2026年2月21日(土)開催 (※到着順)
風呂 あれこれ(1) 華岡正泰
50年前のあの日以来 私は風呂が怖くて嫌いだ。だがこれ迄 色んな風呂を経験してきた。私は福岡で生まれ 親父が九大から佐賀大に転じた時に佐賀へ越し 小学1年入学から中学5年卒業までを佐賀で暮らした。福岡での思い出は新築祝いの餅まきや 遠縁の中村研一画伯がまだ画学生で 私達と一緒に住んでいた彼の祖母を訪ねてくるのを捕まえては 馬や犬の絵を描かせたことくらい。風呂は多分大きめの木製だっただろう。佐賀の風呂は鉄釜で水面に浮んだ底板を踏んで入る五右衛門風呂 火傷を恐れた。
1948年第二早高受験で乃木坂で歯科を営む義伯父方に身を寄せた。伯父宅の風呂はB5に厚さ数センチの電気磁石を浴槽に放り込んで湯を沸かすもので感電が怖かった。法学部に入った弟と間借りの自炊生活を始めて以来 結婚後 馬事公苑横の公団住宅に住む迄は銭湯通い。好きになれなかった。だから狭い風呂でも我が家の風呂は嬉しかった。
1961年ビルマ ラングーンへの赴任の途中 打合せで香港 バンコクに立寄った。
香港は極端な水不足で朝の洗面の水をトイレに使ったり 時間給水下のシャワーと仕事の都合合わせが大変だった。
バンコク空港には社有車が配されていて宿泊のPARK HOTELに送ってくれた。支店長が夕方来るというのでそれ迄にシャワーをと思ったが部屋に浴室が無い 聞くと庭にあるという。行くと誰も居らず等身大の水瓶があった。脚立が無いのが不思議だったが窓枠に足をかけて中に入った。だが 出ようとするとヌルヌルで足が掛からない。庭でメイド達の声が聞こえたので助けを求めたが 若い娘が男湯に来る筈はない。ややあってボーイに助け出された。這う這うの体で部屋に戻り横になると今度はギョギョッ。
大きなヤモリが頭上に貼りついていた。支店長に風呂の話をすると「お前もか」と大笑い。失敗者が多いらしい。水瓶の水を被るものらしい。市内で久留米出身者が営む 花屋ホテルには大風呂があると聞いて行ってみた。日本の銭湯だった。各社の」駐在員で一杯だった。
ラングーン空港にはタクシーが差し向けられていて 住まいのバンガローが決まるまでの間宿泊する 当地最高級のSTRAND HOTELに運んでくれた。
バンガローではインド系ボーイを雇ったが「マスター マスター」と良く仕えてくれた。暑い国で日に何回もシャワーを浴びた。
定年直前の香港出張で 駐在員時代から一度は泊ってみたかった PENINSULAに宿を取った。白亜の最高級ホテルだが 部屋の風呂に驚いた。四方がガラス張り。金持ちスケベーへのサービスだったのだろうか。
外人の風呂はシャワーと思っていたが 私の海外生活 暑い国ではあったがバスタブがあるのに シャワーで過ごしてきた。外人、海外とシャワー何か関係ありそうである。考えてみよう。
(1)おわり
追憶の昭和35年 小林 康昭
僕にとって、66年前の昭和35年は刺激的な年でした。1学年から2学年の大学生でした。3学期の期末試験を終えて2月末に春休みに入ると、アルバイトです。2月23日の夕方、アルバイト先の食堂で夕食を採っていると、傍らのテレビが「皇太子に長男誕生」と報じていました。年配の幹部たちが「男児誕生とは目出度い」とビールでお祝いを始めました。その後、命名された浩宮徳仁親王殿下の称号と諱が報じられました。現在の今上天皇です。
* * *
時の岸信介総理大臣は渡米して1月19日に日米新安全保障条約(安保改定)を調印したと報じられました。締結に反対する反政府・反米運動が起きました。「安保騒動」の発生です。国会審議が始まると更に紛糾しました。米英仏などの西側陣営と対峙するソ連は、自国を仮想敵国とみなす新安保を非難していました。「この条約によって日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」とする社会運動に発展しました。大学の授業は休講に、大学の構内は閉鎖されてしまいました。
学生たちは運動家たちに先導されて国会議事堂のデモに駆り出されました。ノンポリの僕も国会議事堂に赴き、デモ隊の一員として警官隊にぶつかりました。そのさなかの5月16日は、昭和15年辰年に生まれた僕の20歳の誕生日でした。つつがなく成人になったのです。5月20日に本会議で強行採決されて、新条約案は衆議院を通過しました。
学生たちの激しい反対運動に、警官隊の抵抗も激しさを加え、6月15日の夜、東大生の樺美智子が事故死しました。新条約は参議院の議決がないまま6月19日に自然成立しました。その夜、僕はアルバイト先に居りましたが、議事堂周りに座り込んだ学生たちは粛然と午後12時の瞬間を待ったそうです。
重苦しい空気に包まれた中から、童謡「赤とんぼ」の歌声が聞こえてきたといいます。若い女性のか細く震える歌声に和する声はなく、最後まで一人で歌い終わったが、拍手はなかったそうです。岸首相は退陣し、7月19日に誕生した池田内閣の「寛容と忍耐」のモットーに、世情は何事もなかったかのように、一気に沈静化してしまいました。
* * *
10月12日の午後のこと、アルバイト先の家庭教師に赴く途中で立ち寄った理髪店で「今、浅沼さんが刺されたよ」と告げられました。その直前、私は靴屋の店頭でトランジットラジオの実況中継を聞きながら、履いていた靴の修理が済むのを待っていました。ラジオからは、社会党委員長浅沼稲次郎の、特徴のあるだみ声の演説が流れていました。
浅沼さんは早稲田の学生にとっては偉大な大先輩で、絶大なる人気を誇っていました。演説は激しいヤジで聞こえにくく、進行役のNHKの小林利光アナウンサーが「もう少し静かにしてください」と呼びかけていました。修理が済んだので、その靴を履き修理代を払って靴屋を出ました。アナウンサーの注意が済んで浅沼さんが演説を再開していました。数秒後にはラジオからは、浅沼さんに駆け寄る山口二矢の足音が聞こえてきた筈で、浅沼さんは2500人の聴衆の前で山口二矢の刃に絶命したのです。すんでのところで僕はその瞬間を聞きそびれてしまったのです。
* * *
11月の第1週が終わり、六大学野球は慶応義塾大学が8勝2敗勝ち点4、早稲田大学が7勝3敗勝ち点3で、優勝は早慶両校に絞られました。早慶戦で慶応が勝ち点を取れば優勝は慶応。早稲田が連勝すれば早稲田が優勝。早稲田が2勝1敗で勝ち点を取れば、両校が同率で優勝決定戦です。11月6日の第1戦は早稲田が勝ちました。連勝すれば早稲田が優勝です。だが11月7日の第2戦は慶応が勝ち、今度は慶応があと一勝で優勝でしたが、11月8日の第3戦に早稲田が勝ち、早慶ともに9勝4敗勝ち点4。優勝決定戦になりました。
11月9日の決定戦は、慶応が1点を先行し早稲田は9回裏の1死まで無得点。慶大はあと二人で優勝です。2番バッターの代打鈴木が、外野の守備陣を破る起死回生の大飛球を放ち、三塁まで進みました。3番バッターの石黒が一塁手の背後に落ちる安打を放って、鈴木は本塁を踏み同点としました。試合は11回日没引き分けで、再試合になりました。
翌日11月10日は、チケットの印刷の為に試合はお休み。11月11日の再決定戦では、両軍無得点のまま11回の裏に慶応の攻撃で安藤統が俊足を飛ばして三塁まで進みました。安藤統が生還すれば慶応の優勝です。早稲田は満塁策をとり、4番バッターの渡海を迎えました。渡海は左翼に引っ張るタイプです。早稲田の石井監督は右翼手の強肩鈴木を左翼に、左翼の伊田を右翼に交代させました。安藤元博が投じた一球を、渡海は早稲田の思惑に反して右翼に飛ばしました。右翼の伊田は弱肩。早稲田の応援席からは悲鳴が上がりました。
二塁の村瀬と一塁の好田が中継の位置につきました。伊田は前進して渡海の飛球を捕球しました。三塁でキャッチアップしていた俊足の安藤統は伊田の捕球と同時に本塁に向かって走り出しました。伊田が投じた球は、中継者の頭上を越え、ホームベースから1メートル近く三塁側で待ち構える野村のミットに、直接バックホームされました。安藤統が本塁に滑り込み、捕球した野村が安藤統に覆い被さりました。静寂の中、球審宇野の手が上がりました。「アウト!」この試合も日没11回で引き分けでした。11月12日の再々決定戦を、3-1で勝った早稲田が優勝しました。5試合を投げ切った安藤元博の敢闘が称えられました。
* * *
12月も押し迫った正月休みでは、都心のデパートの歳末大売り出しの店頭でアルバイトをしました。
この一年間、浩宮、岸信介、樺美智子、浅沼稲次郎、山口二矢、安藤元博・・・。それぞれに大きな存在感を示した印象がありますが、今になると、浩宮親王、すなわち、現在の今上天皇に最も大きな存在を感じます。。
四季の記憶107「長野オリンピック」 鈴木奎三郎
1998年、長野五輪のスキージャンプの団体戦。世紀の逆転劇といわれるこの試合は、一回目で失速した原田正彦選手が起死回生の大ジャンプを見せる。最終4番手の舟木和喜選手の飛行に乱れは
なく着地も決まって「金」が確定した・・と当時の新聞報道にある。豪快なスキージャンプは、五輪の人気種目のひとつである。日本には、札幌大会の表彰台独占に始まる栄光の歴史もある。
ミラノ、コルチナ五輪ではそれぞれ日曜未明と月曜未明に予定されている男女のラージヒルを目前に、五輪の花といわれる胸の高まりを覚えるファンも多くいることだろう。さらには、2人一組で飛
ぶ男子新種目、スーパー団体も控えている。あれから28年。果たして、どんな結果が待っているのだろうか。
この長野オリンピックは、2回見に行った。新装なった長野駅にはいまだにその記念碑が掲げられている。出身が長野市であり、進学のために故郷を離れてはや60年。そのころ長野市内には、表彰
式を行う恰好な場所がなく、その会場として、旧長野市の真ん中にあるわが家が選ばれたのだ。長野駅と善光寺のほぼ真ん中に位置することもあり、約2000坪のわが家が選ばれたのだ。まさか、ぼ
くの実家が会場にとは思いまもしなかったが、長野在の長兄の決断によるものだった。いまだに、表彰式会場の記念舞台は取り付けられたままで「長野セントラルスクエア」という名前に変わった。ひ
とことで言えば、旧長野市のオリンピックの記念公園である。
長野市の真ん中にあったわが家は、学生時代の格好のたまり場となって、賑わった。麻雀も盛んで、なかには知らない顔ぶれもいた。朝になると母がおにぎりと味噌汁を用意してくれた。知らない仲
間のことを聞くと、あいつの友達だよ・・とみんなも気にも留めない。
あの時代の熱狂を伝えたスキージャンプの表彰式は、今は静かな参道としてひっそりとたたずんでいる。
天高し山また山の信濃かな
老いるとは愁思だらだら続くこと
2026・2・24
アンナ・カレーニナとリベラルアーツ 藤井正行
「すべての幸せな家庭はどれも似ている。不幸な家庭はそれぞれの異なる理由で不幸である。」文豪トルストイの最高傑作と言われる『アンナ・カレーニナ』は、この哲学めいた一節で始まる。
私がこの文章に出会ったのは高校生の時。受験の心配のない『学院』に通っていた私は勉学に励むこともなく、バスケットボール部でしごかれ、少し大人ぶって友達と喫煙や飲酒をしながら映画や音楽などを語っていた。
そんなある日、石原慎太郎氏のメッセージ:「今の若者に言いたい。勉強などしなくていいからもっと本を読め」が、我ら勉強怠け者組の心に刺さった。受験生にはテストの点ではかなわないと自覚しながら、素直にそれを認めたくない私たちは、「人生の指針とすべきは本だ」と舵をきった。古典的な名作を読もうということになり、言い出しっぺの友人はマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を読破したと狼煙をあげた。私もロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』で続いた。こうした見栄っ張り競争の中で巡り合ったのが『アンナ・カレーニナ』だった。
その後、野村證券でロンドン勤務を経験した私は、定年退職後に縁あって米国のベンチャーキャピタルに勤めることになった。とはいえ15年以上英語を使っていなかったので、NHKラジオ英会話で再トレーニングすることにした。するとある時、リスニングに主眼を置く講座で『アンナ・カレーニナ』が取り上げられた。
「Happy Families are all alike. Every unhappy family is on its own.」二度目の出会いだ。この英文は脳裏に焼き付いた。そしてこの一節が世界的に有名でること、またエピグラフの「Vengeance is mine. I shall repay.」(復讐するは我にあり。我これを報いん)は「神が復讐する」という意味であることを学んだ。
三度目の出会いは、シリコンバレーのレジェンドであるピーター・ティール氏が著した『Zero To One』。ティール氏は、今を時めくイーロン・マスク氏とペイパルを創業し、その後ベンチャー・キャピタリストとしてマスク氏のテスラやスペースXの成功を金融面でサポートしたことで知られている。
「すべての成功者はみな似ている。失敗者はそれぞれの異なる理由で失敗している。」どこか聞き覚えのある文章だと思い脚注を見ると、『アンナ・カレーニナ』からの引用と書かれていた。
シリコンバレーと言えばテクノロジー、超人的なエンジニアが支配している世界と思われがちだ。しかしティール氏はスタンフォード大学に飛び級で進んだ秀才で、法律分野のエリート。そんな彼の『アンナ・カレーニナ』引用は、「僕の本の読者なら一般教養としてアンナ・カレーニナぐらい読んでいるよね!」と暗示しているように思える。
そういえばアップル創業者スティーブ・ジョブズ氏は「アップルは、テクノロジーとリベラルアーツの交差点にある」と語っていた。東洋哲学に傾倒し、野村證券が保有する嵐山の碧雲荘を訪れ、瞑想に耽っていたと聞く。スタンフォード大学の卒業生に贈った祝辞「Stay hungry. Stay foolish(貪欲であれ、愚か者であれ)」は、そんな彼の人生哲学だ。
今の時代、尖った専門性を磨くことは重要だ。でも、こうしたカリスマたちを見ると、人の心に響き渡るリベラルアーツをしっかりと身につけ、人間としての魅力を増すことで、世界中の人々とネットワークしている。私もリベラルアーツ的趣味を広げることで、より充実した楽しい人生を過ごせるのではないかと、今更ながら思い描いている。
(終)
春 愁 照山忠利
〽はーるよこい はーやくこい あーるきはじめたみーちゃんが あーかいはなおのじょじょはいて おんもへでたいと まっている
ご存じ童謡「春よ来い」の歌い出しだ。春を待つ思いは寒さ厳しい北国ばかりでなく日本全国どこにいても抱く気持ちであろう。梅が咲き鳥が歌い、桜が満開となる季節。まさしく春である。そういう意味では春とは早く来てほしい季節であり待ちわびる季節だといえる。
人がみなウキウキするようなときにあらわれる憂鬱な感情「春愁」。春の始めから晩春にかけて物憂げで何もやる気が起きない無気力の境地。いまこの原稿を書いているのもおっくうな気持ちの中にいる。春になると愁いを帯びて沈み込む気持ちになるのはどういうわけなのか。私の場合はどうも入学試験との関連があるような気がする。試験が終わって一段落すると一種の虚脱感にとらわれた。そんな時にボーとした無気力状態に陥ってしまったのが事の発端だったのかもしれない。現役で仕事をしていた時はそんな感情にとらわれている暇はなかったのだが、老境に差し掛かるにつれて再びそんな春愁の気分が蘇ってきた。
そこである日、憂さ晴らしをしようと気心の知れた仲間とゴルフの寒稽古をすることに。腕前も同じような4人組、寒風の中でスコア100を切れた者はいない。ラウンド後の19番ホールの「燗稽古」。飯能の創作居酒屋で談論風発、大いに日頃の思いを語り合った。そこで発足した第2次高市政権に話題が及び、期せずしてみな高市早苗は嫌いだという。本人ばかりか連れ合いもと口をそろえる。なぜあんなに支持率が高いのかわからないと。おそらく歴代の総理大臣経験者とは違う新しさがあるからではないか。今までのもさ~とした(特に石破前総理)感じに比べはっきりとした物言いが若い人たちに受けているのだろうと思う。そうした言動は確かにわかりやすくて好ましいとは思うがいま一つ危うさがつきまとっているのも事実。「責任ある積極財政」を唱え成長戦略を語るとき、本当にわが国の財政基盤が強化されて国際的な信認が得られるのか。金利上昇と円安が進みさらに物価高騰を招く恐れはないのか。大いに心配になるところだ。
安全保障についてはさらに心配だ。ロシア、中国、北朝鮮などの核保有国に囲まれ国を侵される危険が増している中で、国の安全を守るためにどれだけの備えをすればいいのか。トランプ米政権が頼りにならないとなるとどういう対処をすべきなのか誠に悩ましいところであろう。少子高齢化が一段と進む状況下、社会保障制度をどうやって持続可能な形に維持していくのか。消費減税とか廃止とかのポピュリズムを排しながら安定した政権運営ができるのか。「一強多弱」となった今、だからこそおかしな方向に進んでしまう危険性はないのか。心配が杞憂になることを願っている。
今年の春愁はひときわ深いと言わざるを得ない。
(了)
