、出国を確かめるためで、親切心で見送ってくれたわけではなかった。
 ボクは、肝に銘じたのだが、部長は、上の空だったのだ。

四季の記憶38 「歌は世につれ」    鈴木 奎三郎  

 三寒四温とはよく言ったもので、3月の声を聞くと春の本格的な到来がにわかに色濃くなってくる。関東はもう3週間もすると桜の季節を迎えるが、故郷の長野市の開花は東京に遅れること2,3週間で、寒さに耐えてきた春の喜びはひとしおである。ことに善光寺から裏山の納骨堂に至るつづらおりの参道の桜は、それはそれは見事なものである。各地の桜の名所に一歩も引けを取らない。
 この一月の下旬に、都内のホテルで恒例の高校同期の新年会が開かれた。卒業後55年目となるが、毎回この会には70名を超える参加者がある。対象は東京を中心に主に関東圏に住んでいる顔ぶれだが、地元の長野からも数名が参加する。1961年に県立長野高校を卒業した同期生は約420名ほど。すでに鬼籍に入った仲間も数十人にのぼるが、70名超の参加者の多さにはみんながビックリする。会の最後には校歌“山また山”を、続いて必ず県歌“信濃の国”を斉唱するのが以前からのパターンだ。“山また山”は歌詞の通りまわりをみれば北信五岳をはじめとして、まさに山ばかりだ。

 最近、NHKの大河ドラマ「真田丸」でなにかと話題になっている信濃の国だが、県が昨年発表した調査によると、県民の9割がこの県歌を歌えるそうだ。この9割が多いのか少ないのか異論の分かれるところだろうが、ぼくの記憶では小学校の校歌を覚える頃と同じ時期に歌い出した記憶がある。要するにあのころは全員が歌っていたのだ。
 いろいろ調べたり聞いたりすると、“信濃の国”は1900年に作られて68年に正式に長野県歌として制定された。歌詞は6番からなり、ここには県の地理、山河、産業、旧跡・名勝、著名人、碓井峠と鉄道など、全般に歴史、地理、文化をアピールするものとなっている。
 そもそも長野県は、それまで長野市に県庁を置く長野県と松本市に県庁を置く筑摩県とに分かれていたが、1876年に筑摩県が廃止され統合されたという歴史を持つ。以来、南北戦争、南北格差と呼ばれる激しい地域対立が消えることなく、この解消と県民意識の一体感をどう高めるかが課題だった。そのためのシンボリックな歌としてこの県歌は作られ、さまざまな行事や催事に頻繁に使われてきたのだ。

 昔から長野県は、北と南では仲が悪いね・・といわれてきたが、これがある程度事実であることは、こういう歴史的な経緯や事実が存在するからだ。
 会社に入って本社に転勤してくると、ある先輩から「君は北信の出身だけど、会社の長野県人会に入れてやるから、出てきなさい・・」といわれた。どんなものかと出てみると、20人ほどの顔ぶれの大半は飯田、伊那、松本あたりの出身で、出身高校も全員が中信、南信だ。要するに昔の筑摩県だ。純正の?長野県である長野、上田あたりの北信出身は誰もいない。気のせいか、なんとなくみんなぼくによそよそしい。なかなか話題にも加われない。そんなこともあって2回目からは欠席することとし、唯一上田市出身の後輩と2人だけの北信会を作ることにした。考えてみたら郷土愛というのは理屈抜きの感情だが、時として人を狭量に、かたくなにする要素をはらんでいて要注意だ。

「信濃の国は十州に、堺連ぬる国にして、
聳ゆる山はいや高く、流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺・・」
で始まり、浅間山、天竜川、旭将軍義仲、象山佐久間先生、など偉人や地名を歌い上げた“信濃の国”。これは6番まであり、すべて歌うのに5分はかかる。生粋の県人の中でこれを完璧に歌えるひとはどの位いるのだろうか。ぼく自身は2番までは何とかなるが、それ以降は怪しくなる。
 歌は世につれ世は歌につれ・・というが、まったく同感である。“都の西北”や”山また山“は無意識に口づさんでいる時がある。それにもうひとつ、社歌がある。年に一回、創立記念式典の時に歌うのだが、「あしたの空には雲もにおい、夢さえつやめく小夜のしらべ・・」で始まるワルツ調の歌は、まさに女学校の校歌にピッタリで、とても人さまの前で歌える代物ではない。もちろん今や歌うこともないが、歌詞から銀座の香りが立ちのぼってくるという点ではかすかなノスタルジーを覚えるのだ。

年賀状諸般事情             谷川 亘

 暦を開くと、西暦2016年は平成28年。丙申(ひのえさる)年で、蛇足ながら皇紀2676年の由。
 昔流に、「数え年」に倣って数えるとわが身は、今年元旦を以て何と78才。

 この年になって実感しているのですが、年上の方は勿論、同年代の方々も何を急ぐのか、“対岸”に旅立つ方が少なからず、昨年は師走に入ってから「忌中ご挨拶」の類の葉書のなんと多かった事か!!後期高齢者の括り入りするまでは、「あの方も逝ってしまったか。ご愁傷さま」なんてつぶやいては手を合わせ、我が身とは程遠い世界の出来事としか思えなかったことが、肩に食い込むリュックのようにずっしり圧し掛かり、改めて、わが人生の“立ち位置”を認識する次第です。
 左様云々で、不本意ながら年賀状住所録から“削除”させていただいている方がいる反面、私の場合は新たな知己を得ることにより、お陰様で賀状は漸増傾向にあります。
 第二の人生に入ってからOB会のご厄介になり、新たな友人関係が構築されまして、何とか減らさずに済んでおります。 と言いますのも、我が母校は超マンモスで、練馬区だけでも会員が500名近く。早い話、ごく近くに住みながら同窓だなんてち~とも知らなかった大先輩、同期、後輩が三人もおり、同期のMさんなんかは付属高校から一緒なのに、互いにそれを認識し合ったのは数年前のことです。

心のこもった年賀状とは一体どんなものでしょうか?
 年賀状作成アプリは多く市販されていますし、定例文やデザインに凝った文章や図柄。宛名印刷から本文まであっという間にプリントアウト。金太郎飴年賀状一丁上がりです。他にもインターネットとかソーシャルメディア経由の賀状も時流ですが、何とも“情が籠っていない”と思いませんか。

 墨筆あらたかな達筆年賀状。日本人ですもの。これには一種の“身震い”さえ覚えてしまいます。
 Aさんはいまだに冴えわたる筆跡。傘寿越しても指先震えること無いんですか?Bさん。「申」の大文字の金色絵具を入手されるお店は“社外秘”なんですって?習字の先生でいらっしゃるC女史。さあすが~。でも、余り完璧すぎて“泥臭さ”の片鱗もないですね。
 もう寄る年になったので隠遁生活に入る故、年賀状は今年限り。なんて仰るDさん他の御仁よ!!人的交流さえ途絶えてしまったら、それこそ“認知症が”忍び寄ってきますよ。年に一度でたったの52円ですもの。続けて行きましょうよ。
 取引銀行行員であった血気盛んだった頃のEさん。厳寒の中、あの頃はバイクでしたっけ、それとも自転車?とにかく仕事熱心で誠意の塊。もう、貴兄の顔すら覚えていないんだよなあ~。それなのに、律義にも賀状交換。旧S銀行さんよ。行員の焼入れ再教育をなさったら如何ですか?最も、今流は、馴染んだ頃には即転勤ですよね。
 お付き合いの高齢化に従い、病に関する記述も散見されるようになりました。FさんとGさんは透析のお世話になってから数年経ていらっしゃるようですね。でも、それなりにお元気のご様子。
ただ、共に仕事に励み杯を交わしたHさんは年賀状が途絶えたと思っていたら三年前。ゼミ後輩で、私をアルミ業界に導いていただいたIさんは去年脳梗塞で倒れ、共にリハビリ中とか。他人事とは到底思えないばかりか、何か責任の一端さえ感じるご両名です。
会社の社員諸兄姉、それもお子さんの写真付きを見てついにっこり。J君は三人もの子宝に恵まれたようだね。安月給で生活大変だろうね。会長として心からご同情申し上げます。
 本家のK姉御。家業は水戸藩から続く薬師商。かねては、駅ビルに支店を出すなど業況は破竹の勢い。でも、ドラッグストアの出現は手痛かったようですね。毎年豪華船クルージングの仲睦まじき年賀状。そりゃ~奮闘のご褒美ですもの。でも、正直、やっかみ半分で見てましたよ。ここ数年は先立たれたベターハーフの分も含めて堪能されているのですよね。
ご夫婦そろっての海外旅行。これも何通かいただきました。特にL君は昨年4回もお出になったのですか。しかも全部がツーショット。何ともお羨ましいまやしい限りです。
 写真仲間もその多くが海外に画材を求めて出掛けられ、一面写真ビッシリの年賀状。それも、北欧四か国とかバルト三国に魅力があると見えて月々の定例会では専らその作品の大通り。その間にあって、「都立9庭園」の紅葉なんかでお茶を濁さざるを得ない、近視眼的入門者のいることにお気づきでしょうか?
 広い庭付き住宅に老夫婦がお二人。家屋敷やお庭の維持もままならず、老後の安全・安寧生活を求めてマンション住まいに切り替えた方も三人いらっしゃいます。不肖この私、苗木植えて四十数年。幹回り1.4mにもなった桜花と共にこの家で“断酒”ならぬ“断首の刑”に処せられて絶命したいのですが、果敢ない夢なのでしょうか?
 最後に、忌中葉書を頂いた小学校同級のM君へ。昨年、後継ぎとされたご長男を失い、失意にくれて憔悴し切った貴兄を訪ね、店頭での立ち話でしたがお悔やみ申し上げました。思わず肩を叩いて激励してきましたが、阿佐ヶ谷のあの界隈では君手作りの「豆腐」の味と舌触りに長年慣れ親しんできたんですよ。もう一度早起きして腕まくり、冷水に手を突っ込んで地域住民の食生活の“担い手”になってください。
 年初のごあいさつである年賀状。100×148㎜の小画面の中にほんの数行の手書きの文言入り。人様によっては思いの丈をびっしり書き込んだのもあれば、年賀デザイン印刷済みの葉書に住所・氏名をプリントし、あて名まで“その手”の住所録から引っ張って来る、一切手を煩わさない金太郎飴的年賀状もある。
 例え金太郎であれ、狭い紙面の中に、送り手の受け手に対する思いが濃縮されているのです。
 正しく、“季節のご挨拶”。日本の良き習慣として続けて行きたいものです。

「ドン・ボスコ」と神父と『黒い福音』  岡本 龍蔵  

 終戦から1,2年たった頃、石神井の少し年上の子供は日曜日に南田中の先にある八成橋の「ドン・ボスコ」へ行った。チョコレートがもらえるからだ。私はドン・ボスコの名と黒い神父服が何となく怖く行けなかった。緑の尖塔と白い十字架が知らぬ異国に思えた。カトリック下井草教会だ。
 昭和34年3月に「スチュワーデス殺人事件」が起きて、このドン・ボスコが新聞に報じられた。
 3月10日、近くの善福寺川でBOACのスチュワーデス武川知子(27)が死体で発見された。やがて、このカトリック教会のベルギー人ベルメルシュ神父(38歳)が殺人容疑者に浮上した。神父は取り調べのさなか、羽田からベルギーへ帰ってしまい、事件は立ち消えになってしまった。
 松本清張は、この事件を早くも同年11月に取り上げ週刊誌に連載した。『黒い福音』だ。
 ドン・ボスコはサレジオ会本部から砂糖、バター、衣料品のような統制物資を横流ししていると噂があり、清張はカトリック教会の闇に切り込んだ。この実地調査をしたのが、この年に中央公論に入り、清張担当者に当てられた宮田毬栄(昭34年早大文卒)だった。一昨年この宮田女史の講演会「練馬の松本清張さん」が石神井ふるさと文化館で開催され、その事件の話を話された。大変美しい人で、現在は小倉の松本清張記念館の館長をされている。(私は昨年12月に記念館を訪ねた)「自分(宮田)が足で歩いて作る取材原稿をもとに、物語を創り上げていく清張さんの度外れた力量は感嘆のほかなかった」と。 そのとき清張51歳だった。
 宮田の話は続く。「ララ物資」が教会倉庫に山積みにされ、砂糖やバターが横流しされているという情報から、あるテキヤの名前が浮かびその取材をした。向う見ずにもテキヤを訪ねて、抜身が立てかけてある家に入った。親分から「ネイちゃん、いい度胸しているねえ」と言われ震え上がった。具体的な話が聞き出せなければ、清張さんは次の原稿が書けないので必死に取材した。清張はこのときの取材を非常に喜んでくれ、あとあとまでの語り草になった。印象深い講演会だった。私は、担当者が取材して、それを清張が物語に構成していくという手法を初めて知った。
 さて、ベルギーへ帰国してしまったベルメルシュ神父は、その後どうなったのか。
 あれだけ騒がれたが、誰もその後の神父を追っていないのだろうか。
 見つかった。『消えた神父を追え!BOACスチュワーデス殺人事件の謎を解く』大橋義輝 共栄書房2014年8月刊があった。事件から55年経った2014年に神父の所在を捉えた人がいたのだ。神父93歳。よくぞ生きていた。元週刊サンケイの大橋記者がベルギーからカナダに渡った神父を突き止め、インタビューを行った。
 「40年来追いかけてきた人物にようやく会える。高級マンションの前に立つと胸は高鳴り、足元が震えた」「体調が悪い、都合が悪い」とたびたび取材を拒否され、4日目ついにその機会がやってきた。「エレベータから降りてきたその形相は雷神像のように目を吊り上げ…」「なぜ私に会いに来たのか」「重要参考人にもかかわらず、神父と言う聖職を続け、この街にあなたの名前がついた劇場さえあることを知った」「犯人探しに来たのではない」ととりなした。
 老人は話をしているうちに少しずつ表情を変化させ、日本語を交えて話した。「武川知子さんのことを今でも思い出しますか」の問いに、それを拒むように「私はガンで間もなく死にます」 
 記者は最後に「やったのはあなたですよね」と念押しの質問を用意していたが、「まもなく死にます」の言葉に、質問を飲み込んでしまったのは悔いが残ると「あとがき」書いた。
 記者がこの最重要な質問を避けたのは解せない。今も存命なら95歳になる。直ぐにも司直に動いてもらいた。
 事件当時、教会周辺は麦畑が広がっていた。今は閑静な住宅地となり、緑の尖塔が遠望できる。事件から57年、事件を知るか知らぬか、外人神父の「カトリック下井草教会」には2千の信者が通い、あたりに明るく澄んだ鐘の音を響かせている。

古代史探訪 陸奥            田原 亞彦

 陸奥の地域は約400年頃までは鈴鹿・関が原のライン以東を示し、俘囚・蝦夷である縄文・毛人の地域とされた。弥生系の追いたてにより、古代の末には、両毛の国群馬・栃木より払田柵・胆沢城あたりまで北上した。現在の東北の太平洋側とほぼ同じである。同化した者は熟蝦夷、逆らうのは荒蝦夷と言われた。
 三内丸山遺跡は、BC5000年頃からの集落あとで、径2mの掘っ立て柱には驚いた。安東氏の拠点の十三湊は日本海の物流の拠点であった。亀が丘遺跡の有名な目を閉じた遮光土器。当時は津軽は温暖だった。余談だが、昨今北鮮の船がたくさん漂着したが、古来多くの渡来が,渤海も含め日本海側の各地にあり地名や人名、風習としてその痕跡が残されている。寒河江市のサガの様に古朝鮮語に由来する地名も多々ある。
 マタギの里の阿仁合から秋田内陸縦貫鉄道にわざわざ乗った。9月の森林が美しくすがすがしい。田沢湖を経て仙北市の払田遺跡、水沢市の胆沢遺跡や荒神社あたりは蝦夷の拠点であり、一関市の舞川にある舞草遺跡とともに製鉄の地域でもある。八幡製鉄が釜石に工場を設けたようにこの地域は良質の鉄資源が豊富である。鉄を巡る利権の争奪の様相が見える。釜石の大槌川で拾える餅鉄は蹈鞴で溶かさなくても鍛鉄になる磁鉄鉱で、水沢周辺発祥の蕨手刀の材料となった。
 また金色堂が示すように金が豊富で、気仙沼に3箇所、大船渡と陸前高田にも金鉱山がある。
 古代、ニギハヤヒ(物部氏の祖)の義兄のナガスネヒコと安日彦が、神武側に大和をゆずり津軽に逃れたいわれる。ニギハヤヒと神武は共に伽耶経由で渡来した同根の氏族で、阿久利(アグリ)や高氏、蝦夷/甲斐と称した製鉄・製塩族である。当時は末子相続なので神武側が大和の覇権を握ったのである。奥州藤原四代は11~12世紀に栄華を誇ったが、清原氏は安倍氏らと婚姻関係を結び、10世紀に平将門を滅ぼした藤原秀郷(酒呑童子成敗の田原藤太と同人)の係累から藤原となり、自ら俘囚の末裔と称した。豊かな鉱物資源に恵まれた藤原氏も1189年に泰衡が衣川で義経を殺したが、頼朝自らに攻められて一族は滅んだ。朝廷は、将門の乱の再発を恐れ神護寺から戒壇を成田に移し祈祷させた跡が今の成田山新勝寺である。
 荒蝦夷とされたアテルイは、姓は阿久利氏で扶余系の末裔と言われる。アテルイは789年に胆沢で朝廷軍を撃退したが、802年に坂上田村麻呂に最後に立てこもった達谷の窟で降伏した。平泉の四方にある中尊寺や金色堂、毛越寺は其の達谷の窟の直ぐ北にある。田村麻呂はアテルイを伴い京に到り助命を願ったが、公卿は許さず枚方で斬首された。悪路王として歴史に残されたが敗者は多々鬼として伝えられている。後世にアテルイの顕彰碑が関係各地に設けられ、田村麻呂が創建に関与した京の清水寺の境内にもある。

龍先生との出会い            古藤 黎子

 2014年10月23日、私は御茶ノ水の日大病院で両側股関節置換という手術を受けた。もう20年前くらいから膝が痛くなりはじめ、大学病院のスポーツ診を受診したり、トレーナーにリハビリをしてもらったりして誤魔化してきた。痛みが次第にひどくなってきてもなんとか我慢ができる状態だったのが、一昨年のスキーシーズンが終わったころから膝ばかりか股関節が痛みだした。最初は左股関節痛だったのが、夏頃には左右とも痛くなり、びっこをひき、杖を使うようになった。残念ながら股関節置換手術をすると、スキーのような動きが激しいスポーツはできない、と本には書いてあったし、通院していた整形医もそのように言っていた。
 春頃、練馬のスポーツジムで私がプールの周りを杖を突きながら歩くのを見た伊藤さんという方が「私は膝を日大で手術したけどいい先生がいらっしゃるから、セカンドオピニョンだと思って行ってみたら」とお声を掛けて下さった。しかし、いざとなるとなかなか決心がつかず、そのまま1か月、2か月と過ぎてしまった。益々足の痛みはひどくなって、夏以降は、歩くのが本当に辛くなった。
 9月に入り、さすがに我慢ができなくなり、北里研究所病院の整形の診察を受けた。レントゲン写真を見ながら、ドクターが「左足の骨の痛みがひどいから、骨を他から持ってきて繋ぐ手術になる」とおっしゃった。
 「それって、相当大変な手術なんですか」と聞いたら「そうですね」と。
 それを聞いて私は「そんな手術はしたくない」と思い、家へ帰ってネットで日大病院のHPを調べた。伊藤さんから伺っていた龍啓之介先生は、なんと、ずっとラグビーをやっていて、実業団まで続いていたのに、実家が医者の家系で医者になったという。その瞬間、日大に行ってみよう、と思ったのである。画面で見る限りいい感じの先生。スポーツマンなら私の願いをかなえてもらえるかも、という淡い期待が大きく膨らんだ。おまけに、HPではラグビー選手時代の逸話を友人が書いていて、それも面白くて訳の分からない期待が膨らんでいた。
 その翌朝、直接病院に予約の電話をかけた。診察の予約をしたものの、紹介状は既に北里で使ってしまっていたので再度日大に電話をして「実は紹介状が後になりそうなんですが」と申し上げると電話予約の担当者の方は「先生に伺ってみましょう」とおっしゃって「なくても大丈夫だとおっしゃってます」と言われた。
 診察日、診察室に呼ばれて入室して先生の顔を見るなり「先生、私、スキーをしたいんですが」と申し上げた。
 「ああ、スキー?出来るよ」と簡単に反応があった。この先生なら大丈夫だとその途端、私の心は決まった。先生はまだ手術は左足だけでもいいかな、とおっしゃって、いったん片方だけ手術と決まった。ただ後日HPを見ていたら両側やっても費用が倍になるわけじゃないし、リハビリの時間も片足ずつやるより両方やってしまったほうが短縮できる、という文章があった。そこで次の診察日に「両方やってください」と先生に申し出た。先生は「ああ、そうするか」とえらく簡単にオーケーされた。
 先生への信頼の根源は、単にスポーツマンだからということだけだったが、見るからに明快、手術数も多そうであった。手術日は11月の初旬に決まって、手術の後は群馬県の上毛高原にある温泉病院にリハビリに行く、という予定だった。
 しかし、その後、益々痛みがひどくなったので、手術日を前倒しにしていただき、手術前にリハビリのために温泉病院に1週間入院。その後、10月23日に手術。術後2~3日後にはリハビリを始め、そのお陰でかなり恢復が早かった。両側股関節手術をした人は3人目よ、とリハビリの先生がおっしゃっていた。
 日大病院は10月に新設されたので、大変居心地がよく、その間、車椅子で宝塚劇場に観劇に行ったり、近くの順天堂医院に診察に行ったり、結構勝手な患者だった。龍先生も多分呆れた入院患者だと思ったに違いない。退院後は、改めて上毛高原の温泉病院へ入院してリハビリに励んだ。そこでの3週間くらいのリハビリを終えた頃はまだまだ外を歩くときは怖かったが、日大のリハビリと、高島平中央総合病院のリハビリと2か所に通って5か月。高島平のリハビリの最終日に、回診中の先生が私の小走りを見てびっくりされ「両側を手術した患者がこの時期に走るのを初めて見た」とおっしゃったそうだ。
 昨年10月の6か月診断では「スキー、大丈夫だよ」という龍先生のお墨付きをいただいた。
 病院でのリハビリに加えて、自分では、毎朝1時間位ストレッチに筋トレ、ジムでもトレーナーについて筋トレ、更に殆ど毎日プールでウォーキング。龍先生の言葉を信じて「スキーの再開」を目標に努力の日々。
 遂に、昨年末、スキー教師の指導を受け、2時間後に「元に戻った。大丈夫」とこれまたお墨付きをもらった。
 年末に、恐々雪上に出て滑り、1月末には、4泊5日のスキーレッスンも受けた。友人たちは「顔つきが変わったね。明るいよ」という。今は、スキーをできる喜びを感じつつ、龍先生や、ジムでお声を掛けて下さった伊藤さんとの出会いが、この嬉しい結果を生みだしたことを感謝するばかりである。あの痛みとの闘いの日々を忘れることなく、慎重に素敵なスキーライフを楽しみたいと思っている。             (2,165W)