【2017年12月16日定例作品】
古稀を迎えて 照山 忠利
先月、満70歳になった。いわゆる「古稀」というやつである。正しくは数えで70歳(満69歳)をいうそうだから、昨年が古稀だったわけだ。でもまあ世間的には70歳になったら古稀だといっているから、自分も家族もそのように理解していた。
古稀の語源はご承知の通り、中国唐代の詩人杜甫の「曲江」の一節「人生七十古来稀なり」からきている。その昔は人生50年の時代であったから70歳まで生きる人は稀だったのだろう。我が国でもつい先ごろまでは会社の定年は55歳が一般的だったし、70歳の人はそれこそ年寄り、ヨボついた爺さんという感じで、いわば人畜無害の存在であった。ところが最近は人生百年時代などといわれ、70歳くらいではとても長寿とは呼べなくなった。古来稀なりどころか近年ますます多しという訳で「近多」などと揶揄されている始末。だから自分が70歳になったといっても老人になったとの自覚はさらさら無く、まだまだ「人畜有害」の存在だと思っている。
70歳になっての恩恵は 1.東京都シルバーパスが使えること 2.ゴルフ場利用税が免除されること 3.医療費の自己負担が3割から2割に下がったこと―などだ。先月の誕生日(満70歳)に早速シルバーパスで都営大江戸線に乗ってみた。霞が関の弁護士会館での勉強会の帰り、夜9時過ぎにしては車内はかなり混んでいた。練馬までつり革読書をしようと本を広げて立っていたら、六本木から青山一丁目あたりでトントンと肩をたたかれた。何事かと振り向くと「こちらの席が空きましたからどうぞ」とのこと。相手は40過ぎの男性であった。一瞬断ろうと思ったが、折角の好意を無にするのもどうかと思い直して甘んじることとした。車内で席を譲られたのは初めてのことだ。自分では若いつもりでも、他人から見ればそれなりの年寄りに見えたのであろう。「古稀の日に席を譲られ大江戸線」。
またこれは70歳に限らず高齢となったことのマイナス面としては 1.夜間トイレの回数増 2.ゴルフの飛距離の大幅ダウン―がある。1.については近所に高校の後輩が泌尿器科を開いているので、月に一度前立腺を小さくする薬を処方してもらっている。「少し小さくなりました。もう少し続けてみましょう」という段階だ。2.についてはネット上でのレッスンを毎日見て努力はしているが、なかなか理屈通りには参らない。やはり基礎体力の衰えというものかと、小技に磨きをかけることに方針転換している。
そんなこんなで70歳の大台には乗ったが、人生まだまだ洟垂れの未熟者、修行が足りないとの自覚は人一倍である。つい先月まで「爺ちゃんの古稀のお祝いをしなくちゃね」とさかんに囃していた家族の連中も、あまりその意味を認めなくなったのか、すっかり音なしの構えになっている。あるいは年をとっても一向に酒の量を落とさない爺さんにあきれて、祝いをする気をなくしたのかもしれない。
裕次郎の「わが人生に悔いなし」でも口ずさみながら、今宵も一人静かに杯を傾けることにしようか。
(了)
私の散歩道 鳥谷 靖子
晩秋の昼下がり、銀杏の並木道を抜け病院脇の橋を渡り、どんぐりの混じった落ち葉の上をザクザクと鳥の声を聴きながらしばらく歩く。 青々とした葉の中からほのかな香りを漂わせて水仙の白い花が覗いている。陽当りの良い公園の花々は一早く咲きはじめている。そこから木々の種類によって落ち葉が綺麗に色分けされた場所に出る。辺りは、銀杏の黄色やもみじの赤色、焦げ茶色など、まるで一面に天然の絨毯を敷きつめた様であった。常緑樹の隙間からこぼれる日の光が地面を覆い色とりどりの落ち葉を照らしている。少し歩くと黄色の円形状の落ち葉の中央に日が差しスポットライトのように当たっていて、不思議の国のアリスになったような気持ちでその中央に立ち、空を見上げてしまう。その瞬間は空想の世界に迷い込んだような気持ちになり、ぼんやり日の差す方向を見ていると色々な思い出が溢れてきた。
紅葉の進む秋に孫の聖希と一緒に、当時流行していた「千の風になって」を二人で歌いながら自転車で公園のサイクリングコースを走ってまわった。翌年の正月、聖希は家族全員の前でこの歌を披露した。その時娘婿が一言。「義母さんが音程を間違えて教えたのでいつも同じところを間違えて歌うのですよ。」なんとも恥ずかしく、気まずい思い出だ。
子供達が小学生の頃、ケアンテリアという良く走る犬を飼っており、ジャッキーと名付け可愛がっていた。週末は、決って主人がジャッキーをこの公園に連れて行き、自由気ままに、そして嬉しそうに芝生の上を飛び跳ねる様子を眺めていた。
息子が高校生の頃、友達とジャッキーを連れて光が丘に出かけたが、友達との遊びに夢中になり、ジャッキーを見失ってしまった。結局、友達といくら探しても見つからずに帰宅した。その後、真っ暗な公園をただ泣くだけの娘も一緒に家族総出で捜索したがみつからなった。あきらめて、家に戻る車の窓からも子供たちは「ジャッキー!ジャッキー!」と藁にもすがる思いで叫んでいた。すると公園から家に至るルートの真ん中あたりで、電柱の陰から黒い小さな影が現れた。ジャッキーだった。「奇跡だ!」と家族で喜びあった。公園中を走り廻っていたこの犬は18歳まで生き,家族の一員であった。
光が丘周辺の人はここが桜の名所と知っているだろう。米軍から返還された跡地が都立光が丘公園となった経緯もあり、公園内には広い芝生のなだらかな丘がいくつかある。春にはそこが桜の花で覆われる。桜の季節になると毎日桜の花が恋しくなり見に行こうと、落ち着きのない日々が始まる・
故郷の母にこの桜を見せたくて満開の木の下で、「親孝行も出来ず母をあの世に行かせないでください。この桜をゆっくり見せてあげる機会を下さい、」と毎年祈っていた。すると母が94歳の時、母の希望で一人娘の私と東京で暮らす事になった。それから毎年、母と光が丘で花見ができた。シルバーカ―から~車いすになり最後は車の助手席から桜並木を楽しんでもらった。
枯れ木のような木々から薄いピンクの蕾が出て、いつの間にか木全体をピンク色に染め、光が丘が桜の園と化す。一昨年六月、旅立った夫も車椅子ではあったが、三月下旬最後の花見ができた。
真冬に外周の人気のない公園の土手に真黄色で透明感のあるオキザリスの花の群生を目にした時の驚きは今でも忘れられない。
一人公園を歩くと、四季の移ろいを知らされ、悲しみを癒し、希望を持たせてくれる。
どんな宝石より、いつも変わらず静かに迎えてくれる光が丘公園は私の大切な心の宝石になっている。
先の 魂 の居場所 大野 力
今年の5月に80才の傘寿の誕生日をむかえたが、還暦,古希のときと違って賀寿の意識はあまり感じなかった。それよりも、日本人男性の平均寿命80,98才に達したことへの思いが強かった。東京では79,82才とのことだから超えたことになる。振り返ってみると、いろいろと遇ったけれども何故か楽しかったこと,よかったことが思い出され、還暦のときに、思い出された不愉快だったこと、辛かったことなどは想いに上がってこなかった。それよりも人並みに生きてこられた一寸した安ど感と、残されたおまけの命を、己に自制を求めて、ゆったりと生きようかと思ったりしている。それは、「死」が身近になったとの意識がそうさせるのかもしれない。私は極楽とか地獄などの存在は、まあ信じないが、死後、魂はどうなるのか、どこかで存在し続けるのか、肉体の消滅と伴にするのか、そうだとしたら、それはちょっと寂しいな、と思ったりもする。
そんな中、朝日新聞で鷲田清一の「折々のことば」でこんなな一文を読んだ。
「今、いのちがあなたを生きている」。 鷲田はこれについて、こう書き添えている。 2011年に催された親鸞聖人の750回御遠忌のテーマ。私が自らのいのちを生きるのではなく、いのちが私を生きていると考えるよう呼びかけた。これにふれて思い出したのは、臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容れ物の中を、私、が出入りする」という謎めいた言葉。共通するのは身体を「私の所有物」とする考えを斥けていること、と。
魂とは何者なのか?思うに、私の「物理的身体的肉体的生命」の時間を超えたもの、と解釈できよう。思い出す諸々を考えてみると、種々ある中で、近しかった友人、先輩、肉親とくに父母の思いの頻度が多い。これは二人との共同体験の密度と、感じた相互の情とによるのだろう。それは私の経験として私の中に蓄積されているのだろう。父母との生活の中で、辛いこと、嫌なこともあったにちがいないが、この齢になっての、私の心のなかの二人の映像は、心地よいものが、ほぼ全てと云っていい。こう考えると、二人の魂と私の魂は一体化されて、現生の私が一時預かった身体に入り込んでいることになる。そしてこの魂は私の身体の消滅によって、何処かに出ていくことになるのだろうか。
小室直樹は「日本人のための仏教言論」のなかで、唯識の思想についての中に、こう言っている小文がある。人間が行為すればその痕跡が残る。これを種子という。種子は阿頼耶識の中に残って、蓄積される。「過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている」。 阿頼耶識は、生命の中枢であり、「我」よりもさらにその根底にある 生命そのものに執着する。 蓄積を、「薫習」という。薫習とは香が衣服などにつくことを言い、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることを言う。これを、「現行の種子は、阿頼耶識に薫習された」という。
私の両親の記憶は、生前の経験-行為の記憶であって、その種子が、私の生命の中枢-阿頼耶識に薫習して、無意識の内に蓄積され続ける。それは時を得て私の心に表れる。それは二人の魂が、私の身体を共有していることであり、私の身体は、私の占有ではないことになる。
私の死後の魂が薫習されるところは何処だろう。それは薫習者によって決められることになる。私は薫習者ではなく、種子の伝承者に過ぎない。私の種子の主な薫習者は、妻、二人の娘になると思う。生活、情の交流の経験が、他に比して密だからだ。と考えると、私の魂の居場所は、妻、娘たちになるはずだ。その居場所が楽しく心地よいものかは、彼女らの想い次第となる。彼女たちと良好な経験を共にし、心地よい想いを現行させる種子が薫習して貰いたい。
朝日新聞の「折々のことば」で今東光の言が取り上げられていた。「人生はな、冥土までの暇つぶしや。だから、上等の暇つぶしをせにゃあかんのだ」と。
残されたおまけの人生は、そう長い暇はなさそうだが、日々に区切ってみると、暇だけはありそうだ。己に自制を求めて、ゆったりと上等な暇を生きてみたい。良き魂の居場所のためにも、離煩悩棄我執を心掛けたいが、これも煩悩なのだろう。煩悩はなかなか離れて行ってくれそうにない。
母のお菓子遍歴 横山 明美
母のお菓子好きは小さい頃からだったらしい。花の娘盛りに食べ過ぎで東大病院に入院した、と叔父から聞いて、病院と母の存在の落差もあり、当時の様子が想像されてつい笑ってしまう。その頃は浅草の梅園の蜜豆やアンジェラスの洋菓子などを食べまくっていたらしい。家でもかりんとや茶通、酒饅頭などまめに作っていたし、街一番の大きなお菓子屋がさまざまな見本をたくさんの小引き出しに入れ自転車に載せて注文を取りに来ていたが、娘三人の成長とともに母のささやかなお菓子遍歴が新たに始まったのである。好きとなるとそのお菓子には長いこと執心するのが母の流儀であった。
上の姉が結婚するとき相手は放送局の新潟支局勤務であった。弥彦神社で初もうでの人波に大惨事が起きた年で、家族一同これまでゆかりもなかった街の事件に大騒ぎをしたが、報告方々里帰りした姉が両手にずしりと持ってきたのが越後名物笹団子であった。何枚もの笹の葉でくるんだ濃い草色のもちに粒あんが詰まっており、両端がしっかり結わえられている。お菓子であっても体の“ためになる”ものがその頃から母の強い思いになっていたから、この草の色の濃さ、笹の葉の防腐力、小豆の良質蛋白、とそれは喜ぶので、姉夫婦は帰省のたびに買ってくることになった。義兄は男兄弟四人だが早くに母親を亡くしていたから、母のこの喜びようにも一種の感動があったようだ。そしてそれから折につけ我が家の「長男」として何かとやさしい目を向けてくれたのだったが、今は家族のこともほとんどわからなくなった姉に寄り添い、ときに亡くなった一人息子を偲びつつ音楽や庭を訪ねてくる小鳥を友に日々すごしている。こんな義兄に何を送ったら喜ばれるだろうと考えるのは、今の私の義務でもあり楽しみでもある。
下の姉は早く家を出たいと物ごころついたころから思っていた。地元に友人もつくらなかった。大学を出て公務員になり赴任した最初の任地が埼玉の熊谷であった。そのころ私も大学生で姉と同居していたが、よく買ってきたのが熊谷名物の五家寶というもの。お米のはぜたものを水飴でまとめ棒状にし全体に黄な粉をまぶしたもので、どうみても母の好む“体のためになりそうな”お菓子である。これも姉のたまの帰省のみやげの定番になった。安価なことも姉の経済感覚には合っているように思われた。私はよくご馳走してもらったりおそろいのものを買ってもらったりもしたが、姉は故郷の風物にも人にもなぜか思いが薄かった。きょうだいでも生き方に違いがあることを今でも不思議に思う。今は独り暮らしだがそれが急速に物忘れを促進させている。この夏ともに過ごした時、思い出話がはずんだついでに懐かしの五家寶を取り寄せてみたところ、きちんと店の名も覚えており、黄な粉のついた口を拭いつつ記憶が少なからず手繰り寄せられたのは思いのほかのことだった。
高田馬場の駅前にボストンという洋菓子屋があった。そこのⅤマロンという友人お薦めの円い扁平なチョコレート菓子を帰省の折一度買って帰ったのが運の尽きである。洋菓子はバターっ気が多くて危険だが、これは小ぶりでしかも栗餡入りで合格です、と母が言う。帰るたびに買う羽目になった。大体が、休講になったら家に帰ってこいと父に定期券を持たされていたのである。就職すると帰省の時は、電話をすると本郷の近江屋という洋菓子屋の番頭みたいな人がクッキーの箱を下の受付まで届けてくれた。どこかから頂いたそれが田舎住まいの母にはとても都会の味に思えたのだろう。その後も北海道のスズラン甘納豆や代官山のレーズンウィッチなど何年ごとかに飽くなき執心を見せ、それは死ぬまで続いた。お菓子好きは私に十分に遺伝しているが、顔つきで言えば母のそのときどきの嬉しそうな笑顔にはとうてい及ばない。物のあふれる時代に生きている自分をつくづく思う。
煤 山下 弓子
お祭りの様子は御覧になりましたか? 皆人形を持っていたでしょう。あれは最後の、お祭りの締めくくりに使うんです。この日のために何日も前から用意します。なにせ、街の建設記念日ですからね。
娘夫婦も先程、孫を連れて出掛けました。私は留守番です。もう齢ですから、人混みにでかけるより、こうして暖かい家の中にいる方がいいんですよ。それに今年は、煤が降っていますから。
初めて煤を見たのはまだ子供の頃です。やはりお祭りの晩でしたね。私はお友達と一緒に出掛けました。互いに手作りのお人形を見せ合いながら広場へ向かう、その途中で、何か黒いものが目に入ったんです。けれどお祭りの開始時刻も迫っていたので、その時はそのまま過ぎてしまいました。
そうしてお祭りが終わって家に入ろうとした時、体に黒いものがついているのに気付いたのです。擦ってみて、煤だと感じました。お祭りの時についたのかと思い、そのまま家に入ると叱られるかと、全て叩き落としました。その際近くを歩く人が、じろじろ私を見ていましたね。
二度目はまだ若い時です。あの頃は息子が一人いました。娘はまだ生まれる前です。息子はお祭りをとても楽しみにしていました。けれど当日、窓を見たら、黒くて小さなものが降っていたので。ええ、子供の頃見たのと同じです。嫌な予感がして、息子にはお祭りに行かないよう言いました。
けれどこっそり出掛けたようです。人形も取り上げて部屋に閉じこめておいたのに、どうやって外に出たんでしょうねえ。お祭りに行ったのはすぐ分かりましたよ。翌朝、全身に煤をへばり付けて起きてきましたから。息子はどうして分かったのかと、目を白黒させていましたがね。
三度目が今日です。きまって、お祭りの日に降るんです。毎年、お祭りを中止したらどうかと言ってきました。この日は一日、誰も外に出ないことにしたらどうかと。三度目があるんじゃないかと、心配したので。でも、真面目に聞いてくれた人は一人もいませんでした。娘もね、じゃあお母さんは家にいればいいよと言って、孫と一緒に出掛けてしまいました。作らないように見張っていたんですけど、いつの間にか人形も用意してね。
煤が降った年は、病気が流行ります。息子に煤がついているのを見付けた時、すぐに綺麗に洗いました。でも、肌が赤くなる程こすっても、貼り付いたように取れません。息子はその後熱を出しました。体じゅうが焼かれるように熱いと言ってね。よく覚えていますよ。熱で赤くなった肌に、煤が染みのように浮き上がっていたのを。
煤は私にしか見えないようで、他人に話しても信じてもらえません。病気の原因は不明とされています。 花火が始まりましたね。お祭りもそろそろ終わりです。最後は広場の櫓
に火を点けて、その中に人形を投げ入れます。あれだけでも止めたらどうかと言ったんですがね。
私達の先祖は、この辺りに住んでいた小鬼を討伐し、人間の街を造りました。小鬼達は最後に、彼らの住み家だった岩穴に追い詰められ、蒸し焼きにされたそうです。人形を投げ込むのはあの日の再現。そうして先祖の勝利と、街の建設を祝うのです。
ところであなた、あの煤は何だと思いますか?
高句麗 田原 亞彦
最近、北朝鮮の動向が注視されるが、そのルーツが古代の高句麗とオーバーラップしてみえる。
高句麗はBC37年に中国の玄兎郡に朱蒙が創設した。父は扶余王で日光に感応した卵生説話がある。その妻(?)の子のオンジュが建国したのが百済である。
扶余については、騎馬民族・アイヌ・倭人・のツングース系混血民族説、ソロモ王の頃、イスラエルからタルシシ船に乗り中国経由で今の満州の松花江の夫余に到った製鉄民族説がある。扶余、高句麗、百済は兄弟関係である。高句麗は494年に扶余を統合するが、668年唐・新羅の連合軍に破れ滅亡する。
698年には唐により強制移住され朝陽いた高麗系末カク人の大詐栄が渤海国(~926)を創設する。その後王建が935~6年新羅、百済など三国統一して高麗を建国した。北方は渤海である。日本と渤海との使節の交流は盛んで、「続日本紀」によれば、727年に使節が聖武天皇対し渤海は扶余の後継者であり日本と共に扶余の本支であると述べている。今でも親近感を覚える人が多い。
高句麗の故地は衛満の古朝鮮(BC194~108)であった。BC107年に漢の武帝がこれを滅ぼし玄兔郡を置き高句麗を県とし丸都(現北鮮の国境集安・広開土王碑がある)を王都とした。高句麗は、後漢の光武帝に朝貢したが、遼東を頻繁に侵略し抗争を繰り返した。(105年遼東に、118年穢・狛と玄兔へ、121年扶余と、196~220公孫氏と)。 244年魏の母丘倹に破れ丸都城が落城、342前燕に、371年には鮮卑により丸都城落城。343年国内城に遷都した。343年百済、356年新羅おこる。
5世紀には西に北魏と接した。427年に現在の平穣に遷都した。右方の沃租・東穢は高句麗に従属した。一説には沃租はアイヌ人の租と言われる。 高句麗は扶余と同系だから言語風俗が似ている。
高句麗人は、性格は良くないが気力は強く弓をよく使い戦闘に強い好戦的民族であるといわれた。国土は山や峡谷が多く耕地が少なく生活を支えるのに十分でなかった。隋書高麗伝によると、兵器は中国と同じで、刑罰は厳しく反逆者は火あぶりで殺された。
高句麗は地政学的に半島の入り口にある。人物文化全ての入り口通過点であり、中国という当時の先進国に近い位置にあった。満州・粛慎の地にあった扶余人は高句麗百済と続き、新羅は秦人の流れともいわれる。西海岸は住みやすく東側は山岳地帯である。高句麗は半島諸国の中では兄貴的存在であろうか。農耕資源が乏しいが鉱山資源は豊富だろう。シルクロードを始め多くの情報・物質を入手できる位置にある。今でも北鮮と国交のある国は160カ国あるという。国際姓は豊かなのだろう。現在の在日外国人はおよそ223万、うち在日韓国人48万、朝鮮人3.2万人、その日本人の配偶者は約16000人である。現代も国境の垣根は高くはない。
12月のアメリカのこの日 小林 康昭
12月にはいると、街は歳末大売り出しで大賑わいになる。加えて、クリスマスの騒ぎだ。この騒ぎっぷり、キリスト教の国々よりも、日本のほうがはるかに大きい。店頭を派手に飾るのは、お歳暮、お説料理、クリスマスプレゼント。
鳴り響くジングルベルやホワイトクリスマスのメロディーは、ただでさえ喧しい歳末の日本人を高揚させる。でも、どうにも許しがたい気になるのは、讃美歌だ。
♪きよしこの夜♪ ・・・救いの御子は♪・・・、 この「救いの御子」って、イエスキリストのことだ。
もろびと こぞりて♪ ・・・主は来ませり、主は来ませり♪、 この「主」とは、イエスキリストのこと。
神の御子は 今宵いしも♪ ・・・、「神の御子」って、やっぱりイエスキリストのことだ。
こうして、イエスキリストの誕生を、臆面もなく、何週間も、かくも高らかに歌い上げる。お釈迦さんよりも、孔子さんよりも、空海や親鸞や日蓮よりも・・・。日本人って、本当に不可思議な民族だ。
日本のほうが騒ぎが大きい理由は、キリスト教の国々ではクリスマスが近づくほど、清純で静寂な場が重きをなすからだ。その場とは、教会。ミサの場である。その場を目にすると、異教徒の自分でも、粛然とする。
日本でも、その粛然とした場は、実は、教会なのだが、一般の人は関心を向けない。教会のミサに行こう、なんて言わない。何故なら、クリスマスに関心があっても、キリスト教やイエスキリストには関心がない、95%以上の日本人は。
* * *
アメリカも似たような12月だ。巷は、喧騒の渦だが、街の一画の、教会は粛然とした静寂の場だ。
そこに、突如、異端な雰囲気の日が、一日だけ、やって来る。
その日は12月7日。「真珠湾を攻撃された日」。新聞もテレビも、対日戦争の追憶や論壇で埋め尽くされる。この日ばかりは、日頃の友好国日本の影は消え失せて、蛮行、騙し討ち、背信行為などの罵詈雑言が日本に向かって投げつけられた往時の世情を、彷彿と再現させるのだ。
ところで、真珠湾とはパールハーバー(Pearl Harbor)のことだが、本当はうまくない。だって、湾はBayで、Harborは港だ。だから、Pearl Harborは、真珠の港と訳すべきなのだが、そのように呼ぶ日本人はいない。奇妙だ。閑話休題。
まぁ、それはともかくとして、真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊と飛行場を、1941年のこの日、午前7時(ハワイ時刻)に大日本帝国海軍の機動部隊が奇襲攻撃した。日本の時刻で12月8日の午前3時半だった。だから日本では「本日未明、我が帝国陸海空軍は」と、大本営が発表した。その時刻、ワシントンは午後1時。そのワシントンで駐米日本大使が午後2時20分に、国務省のハル国務長官に覚書を手交した。この1時間20分の遅れが、日本側から通告遅延だと、アメリカが日本を誹謗する口実にした。そして、アメリカ国民の世論が、対日戦争に結束を高める動機になった。ルーズベルト大統領の演説がもたらした対日戦争観は、今も、アメリカの国民の間で、大きな影響を残している。
だが、宣戦布告なんて、絶対的な義務ではない。真珠湾攻撃に先立つこと1時間半前、山下奉文将軍に率いられた陸軍部隊は、無通告でパレ―半島に上陸してイギリスを攻撃したのだ。イギリスは抗議もしていない。日本はオランダにも中国にも通告していない。逆に日本はソ連に宣戦布告されたが、日本からは通告していない。だから、アメリカがかくまで騒ぐのは、国内むけの世論喚起なのだ。日本は、なまじっか、通告なんかしなけりゃよかったんだ。
* * *
この日のメディアの筆鋒、論調は鋭い。映像は、目を覆いたくなるほど、醜悪で嫌悪感に満ちている。凄い、という形容では表現できない。こんな、テレビの映像が放映された。
それは、東京軍事裁判の法廷から始まる映像だ。検察側の尋問に東条英機以下の答弁が続く。その答弁に従って、戦時中の映像が随想的に映される。決して、日本国内では見ることが出来ない映像だ。
終焉に近づいて、巣鴨刑務所のなかの被告たちの惨めたらしい姿が、情け容赦なく映し出される。そして、処刑の日。刑場に引き出された囚人服を着せられて手錠姿の東条英機。教戒司の言葉を聞く。階段を登る。壇上で兵士が首に上から下がった綱を巻き付ける。袋を被せて身体全体を包む。しばし時間が過ぎて、唐突に足元の床が開く。物凄い衝撃で袋が落下する。袋が回転して揺れている。その揺れが治まって兵士が袋を外す。検査医が近づく・・・。そのとき、1993年12月7日の午後8時だった。アメリカ国内ではこんな映像を毎年、繰返して放映されてきたのだろう。それで、反戦和平を認識するのだろう。これからも、そうするのだろう。
そして、翌日からは、再び何事もなかったように、クリスマス景気を煽る毎日が、12月24日まで続くのだ。
* * *
一方、日本の12月8日は、戦争に触れること、僅かである。新聞に、二~三段の囲み記事が出る程度だ。テレビに至っては、まったく無視黙殺だ。翻って日本国内で、反戦、平和を認識するのは、終戦日の8月15日だ。日本以外に、この日を祝う国もある。平和が来た、俺たちの時代が来た、と。開戦日と終戦日と、どちらが戦争を認識するに相応しいと言えるか? どちらでも良いじゃないか、と言う人がいるかもしれない。戦争は悪で、戦争はしてはならない、という反省に立つとしたら、戦争が終わった時よりも、戦争を始めたときのほうが重要なのではないか、アメリカで彼の国の12月のこの日を過ごして、感じたことだ。
東大なみ 華岡 正泰
私達の時代、初めて将来の進路に係ったのは中学4、5年生の時だった。勉強が出来て超真面目な連中の多くは当時27校あった国立高校経由 東大、京大等を目指し、私立 特に早慶組は親子兄弟、一族郎党に倣うか本人が凄く憧れての選択で、早稲田では第一、第二高等学院、慶応は予科で国立高校なみの難関だった。私は早稲田が好きでたまらず身内、学校関係者大方の予想を裏切り、家を飛出してまでの早稲田だった。この様に国立と早慶は初めからハッキリ二分され、どちらがどうなどと比較することは全くなかった。それが最近では「早稲田に落ちて東大に入った」とかその逆で、早稲田も東大も受験する、同じ土俵での話を耳にするようになってきた。そんな中 とうとう東大と同じ、東大なみの出来事が起きてしまった。6大学野球で東大と全く同率のリーグ最下位になってしまったのだ。情けないこと夥し。
慶応に連敗すればそうなることは新聞で知ってはいたが、早慶戦は学生時代は勿論、練稲に入ってからもシーズン最低一試合は応援に行くのが私の習い。台風22号の影響で順延になった月曜日、第二試合の応援に出掛けた。然しあんな早慶戦見たことなかった。球場はガラガラ 外野席には誰も居ない。練稲から10名程もネット裏に集ったのは見事だった。試合は逆風を突いてのホームランこそ出たものの7対2での大敗、東大なみ最下位に終ってしまった。
然し、試合は不満足でも伝統の早慶戦には必ず感動的な場面がある。今年もあった。私より年寄と覚しきご老体が二人、目も相当にお悪いらしく一人は息子さん風に、一人は孫娘さん風に介けられて球場に入ってこられた。目は見えなくても、昔とは雰囲気は変ってしまっても、早慶戦ならではの雰囲気に浸りにみえたのだろう。早稲田の先輩に違いない。頭の下がる思いだった。孫娘とご一緒のご老体が私の横の階段を上って帰路につかれた。思わず「よく来られましたね」と声を掛けると孫娘さんの方がニッコリ、大きく頷かれた。一方、面白くない場面もあった。選手がバッターボックスに立つとバックスクリーンに選手の顔、学部、出身高が大写しされる。慶応の選手で工学部、早稲田佐賀と写った者がいた。どうして慶応へ。工学部に入れる程だったら当然 早稲田への推薦枠に入っていた筈。どうせ試験を受けるのなら東大を狙へば良かったのだ。そしたら東大での超一流選手として持てはやされ、今年以上のプロのドラフト指名が受けられただろうに。今 東大は元巨人軍の桑田投手の指導を受けていると聞く。ボヤボヤしてるとリーグ最多の45勝を誇る名門早稲田が又最下位になり兼ねない。野球だけは東大なみになってくれるな と願うばかりである。 おわり
四季の記憶48 「年の瀬」 鈴木 奎三郎
旧暦11月の中気は冬至になる。冬至は1年のケジメをつけるような感じがあり、一番日の短い寂しさもあるが、これからは畳の目ひとつずつ日が延びて、やがて春が来るという楽しみもある。
「ことわざ辞典」(小学館)には冬至についての俗信やことわざがたくさん載っているが、なかでも・・
「冬至冬中冬はじめ」
はなかなか情緒ある素敵な言葉だ。暦の上では冬の真ん中だけれど、本当の冬はこれからだと、いい得て妙な表現ではないか。いつを冬と思うか。冬をどう感じるか。人それぞれに違うものだ。冬至の頃は太陽からの入射角が一番小さくなり、あらゆるものの影が細く長く伸びる。そのくっきりとした影の美しさはこの季節のものだ。ぼくにとっての冬の到来は、吾が仔の散歩の折に、手袋をしていても手がかじかんでくる朝のことだ。
影といえば、子供の頃に読んだ本で、今でもたまに思い出す「影を売った男」というのがある。1800年初期に刊行されたシャミッソーによる中編小説「ペーター・シュミエールの不思議な物語」のひとつである。幸運の金袋と引き換えに、自分の影を悪魔に売った男の運命を描いた有名な寓話だ。表紙は悪魔が男から影を引きはがすモノクロの気味の悪い絵で、強く印象に残っている。いまや人の影を踏むこともないし、自分の影を踏む人もいないが、なぜかこの季節になるとこの小説のことを思い出す。
さて今年も現世に別れを告げ、冥界へ影となっていった人々が数多くいる。この時期になると週刊誌が“哀悼録”として特集する。なかでも一番びっくりしたのは、105才で亡くなった聖路加病院の日野原重明さんだ。講演会に1,2度、当時の会社のトップとの対談のお相手にお願いしたことが1度で、それ以外のことはなかったが、なぜかこの方は死とは無縁のような気がしていた。110、115才と永遠に生き続けるような錯覚に陥っていたのだ。最後は延命治療もお断りになったそうだ。
詩人の大岡信さんは享年86才。会社のトップとの対談などで、2度会食に同席した。銀座の竹葉亭や辻留と記憶しているが、大声で笑い豪快に飲みかつ喰う人・・という印象が残っている。
今年も年末年始を控え、“喪中につき・・”という知らせが26枚も届いた。例年よりも多いような気がする。ご主人、奥様を失くされたというのが7,8枚。なかには、40代の息子さんを失くされたという知らせもあってかける言葉もない。いまとなっては、お悔やみのハガキを出すことしか何をすることもできない。
誰しもが最後に行きつく“THE END”。ぼくもこの春、後期高齢者となって、これまでは漠然と他人事のようにしか考えていなかったことが、にわかに現実的なこととして認識せざるを得ないトシになってきた。その覚悟?をいかに持つべきか・・その時はその時で今から考えても仕方のないことだが、年の瀬はなにかと慌ただしい。
【2017年10月21日定例作品】
ルーズ 照山 忠利
いつのころから人々はシャツをズボンの外に出して着るようになったのだろうか。さすがにワイシャツやブラウスの裾は外に出ていないが、カジュアル系のシャツ類は外に出して着るのが一般的だ。これは老若男女いずれにもあてはまるファッションとなっている。
ルーズソックスというのが流行ったのは30年近く前のことと記憶している。足首までだぶだぶのソックスをおろしてはくスタイルで、女子高校生などが好んでこの流行に乗った。だがこのスタイル、工場現場ではとても見苦しくて許されるものではない。当時私は電子部品工場の総務課長をしていた。高校出たての若い女子社員が多数働いていたが、彼女らに職場でルーズソックスをはくことを禁じた。なぜなら見た目も悪いが何より安全上問題だからだ。多くの回転機械が動いている工場現場では、なるべく足元はすっきりさせておかねばならない。さもないと機械に巻き込まれる恐れがある。この「禁止命令」には相当なブーイングが起こったが職場秩序の維持と安全確保をタテにして方針を貫いた。ずいぶんと若い女子社員の恨みを買ったことだと思う。
いわばこの「ルーズ」なスタイルは近年のスポーツ界において主流となっている。ユニフォームに締まりがなくなってきたように見える。まず野球だが、ズボンの裾をスパイクが隠れんばかりにして着ているのが大多数だ(ストレートスタイル)。日本のプロ野球だけかと思ったら、米大リーグも同じである。あの下にストッキングがあるはずだが、それが全く見えない。逆のタイプもいる。ズボンは膝のところまでで、そこから下はストッキングを大きく露出させている。巨人の阿部のようなはき方だ(ショートスタイル)。昔はONのように脛の半分くらいにズボンとストッキングの境目があり、ストッキングの下の白いソックスがのぞいていた(レギュラースタイル)。元々ストッキングの役目は、怪我(スパイク、肉離れなど)の防止にあるから、それが外に出ようが内にあろうが関係ないといえばそれまでだが、そのレギュラースタイルに馴染んだ目から見ると、裾ダブの今のスタイルにはどうも違和感をおぼえる。学生野球にはまだこの弊は及んでいないようだが、この先いささか心配ではある。
サッカーの場合も昔は、ユニフォームはパンツの中だったが、今はプロアマ例外なく外に出ている。柔道の試合を見ていると、帯を緩く結んでいるために上衣がはだけてゆるゆるになっている選手がいる。相手が技をかけにくくするためにわざと緩く結んでいるとしか思えない。なぜ審判が注意しないのか不思議だ。陸上女子の「へそ出しルック」はすでにおなじみ。あまり違和感がなくなっているが、締まりがないようでけっして見栄えのよいものではない。
こうした「ルーズの波」が及んでほしくないのは大相撲の世界である。まわしの締め方が緩いとそれが伸びて力が入りにくく、ばらけてしまってはそれこそ目もあてられない。九月場所では三横綱が休場して盛り上がりを欠いた。次の九州場所では全力士がそれこそ褌を締め直して気合を入れて臨んでもらいたいものだ。 (了)
長い手紙 横山 明美
近頃の若い世代は手書きの字などなるたけ読みたくないのだという。文章が長いのもだめだとか。留守にするので手近な食材で二三作り置きをし「体にもいいしまあまあの出来だからよければどうぞ…」などとメモを残したら、これも若い者にあとから「ああいうものは書かなくていい」と言われた。文字も文章もなんだかすっかり憎まれっ子である。
義理の母が亡くなったとき、きょうだいが集まって着物の詰まった箪笥を整理していた時のことである。手紙の束が引き出しの底からひっそりと姿を現した。ていねいに和紙に包まれ紐で結わえてあった。実の娘である姉が興味津々の面持ちでそっと取り出した。すべて私から独り暮らしの母にかつて送ったものである。せわしい日々にこんな手紙を書いていたのだと我ながら驚きもし義理の姉四人に囲まれて恥ずかしい思いにもなった。このときの姉たちの表情は瞬間それぞれ違っていたような気がする。ほどいてみるととくに分厚い封筒には覚えがあった。便箋一冊近く要したものだった。こちらのありふれた日常や家族一人一人の様子、母への元気づけを気軽に喋るように書きまくっただけのもので、最後に「読んでいただいてお疲れ様」というつもりで湯気の出たお茶と饅頭のカットを書いていた。
その頃母は隣り合わせに三男の兄一家と住んでいたのだが、社会科の共働き教師の生活は忙しいようで、母は独りだった。夕方になるとよく通りの向かいにある学校の子供たちを窓辺に佇んで影がなくなるまで見ていた。ときどき末っ子の「娘」は神戸市内の山手から訪ねて来ていたが、姉にとって母は明治生まれの一主婦としても尊敬してやまない存在だった。また姉はただ一人“甘えることのできる娘”でもあったから、それと母の寂しさを交換し合って父亡き後の日常はなんとか過ぎていたのである。役人の妻である長姉は年に一度は東京からきちんと伺候してきていた。市内に住む次姉は母にも実によく気配りのできる人だったが、もともと両家拮抗するところがあり二人とも玄関で別れたあとにほっとするようなところが私にも見て取れた。夫である医者の次兄はそんな一人娘の人と家庭をもったため頼られてその両親の面倒を看る形になっていたのである。そこで・・・なんといっても母にとって気が楽なのは四番目の嫁である。しかも蛮族の地関東者である。率直といえば聞こえはいいが当たって砕けろの怖いもの知らずが、母に経験のない気楽さをもたらしたのかもしれない。私たち四男一家は東京で貧しい暮らしをしていたのでよく母の手作りや地元のおいしいものが送られてきた。私はここぞとばかりに近況を取り込んだ礼状を書き続けた。
帰省したある日母に長姉からの手紙を見せられた。達筆のうえ起承転結もきちんと昔からの手紙文の常道を踏まえており、「すごいですね」と少し顔を赤らめて言うと「そうですか・・・」とひとこと。静かに文箱にしまった。我慢強く控えめな人だったが、少し怖くなった。
一度だけ私は都内のその姉の家に行ったことがある。きちんと片付いて障子の桟に指をあてても塵ひとつつかないような住まい。きれいに澄んだおいしい日本茶を蓋つきの茶碗で程よい分量出され、静かに鍋物をいただいて辞去した。文は人なり、とこの時思い当たった。
ある日の夕方「今夜も遅くなります」と同居の娘からメールが届いた。「了解」と返信してみた。
豊後路の秋 鳥谷 靖子
秋が深まる十月初め、大分空港に降り立った。すぐ前に空港特急バスが待っていた。昔は、高速道路などなかったが、今は海岸線を走らず、別府の山沿いを抜けて、大分までノンストップだ。道路の両側にススキの穂が夕日に輝き、遥か向うには別府湾、高崎山まで見える。右側は九州横断道路の手前に十文字高原が広がる。そこは中学の遠足で高原一面に咲く野生のりんどうの花に感動した思い出の場所だ。高崎山トンネルを過ぎると間もなく大分駅に着いた。久しぶりの大分駅は、すっかりリニューアルされていて、中央ヨーロッの駅の様だ。 前半は、駅の隣の数年前にオープンした「JRホテルブロッサム大分」に宿泊。部屋から真正面に高崎山、別府の山々、海が見渡せる。ホテルの看板の天空風呂からは大分の町がパノラマのようだった。台風の多い大分だが幸いその気配もない。天気は秋晴れ。 翌朝から大友宗麟顕彰会の理事長牧さん達から、宗麟のゆかりの地を案内してもらう。江戸時代にキリスト教の痕跡は、奇麗に消されほとんどない。初めに大友館跡に行って驚いた.館跡はここ十年発掘され広い空地になり、これから復元されるそうである。戦国時代権勢を誇った守護大名の大友氏でもあり、屋敷の大殿は二百人が収容できる程の大きさであった。立ち入り禁止になっていたが、少し中に入ってみた。ここで若くして守護大名になった宗麟が、すでに有名になっていたフランシスコ・ザビエルを迎えた地なのだ。スペイン、フランスそしてポルトガルから旅をし、キリスト教の宣教に全生涯をかけたザビエルの胸中。少年時代から海を眺めて南蛮船に胸を膨らませ、憧れていた宗麟、やっと著名なザビエルに会えたのだ。彼の興奮が伝わってくる。ザビエルは四十六歳、宗麟が、二十一歳であった。彼のキリスト教の教えに宗麟は二度も涙を流したそうである
大分駅前にも宗麟像。少し離れてザビエル像。市内の公園には日本で初めて外科病院や孤児院を作った、アルメイダの様子がわかる銅版などが並んでいる。 翌日は臼杵を訪れた。宗麟が家臣の反乱や、敵からの攻撃から身を守るため、臼杵市の海に囲まれた城、丹生城に居城を移した。何百年も大友家は大分市周辺であったが、人生の後半臼杵に住む事に躊躇いはなかったのだろうか。今この城は宝歴大火「1763年」で全焼し、石垣の一部と宗麟の居城の庭しか残っていない。しばらくその庭に立ち止まってみた。小さな池に丸い橋が架かり、池に枯れそうな水蓮の花、池の端に真紅の彼岸花が咲いていた。宗麟とその妻、子供達が二十年近くこの場所で生活し、九州六か国の守護大名として権勢を極めていたのだ。キリスト教に関心を寄せ、教会や宣教師を保護する夫と、夫に尽し愛していながらキリスト教に反対し、教会、宣教師に迫害を続けた妻。結局、宗麟は洗礼を受け、心の優しい妻の召使いの女と共に城から去っていった。キリスト教を受け入れる事も理解さえもしようとしなかった妻が、残された年月をどんな気持ちで海や庭を眺めながらこの城で過ごしたのだろうかと,思いながら臼杵城を跡にする。
大分最後の日、滞在中ずっと世話になった義姉と実家のすぐ近くの神宮寺浦公園へ行く。そこは、「沖の浜」で南蛮貿易の行われた場所でもあり宗麟の銅像がある。丁度九月に豊後に来たザビエルは、十一月にここから小舟で沖に停泊中の南蛮船に乗りインドのゴアに帰った。宗麟もこの浜でザビエルを見送った。その翌年ザビエルは旅先で病死してしまう。宗麟とザビエルのこの出会いは、この後キリシタン大名として後世に名を残す礎となった。
故郷の秋、実家の裏庭にはひっそりと黄色の彼岸花が咲いていた。
曼殊沙華 谷川 亘
私と同じ年生まれの、「長崎物語」という当時の流行歌があります。
『赤い花なら 曼殊沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる ジャガタラお春』。以下三番まである“ご当地ソング”の類の歌です。
哀愁のある、ゆったりとした節回しで、一度聴いたら耳を離れることのない音調です。
後にクールファイブと前川清が絶唱した「長崎は今日も雨だった」。にもあるように、ご当地は雨降りで、阿蘭陀屋敷や石畳が雨露に濡れて輝く光景が、見てもいないのに脳裏をかすめます。
「ジャガタラお春」さんの、数奇にして苦悶に満ちた人生にあっても、望郷の念止まず、我が身の、叶うことないはかなさをジャガタラ文に託したのではないでしょうか?
序ながら申せば、同じ題名のもう一曲。山口百恵さんの歌った「曼殊沙華」の正式の歌名を“マンジューシャカ”と呼ばすのだそうで、それにはそれなりの立派な理屈がある由で、いちいち深入りしていたら際限がありません。
彼岸花、別名曼殊沙華。
聞き及ぶところでは、サンスクリット語の「manjusaka」が音写されてそう呼ぶようになったとのこと。その純白の花を見るものは黒い悪業から隔離されるともいう。
日本では秋の彼岸頃に墓地などに咲く鮮紅色の彼岸花の別名となったとありました。お釈迦様が多くの菩薩様のために大乗のお経を説かれた時、天は蔓陀羅華(マンダラケ:チョウセンアサガオ:白)・摩訶曼陀羅華・蔓殊沙華(マンジュシャゲ:赤)・摩訶蔓殊沙華の四華(四種の蓮華花)を雨(ふ)らせて供養した。とWikipediaにもあります。
実際に曼殊沙華には、赤も白もその他の色もある様なのですが、その“大元”が赤なのかそれとも白だったのか?時間足らずで追求しきれませんでした。
私に取って、この花は実に奇妙奇天烈な花で、そもそも、その名の由来なんて知る由もないうえ、いざ、調べようとしても諸説紛々、「情熱」「独立」と言った縁起良い花ことばもあれば、「死人花」、「地獄花」、「剃刀(カミソリ)花」、「Hurricane Lily」、とか「Red Spider Lily」なんて、恐怖感を持たせる別名まであるのですから、只々混乱するばかりです。
手元に、日高市巾着田の曼殊沙華の載ったパンフレット。その数何と500万本。
ついつい誘われては、“鮮血が酸化”したような、どぎつい赤墨色、隙間すらない花の密度にも、加えて、見物人の多さにも圧倒されて、「もう二度と来るまい」と思っても、この季節に繰り返す行動パターンになっています。
もう沢山。天下に誇る巾着田への関心が遠のいてしまいました。
嫌気さして、会場の喧騒を離れて遊歩道を高麗神社に向かってヨタ歩き。
その道すがら、稲刈り控えたあぜ道に、さりげなく咲く数輪の赤い曼殊沙華。墓場に咲く、これまた遠慮しがちな彼岸花。そうそ、先に訪ねた横瀬の寺坂棚田では、慎ましやかに咲く白い曼珠沙華も見せていただきましたっけ。
錆赤(ショウセキ)色した目立つ姿、ド派手な身なりは持って生まれた身の定め。
それに気づいてか、ひっそりと田圃の畔や墓場に遠慮しがちに花開く彼岸花。
それが、正しくお前さんの“立ち位置”なのですよ。
「クルマ、イナイネエ」 古内 啓毅
前回例会以降の我が身辺雑事。雑事ならぬ大事なことに、9月28日の臨時国会冒頭に解散、明22日に投開票される衆議院の総選挙がある。未だに何のための解散なのか分からない。アベ・ソーリは「自己都合」という本性を隠ぺいし北朝鮮問題などを挙げ「国難突破解散」と強弁して見せた。選挙に対する大方の予想は、初めは大義なき解散であり、自民党がどの程度負けるかであったが、次第にどこまで議席を伸ばすかに変わり、終盤になって自公の圧勝という流れになった。流れが変わったのは、10月10日の公示日前に、「希望の党」小池百合子代表が、合流を求めた民進党でリベラルな人たちを「排除いたします」という傲慢な姿勢を示し、アベ・ソーリに向いていた傲慢批判を弱め自民党に垂れこめていた暗雲を吹き飛ばしてしまったことによるという。
ともあれ何のための選挙か、政治はどこを向いて動いているのか、考えるほどに腹も立つが、明日は予想される雨の中、一票を握りしめ我が意志を投じよう。
とんだ災難でした。8月23日、富士見台駅前の郵便ポスト前で投函のため自転車を降りようとした際、サドルをまたいで上げたつもりの右足が上がらずバランスを失い自転車もろとも横転。ポストそばの鉄柵に左脇腹を強打。息がとまるほどの痛さで思わず〝イテー〞と叫んでしまった。すぐさま整形外科クリニックに駆け込み、肋骨3本骨折、全治1カ月半~2カ月の診断。湿布薬、コルセットの処方を受ける。つくづく、頭で理解する運動機能と具体的な行動との乖離を痛感。しばらくクシャミ、咳、起きあがるときなどに強烈な痛みに苦労。ようやく痛みは解消してきたが自転車にのるのが怖くなってきた。
もう一つは相棒とのお別れです。娘が買い替えて19年もの長い間乗り続けてきた車がこのところ不具合が生じてきたので10月の車検の前に廃車にすることにしたという。〝じゃあ、わしの車を譲ってやるか〞と言ったら、〝喜んで〞と。10月初めに譲渡することにした。
この暮れに3歳になる孫が、娘と散歩の途中駐車場の前で歩を止め、いつもある車が無いのに気付き〝クルマ、イナイネエ〞という。〝そうだねえ、どこへ行ったんでしょうねえ〞と応えながら切ない気持ちになった。総走行距離はおよそ8万キロ、地球2周分。愛着がわくというものだ。クルマ屋さんが引き取りに来たとき、愛車との別れが辛く立ち会えなかったという。
私は、今から54年前、会社に入る前に自動車教習所に通い仮免までいったが、入社後は仕事が忙しく連日残業で教習所に通えず、仮免の有効期間が過ぎ、本免許取得には至らなかった。
60歳が近づき会社生活に終わりが見えてきたころ、リタイア後の楽しみにしていた車を駆ってのゴルフ場通いを想定し、一念発起、運転免許取得にチャレンジすることにした。
1999年1月、59歳直前に、仮免も本試験も一発合格とは参らなかったが、難行苦行の末やっとこさ免許証を手にすることが出来た。
早速、娘が初めに乗っていた車を譲り受け、運転技能を磨き、念願のマイ・カーでのゴルフ行が可能になった。2001年になって新車に乗り換え、しばらく楽しいドライビングが続いたが、2005年6月に会社生活をリタイアしたとたんに長年患ってきた腰の痛みが悪化し歩くのもしんどくなり2005年7月、頸椎脊柱管拡大術を実施。しかし痛みは収まらず10カ月後の2006年5月、脊椎分離すべり症で手術。ようやく痛みは解消、が、左側の手、足に痺れ、感覚麻痺、むくみ等の後遺症に悩まされる。ゴルフはドクターストップ。長距離走行が少なくなり、2008年に一回り小ぶりの車に買い替え、妻の合唱の練習、体操サークルへの送迎、買い物など主として近場回りのドライブなってきた。何れ80歳になったらと考えていたが、娘への譲渡を機に車離れもやむを得ないと判断。それにしても9年余りの長い付き合いだ。愛着もある。10月初めに娘が引き取って行った時は相棒との分かれに寂しさも一入。空っぽの駐車場を見るたび、〝クルマ、イナイネエ〞と。<止め>
古代の言葉 田原 亞彦
人 ことば 文化は三位一体である。およそ氷河期の終わった1万年以前から列島には人が住んでいた。何らかのことば的なもので意志の伝達をしていたに違いない。通説では南方系ことばについで北方系のことばが伝わったとされる。南方ことばではメソポタミアのシュメール語から派生した南インドのタミル語が、多くの単語、文法、稲や習慣、物、精神などで類似しているといわれ、さらにタミルのサンガムの57577の歌が万葉集のもととする説、スンダーランドから流れたポリネシアのマオリ語との類似の説などがある。しかし通説では日本語は類似語のない稀な言語と言われるが、文法などは古朝鮮語と同じで古代語は古朝鮮語の変化したものとの説もある。
7世紀に日本の国名や天皇が認識される以前では、列島は長く倭人、倭国と称されていた。その範囲は列島のみならず半島全体(北方より南方にウエイトが移動)におよび生活の維持・営みが中心で、多民族が混然としていたのではないか。弥生の始期は諸説があるが、温帯ジャポニカ米の痕跡は福岡の板付遺跡である。そこには半島南部の農耕器具や支石墓も出土している。中国や半島の古記録によれば紀元前後の数百年の半島、北九州の状況は漢人系、高句麗、百済、新羅、任那そして倭人が混然としていたらしい。そしてそれぞれの母国語と、その訛りことばで交流していたのではないか。政変による難民であり、燕人、秦人、韓人など多様である。半島では滅亡順でいえば任那、百済、高句麗、新羅である。これらの人々が列島に難民として、あるいは明治時代のように招聘されて渡来したのである。この多民族の会話語が大和ことばのベースになったのである。やりくりことば(ピジン語)から時を経て最終的には新しい言語(クレオール語)が生まれたのである。日本語はクレオール語の新語であり他言語との類似性は薄いのである。
815年に完成した「新撰姓氏録」によると1182氏を神別、皇別、諸蕃に分け、諸蕃は371氏で、うち漢177、百済120、高句麗48、新羅17、任那9氏であり漢と百済で8割をこえている。これらの渡来人が実質的にはわが国の国家体制の基礎を築いたのであろう。
文字は半島では2世紀には伝えられ、列島には明文は無いが、1世紀には「漢委奴国王金印」があり239年に帯方郡に卑弥呼が親書を送っている。漢字の理解はあったであろう。4世紀初めとみられる田の字の土器や5世紀の稲荷山、江田船山古墳の鉄剣の銘などがあるが、400年頃百済の学者が論語と千字文(漢字の教科書)を献上したのが始めと言われる。
記紀や8世紀に完成の万葉集は漢字表記だが漢語としてでなく音の符号として用いられている。万葉集では漢音としては仏語のみ利用されわずか0.3%である。漢文の読法は朝鮮語の吏読(りと)法に習い加点などの日本の訓読法を編み出し、6世紀後半から7世紀はじめには利用されていた。やがて平安時代になり日本の独自の、平・片仮名文字が生み出されてきた。
早稲田佐賀と校歌 華岡 正泰
今年の高校野球第三日目、佐賀県代表として早稲田佐賀(早佐)が出場した。幼稚園から旧制佐賀中学5年を卒業して高等学院(学院)に進むまで佐賀で過ごした私は佐賀は故郷とするところ。それに“早稲田”と冠されては応援は当然、テレビに齧り付いた。早佐は2011年に設立された中高一貫校で甲子園は初出場、野球の名門 宮崎の聖ウルスラ学園を相手に何処まで戦へるか案じられたが5対2で敗れた上、全員安打、毎回奪三振の記録まで献上してしまった。力の差で致し方ないが、残念だったのは選手達の根性が今一つ不足していた様に思はれたことだった。今から10年前、県立佐賀北が初出場、優勝した時はそれが違った。学制改革で私の母校は佐賀西と呼ばれているが北は親戚のようなもの。だからあの時もしっかり応援した。そしたら奇跡が起った。広島の強豪 広陵を相手に4点を追う8回裏 4球押出しの後満塁ホームランが出て逆転勝利、優勝を勝ち取った。最後まで諦めない選手達の根性がそうさせたのだった。そしてあの時はもう一つの楽しみを味わった。選手達の名前が全員、佐賀にしかない佐賀に多い名前だった。選手がバッターボックスに立つたびに同性の知人友人を懐かしみ思いを馳せたのだった。
それらが早佐では違っていた。佐賀人らしい名前は一人も居ない。ナインの出身地は佐賀が1人。後は福岡6、埼玉、鹿児島各1だった。早稲田に入りたくて彼方此方から集まったのだろう。県の高校入試偏差値は1位が我が母校佐賀西で71以上、2位が早佐で70以上となっていた。それで早佐の大学への進学状況を見ると早稲田(推薦)78、今年は東大、京大が無くて国立36、私立では慶応10、明治15、法政11、立教1、上智8、中央21、立命21、同志社9と見事な進学校である。然しこれで早稲田を冠するのはおかしいのではないか。最大の問題は校歌が“都の西北”であることだ。同窓会で早稲田に進まなかった生徒はどんな気持ちで校歌を唱うのだろう。魂は入るまい。明治40年、創立25周年を期して制定された我々の校歌は天下一品、その重量感は学の年輪を積んだ証しであり、生徒、学生、校友の心の拠り所である。粗末に扱ってはならぬと思うのである。
早実、早高も何時の間にか早佐同様系属校と呼ばれているが、両校とも早稲田の地に在る昔からの実業学校、中学校(現高校)で今でも独自の校歌を持つている。大学付属の学院の卒業生は全員学部へ進学する。校歌は勿論“都の西北”。早佐は佐賀市ではなくても大隈侯の出身地佐賀県。附属の学院で良いのではないか。校歌を軽んじてはならぬ、系属のままでの“都の西北”は納得出来ない。今の系属を続けるなら早佐らしい校歌を制定すべきである。 おわり
10月のこの日 小林 康昭
入社して3年目になったばかりのことだ。設計部員だったボクは、施主のところに打ち合わせに行くように、上役から指示された。施主とは建設工事の発注者だ。国道の建設工事は国土交通省、県道の建設工事は県庁、というように。
その時、若い営業部員が、ボクと同行することになった。待ち合わせの場所で、その営業部員はボクを認めると、彼のほうから近づいてきた。上背がある、ヒタリとボクを見詰めて逸らさない眼力のある視線が印象的だった。数歩手前で足を止めると「営業部のヤマグチサクオです」と、上半身を30度に折った。スポーツ系を思わせるその礼儀正しい偉丈夫ぶりにボクは、やや、圧倒された。行き先に向かうタクシーの車中で、彼が差し出した名刺には「山口朔生」とあった。そして「今年、入社したばかりです。よろしくお願いします」と言葉少なに挨拶した。
相手が若年と分かったので、ボクが無遠慮に尋ねると「中央大学の土木を出た」と、彼は答えた。大体、建設会社の営業部というところは、海千山千の魑魅魍魎がのさばる、百鬼夜行どもの巣窟である。純朴な若者に適した場所ではない。土木や建築の技術社員は通常、入社すると直ぐに、工事現場か設計部か技術研究所に回されて、技術者として鍛えられるのだ。「お互い、土木屋同士だ、仲良くやろうヤ」と、うわべばかりのお愛想で言葉を返した。
山口クンとのコンビはいつの間にか解消し、彼は会社から姿を消した。彼の存在すらも忘れてしまった。
* * *
その5年前、大学の二年生のときだった。その頃のボクの日常生活の最大の関心事は、割の良いアルバイトにありつくことだった。建設現場の作業、測量の補助、銭湯の掃除、デパートの配達、通便局の葉書の仕分け、芸者置屋の小使い、食堂の皿洗い、宿直番、守衛、電話の交換手、図面引き、事務補助、模擬試験の監督・・・、何でもやった。
毎朝、登校すると真っ直ぐに、二号館の学生課の部屋にむかう。そして、壁に貼られたビラを眺めて、意中の仕事を備えつけのカードに書き込んで、事務員に手渡す。授業が終わると、学生課の部屋に戻ってきて、事務員から返事を貰う。希望が適わないと、仕方なく不本意だが、残っているビラの中から選んで、申し込むことになる。
最大の狙い目は、家庭教師だった。一週間に二日、一日二時間、夕食付。この条件で一か月三千円から四千円。特に、数学を担当すると、待遇が良かった。家庭教師は競争が激しい。原則として上級生優先。一年生はまず、当たらない。自分の通学経路上に、先方の所在地があることも、重要な条件だった。入学直後から希望して申し込みを続けたが、一度も機会がなかった。二年生になっても、希望が適う兆しは見えなかった。
10月のこの日も、相変わらず、惰性のように家庭教師のビラを眺めた。ビラの一つに、通学経路の途中、山手線の駅から徒歩7分、先方が希望する教科は数学と英語、相手は中学二年生の男子、とあった。ボクは、いつものように、淡々と、そのビラに記された番号をカードに書き込んで、事務員の前に置かれた箱の中に放り込んだ。
放課後、事務員に名乗り出ると「今から、ココに電話して打合せして!」と、一枚の紙を差し出した。先方の住所と電話番号が記入されていた。家庭教師のアルバイトの念願が、やっと適った瞬間だった。
ボクの懐事情は逼迫していた。その日限りのアルバイトだけでは、卒業まで持ちこたえられなかっただろう。家庭教師にありつけたことで、その後の学生生活を恙無く送ることが出来たのだ。
* * *
はやる気持ちを抑えて電話すると「今夜から来てくれ」と言う。指定された時刻まで二時間。まず、靴の修理をすることにした。通学路の西門を出たところに、靴の修理屋があった。その場で、革靴のかかとを直して貰う。修理が終わるまで待っている間、ボクは店が貸してくれたサンダルをひっかけて、店の壁にぶら下がったトランジスタラジオの実況放送を聞いていた。ボクは予備知識がなかったが、聴いているうちに、政治家たちの立会い演説であることが、漠然と分かってきた。だが、ラジオから流れ出る音声では、会場がとてもやかましく、演説はヤジにかき消されてしまって、しゃべっている内容が少しも聴きとれない。
ようやく、靴の修理が終わった。靴に履き替えて、代金を店の主人に払った。そのとき、ラジオから「騒々しいので、静粛に・・・」みたいに、会場の聴衆に向かって注意する、司会者らしいアナウンサーの声が流れていた。
早稲田通りに出て高田馬場駅近くで、行きつけの床屋に入った。顔なじみの理髪師がボクの番についた。ボクが椅子に座ると、その理髪師が鏡越しに「今、浅沼さんが刺されたそうですヨ」と、語りかけてきた。演説会の檀上で若い男に襲われた、ということだった。ボクは「今まで、俺はラジオで演説会を聞いてたんだヨ」と応じた。
靴と髪の毛を整えて身支度を済ませたので、ボクは目指す家庭教師の家を訪問した。そして、待ち構えていた母親と中学生の当人と相見えた。「二年後に私立大学の理工学部を受験したい」ということだった。
早速、家庭教師の第一日が始まった。終わって階下の食堂に入ると、父親が晩酌をしながらテレビを観ていた。「刺された浅沼稲次郎は死んだ、下手人は山口二矢」と報じていた。この日は10月12日だった。
* * *
ボクの相棒を務めた山口朔生クンは長男だった。一歳違いの弟がいた。この次男坊は二月二十二日に生まれた。父親は、この子に「二の因縁」を感じて、命名にあたって「二」の文字を選んだ。これに矢を添えて「二矢」と名付け「オトヤ」と読ませた。山口朔生クンは二矢の兄である出自の詮索を避けて、人知れず身を引いたのだった。
四季の記憶47 「目黒のさんま」 鈴木 奎三郎
旧暦9月中気は「霜降」。いまの暦で10月も下旬になると、朝晩の冷気が次第に増してきて、山のほうでは夜のうちに葉に宿った露が薄い霜になって白く染める。山の紅葉も日増しに色濃くなり、紅葉しない木々の葉も黄色や褐色に替わって、日本の四季の美しさが際立ってくる。高原の山麓や農家の庭先などにピンクのコスモスが咲き乱れ風に揺れている。ヒガンバナも群がって咲いている。
ぼくの通った中学は、自宅が学区の一番のはずれで、子供の足で優に40分はかかった。毎日が遠足のような距離だった。町の中心部を抜けると、稲刈の時期にはあたり一面、農道やあぜ道にはコスモスやサルビアが咲き乱れていた。子供心にもその美しさはいまだに脳裏に焼き付いていて、それがぼくの故郷の小さかった頃の原風景だ。
10月は神無月と呼ばれている。全国の神々は出雲の神のもとに集まるのでその間は神様が不在というわけだ。その代り出雲大社では旧暦10月11日から17日の間神在祭の神事が行われる。ぼくが勤めていた会社では、昭和の初めから新暦の神無月には、商いの神である出雲大社に社長が参詣し、一年間の繁盛を祈願するという習慣があった。出雲はその名の如く常に雲が涌き、一日のうちに霧、雨、晴れが何回も繰り返されるという。しかしぼくが社長に同行した5回は、ほとんど雨も降らず飛行機の欠航がなかったことは不思議なことだった。
さて、秋の味覚を代表するさんま。今月でそろそろ旬が終わる頃だが、7~9月の漁獲量は前年の5割減だという。鮭も4割減ったそうで、海水温の変化や台湾、中国の漁船による乱獲などが原因とみられ、記録的な不漁となった昨年をさらに下回る可能性があるとのこと。スーパーや鮮魚店の販売価格も前年に比べて3~4倍になっているそうだ。
9月上旬に高校の仲間と恒例の北海道旅行に出かけたが、帯広でも千歳でも地元の居酒屋にさんまがなく、代わりにホッケを頼んで残念な思いをした。要するに入荷がないということだった。考えてみたら、今年は本当に美味しいさんまを食べた記憶がない。冷凍物でないものをと思い、新宿伊勢丹の地下の食品売り場で求めたものは、大ぶりのものだったが、なんといっぴき800円もした。ここまでくると、さんまはもはや高級魚だ。そこそこの味だったが、子供の頃に母が七輪で焼いてくれた味ではなかった。あの頃のさんまは大型の七輪の炭火の上に脂がたれ落ちて、炎がひとしきり燃え上がった。煙とさんまの焦げた匂いが混じりあって一層の食欲を誘った。辛い大根おろしで焼きたてのさんまをご飯いっぱい食べるのは、母の笑顔とともに家族全員が幸せなひと時であった。あの頃はいまのようにグルメ満載のおかずがなかったせいもあるけれど、さんまの味はぼくの食の原点である。新婚の頃、小さな七輪を買ってきて備長炭を用意して何度か庭先でさんまをやいたりしたが、あまりの煙がご近所迷惑かと思いいつの間にかやめてしまった。
江戸落語の名作に「目黒のさんま」というのがある。落語好きなら知っている話で、いまさら筋書きをいうのも野暮なことだが、殿様が鷹狩に出て帰る途中、目黒のあたりですっかり空腹を覚え、通りがかりの農家に焼きたてのさんまを所望する。いつもはお毒見の後の冷えた焼き魚しか食べたことのない殿様にとって、野趣あふれる炭火焼のさんまはあまりに美味しかったので「さんまは目黒に限る」と仰せられるオチになる。
現役の頃は業務上、何度か築地や赤坂の高級店で一人数万円の懐石料理なるものをいただいたが、いずれも旬のさんまには及ばない。子供の頃のノスタルジーだけではないと思うのだが・・。
大友宗麟 その2 鳥谷 靖子
その昔大分が豊後の国と言われていた室町時代の末期、当主大友義艦は不慮の死を遂げ、長男の宗麟が当主となった。彼が元服の折、叔父である山内氏から贈られた愛馬に乗り、海を眺めて少年時代を過ごした。その沖の浜の海は我が家から数分位の所にあり、 私も少女時代毎週のように訪れた思い出の場所であった。そこからは、国東半島から佐賀関半島まで大きく見渡せ、左方向は別府湾に張り出した高崎山や別府の町を見下ろすように鶴見岳、由布岳の山々が聳え
別府の町のあちこちから温泉の白い湯煙が上がるのがみえる。右手遠方には晴れた日には、佐賀関也四国まで見渡す事が出来た。白い波しぶきの上には、トビウオが跳ね時には、太刀魚の泳ぐ姿冴えみる事ができた。宗麟の人生は、海と深く繋がっていた。
何より宗麟の心をときめかしたのは、父の時代から始めた対明貿易や南蛮貿易での異国の人々との交流であった。巨大な十字の帆を張ったポルトガル船が停泊すると、異文化への好奇心で一杯になり、未知の世界に憧れていくのであった。
しかし、若い宗麟が領主として国を治めていくのは大変なことであった。過去の奔放な生活も影響し家臣の中で反旗を翻す輩も少なくなかった。しかし、聡明さと外交能力も備えていた宗麟は次第に民心を掴んでいくのである。
宗麟は鹿児島でのフランシスコ・ザビエルの名声を聞き、山口に滞在していた彼を豊後に招聘した。ザビエルはスペインのナバール王国の名家の三男としてザビエル城で生まれ、パリ大学で神学を学んだ。並外れた信仰の深さはと謙遜な人柄は、ポルトガル国王のジョアン三世を心酔させ、国王がザビエルを国に留める為に東インドへの出航を翻意させようとした程だった。
宗麟はザビエルから通訳を交えて多くの西欧世界の知識を聞くことができた。宗麟は毎日のように新鮮な食糧を持参し、ザビエルに会いに南蛮船にでかけた。これまで逢った事の無いザビエルの澄み切った目と、煩悩を超えた清貧で謙遜な姿は、生涯宗麟の心深く刻まれた。
キリスト教に対しても、東洋の果てに何年も辛い旅をしてまで、布教を行う姿勢に興味をもった。そしてザビエルからの希望は全て受け入れ、領内に宣教師が住む屋敷の提供、伝道の許可、伝道所の開設を許した。その代りとして、大砲や鉄砲等、貴重な交易品の貿易が沖の浜で行い、大友家は莫大な富を得ることとなった。鉄砲や貴重な品は、宗麟から朝廷への、献上品となり、大友家の政治力は格段に上った。宗麟の進取の精神と外交能力は並外れていたのである。
ザビエルは沖の浜から去ったが、代わりの有能な神父、修道士の派遣を約束した。ザビエルは翌年、中国での布教の旅の途中47歳で壮絶な生涯を終えた。
ザビエルからの贈り物であるマリア像を大切にし、心の支えとしていた宗麟にとってザビエルの死の衝撃は大きかった。
その後、多くのポルトガル船が定期的に沖の浜に停泊するようになり、府内「大分」の町は異国の人々で溢れ、教会や聖堂も出来た。聖堂には白い十字架が付けられ、そこではミサや説教も行われ宗麟も子供とミサに参加した。宗麟のキリシタン保護政策のおかげで、ポルトガルが目指した「胡椒と霊魂」、つまり交易と布教が成功したかのように見えた。ザビエルが残した修道士アルメイダの年齢は30歳、25歳であった宗麟と近かった。アルメイダは宗麟の主治医として、友として30年も豊後で暮らした。しかしそのアルメイダも、宣教師のトップであったトルレス神父も、宗麟を信者に改宗させることは出来なかった。宗麟は女癖も悪く、時折耳を疑うような残虐な事件を起こし、度々トルレス神父を落胆させた。宗麟はキリスト教を保護しながら、頑なに改宗はしないまま数十年過ぎていったのだった。
宗麟の生い立ちと、領主としての境遇がそうさせていたのかと思うものの、約500年近い今日でも我々を引き付ける魅力に惹かれるのである。 つづく
【2017年8月17日定例作品】
三回忌 照山 忠利
お経が苦手である。どんなに厳粛な法要の席であっても、私にとってお坊さんの唱えるお経は心地よい子守歌になってしまうのだ。
6月に叔父、叔母の三回忌があった。場所は茨城県那珂市の古刹で約700年前の創建という。広い境内は大きな樹木で囲われうっそうとしている。
定刻の11時を前に黒服を着た親類縁者が集まり、挨拶を交わしている。葬儀も含めこれまでの法要で何度も会っているのでお互い顔なじみになっている。総勢30人ほどか。
開式の前に墨染の衣をまとった次席のお坊さん(副住職)が着座の人たちに般若心経のコピーを配り、あわせて焼香時の作法について説明した。この次席は寅さん映画に出てくる「タコ社長」を少し細身にしたようで、顔の色つやも愛想もよい。「般若心経はお経のときに一緒に唱えてください。それから焼香の際はまず合掌して遺影に一礼してから、一歩前に進み出て、左手は立てたまま右手でお香を二度つまんだ後に礼拝してください」。これまで何度も聞いているので「わかってるよ」といいたいところを抑えて、神妙に拝聴する。
次席の注意が終わると主役の方丈様の登場である。軽い咳払いなどしながらお出ましになる。装束も次席とは違い格段に立派なものだ。おごそかに威厳をもってといいたいところだが、この方は遺憾ながら小柄で重々しさがない。寅さん映画の「御前様」(笠智衆)を田舎風にしたような感じだ。お猿さんに似てなくもない。そしていよいよ問題のお経が始まる。最初の部分に般若心経が入るので、一同コピーのルビを見ながら唱和する。ここまではいい。次いで本番の読経に入る。聞いてもまったく意味がわからないから、つい目をつぶったりする。始めの2,3分はいいが、それからは睡魔が忍び寄ってくる。厳粛な席で居眠りなどしてはならじと懸命に眠気と闘うが、こういう場合は必ず負ける。思わずコックリコックリして他の顰蹙をかわないか大いに心配になるが、間もなく古稀になろうという人生の中で無作法をなじられたこともない。己の修行の足りなさを反省もせずに、他の人たちも似たようなものだろうと高を括る。悪い癖だ。だいたい神主が神様に捧げる祝詞は、正確な意味はわからなくとも何となく唱えている中味を想像することが出来るが、お経の方はまるでちんぷんかんぷん。もっと意味がわかるようなお経をあげろ!と心で叫んでも駄目。子守歌に聞こえてしまうのだから致し方ない。15分間の有難い(?)お経が終わり安眠から覚めると、睡魔に負けた自責の念とともに、故人に対して礼を失したのではないかと後ろめたい気分になるのはいつものことである。(叔父さん叔母さん許されよ。)
一同の焼香が終わると方丈様の法話となる。笠智衆がどんな有難いお話を聞かせてくれるのか、お経で寝てしまった分固唾をのんで耳を傾ける。「皆さん本日は大変ご苦労さまでした。早いものでご夫妻が亡くなられて三回忌を迎えました」(実際にはまだ1年10か月と1年5か月だが)。「故人も皆さんが元気で長生きできるように願っております。そのためには食事と運動に気をつけて生活習慣病にならないようにすることが大事です」などとのたまう。何のことはない、ありふれた健康話を勿体ぶって言っているだけのことだ。期待を裏切ることおびただしく、大いにがっかりした。見るとこの方丈様、年季が入っているようだがあまり生気が感じられない。失礼ながらどうやら先はそう長くなさそうにみえる。今の法話は自分への戒めであったのか。そういえば「タコ社長」の次席はどこかウキウキしたような表情をしている。この寺が自分の天下となるのはもうすぐだと顔に書いてあるようだった。
法要の儀式が終わると次はお斎だ。施主の同級生がやっている町内のレストランへ向かう。ここは洋食屋でありながら表のテーブル席の裏側奥に広い座敷を備えている。田舎の店ではこういう設えが重宝されるのだろう。この席で施主の弟嫁が、小さな折箱に入った柴又の草団子を配ってくれた。下町育ちらしく気が利いている。「とらや」のつねおばちゃんに少し似ている。葛飾から来たこの人には前回もその前にも草団子の分け前にあずかっていたので、今回もひそかに楽しみにしていたところだった。緑色のだんごに素朴な甘さのあんこがからまっている。「土産にもらった草団子」、帰宅後に熱いお茶でこれをいただくことを楽しみに最寄りの駅へ急いだ。まるで寅さん映画の一端をみているような三回忌であった。
(了)
稲田氏は「空」で厚化粧をしたのか 大野 力
多くの物議を起こしていた稲田防衛大臣が辞任した。辞任会見の後で、記者から、今の心境を問を問われて、一瞬まを置いて「空です」と薄笑いをしながら答えていた。稲田氏はこの「空」で何を言おうとしたのか、深い意味があるのかどうなのか、興味を感じた。
「空」を手元の電子辞書で見てみると、1、そら。地面から上のなにも無い所。「空間」「天空」「空を切る」「空を掴む」。2、から。あいていること、むなしいこと、「空白」「空虚」。3、事実でないこと。よりどころがないこと。「架空」「空想」。4、むだであること「空費」。5、〈仏〉もろもろの事物は縁起によって、成り立っており、永遠不変の固定的実体がないということ。特に般若心経や中観派によって主張され、大乗仏教の根本心理とされる。「色即是空 空即是色」となっている。
私は1998年に日本語訳が出版された、S・ハッチントンの「文明の衝突」が、ソ連の崩壊後では、宗教の衝突の時代になるだろう、との主張に興味を感じ、小室直樹の「日本人のための宗教言論」読んだことがある。
それによると、「空」をこのように言っている。無というのは有に対立する概念であるのに対して「空」はその両者を超えた概念である、即ち「空」は有でもなければ無でもない、と同時に有であり無である、また有と無以外ものである、有無を超越して相互依存と同義である。
またこうも言っている。 この世に存在するものすべては実体がない、すべて因縁によって存在するようになったものだ、これが「空」である。「色即是空 空即是色」は森羅万象は空である。しかも「空」から森羅万象が発生する。 私の頭の中では難解な言葉が空回りして、凡人の理解を超えて難しい。
「空」は,高僧や大哲学者さえ、なかなか理解困難なものであり、「空」がわかれば、すぐさま仏様になれるとまでいわれいる、と小室氏が言っているほどだから、愚人には理解不能にちがいない。だが、諦めることもない、氏は二つの例をあげて、私の理解を助けてくれている。
愚管抄の著者の慈円(13世紀)の歌がある。
ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり
庵は「建築する」といわず、「結ぶ」といった。そこらへんにある柴をかきよせて結んで作ったから庵になる。結びを解いてしまえば、そこには何もない。この歌は明快に「空」を説明している。この例によって、「庵という実在はない」ということが了解されよう。「結ぶ」ことがなければ、庵は存在しない。無である。柴を「結ぶ」ことにより、庵は有に変換される。「空即是色」である。が、「結び」を解けば、庵はなくなる。有は無に変換される。「色即是空」である。「有」と「無」とは、「結ぶ」ことによって、たちまち自由に変換される。
露と落ち 露と消えゆる 我が身かな 浪華のことは 夢のまた夢
世に名高い豊臣秀吉の辞世の句である。夢とは実在ではないが、ときには確かに存在していると思っている。虎に襲われた夢を見たとしよう。大概の人は、「夢なんだから食われてしまえ」などと思わず必死になって逃げるものだ。この夢とは何か、現世を考えてみると、実は夢と変わるところはない。一刹那前のことは、一刹那後にはもはや存在しないのだから。秀吉は貧しい農家にうまれ、そこから足軽、侍大将、ついには摂政関白にまでなった。それは現実のことなのか、夢ではいけないのか。我々の識・心こそが、ものごとを実相し作り上げ、決定してると思うとき、それを現実のことと思うのが誤りなのではないのか。
この二つの例によって、「空」の概念をおぼろげながらも理解することにした。
辞任式に栄誉礼で送られた稲田氏が、晴々しく満面の笑みで、贈られた花束を抱え、車窓から手を振って防衛省を去る様をテレビニュースでみて、私は呆気にとられ、空しくも思った。稲田氏の「空」の意味するところは、正体難解な「空」などではなく、「記者さんたち、あなたたちは空想の中で、空回りをしただけよ、ご苦労さん」と云ったのだと思った。化粧に熱心な稲田氏のこと、哲学的な言葉を衣装として使ったのかも知れない。ちょっと真面目に考えた自分に呆れている。
空と云う 正体みたり あつ化粧
稲田氏は、衣装とまつ毛とメーキャップに、たっぷり時間をかけたのだろう。満足そうであった。 幽霊の 正体みたり 枯れ尾花 の戯れ句が想い出された。これも空かと、思うことにした。
小澤征爾さんからのおくりもの KOTO REIKO
先月の7月29日(土曜日)、長野県奥志賀高原の「森の音楽堂」で、小澤征爾さんが2年ぶりに若い音楽家たちのためにタクトを振った。奥志賀高原の緑の中に立つ瀟洒な音楽堂で400名ほどの観客が弦楽四重奏曲の演奏に耳を傾けた。演奏家たちの年齢は18歳から27歳。多くは、海外の音楽大学や大学院で修業中の演奏家である。彼らは、演奏会の一か月ほど前から奥志賀高原に集合、世界的に有名な音楽家、原田禎夫氏や川本嘉子氏などの指導の下、練習に励んできた。日本、台湾、中国、韓国などの、技術が認められて招聘された演奏家たちである。そして、演奏日の1週間前にはそれらの指導者に小澤征爾さんが加わって音楽堂での最後の演奏曲のタクトを振る。
今年で32回目を迎えたこの音楽会は、昨年、一昨年は小澤さんの体調不良で行われなかったので、2年ぶりの演奏会に私達の期待は大きかった。但し、昨年は、小澤さん不在でも若き演奏家たちのコンマスのお蔭で、小澤さん不在を感じさせないほどの素晴らしい演奏を行った。
小澤さんはスキーが大好きで、日本にいる間は一家で志賀高原に来て、元オリンピック選手の杉山進氏にこの数十年間、スキーを習っている。小澤さんは気さくなかたで、数年前、オーストリアに杉山スクールのスキーツアーで出かけ、どこかの空港の待合所で、まだドイツで指揮者として活躍していらっしゃった小澤さんが、テニスのラケットを片手に、私達の所へ表れた。
小澤さんと志賀高原とのつながりは長くて深いのであるが、ある時、奥志賀高原地域の人達が、小澤さんに「奥志賀高原に合うものはなんでしょうか」と尋ねたそうだ。すると小澤さんは「音楽堂を作ったら」という提案をされた。そして、奥志賀高原の「森の音楽堂」が1991年1月9日、小澤征爾さん指揮の「森のオーケストラ」によるベートーヴェンの「第九」でオープニングした。以来、多岐にわたるコンサートを催している。雪の結晶をイメージした六角フォルムの小さなホールでは、音色とともに鼓動までもが感じられるほどパフォーマーとの距離が近く、音楽堂にいるすべての人達の心が融けあい、一つになるように感じられる。
当日、万雷の拍手に迎えられて指揮者の場に立った小澤さんは、いつものように笑顔に満ち溢れていた。ひとたび演奏が始まると演奏家は真剣に小澤さんのタクトと左手を見つめ続け、音の世界に引き込まれる。なぜかひとたび小澤さんがタクトを振ると、音楽がまるで今までとは違うような音を奏でる。小澤さんの左手の指がかもす不思議な世界が演奏家を音の崇高な世界に導いていくようである。最初に小澤さんのタクトを拝見した時、私は“音楽が物語となる”と感じた。まるで音がストーリーを語るような気がするのである。
小澤さんのタクトをこんな間近で見て、その音を聞き、何かを感じる幸せを、私は小澤さんからの目に見えない極上の贈り物だと思っている。話は変わるが…
1998年、冬季オリンピックが長野で行われ、その4年後、志賀高原の東舘山滑降スキー大会が催された。ゲストの小澤さんが第一走者で杉山先生が第二走者だった。レースは、滑走タイムではなくオリンピックコースを滑るという貴重な経験をできるという機会であったから、数百人がこのレースに参加した。私もその一人であった。
全出場者が滑走後、表彰式が執り行われた。
突然、私のゼッケン番号を呼ばれ、何が起きたのか分からないまま表彰台に上った。授与者は小澤さんだったので、小澤さんと握手の栄誉を得た。完走した選手の中で、ゼッケン番号で抽選があり、私の281番が一位だったのである。私は表彰式後奥志賀のスキースクールでレッスンを受けるべく移動してしまったもので、表彰式後のことは、全く知らなかった。スキーのレッスンを受けている時、ふと遠くに先頭の人が板を担いでいる数名の集団が歩いている。奇妙なものを見たと思ったら宿舎に賞品の板を届けてくれた親切な友人がいて、その時表彰式の第一位の賞品が小賀坂のスキー板であったことはその時知った。
私は残念ながら表彰式では、偉大な世界の指揮者に握手をしてもらったことしか覚えていないのだが、勿論この281番を選んでくださったのは小澤征爾さんである。
私はゼッケンに小澤さんからサインをいただき、今もずっとそれを大切に持っている。
♪ふるさとは遠きにありて♪ 古内 啓毅
早朝や深夜に電話のベルが鳴ると、悪い予感が走る。暗の定、先月末の早朝の電話は、田舎にいる姉から、義姉が、午前2時前に亡くなったとの知らせであった。
義姉は、3年前87歳で亡くなった長兄の妻で、脳梗塞で倒れ入退院を繰り返していたが言語機能、運動機能が低下し、食べ物の嚥下もままならない状態になり、点滴や胃ろうによる栄養補給を施していたが、自宅に戻ることもなく84年の生涯を閉じることになった。
長兄は、昭和18年、高等小学校を終え15歳で、志願して予科練(土浦海軍航空隊飛行予科練修生)に入隊するが、運よく長崎・大浦で出撃待機中に終戦となり無事生還。帰郷してからは、旧制中学に編入、卒業。長男であったため進学を断念し郷里の国民学校准訓導に奉職。が、職業軍人で公職追放となり農協勤務へ、のち町役場へ転職、という経過をたどる。
義姉はそんな状況の総領に嫁ぐが、コンビニ風の萬屋の自営業を助け、両親、6人もの弟妹という大所帯の切り盛りなど船出から苦労が多かった。嫁姑の問題もあったろう。自分の子育ても加わる。時が経ち、弟妹たちが独立し巣立って行ったあとも、毎年繰り返される盆暮れなどの子連れ里帰りは、大変な負担で心休まる暇もなかったと思う。
長兄は役場の中で課長、助役と順調に昇進し、還暦前であったが、推されて町長選に立候補し初当選。以後4期連続という長期にわたり町政を担うが、この間も義姉は裏方として長兄を支えた。しかし、少しはそれまでの苦労が報われた時期ではなかったかと思う。
長兄夫妻が健在だったころ、きょうだいは家族を連れ、きょうだい会と称し、年に一度、鳴子、松島、秋保、長野など各地の温泉場に集い互いの絆を確かめあったものだ。そんな折、苦労をかけた兄嫁さんに感謝の意を表し、少しは恩返しが出来たときだったかもしれない。
大黒柱のような存在であった長兄が亡くなり、一昨年の一周忌、昨年の三回忌、そして今般の義姉の葬儀、告別式。この3年、きょうだいが顔を合わせたのは、かつてのようなにぎにぎしい場ではなく抹香ただよう場であった。しかも高齢になり身体不自由で出席出来ないきょうだいもあり、全員集合とは参らない状況になってきた。
室生犀星は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」と歌う。この詩は、遠方にあって故郷を思う詩と考えていたが、大岡信は、そうではない、「上京した室生犀星が志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、帰郷した折に作った詩である。故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れ難い。それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである。」と解説する。
わが故郷に冷ややかさを感じるものはないが、家族や友に黄泉の国へ旅たつ人が年々多くなり寂しさが募る。故郷は遠くなる。
故郷には間もなく米寿を迎える長姉が残る。長姉は元気で野菜作りが達者で季節季節に野菜を送ってくれる。長姉が元気なうちは年に一度は会いに行こうと思う。この秋に、きょうだい、いとこたちに声をかけ地元の温泉場に集結し、たがいの絆を確かめる計画を考えている。そして、
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな(啄木)」
静かにそんな心境に浸りたい。 (止)
甲子園の8月 小林 康昭
8月8日の火曜日。台風5号の影響で順延となった翌日のこの日、第99回の全国高等学校野球選手権大会、すなわち夏の甲子園大会の開会式を、自宅のテレビで見ていた。49の代表校の選手たちが入場してきた。高校名を記したプラカードを掲げる制服姿の女子高生が、各チームの先頭に立っている。選手のユニフォーム姿と女子高生の制服姿の取り合せには、まったく違和感がない。むしろ、誇り高くプラカードを掲げて進む彼女たちの姿に、共感を覚えるほどだ。
彼女たちは、西宮の市立高校の在校生から選ばれる。希望者が多くて、選抜に際しては、悲喜こもごもあるようだ。役を務めた女生徒が結婚し、その娘が高校生になってプラカードを手にするという、親子二代の話も伝わっている。
プラカードを渡されて、担当するチームの選手たちと初めて対面した彼女たちが、彼らの余りのハンサムぶり?に恥ずかしくなって後ろを向けなくなった、という逸話もある。彼女たちが誘導する選手たちのユニフォーム姿の凛々しさが、若い心を刺激するのだろう。一朝一夕でユニフォーム姿は板につかない。猛練習を長いあいだ重ねて、次第にサマになってくる。だから、ユニフォーム姿が似合うとは、凛々しさが身に付いたということでもある。若者の凛々しさ精悍さは、ハンサムにもイケメンにも勝るというわけだ。
場内を回った49校の選手たち全員は、センター後方のスコアボールドの前で列を整える。その49列の一団が、プラカードを掲げた49人の女生徒を先頭に、足並みをそろえてバックネットに向かって行進を始める。行進が始まった途端、スタンド全体から期せずして大きな拍手がわき上がる。圧巻そのもの、迫力ある光景は、鳥肌が立つほど感動的だ。
数十年前に内野席に座って、その瞬間の迫力に圧倒された、その感動を思い出す。
* * *
足並みそろえて迫ってくる白地に黒い校名。お陰で代表校の校名が分かる。ところが、背後に並ぶ選手たちのユニフォームのほとんどは、ローマ字表示だ。残念なことに、ローマ字表示は一読しただけでは、理解が難しい。例えば、中京商業は、CHUSHOと六文字で表示するが、中央商業とも中国商業とも読める。そのCHUSHOを中京商業と特定できるのは、予備知識があるからだ。なければ特定はできない。ユニフォームに漢字で僅か四文字、中京商業とつければ、正確にしかも一目で特定が出来るのだ。そもそも、表意文字の漢字には、素早く意味を読み取れる長所がある。一方、動き回る選手のユニフォームに記されたローマ字綴りを、素早く読み取ることは難しい。だから、ローマ字表示の習慣を、個人的には賛成できない。漢字の表示にすべきだと思う。作新学院、敦賀気比、智辯、天理のように。 そのローマ字表示に日本人が違和感を持たない理由は、百年以上の長い歴史があるからだ。発端は、創成期の早稲田や慶応などのユニフォームにある。当時の旧制高校や専門学校の生徒たちは、身分意識が強かった。だから、野球選手たちは気取って、アメリカの野球チームに倣ってローマ字表示、つまりアルファベットで校名を綴って、カッコつけたつもりだった。その上級学校の野球選手たちのハイカラぶったユニフォームを、中等学校の野球選手たちも倣ったのだ。
* * *
この甲子園大会につながる全国大会は、1915(大正4)年に始まった。当時の日本は、日露戦争が1905(明治38)年に終わって10年、日本も参戦した第1次大戦が1914(大正3)年に始まってその翌年、国内では大正デモクラシーの運動、風潮、思想が渦巻いた時代だった。
ここからは、一つの仮説だが、その風潮に治安の面から内務省、教育の面から文部省が危機感を抱いた。仮説とはもっともらしいが、独断による想像である。当局は、中等学校のなかの、特に実業学校の生徒たちの実態に関心を払ったらしい。当時の中等学校は、上級学校に進学する中学校と、進学がほとんど阻止されている商業、工業、農業などの実業学校を並列させる複式学制を布いていた。その実業学校の多くの生徒が、不良化し中退が頻発する実態が指摘された。
そこで、沈滞しがちな実業学校を対象に、活性化の方策が思慮された。その一つが部活、つまり、スポーツの振興だった。当時、体操の授業では、相撲、剣道、柔道などの武術を必修にしていた。だが、武術では、新味も刺激も乏しい。
目をつけたのが、一高や早稲田がアメリカから取り入れた野球だった。既に幾つかの中等学校は、部活に取り入れていた。この野球を、全国の中等学校に競わせる。それには全国大会だ!
そう考えた知恵者が、使者を大阪の朝日新聞本社に送った。当時、最大の新聞社は毎日だったが、何故か毎日でなく、朝日にした。アマチュア的な行事に朝日が好意的だ、と見抜いたのだろう。朝日はその提案を受け入れた。
* * *
企画された動機から、出場する選手たちの品行方正に足る矜持が、強く意識された。精神的な理念の確立である。
その理念は、武士道精神のもとで厳しい練習を積んでいた一高野球部と、クリスチャンで平和主義を信条とする安倍磯雄に率いられて一高野球に対抗する力をつけていった早稲田大学野球部、その早稲田大学野球部で野球を教育の一貫とする信条で指導した飛田穂州に由来する。この精神性は、甲子園大会のみならず、全国の中等学校、そして現在の高等学校の野球理念につながる。それは、野球による人間教育を意義とする日本学生野球憲章に具現化されている。
結果として、甲子園の常連に多くの実業学校が名を連ねる。目論見は実を結んだのだ。高校野球に求める倫理性は、関係者の間ばかりか、社会的にも広く共有されていく。高校野球のスキャンダルが、特に厳しく詮議される所以だ。
今年の夏の甲子園大会は、閉会式を迎える23日まで、8月中の14日間にわたって行われる予定だという。
一年中新茶を汲む 本田 はじめ
あなたは新茶を味わったことがありますか。新茶は「走り茶」とも呼ばれ、俳句の夏の季語として喜ばれる。私は、こどもの頃から、茶畑に囲まれて育った。茶といえば、宇治茶といわれるが、今や、名茶の産地は、全国に拡がり紅茶とコーヒーに席巻されていた地球上に、緑茶が普及し始めた。静岡県・愛知県が生産の1・2を争っている。
宇治茶も年1万トンを出荷しているが、実は、地元京都では3,000トンしか生産していない。7,000トンは、九州の茶園で大部分は、鹿児島県で栽培している。
5月立夏を過ぎると、期間は短いが新茶が出廻る。昔は、村中総出で、こどもも学校を休んで茶摘みをした、茶の新葉を一所懸命摘むと良いアルバイトになった。農家が庭のかまどで大釜に蒸籠(せいろう)を重ねて、生葉を蒸す。昔は、直径が1メートル以上の平笊(ひらざる)に、ばら撒いて、女たちが、せっせっと手の平で揉み巻いて、天日で乾していたが、今は、蒸気を吹きつけ、コンベアと回転籠で熱風が乾かし、1,000キログラムが200キログラムに減る。今年は、手摘みが、1キログラム2万円以上になった。バリカン摘みなら1万円ぐらいであるが、小枝などが混じっている。
私は、知り合いの農家から、毎年3万円ほどを、100グラム分けで作ってもらって、まとめ買いし、冷凍庫に保管する。という訳で1年中、新茶を汲んでいる。茶道に凝っていた女房は他界してしまったが、今も続けて買っている。
新茶の良いところは、まるで今朝摘んできたように初い初いしいことだ。香りを楽しんだ後も、茶殻は、ドレッシングをかけるとほうれん草のように美味しい。皆さんもやってみてください。体の為にも良いという。
四季の記憶46 「火宅の人」 鈴木 奎三郎
旧暦7月の節気は立秋である。8月も半ばを過ぎて雨の降る日が多くなり、あの猛暑も幾分和らいできたような感じである。生来痩身のせいか、若いころは夏場が一番好きな季節であったし、また冬場も生まれが信州の厳寒地であったせいか冬にも強く、全天候型が自慢だった。しかし、近年はそうも言っていられなくなってきた。よく昔はお年寄りが「トシはとりたくないね・・」といっていたのが現実のわが身となってきたのだ。確かにトシはとりたくないものだ。
わが家は石神井公園から歩いて数分のところである。新婚の頃から住み始めたので、もう45年近くになる。ここに居を構えたのは、やはり石神井公園の景観によるところが大きい。会社に入って数年目の頃、お中元お歳暮のお届けで、石神井池の風致地区にあるコーセー化粧品の創業者小林孝三郎さんの自宅に何度か伺ったことがあり、その時の印象が強く残っていたからだ。父親代わりの長兄から、結婚後の住まいはどうするのかと聞かれ、アパートでも探します・・と答えたところ、どこか家を探してきなさいと言われ、すぐに思いついたのが石神井公園であった。
以来、建て替えをして今日に至るが、最後の無頼派といわれた人気作家の檀一雄宅も公園駅から歩いて数分のところにある。このお宅を昭和50年夏に訪問し、一度だけお目にかかったことがある。ちょうど今頃の暑い時期だったので、この季節が来ると必ず思いだすのだ。
当時ぼくは会社の広報室で働いていた。担当のひとつに、男性週刊誌があり、なかでも当時の「週刊新潮」は最大にして最強の週刊誌だった。要するに怖いメディアだった。当時化粧品業界は、再販制度の問題の帰趨が極めて微妙な時期にあり、新聞、テレビ、雑誌はじめあらゆるメディアへの対策が喫緊の課題だった。「週刊新潮」とは、宣伝部の広告出稿以外のツテはなく、なにかもうひとつの別なパイプを作る必要があった。そこで考えたのが同誌におけるタイアップ企画の展開である。当時、週刊誌に大きな影響力のあった評論家の草柳大蔵さんに相談にあがり、「週刊新潮」でタイアップ企画を進めることにした。企画は活版3分の1ページ、当面1年間の連載、ライターはフリーランス3人、アンカーは草柳さんが務める・・という体制でスタートした。タイトルは「ヤング考今学」。現代社会の若者の最先端の情報やファッションをルポする・・というもので、末尾に「提供・資生堂」といれる。コラムのデザインは、草柳さんの推薦で当代きってのデザイナー、ライトパブリシティの村越譲さんに依頼した。
2年間続いた企画は山あり谷あり・・毎週締切りギリギリで草柳さんの自宅でいただいた原稿を早稲田矢来町の新潮社に持ち込むのは何度か深夜に及んだ。このシリーズの何回目かで大失敗をし今でも忘れられないのが、檀一雄さんの名前を一夫さんに間違えたことだ。これがわかった時は発売の前夜・・輪転機が廻り終わった頃だ。草柳さんやライターのせいにはできない。翌朝店頭に並ぶ前にお詫びに行くしかない。もちろん電話で済ますわけにはいかない。作家名鑑で自宅を調べたところ、石神井町でわが家から数分のところだ。夕刻の蝉しぐれのなかをお宅に伺った。長身の美しい婦人が出てきた。ああ、この人が「火宅の人」に出てくる女性?と思いながら待っていると、檀さんが着流し姿で出てきた。来意を告げお詫びしたところ、以外にもあっさり、「よく間違えられるんだよ・・」とさほど意に介さない。
ホッとしてお詫びの品をお渡しして早々に辞した。このお宅は先ごろバス通りの付け替えで取り壊された。いまは高い松が1,2本残っているだけだ。若いころのひと夏の記憶である。
豆腐 華岡 正泰
家内の入院中 近くに住むそれこそ70年来の友人が「これでも食ってろ」と見舞いの品を届けてくれた。箱を開けると“森永の絹ごし豆腐”とある。インスタントの米飯、麺類同様お湯でも注ぐのかと思ったら、何と出てきたのは豆腐そのもの。“冷や奴”て食べたら程よく腰もあって中々の味。これには驚いた。説明書に曰く 1) 牛乳で培った無菌充填技術を豆腐に応用した 2) 保存料、防腐剤不使用 3) 冷蔵保存で製造から10ヶ月保存可能 と。
豆腐は古くから最も身近な食品として用いられ、我家でも子供の頃の朝の味噌汁は決まって微塵切りの豆腐、昭和26~29年 法学部の学生だった弟との自炊生活時代も三日に空けず豆腐を食べていた。当時の家計簿を見ると豆腐一丁10円、牛乳13、納豆8、こんにゃく7、コッペパン15、うどんひと玉16円の時代。朝に夕にラッパを合図に売りに来る豆腐は窓越しに手軽に買へたのと、貧乏学生兄弟には一丁10円は手ごろな買物だった。それともう一つ、腹の足しがあった。あの頃のひと月分の配給米はご飯で食べるのが十日、お粥にして引き伸ばして十日、あとの十日は麺類、パン、芋、カボチャ等の代用食だった。豆腐の半、一丁は結構腹の足しになったのだった。
今日、和食は健康食として世界中で持て囃されているが、豆腐は大豆を絞って簡単に作れることから、これを手製して低カロリーのダイエット食品として売出し成功している欧州人のことがテレビに流されていた。 豆腐のカロリーは100g当り絹ごしで56kcal,木綿ごし72. ご飯の168kcalに比べると可成り低い。思へば自炊当時、食べ物がなくて瘦せ細っていたというのにダイエット食品を多食していたことになる。知らぬこととは言へ恐ろしいことだった。然し一方、豆腐を今様栄養学的に考察すると 豆腐は良質大豆100%を原料とするから大豆の栄養素をそのまま保持し、中でも蛋白質は一丁で20.4g,これは豚肉ソテー用124g,卵3 .5個、ご飯茶碗6杯 790gにも相当するらしい。残念ながら弟は二年前に他界したが、私がこうして元気で居られるのは多食していた豆腐が低カロリーとしては痩せこけ身体に入り込む余地がなく、栄養面でのプラスに作用してくれた所為なのだろう。
夜も明けぬ内から一家総出で豆腐つくりに勤しんだ街の豆腐屋は大型店や生鮮食料品まで扱うネット販売との闘いに敗れ、この10年間で4割以上も減ったそうである。先日郵便局に行ったら局扱いの中元商品として森永の長期保存可能豆腐のパンプレットが置かれていた。流通経路変革の上にこの様な豆腐の出現とあっては豆腐屋は又々苦境に立たされるに違いない。然し消費者から支持されないと生き残ることは出来ない。何とか活路を見出してほしいものだ。
古代のガラス 田原 亞彦
黒曜石は天然のガラスである。人工のガラスはエジプトとメソポタミアでBC23C頃つくられた。当初は棒の先に粘土と砂をつけ、溶かしたガラスを巻きつけたりして瓶状にし、中をくり抜いてつくった不純物の多い不透明なものであった。BC1Cに至りシリアで吹きガラスの製法が開発された。これらの技術はローマ帝国に伝わり領内(エジプト、シリアも領内)でローマンガラスとして量産され、3~4世紀には多くの技法が完成した。
ガラス製品の伝播ルートはフェ二キア時代からの貿易港シドン(現在のレバノンのサイダ港)からの輸出と、ローマの殖民地があった南ロシアの黒海北岸からバイカル湖に到るステップルートを通じてである。更に4世紀以降北魏が首都とした大同に伝わり朝鮮半島特に新羅の慶州に至っている。
ガラス製品をもたらしたのは、シルクロードの商人と言われたソクド人である。慶州にはソクド人と見られる石人像もあり、ローマから使節や工人・文物がきた国際都市の様相が残されている。
古代の日本でのガラスをみよう。2012年発掘の長岡京の宇津久志古墳の重層ガラス玉は1~4世紀の帝政ローマ時代のもので国内最古、中国南部でも出土があり南海ルート伝播か。天理大の円形切子碗は正倉院の白瑠璃碗(6世紀頃)より古い4世紀以前のササン朝伝来と2016年に公表。奈良橿原市古墳出土の切子ガラスは5~7世紀のササン朝の高級品と同じ化学組成であった。(2014・7)
2016年10月発見の765年の木簡によると平城京にペルシャ人の役人がいた。続日本紀に736年に遣唐使が3人の唐人と共に帰国し聖武天皇に会うとある。752年東大寺の開眼法要はインド僧がおこなった。唐招提寺の鑑真和上の二代目住職は中国揚州のソクド人である。
ソクド人は本来中国の甘粛省(かんしゅくしょう)からBC2C頃匈奴に追われ中央アジアのサマルカンド、ブラハなどソクデアナ地域を本拠とするイラン系古代人である。
古代の日本には蜻蛉玉の技法はあっても吹きガラス技法は無い。正倉院には白瑠璃碗や紺瑠璃杯、1021年に平氏が納入した瑠璃壷などがある。宋製かイスラム製かの違いはあるが、ガラスの中でも瑠璃ガラスが好まれたことは「うつぼ物語」にも語られている。しかし国内での生産はみられず、16世紀になりスペイン、ポルトガル、オランダがらの輸入があった。ようやく18世紀になって大阪、江戸。薩摩での生産がみられた
古代から、ガラスの生産技術はユダヤ人が独占していたらしい。ユダヤ人は繊維業宝石にも強く、流浪の民である民族はシルクロードを伝い移転し中国など東方にも多くの痕跡を残している。ローマガラスは「ナトロン」と言う蒸発塩を使うのが特徴だがエジプトに産地があり、シリアと共にガラスの産地であった。
Homeposition 谷川 亘
生き長らえて三四半世紀。お国からの厳命により、誰彼構わず十把一絡げにして「後期高齢者」呼ばわり。なんで(こんなに元気な)この俺までが・・・。と力んでみたのもそれはほんのつかの間。
遡って、古希過ぎてからは、“犬の遠吠え”に似て、自らを鼓舞しては、敢えて空元気出しているのに気付いている私でもありました。勇んで登頂した富士山にしても下りの砂っ走りでは力尽きてブル(何だかお分かりですか?)のお世話になり、我が祖先と崇め奉り、夏季限定ゴンドラ付き谷川岳登山も、リーダー役拝命して、下見登山は勇躍完登できたものの疲労困憊。それに懲りて本番は天神尾根回りコースの“B班”リーダーに降格。山から岡へ、そして、丘から里へ・・・。ならば、拙宅起点の一万歩5コースに格下げしても、おざなりになりつつあったのが丁度5年前。
体力から知力への方向転換。
英文タイプライターってご存知でしょう。
これを習得したのはニキビ盛りの頃。
若いくせに小憎らしい、お高ぶった、それでいて、妙に人様引きずり込む花形先生。津田塾のタイピング教室には、習得目途と魔力に満ちた先生の“二人連れ”に引きずり込まれたのです。
【A S D F J K L ;】はキーボードのホームポジション。「スタートはいつでもここに指先が置ける習慣づけしっかりねっ!!」。なんて(言われたりして・・・)。
卒業試験は、“一分間何Word”だったのか?その数値なんかは今更どうでも良いのですが、いかつい形相の、ストロークの途轍も深いOlivettiとかUnder woodとかいう手動英文タイプライターのお世話になったものでした。
でも、会得と体得では似て非なるもの。ちゃんと体が覚えているんですよ。
相手変わってキーボード。パソコン時代に対峙しても、Home positionに自然と指先が行くのは“これ摩訶不思議”の世界なのであります。
仕事人生ではワープロに始まって「一太郎」に「花子」の時代。パソコンはシャープMZシリーズ。その後も、進化極まりない“電子計算機”に必死にしがみついてきたのです。
折も折、OB会のパソコン教室でHomepageを発行して見たら、とのお誘いがありました。でも甲斐性なしの私にとっては、押し付けがましく、身勝手にも駄作を人様にさらけ出すような恥さらしは、許されるものかどうかを自問自答したものです。とは申せ、エッセイ風の「月初のご挨拶」に続く拙作続きの「フォトアルバム」。継続は力なり。8月号は60号の大台を突破することに相成りました。
ペン持つ指先の代行役として、わが意思をタイプライターもどきを介して表現する。パソコン時代に転じては、重宝この上ない、悪筆回避、計算音痴部分の“助っ人”としての役割分担もしていただけるようになった最大の功労者。
改めて、我が人生。タイプライターにその源を発し、“電子計算機”からパソコン・コンピューターに至る進化過程に伴って恩恵を甘受させていただきました。
http://tanikawa6666.jimdo.com/
【2017年6月17日定例作品】
浄玻璃の鏡 照山 忠利
「浄玻璃の鏡の前に立つまでは秘めておきたしあのこともこのことも」。
これは私が秩父に勤務していたころ、今は故人となったが当時東京芸大名誉教授のN先生にいただいた色紙に認められていた言葉である。浄玻璃の鏡とは、閻魔大王が亡者を裁くときに用いる水晶でできた鏡のことで、この鏡の前でウソをつけばたちどころにばれて舌を抜かれるという。つまり人にはあの世に行くまで秘密にしておきたいことがいろいろあるのさということか。
N先生は豊前(福岡県)の生まれで鋳金の大家として知られ、ご自宅は練馬の石神井町にあった。教授退官後に秩父の横瀬町内に工房を構えられた。会社の社有地の一部をこの工房の敷地に提供した関係で親しくお付き合いをいただいた。飾らない人柄でお酒をこよなく愛し、工房の炉の上がり框で湯呑に注いだ冷酒をゆっくり飲みながらおしゃべりをするのを好まれた。季節はちょうど今頃であったか、ある日「十和田湖の乙女の像がきたよ」との連絡が入った。早速工房に駆けつけてみるといたいた。湖畔でみるとさほどでもないが、工房に入った乙女たちはその空間をすべて占めるほどの圧倒的な存在感である。先生はこの乙女の像の傷んだ台座の修復を依頼されたのだった。
修復を終えた乙女の像の傍らで、暮れゆく夕闇を眺めながら酒をちびちびやっていると、どこからともなく蛍が一つまたひとつと飛んできた。まことに幻想的な瞬間で、蛍の舞う背後には武甲山の山麓があった。
その思い出の武甲山を訪ねて先日、エッセイ同好会の有志6名で秩父遠征を敢行した。所沢発7:54の特急レッドアロー号に乗車、終点の一つ手前の横瀬駅で下車。三菱マテリアル横瀬工場でセメントの生産工程を見学。100人の社員が武甲山の石灰石を原料に年間100万トンのセメントを造り、関東内陸部に供給している。特筆すべきは徹底した省力化と公害防止対策、そして廃棄物処理の多様さであった。設備の自動化で人手を省き、騒音・粉塵・臭気・トラックによる公害を防ぎ、廃棄物処理は石炭灰から廃プラスチック、下水汚泥、肉骨粉にまで及ぶという説明を受けた。
午後はいよいよ菱光石灰工業宇根鉱山の見学。武甲山(1304m)の山腹の、今は900mレベルで石灰石を採掘している。まず事務所で、どういうわけか理科の教師が着るような白衣にゴム長、ヘルメットという奇妙ないでたちになった。次いで鉱山車(三菱デリカ)に乗り、山腹をくりぬいたらせん坑道を通り、一気に1000mを登って山頂へ。この間約25分。眼下に秩父盆地を一望し、そして眼前には超大型重機が唸りをあげて行き交う石灰石の採掘フィールド。このような光景はよほどチャンスに恵まれなければ決してお目にかかれないものだ。採掘跡の長大な残壁には景観保全のために懸命な緑化の努力がなされていた。
鉱山を下りて札所4番(金昌寺)に参拝し、無数の石仏に手を合わせながら家内安全を祈願。そこで南の空をふと見上げると武甲山がデーンと聳え立っている。あの山頂についさっきまで立っていたのにと不思議な感覚にとらわれた。
宿で温泉に浸かり秩父ワインと地元料理を堪能した後、興に乗って出かけた秩父の街のカラオケ酒場。そこには幽玄な蛍はおろか優美な蝶の姿もない。大きな蛾のようなママさんが鱗粉をまき散らしながらマイクを持って飛び回っていた。
N名誉教授は芸大の学長の座を、かの平山郁夫氏と争ったそうだから、あの世に行くまで秘しておきたいことがいろいろあったのかもしれない。しかしわれわれ凡人には浄玻璃の鏡に映されるまでもなく、さほどの秘密などあるはずもない。せいぜいカラオケ演歌で心の憂さを晴らすのが関の山というところだろう。
(了)
60年安保騒動の6月 小林 康昭
その頃、ボクは午後5時半から10時半まで、浜町の料亭でアルバイトをしていた。午後5時までに大学を出て、昼番の電話交換手のお姉さんと交代する。その傍ら、仲居さんや板前たちの出退勤を記録する夜勤番も務める。指示を受けて、芸者、三味線弾き、幇間、噺家、相撲の親方たちを電話で呼び出したりした。加えて週に2回、宿直があった。
料亭は、ニュース映画のフィルムや新聞写真の現像と編集をするプレスセンターを併営していた。センターでは毎週、ニュース映画を試写していた。映像に向かって、宮田輝や高橋圭三が台詞を吹き込む。ボクは試写室の後ろで、映像を眺めた。週を追って安保を巡る場面が増えてきた。録音が済むとアナウンサーたちは、交換台に電話をかけてくる。夜食に、宮田輝はたぬきうどん、高橋圭三はきつね蕎麦を註文した。
センターでアルバイトをしていた法政と日大の学生が、昼間、大学をさぼってデモ隊に加わり、国会や霞が関を放浪してくる。そして、ボクに現地報告をした。ボクは遠い世界の出来事のように、その報告を聴いていた。
翌朝、下宿から大学に向かう。授業を受ける15号館は、大隈講堂前の正門から入って、大隈銅像を通り過ぎ、商学部の横を右折して、北に進んで4番目の校舎。背後の塀の外は、道路を隔てて安部球場だ。理工学部の校舎群のなかでも、最も喧騒から遠い場所にあった。だから、騒動には無関心でいられたのだ。
戸山校舎や大久保校舎は、まだない。3万余の学生は本部構内に押し込められていた。そのなかで、30人程度の活動家が立て看板を立て、メガホンを手にがなりたてていた。その30人がやがて300人、そして次第に膨れ上がっていく。
5月20日の金曜日だった。教室に見知らぬ学生が入ってきて、教壇の上から檄を飛ばし始めた。“昨日の深夜、国会に警官隊を導入して、新安保を単独可決したことは許せない。ワレワレはこの暴挙に断固たる行動に出るべきだ”と。誰も制しなかった。誰かが活動家を誘導したのかもしれない。始業時刻を過ぎていたが、何故か教員は来ない。活動家が去って、教室が自由討議の場に変った。とめどなく時間が過ぎていく。5時になったのでボクはバイト先に向かう。柳永二郎という大物俳優が設けた豪華な宴席の、お相伴にあずかる賓客たちの電話を取り次ぐのに忙しい。一方で、センターでは、生々しい写真が山積みされていく。「法政」と「日大」の現地報告が、さらにその臨場感をあおる。
6月15日の水曜日の夜は宿直番だった。交換台の機器を止めて宿直室に向かおう、としたとき、センターの産経新聞の一画で興奮した声が起きた。“国会でデモ中の学生が死んだ!”騒然となって、みんな、電話にかじりついた。
翌日の朝の6月16日(木)は宿直明けで、バイト先から直接大学に向かう。教室には誰もいなかった。シュプレヒコールの怒声が、窓を閉め切った無人の教室に、遠慮なく入り込んでくる。その授業は偶々専門科目だったので、担当の教員を研究室に訪ねた。“休講にしてくれ、と言われたから”と、教員は涼しい顔で応えた。級友たちは集会室にたむろして、デモに参加しよう、と気勢をあげていた。衆議一決、全員(だと思う)が国会に向かうことになった。
早稲田から都電に乗って、途中で1回乗り換えて三宅坂まで来ると“前の電車がつかえているから、ここから歩いてくれ”と車掌に促された。電車の周りは、道路いっぱいにデモの人々が埋め尽くしている。遠くで、ハンドマイクの威勢が良いアジ演説が響いているが、人々の表情はピクニックかハイキングを愉しんでいる風情だった。電車を降りた我々が、車道を歩いていると、交通巡査から“歩道にあがって!“と注意される。その注意に従う。交通巡査には逆らわない。青信号になった横断歩道で、交通巡査が”早くわたって!“とみんなを急かす。急かされて横断歩道を渡った我々は、その先で警官隊ともみ合うのだ。”これって、牧歌的なお遊びじゃないの“と思った。行く先に目処があるわけではなかった。
歩いているうちに、偶々、早大法学部と文学部のプラカードの一団に出会った。お互いに襟証を確かめ合うと”おう、おう“と気勢をかけ合って合流する。そこに”私たちも入れて下さい“と共立女子大のグループが加わった。警官隊が遠巻きに警戒しているなか、国会を一巡した。霞が関の官庁街を通り抜けた。警視庁前では、一段と気勢が上がった。正門まで押し込んで”学友、返せ!“を連発する。学友とは、樺美智子のことだ。扉は閉じられ、その前に若い警官が3重の人垣で固めている。表情を変えず、デモ隊とは視線を合わさず、虚空に目を向けている警官たちは多分、ボクたちより若いんじゃないか、と思った。若い彼らのその時の心情はどうだったのかな、と時々、思うことがある。
4時半を過ぎたので、ボクはデモ隊から抜けてバイト先に向かった。仕事について暫くすると、「法政」と「日大」がやってきた。お互い現地報告をし合う。ほとんど、ピクニック報告のノリである。センターは、気違いのように忙しく、試写室からは、高揚した録音の音声が流れてきた。ボクの安保騒動体験はそこまでだった。
センターは改築工事に入って、「法政」と「日大」は別の作業場に移った。それで、彼らとは疎遠になって、情報交換の機会がなくなった。秋になって、神宮外苑で偶然、「法政」と遭った。お互い、六大学野球の観戦の帰りだった。
「法政」は、新安保が自然承認される6月19日(日)の午前0時、国会前で大勢のデモ隊に混じって、夜を明かしたそうだ。その時刻が近付くと、あちこちからシュプレヒコールが湧きあがる。なかに、早稲田の校歌を歌う一団がいて“ヤメロ、ヤメロ”と声がかかった。意気が上がらなくなって、次第に憂鬱になったとき、女性が歌いだした。
“ゆうやぁけ こやけぇの あかとんぼぉ・・・”か細く、ときどき、震える声で。静まり返ったなか、みんな黙りこんで、その歌声を聴きいった。歌が終わったけれど、拍手は起きなかったそうだ。
議事堂に弔旗なけれど樺の忌
大友宗麟 1 鳥谷 靖子
四年前の平成13年にポルトガルへ旅行した。訪れたリスボンのテージョ川岸の大航海時代のモニュメントの巨大な大理石の船の側面に、エンリケ航海大使を先頭に世界一周したマゼラン、バスコダ、ガマ等の中に、日本でもよく知られているフランシスコ、ザビエルがいた。現地人ガイドは「日本に最初にキリスト教を伝えたのはポルトガルです。宣教師の一人のアルメイダは医師でもあり、日本で最初の西洋式病院を建設、その病院は現在も残っています。」と説明した。
私は昔、親戚がアルメイダ病院の話をしていた事を思いだした。「もしかすると故郷の話の事かも」と、ガイドの青年に「アルメイダ病院は九州の大分ですか?」と尋ねると、「何故知ってるの?」と不思議そうな顔で「そうです。」と答えた。
昔、大分とポルトガルは遠くでも近い国であった。今でも、大分では、「ザビエル」や、ポルトガル語で「こんにちは」を意味する「ボン・ディア」は地元を代表するお菓子の名前として良く知られている。また、大分は、ポルトガルと同様、美しく青く、また穏やかな瀬戸内海に面している。私の家は、かつて先祖が釣用の別邸に使用していたため、埋め立てられる前は、海辺に位置していた。
家から数分の所に幼馴染との遊び場でもあった神宮寺浦公園があった。そこには大きな台座の上にキリシタン大名で有名な大友宗麟の銅像と、南蛮貿易の記念碑が立っていた。もともと、そこには、船着き場や桟橋があったそうである。遊び疲れて、よく宗麟像を眺めたのを思い出す。遠くの海を眺めるように左手に刀、右手に胸の十字架を押えた彼の姿は、幼かった私にとって強く印象に残っている。
年を重ね、故郷を懐かしく思う時、500年前に同じ場所で時を過ごした宗麟のことを知りたいと思うようになった。彼の祖先は源頼朝に寵愛された武家の一族で、二度の蒙古襲来の際活躍した大功労者でもあった。宗麟はその二十一代目に当たる。
宗麟は優しかった母を6歳で失い、父から離れ別邸に住むように命じられた。父は継母との間にもうけた三男を溺愛するなど、満たされない孤独な少年時代を過ごした。
そんな中、彼は馬を走らせ、母が愛した海を眺める毎日を過ごしていたが、ある日大砲の爆音とともに現れた、巨大で見たこともない南蛮船に、当時16歳の宗麟は恐れと同時に、強い憧れや好奇心を抱いたのではないかと思われる。
しばらくして、大友家で継母を中心とした跡目争い「大友二階崩れの変」が勃発、父の義鑑、継母、三男などが殺害された。この争いに宗麟が関与していたかは謎とされている。
20歳になったばかりで跡目を継いだ宗麟は、粗暴で欲望のまま行動し、漁色に溺れ、乱行を重ねたが、一方で宗麟は戦国の武将としての並外れた優れたバランス感覚と能力を備えていた。時代は戦国時代の真只中で、九州でも各地で小競り合いの戦闘が始まっていた。
宗麟は父親の時代に開始されていた南蛮貿易をさらに拡大し、海外の優れた武器である、鉄砲、弾薬、大砲等をいち早く購入するため、周防(山口)の叔父の大内氏に頼み、彼のもとで庇護を受けていたフランシスコ・ザビエルを大分に招待した。この招待にザビエルは快く応じた。
宗麟にとってこの出会いは、その後の人生を大きく変えるきっかけとなった。
宗麟の人生はその後輝き始めるのだが、戦国大名、領主としての立場もあり、まだまだ長い年月が必要であった。(つづく)
物書きの鉄則と本性 大野 力
テレビの全盛期を支えた俳優、ミュージシャン、テレビ作家たちが繰り返すエピソードを扱ったコメデイー風の連続ドラマ、テレビ朝日の「やすらぎの郷」は、出演者世代と重なることもあって、エピソードに親近感を感じて、ほどほどに愉しんでいる。
話の中で、女優の一人が同居中の著名な人気テレビ作家に、彼の考えを聞いている場面がある。彼女はかって小説を書いたことがあった。作品が友人のエピソードに触れた部分に、その友人がいたく傷ついたことを知人に言われ、悩んだすえに出版を取りやめた、本人を傷つけるつもりは全くなかったが、以来書くのをやめている、今思うに出版しておけば良かったのでは、との問いかけに対して、彼はこう答えていた。「物書きには物書きの鉄則がある。例え100万人を感動させても、1人を傷つけてはいけないということだ」と。
これはこの番組の原作脚本を書いている、倉本總氏の物書き哲学だと思う。氏の人間性の表出だとも思う。これまでの彼の作品から頷けるような気もする。
私はヘミングウェイのある一件を思い出した。雑誌に発表された「キリマンジェロの雪」は、アル中で精神的に病んでおり、キリマンジャロで病死する作家を描いているのだが、その作家の名がフィッツジェラルドと書かれていた。それを読んだフィッツジェラルドは、ヘミングウェーに次ぎのような手紙を書いている。「ぼくの名前を活字にするのはやめてくれたまえ、君がそれを短編集に入れるときには、僕の名前をカットしてくれないか」と依頼し、加えて「あれはいい短篇だ、君の傑作のひとつだ」と書き添えて送った。この書き添えた部分に彼の人柄を感じさせる。
ヘミングウェイは実名は取り下げたが、そのまま出版した。彼には「物書きの鉄則」という、物書きの倫理観はなかったのでは、と思わせる。
この頃のフィッツジェラルドは止められない習性的放蕩生活と、妻ゼルダに要する多額の医療費のめに、稼ぐに手っ取り早い短編を書きまっくていた。才能を金のために切り売りし、それを摩滅し続けている自分に苦悩し、好きな酒に溺れていた。10年ぶりに再起をかけた「夜はやさし」を渾身の努力で書きあげたが売れなかった。彼は時代に取り残された自分を認識し、失意のうちにあった。ヘミングウェイは彼の動静を気にしていて、よく知っていたようだ。フィッツジェラルドはヘミングウェイがまだ無名のころ、彼を世に出すために、売れ子作家であった自分が大手出版社を紹介し、作品にサゼッションし、たまには金銭的な援助もしたことも心にあったかもしれない。いま落ちぶれてあがき苦しむ自分が、今は人気の作家ヘミングウェイにこのような手紙を書いている自分に、卑しみを感じたであろうと想像すると、彼に同情を感じる以上に,ヘミングウェイの人間性が厭になってくる。
作家の本性は作品にしばしば表れるという。米国で著名な大学教授が書いている。「ヘミングウェイの小説に書かれたヒーローはみな、ヘミングウェイ自身のように、まったく自己中心主義者で、自分の欲望と願望以外にはなんら関心をもたない、孤独な、そして個人主義的なヒーローでした」と。
彼は4回結婚したが、離婚の要因は3回とも彼にあったようだ。
同著でこうも書いています。 彼の最後の妻メアリーは、結婚した直後に、ヘミングウェイをどう思ったか手紙でこう打ち明けています。「薄情で、非常識で、利己的で、役立たず、鑑賞力も理解力もないエゴイストで、評判だけを気にする怪物」、だと。 のちにノーヴェル文学賞をとった作家の人間性を、垣間見る見るようです。
私はヘミングウェイの映画はよく観ました。エンターテイメントとしては面白かったが、彼の小説作品を読むほどの興味は持たなかった。読んだのは「老人と海」だけだ。彼の人間性が好きになれなかったからだ。
齢をとると書物の読み方が変わってくるようだ、理解も変わってくる。手元にある書物をゆっくりと読むことにしようと思う。長い時間は短くなってくるが、今の時間が十分にあるうちに。
四季の記憶45 「旬のみょうが」 鈴木 奎三郎
梅雨入りというのに、さして雨も降らずに穏やかな天気が続いている。いずれ本格的な梅雨のシーズンが来るのだろうが、稲作や植物にはなくてはならない季節だ。ここしばらくは雨を楽しむ心の余裕が欲しいものだ。芭蕉もみちのくの旅に向かう奥の細道紀行で、しばしば雨に悩まされたようだ。
笠島はいづこさ月のぬかり道の句は5月の雨とはいうものの、この旅では新暦の6月下旬。ちょうど今頃の雨の季節の句である。
もう少しすると、一雨ごとに突然みょうがが大きくなってくる。小さかった頃の実家には、庭の隅々の片隅や土蔵の裏側などに季節になるとびっしりと葉が茂り、ところどころで淡い黄色の透き通るような花びらの花が咲き、丸々と太ったみょうがの花芽が赤みかかった紫色に光っている。夕餉の準備に忙しい母から「みょうがを5,6個採ってきて・・」といわれて、手に余るほど収穫したものだ。少しでも母の助けになることが嬉しかったのだろう。数年前までわが家でも、庭の片隅にみょうがの一群が生えていた。朝には採りたてのみょうがを刻んで削り節をかけ、しょう油を少々、炊き立てのご飯に乗せてかきこむ。シャキシャキと小さな音がする。庭のみょうがは泥がつき身が固く締まっているが、新鮮な香りと風味は比較するものがない。
昔からみょうがを食べ過ぎると、物忘れをするという言い伝えがあって、落語にも宿屋で泊り客にみょうがを食べさせたのはいいが、主人が宿賃をもらうのを忘れたというオチの噺がある。このところ、ただでさえ忘れっぽくなったこのトシで、物忘れが多くなったとしても別に失うものもない。野菜にも季節がなくなって、スーパーやJAでは冬でもトマトやきゅうりが置いてあるのはいいが、旬の野菜のおいしさはなくなったような気がする。パックになったみょうがも歯ごたえがなく、あの独特の香りやつやもない。
これを単純に暮らしが便利になったと喜べるだろうか。レモン色の透き通ったレースのように繊細で可憐なみょうがの花も楽しめる暮らしには戻れないのだろうか。
夏の旬を迎えるみょうがは、暑さで衰えがちな食欲と気力を喚起してくれる。梅干も同様だ。それが自然のリズムなのだ。人間は古来より当然のこととして旬のものを食べることが慣習であったが、実はこれこそ最上の健康法だったわけだ。けれどもこうした恩恵にいちいち感謝することなく過ごしてきた。いつの間にかそうした大切なものを見過ごして失ってしまったのではないだろうか。
“旬”とはなんて素敵な言葉だろう。よく「あの人は今が旬だね・・」と言われる人がいるが、この旬は自分でも気が付かないうちに一瞬のうちに過ぎ去る。みょうがも人間もそういう意味でははかない存在である。はかない存在であるからこそ、その命は貴重なのだ。以前、週刊誌の特集で「あなたは最後の晩餐に何が食べたいか・・」というのがあった。ステーキや究極の懐石料理、万漢全席、数寄屋橋次郎の寿司・・などグルメ満載の回答の中で、ぼくは「旬のみょうがとあたたかいごはん」と答えた。これには結構賛同者が多かったことを記憶している。
人に遇う 横山 明美
街を歩いていてよく有名人とすれ違うことがある。よほど視線を遊ばせるたちなのだろう。銀座通りを渡っていて歌手の五輪真弓とすれ違ったときはファンなので危うく声をかけそうになり、新宿で信号を渡る前川清を見たときは思いのほかいい男と思い、テレビで顔と声の相関関係を確かめたりした。上野の文化会館を入ったところで友人と立ち話をしていると、真昼間なので人影も少ないところを姜尚中が化粧室から足早に現れた。シャツの襟をおしゃれに立てており、サングラスは今かけたばかりという様子である。当時は東京大学の教授だったからいざ職場に向かうところだったろう。やんわりとしかし硬派の物言いをする人にしてかなりおしゃれに気を遣うのだなと感じつつ「あ、先生のファンです」などと近寄り握手をしてしまった。「はい、どうも・・・」と応じてくれたが、友人からは「案外軽薄ね」と非難された。その後テレビで見るたび、誠実そうな物言いとあのときのタレント風の落差がどうも不思議でならなかった。かなり昔電車の中で向かいに花沢徳衛という老優を見かけた。頑固な職人とか棟梁という役柄の多い人で、またそのような顔つきだから目立たないが、周りがどうあれじっと文庫本に目を落としている。これはきっと日常のことだろうと思われた。選挙があると共産党の候補のポスターに推薦人としてよく名前が刷り込まれていた。顔つきと行動と日常がすんなりつながる人だった。
都知事だったかの選挙期間中、新宿東口の通りを歩いていると、いわば泡沫候補と思われる常連のドクター中松の選挙カー、といっても高級乗用車だったが優雅に流している。道行く人は無視しているから少し気の毒になり、窓から上等そうなスーツ姿でのり出したところでこちらも手を振ると、なんと「そこの素敵な奥様ありがとうございます」とマイクを通した選挙用の声が拡散した。人なかで恥をかかされたようなものである。それでも一票を投じることはなく、ドクターもまた落選した。
桜の井の頭公園で水辺にかかる橋を渡りかかると、むこうからいかにもの靴ぴかぴか、仕立てのよさそうなかなり派手なスーツに子分みたいな若者を従えたその筋の人が「おうおう・・・」と感に堪えたように歩いてくる。強面の笑顔たるや本当に幸せそうで、悪事を働く人とは到底思えない。満開の桜の力は大きい!あの親分と子分はその後どんな道を歩んでいるのだろうか・・・。神戸やくざの抗争をニュースで見たりするとふと思うことである。同じ春、西武電車の席の向かいに母子がゆるりと座っていた。男児の手には中学校の大きな茶封筒。私の視線に気づくとその子がくるりと有名学校名の記された側を見せた。合格したのだ。せっかくなので声は出さず口をパクパクさせて「おめでとう」というと相手は体をよじるようにして目で返してきた。男はこれから何かと厳しいぞ、女も強くなったしなあ、がんばれよ、と付け足したかった。同じ電車でのある土曜の昼下がり、すいた車内のドア近くにぬーっと大きな男子高校生が疲れた様子でポールに寄りかかっていた。スポーツ大会の帰りらしい。昼を食べ損ねたのかやおらカバンから大きな包みを取り出すと巨大なお結びをぱくつきだした。二つ目は違う具が入っている。中身の色でわかる。どう見てもガクインの子とは違う。本など読まないかもしれない。成績もいまいちかもしれない。しかし帰宅すれば、今日はどうだった?と試合の様子を聞いてくれる家族がおり、お風呂がわいてるよ、などと言ってくれるに違いない。その夜寝床でなぜか田舎での父母兄弟を思い出した。
友人と京都を旅した。最近のことである。人に知られぬ美味しい漬物屋を聞いていたのでわざわざ電車とタクシーを乗り継いで行き目的を果たして帰りのタクシーを呼んでもらうと、運転手の名前と趣味を大書した札が貼ってある。野球が趣味らしい。「やはり阪神ですか」と聞くと「もちろんですわ。いまんとこ勝ってるさかいにうれしゆうて」とどんどん話が弾む。うちもトラキチなのである。この名札はこういうためにあるらしい。「今日これから試合ありますねん。もう上がりますわ。仕事終わり」と言って駅に着けてくれた。家帰ってビール飲みながら好きなチームの応援、これが我々庶民の楽しみなのだ。
用事があって大泉の駅に降り立つと目的の建物がわからない。上から見て探そうと高い所へ出ると喫煙所で煙草を吸っていた50がらみの男性につつっと寄ってきた身なりのすがれた老女(私もいまやこの範疇)が「一本ちょうだい」。映画でしか見たことのない場面だった。男性は厳しい顔で眉を寄せながらそれでも二本渡し火もつけてやった。おかしなことだが私は少し感動していた。あの男性はどんな仕事の人なのか、そして女性はどうしてそんな身に落ちたのか、思ったこともないことをその日は考えることになった。これから先、またどんな人や一瞬の光景に出遇うのか、私の視線浮遊は続く。
体験学、下流マラソン 加藤 厚夫
渋谷で待合わせとなると、つい忠犬ハチ公前となるが人が溢れ相手を探すのにひと苦労する。京都では「土下座」前が待合せで有名だが人はいたって少ない。三条大橋の「高山彦九郎先生皇居遥拝之像」がそれで、ハチ公と体勢は似てはいるが土下座とはヒドイと怒った顔でいつも座っている。尊皇激論家で御所には何百回と訪れた人で寛政の三奇人といわれた。東京人で御所に千回も行った奇人がここにもいる。御所一周を四年の間走っていたら千回を超えたというだけの話である。歴史上有名な蛤御門や堺町御門をいつも右手に見て走っていたわけだ。
大阪で定年の花束をもらい馴染みの京都で途中下車、そのまま烏丸御池に住み着いてしまった。仕事もしない気楽な単身赴任(単身不在)だから、認知症予防と神社仏閣早巡りを兼ね走り始めた。なかでも京都御所の走る環境は抜群で、春は枝垂れ桜や新緑と、秋は紅葉と四季折々美しい。猛暑日でも深い森が体感温度5℃下げ、途中京都三名水・染井の井戸で塩と飲むとビールより旨かった。一周4キロで普通21分かかるが、同志社女子髙バスケ部に追い抜かれるとムキになり18分で走った。
62才にして初めてマラソンを体験した。地元京都シティー・ハーフマラソンで21キロ制限時間が2時間と世界一厳しい。(練馬こぶしハーフマラソンは2時間30分以内、東京マラソンは42キロ7時間)ハーフとはいえ品川~横浜や池袋~所沢に匹敵する距離だ。はたしてこの年でゴールに辿り着けるのか。
平安神宮のスタート前では緊張と不安で尿意をもよおす。しかし走り出すと5キロ毎の時間内関門突破のこと以外頭は真っ白だ。7千人中1千人が5関門で逮捕されバスで護送される恐ろしいレースだから、沿道の子供たちとハイタッチする余裕など全くない。市民マラソンなのにランナー全員に笑顔はなくただ黙々と走るだけで、その足音が不気味に地に響く。15キロ過ぎで「このペースが2時間以内」のプラカードを掲げた事務局ランナーに追い越され焦るがアゴが上がり追いつけない。冬なのに汗みどろとなり百円コートは脱ぎ捨てる。それでもなんとかゴール閉門7秒前に転がり込み事なきを得た。
後日「公式記録証」が届き60歳代完走者300人中ビリから3番だったが、人生で初めて公式に認められたのだと感激した。その後欲を出し嵯峨野や琵琶湖まで走り、翌年60代ビリから100位に浮上、総合で5千番に入った。
効率良く順位を上げるコツも分かった。ゴール1キロ前で勝負を賭けることだ。前を行く連中は既に無気力脱水状態だ。心肺停止覚悟で遮二無二スパートをかければ一挙に300位も順位を上げられた。
昼間はランニングや寺巡り、自炊と結構忙しいが晩飯のあと話し相手がいない。つい祇園や富永町の飲み屋街に足が向いてしまう。チャリで10分と気軽に行けるのも良くない。軒行燈に照らされた祇園の石畳は凸凹して走りづらく、中古自転車を紅殻格子の前に止めると景観上気が引けた。行きつけは花見小路の細露地を入った女紅場学園(舞妓学校)正門前の和風靴脱ぎスナックで週二もあった。生粋の祇園育ちで真正京都弁のママと低定額制が魅力だからだ。場所柄、濃い京化粧の舞妓はんや芸妓が同伴で顔を出す。「変わった京都弁やな」と皮肉るとママがニコリと口に人差指をあてる。ほとんどが他府県舞妓で朝ドラ風京都弁だから無理もない。
そんなフーテン生活を4年もやれば当然ガンに罹り、即東京に強制送還となった。健康保持にはマラソンなんかより連日の飲酒を控えたほうがよっぽどマシだ、と気づいたがあとの祭りだ。いっぽうでこのまま浪費を続けていたら老後破綻した訳だからガンに救われたことにもなった。現代用語でこういう年金者を「下流老人」と言い、京都では「あほやん」と呼ぶが下流マラソンは今も続く。
【2017年4月15日定例作品】
銀座にて 横山 明美
大人になってから、父や叔父やこれという人たちと会うのはいつも銀座だった。父は上京するとよく私たち三姉妹を銀座に誘い出した。連絡があると私たちはいつもより少しおしゃれをして早めに家を出る。たいていは中華料理の店だった。今のように誰でもグルメの時代ではなかったから、円卓の回る中華料理など気もそぞろで、私など喜び勇んで出かけたのである。上の姉は甘えることがなく常に長女としての礼節を見せる人だったが、夫に気を遣って出てきて、さほど楽しげな様子を見せず、下の姉はこの機に存分に食べてやろう、ことによったら何か買ってもらおう…というところがあった。だいぶ歳の開きがある私はただうれしくて父たちのそれでもぎこちない会話に耳を傾けながら、次から次と箸を運び、話が途切れる一瞬があると、あわてて埒もない話で隙間をうめていた。そんなときのそんな役回りが私だったと思う。
大学の卒業を控えたころ、父が「時間はあるのか』と電話をしてきた。一番頼りない娘には田舎に帰ってきてほしかったのに、という思いを抑えつつはなむけのつもりでご馳走してくれたのである。そのときは洋食であった。向かい合ってのナイフとフォークにいつになく緊張感がある。すぐ帰るのも失礼な気がして裏通りの銀ブラを付き合うと、呉服屋のウインドーに目が吸い寄せられた。象牙色がかった白地の裾のほうに牡丹が大きく藍の濃淡と墨で描かれており金糸で縫い取りがしてある振袖である。きものなど七五三で姉のお古を着て以来であった。すると父が「着るか」と言った。なんでも即決の父である。愛想のないノッポの私がこんなものを着たのはお笑いだが、整理魔の私がいまだに大切にとってある。
それから父がなんと、通りすがりのパチンコ屋に入ってみようという。その頃銀座にもあったのだ。二人ともおぼつかない手つきながら、出てくる玉に思わず声をあげ、チョコレートやキャラメルをもらった。一粒口に入れながら気の利いた言葉も見つからず、父との”道行き“は続いたが、表通りへ出ると父は明るさと人出にほっとしたように大きな声で「じゃあね、元気でやりなさい」と手をかざし地下鉄へと降りて行った。
母の弟である叔父は、復員後ささやかに内科小児科を営んでいた。ゼロからのスタートを支えてくれたのは父だった、と叔父から聞き、文字通り太っ腹の父と長身痩躯の叔父との終生の付き合いを、私はうれしかった。そんな叔父との銀座デートは姪たちにとって、父亡き後の何よりの楽しみで、叔父と会う日はこちらも素敵に見せなければ、と少しばかりがんばったものである。今はもうない福屋書店で落ち合い、通りの反対側のパウリスタの珈琲がその日のスタートで、このあとどこに行くのだろうとワクワクする楽しい時間だった。店の奥のその懐かしい定席を、今でも行くと目はつい探してしまう。銀座で一番古い珈琲屋だという。先日久しぶりに行ってみると、中国人旅行者が、持ち込んだケーキを食べようとして注意されていた。銀座もさまざまな客を経験してさらに成熟していくのだろう。
資生堂が化粧品だけの会社でないことは、大人になってから知ったことである。その昔、おしゃれな階級はよくここでお見合いや待ち合わせなどしたものらしい。ゆめゆめその末裔などではないが、娘の結婚披露宴にそこを選んだ。ホテルの豪華さより、なじんだ銀座でこぢんまり、親しい声の行き交う集まりにしたかったのである。気の置けない身内に集まってもらい、叔父のスピーチに皆が涙ぐんだり笑ったりした。田舎の父も母も、もう体を運んでくることは難しかった。
彼岸の連休に、神戸の姪の一家がやってきた。私の憧れのおしゃれな街からどうしてわざわざ?と思ったが、お台場、浅草、下北沢、谷中などと並んで、銀座はやはりはずせないのだという。それでは、と連れて行ってみると、四丁目には網代に組んだような迫力ある外壁のビルがそびえており、松坂屋あとは巨大な総合ビルに変わっていた。文具の伊東屋も新しくなっている。向かう道でテレビ局のクルーが姪に近づき「マダムのランチ事情」を聞かせろという。私も以前四丁目の角でテレビに「夫婦の家庭内独立」というややこしいようで実はよくある話を聞かれたことがある。おしゃべりな姪は楽しむようにえんえん応えていた。彼女には何よりのおみやげになったのではないだろうか。
古い人はいなくなり、私は歳を取り、銀座も歴史を重ねていく。オリンピック開催のころ、私はまだ銀座をぶらついているのだろうか。
茨城応援団 照山 忠利
NHKの朝ドラ「ひよっこ」がこの4月から始まった。舞台は茨城県北部の奥茨城村。もちろん架空の村ではあるが、茨城県が朝ドラに登場するのは「鳩子の海」以来43年ぶり。時代は昭和39年、東京オリンピックの年で僕の高校時代にまるでかぶっている。主人公の谷田部みね子の茨城弁も、有村架純が聞くのも恥ずかしいほどたどたどしくまた初々しくしゃべっている。これから半年間、朝の時間の楽しみができたというわけである。
茨城県は全国都道府県の魅力度ランキングで、ここ4年間連続最下位という不名誉な記録に甘んじている。もっとも46位が栃木県で45位が群馬県であるから、北関東の3県がびり争いをしている格好だ。それでも茨城を故郷とする僕としてはなんとも腑に落ちないし納得がいかない。かつての水戸藩は徳川御三家の一つだし水戸黄門を知らぬ人はいまい。最初の原子の火をともした東海村や筑波研究学園都市も有名だ。大相撲では稀勢の里が念願の横綱になり春場所では奇跡的な優勝で全国を沸かせた。高校野球も取手二高や常総学院が全国優勝しているし、サッカーの鹿島アントラーズも強い。
こうして並べてみると皆さんが知っていることばかり。でもこれが「茨城」という括りでみるとどうして埋没してしまうのか。地形的にみても海あり山あり、漁獲高は有数だし農産物では北海道に次いで第2位だ。自然災害も少なく、気候も割合温暖だといえる。それではなぜ魅力がないと思われるのだろうか。観光資源にさほど恵まれないという点もあるだろうが、僕の独断と偏見に基づく推論によるとそれはズバリ「県民性」にあるように思える。県民一人ひとりが外部に発信する力、その総和が足りないということだ。
要するに他人を押しのけてまで上になろうという上昇志向や積極性に乏しく、シャイな気質をもっている。芸能人など目立つ商売の人はいないわけではないがまれだ。その割に頑固な一面があり、俗に水戸の三ぽいといわれる。曰く、理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽいだ。およそ社交的とはいいがたい。人間としての愛嬌が足りないので、根は悪くないのに人に好かれないのだ。朝ドラのみね子の叔父さんが自分の父親(爺ちゃん)に向かって、「寡黙でしゃべらないくせに口が悪いんだから。茨城の男の典型だっぺ」というセリフがあった。まことに言いえて妙だと感心してしまった。
茨城出身の総理大臣が皆無という事実、そして稀勢の里の横綱昇進はそれこそ何度も世間の期待を裏切り続けたという過程をみれば、あるいは僕の推論が少しはわかってもらえるだろうか。先のランキングでも、茨城県は最下位ながら情報発信力がアップしているとの評価がされている。当面「ひよっこ」で大いにPRしてもらい、稀勢の里には弟弟子の髙安とともにしばらく頑張ってもらって茨城の名を高めてほしい。僕も及ばずながら水戸納豆と茨城野菜をせっせと食べて応援することとしよう。皆さんにもぜひお願いいたします。
(了)
寄生から自存への果てに 大野 力
やりたいことを自分のものとし、それを、生存の糧とすべく、懸命に生き、精神を患い、崩れ去っていった女性がいた。ゼルダ・フィッツジェラルドです。彼女は1900年、父はヴァージニア州最高裁の判事で、6人兄弟の末っ子として生まれた。厳しい父と違い母には溺愛され奔放に育った。1920年23歳で「楽園のこちら側」を書いて、若者のスターダムにのし上ったスコット・フィッツジェラルドと結婚した。彼は親たちの旧来の慣習、道徳、生き方が、上辺だけのものとし、在学中のプリンストン大学での学生の反抗を書いている。価値観をともにする二人の生活は、アルコールとパーティーに明け暮れる常識破りの連続だった。翌年娘スコティが生まれたがそれは変わらなかった。湯水のごとくの浪費が続く、手っ取り早く稼ぐため短編を書きまくった。
村上春樹は書いている。「1920年代というディケイド(10年間)はアメリカ合衆国にとって謂わば燃え上がる青春とでもいうべき、疑いを知らぬ幸福な時代であった。戦争で疲弊しきった旧大陸の諸国を尻目に、アメリカの経済力は飛躍的に増大し、人々の収入は増え、科学は発達し、株価はどこまでも上昇した。そして建国以来常に英国の風下に置かれてきたアメリカ文化は、ようやくその独自のスタイルを身につけようとしていた。これがいわゆる「ジャズエイジ」である。スコットとゼルダはそういった時代の最先端に、謂わばひとつのシンボルとして放り出されることになった。そして二人はすぐに自分たちの置かれた立場を理解し、その役割を進んでひきうけた、つまり旧式のヴィクトリア朝風モラルをできるだけ派手に踏みにじり、ニューヨークを舞台に都会生活という名の新しいライフスタイルを、誇張された形で具現しようとつとめたのである。とくにゼルダの場合は「フラッパー」と呼ばれる新しいタイプの解放された女性像を見事に演じることによって、時代の称賛を浴びた」と。
25年スコット3作目の「グレイトギャツビー」は批評家たちの好評を得たが、思うようには売れなった。乱作のための筆力の低下は原稿料の低下につながっていた。ゼルダとの間に亀裂が生じはじめた。彼はハリウッドに稿料稼ぎにいった。そこで知り合った若い女優との関係をなじったゼルダに対して、浅い関係だと弁解のあと、「でも彼女はひとかどの仕事をしている」、との彼の言葉にショックを受け、仕事を強く意識し始めたという。彼女はバレーのプロを目指た。その費用を稼ごうと小説を書き始めた。家庭を顧みず練習に熱中した。スコットは長編の執筆のために、ゼルダと幼娘を連れて4度目のパリに2年間ほど住んだ。彼女は別居し、単身1日中バレーの稽古に集中した。練習に向かうタクシーの中でヒステリー性の精神発作を起こした。スコットは彼女をスイスの病院に入院させた。病状の回復を待って一家は帰国し、ヴァージニア州のゼルダの母の近くに住んだ。スコットは療養費とスコッティの教育費を稼ぐため、単身ハリウッドに向かった。ゼルダはバレーを諦めて小説に熱中した。彼女は、自分は悪霊に執りつかれていると云ったが、それは変質的とも云えるヴァイタリティであった。翌32年2月、悪霊が精神異常を再発させ入院した。入院中に彼女は僅か2か月で唯一の長編小説「ワルツは私と」を書きあげた。この出版に対して、スコットが猛反発した。ゼルダの思いもよらないことだった。彼はいつも親切に指導をしてくれていた。スコットはかなり前から、起死回生を懸けて長編を執筆中であった。ゼルダの作品の一部に彼のそれと重複する部分があり,事前に彼女の作品が発表されることは、好ましくないと考えたからだ。ゼルダは自分の存在の問題と猛烈に反抗したが、よりよい表現のためと自身を説得し、一部修正を認めた。この時の気持ちをゼルダは彼への手紙に書いている。「あなたのやさしい手紙で、すっかり自罰の気分です。なんどか言いましたが、私は鮫の下で泳いでいるあの小さな魚で、鮫のだすカスをぶざまにも食べて生きているのです。ともかく、それが私。人生はあたしのうえを、巨大な黒い影となって動いていき、私は、落っことしていくものをなんでもおいしそうに食べる。昔、とてもきびしい学校で、寄生と自立は両立しない、と教わったけれど、きちんとしたひとたちって、私の狂った想像力でもとてもかなわないくらいすごい。…」「友人についてですが、私にはひとりもいません。どういうこかというと、知り合いは私のことは軽く見て、あなたの刺激と名声にひかれて、私と食事をとり、フィッツジェラルド夫人を招待していたということです。あなただけがいままでもこれからも、私が唯一、交流していたい相手です…」と。「ワルツは私と」はほとんど売れなかった。ゼルダはもう忘れられてしまっていた。スコットとのトラブルもあって、ゼルダの病状は回復せず、入退院をくりかえしていった。スコットの「夜はやさし」も売れなかった。彼の時代も去っていた。彼は38年に女子大学に入学するスコッティに、仕事中のハリウッドから手紙を書いている。大学生が学ぶべきこと、読むべき本などを述べたに続いて「お母さんは自身のために、私の夢のためにではなく、私に過度の仕事をしてもらいたがった。仕事は尊厳なもので、しかも唯一の尊厳なものだと悟ったときはおそかった。お母さんは自分で仕事をして償いをしようとしたが、それも遅すぎた。お母さんは崩壊して、いつまでも崩壊しているのだよ」と、ぐちっぽい自己への弁護とゼルダへ同情のあとに続いて「ここで私のやっていることは、かってはもっとましな、もっと見事なことをやった人間のうんざりするような最後の努力なのだ。それがお前にはわからない」と。彼の切なさが胸を打つ。彼は40年心臓発作でこの世をさる。44歳の早い死であった。ゼルダは48年入院中の精神病院の火災のため、焼死する。48歳であった。寄生からの自立を求め、復活に苦闘した二人の崩壊の生涯は、二人が書いた小説では、書ききれないドラマだったように思う。
正倉院の至宝 田原 亞彦
皇室の古代の御物は、東大寺にある正倉院に残されている。日本文明の多様性を知る資料として調べてみた。正倉院は奈良時代の756年に皇太后の光明皇后が聖武天皇の生前の遺愛品を東大寺(752年開眼)の蘆舎那仏に奉献し、正倉院に安置したものであり、その後5度にわたり追納されている.。宝庫は、北倉、中倉、南倉の三倉に仕切られ、総檜で寄棟、本瓦、校倉造りの高床式である。宝物は大きな唐櫃に収められている。宝物には献納帳が添えられてあり、袈裟、厨子、書籍、楽器、太刀、弓、鎧、鏡、屏風、薬物など六百数十点に上っている。
奈良時代の由緒正しい伝世品であり、素材も角、羽、貝、皮などの動物質、多くの植物質、鉱物質が用いられ、当時の優秀な技法が残されている。特に注目されるのは、その国際性である。
鏡、銀壺、金銀花盤、白瑠璃碗や瓶などのガラスの器など舶載が多いが、特に香や薬はほとんど輸入されたものである。中国はじめインド、中央アジア。西アジアなどシルクロード沿いの各地が源流となっている。重要なことは物が来たということは其れに関連する人間も往来したということである。日本の文明形成に大きな影響を与えたということである。四弦の琵琶はペルシャ、五弦はインド、堅琴はアッシリアから、アフガニスタン産の鉱石もあり、図案には中国はじめササン朝ペルシャや東ローマの様式もみられる。538年の仏教伝来以降、607年の法隆寺創建、百済などからの仏工、寺工などの技術者の来訪、630年に始まる遣唐使の派遣、など対外交流が盛んに行われた。唐帝国は西方世界と密接な交流をしていたから、シルクロードの発着点が西安とすれば正倉院はその第二の終点であった。
白瑠璃碗はカットガラスの碗で、イラン高原西北のカスピ海南岸ギラーン州に類似のものがあり、その他、メソポタミア、シリア、ソ連のアゼルバイジャン・アルメニアなどからも出土している。白瑠璃瓶はアルカリ石灰ガラスでイランで製作されたものと言われる。
薬物は全てが舶載品で中国はじめ西域やインド、インドネシアおよびその南方などから伝来した。60品目にのぼり、甘草や大黄など現代も漢方薬として用いるものや、信長、足利善政、明治天皇が切り取った「蘭奢待」などの香料も残されている。
遊戯具の双六盤はローマが源郷で新彊ウイグル自治区経由の伝来とされ、聖武天皇ご愛用品といわれる。囲碁も朝鮮と中国の二様式が伝えられている。
鉛釉陶の技法は早く7世紀末には朝鮮から緑釉の単彩陶として伝来し、多彩陶の生産は8世紀はじめに中国の唐三彩の影響を受けて始まったのだが、独自の工夫も加えて製作され、奈良三彩として東大寺の仏具となった
織物も東西異なる技法があるが、正倉院の緯錦(ぬきにしき)の伝統技法はわが国で長く継承されている。機織りも外来から織り師が来訪して伝えられている。
装身具の中には、馬形の帯金具があり北方との関連もみられる。文物の由来、特に献上者・時期がもっと明確に記録されていたら更に貴重なものであったろう。
車両ナンバー 小林 康昭
米澤富美子さん、という物理学者がいる。慶應義塾大学理工学部の教授で、日本物理学会の会長を務めていたことがある。国際的な学術会議の座長を務めたこともある世界的な学者だ。
その人に、幼児時代を追憶した随筆がある。“道路を一緒に歩いている父が、走ってくる自動車の車両ナンバーの四つの数字を「10になるように計算してご覧」と促され、夢中になって計算した。幼い体験が計算や算数の興味につながって、今の自分があると思う”と。例えば、車両ナンバーが、1234なら1+2+3+4=10とか、6284なら6×2が12、8÷4が2、12―2=10と、いうように。“栴檀は双葉よりも芳し”だ。
一体、日本中の道路を走り回っている膨大な台数の自動車が必ずつけている車両ナンバーの組合せの数はいくつあるのか。4桁だから、0001から9999まで、全部で9999個ある。これは、小学生でもわかる。
数学的な計算で求めるには、数学Ⅲの“組合せの方法”を使う。0から9までの10種類の数で4桁の組合せは何種類あるのか、という問題だ。一桁目、二桁目、三桁目、四桁目に入る数字は、それぞれ10種類ある。だから、10×10×10×10=10000となる。9999より一つ多い。それは、0000も組合せの中に入れちまってるから。これを差し引いて10000-1=9999、となるわけだ。
だが9999種類の組合せから成る4桁の数字には、絶対に10にはならないものもある。0001とか0080とか、0が三つあるものだ。0が二つあるもので10になるものは、0208、3070、5002のような例がわずかに6種類だけ。ほかは10にはならない。だから、算数遊びの対象にならない。
0が一つの場合は、10にできる可能性は増える。だが、8205は10にできないように、10にできない組合せのほうが多い。絶対にできないものを考えているうちに、次々と自動車が走ってくる。気を取られて、目の前を、10にできる組合せの車両ナンバーが通り過ぎていくようでは、ゲームの妙味が失われる。
と、いうことで、算数遊びの対象を、0がない車両ナンバーだけに限ることにする。走ってくる自動車の車両ナンバーから、0のついていない、1から9までの9種類の数字で占められているものだけを素早く選び出して、計算に挑戦する。しかし、10にできない組合せもある。例えば、1111とか9999、4443とか5556、1122とか7733など、同じ数字が二つ重なるものは、10にできないものが多い。
そこで、思い切って、四つの数字が四つとも違う数字の組合せ、という制限をつける。この組合せは何種類あるのか? これを組合せの方法で計算する。9×8×7×6=3024だけある。9999のおよそ3分の1だ。つまり、走ってくる自動車の、3台に1台が対象になる。だが、厄介なことがある。それは、2869は2÷(8-6)+9=10になるが、順番を変えて8296になると、10にできない。
そこで、四つの数字は、計算して10にできるように、並び方の順序を自由に変えてもよいことにする。すると、何種類になるか。2698も2968も8269も2896、みな同じ1種類のものと見なして、くくっちゃうのだ。これを組合せの方法で計算すると、4×3×2×1=24種類だけある。順番を無視した4桁の数字の組合せの種類の数は、3024÷24=126。つまり、計算の対象は、この126種類に限定されるということだ。
0が入らない、同じ数字はない、順番は勝手に変えてもよい。このルールで、車両ナンバーを待ち構える。およそ、3台に1台の割で、126種類の組合せの車両ナンバーが走ってくる。それを、凝視して、素早く計算して10にする。ノソノソしてると、次が走ってくる。散歩してても、とても忙しい。
梅か、桜か 華岡 正泰
女子社員が私の机に花を活けてくれたことがあった。精一杯のお世辞で「桜のような梅だね」と言ったら「桃です」と吹き出されてしまった。女房には「チューリップしか知らない花音痴」と言はれるが、私だって梅か桜くらいは見分けがつく。梅は毎年梅林を訪れるし、桜はその下で杯を傾けるからである。ただ桃は農園で栽培されるから、ゴルフ場への車窓に届く美しい花を眺めるだけで一枝も手にしたことがないから見分けが難しい。
私が梅の花を意識するようになったのは大宰府に住む一人暮しの遠縁のお婆さんを訪ねていた小学生の頃からである。お婆さんは幼くして母親を亡した私達兄弟を大層可愛がってくれた。都度、天満宮に連れて行ってくれたので境内の梅は今でも覚えているのだが、私にはお婆さんの邸の庭の方に多くの思出が残っている。少し怖い思いをしながら薄暗く、お寺の本堂の様な広い座敷を通り抜けると 日本海海戦で沈めたスワロフ、オスラビアの残骸であしらえたという縁側に出た。そこに座って焼き立ての“梅が枝餅”を齧りながら庭のあちこちに植えられた小さな梅の木が年々枝振りを豊にするのを眺めるのが楽しかった。いや、“梅が枝餅”や座敷に飾られた戦利品に触るのが先だったかも知れないが。東京に出てからは大宰府を訪ねることはなかったが長男の早大受験に際し天満宮に参詣した。お婆さんの家系は絶え、邸は観光施設に組入れられていたが、中に入る気がせず梅も見ないで帰ってきてしまった。
私にとっての桜の一番の思出は昭和21年の桜。海軍軍人への夢を断たれた私は満開の大木の下でこれからの進路に思い悩んだ。身内、学校関係者の誰もが想像していた官学ではなく、早高への進学を決めたのもその時だった。練稲の観桜会には毎年参加するが十年程も前、強風で飛び散るひとひらを杯に浮かべたあの時の桜の潔さは忘れることはない。。
この様に私にも梅や桜には色んな思出がある。それは、梅や桜が国花、つまり日本の花だからである。この2月には越生での練稲観梅会が催された、良い天気で梅は満開の花をつけて美しかった。梅には桜の様な枝も撓に咲き誇る華やかさはないが、楚々として、わび、さびを感じさせる床しさがある。梅か桜か?甲乙つけることは出来ない。越生には練稲を含めた老人が多かった。雪に耐え、寒い冬を越しての春到来を告げる梅、あの清らかな美しい花が老人の心をそそるのだろう。桜は開花予想、宣言、前線の移動と細かに報道されるが梅にはそれがない。老人を大事に、老人を元気ずけるために、梅をもう少し大事にしてはどうだろう。
おわり。
【2017年2月18日定例作品】
四季の記憶43 「針供養」 鈴木 奎三郎
二十四節気の最初の節気は立春である。新暦の2月4日ごろである。立春を過ぎて2週間がたち、気が付くと日の入りも随分と伸びてきた。畳の目ひとつずつというが、冬至の頃に比べると30~40分は伸びたのではないだろうか。
立春は、生理的にも心の持ち方も生活のスタイルも、いつまでも縮こまっていないで、来るべき春に備えようという気にさせてくれる。早咲きの梅が結構咲いているし、その香りには春の兆しを感じるのだ。
自然界の生き物たちは、テレビやネットで情報をもらっているわけではない。冬眠しているカエルは無駄なエネルギー消費を止めているのだが、どうやって春の訪れを感知して目覚めるのだろうか。内蔵されたセンサーのシステムは作動しているに違いない。
また秋に葉を落とす以前から準備されている梅の蕾は、いつなにをきっかけに膨らんでくるのだろうか。幹と枝だけが大気を呼吸し、根が地中の水分と接している梅の木は、その間の毎日の温度の積算や、春になってからの空中と地中の温度の変化を感知するのだろうといわれている。
それらを統合して全体システムの起動を指令する中枢は一体どこにあるのだろう。でも、そんなものはあるわけがない。一本の梅の木全体がセンサーのシステムなのだ。そのなかにある遺伝子や酵素がいろいろの働きをして、梅の蕾は膨らむのだろう。生きている人間が取り戻さなければならない感覚はまさにこれである。
この冬も、わが家の狭い庭先にはメジロやヒヨドリがやってきた。たまにカラスやハトもくる。家人が木瓜やどうだんつつじの枝先にミカンやリンゴをつけることを数年前からやっていて、そのことを覚えているのだろうか。猫が鳥たちにちょっかいを出そうとたまにやってくるが、それは愛犬がワンワン吠えて追い払う。小鳥たちは、不思議なことに愛犬が枝の下をウロウロしても逃げないのだ。梅にうぐいす・・ではないが、春が終わり小鳥たちが来なくなるまでは、日々の大事な仕事である。生きとし生けるもの、困っているときに助け合うのは大事なことである。
さて、2月にはいろいろな行事がある。今やその風習も言葉も死語になりつつあるが“針供養”という言葉はとても美しく、日本古来の家庭に伝わる文化である。この言葉は、小さいころに母から「一年間お世話になった針にお礼を言って、近くのお寺にもっていって供養するんだよ・・」と教えられた。寒い中を近くの秋葉神社に、手を引かれて針をおさめに行ったかすかな記憶がよみがえる。
その意味することは分からなかったが、そういえば母の裁縫道具一式には、待ち針や縫い針がびっしりついた針山のスタンドのようなものがあった。調べてみると2月8日が“針供養”の日で、古来日本では旧暦12月8日と2月8日を併せて「事八日」と呼んでいて、この日は事を始めたり納めたりする大事な日であったようだ。起源は和歌山市の淡島神社といわれている。
大正元年生まれの母は、6年前に数え100才で死んだ。寒い広い部屋で針仕事をしながら、信州の寒さが辛かったのか「トシを取ったら暖かいところで暮らしたい・・」とよく言っていた。亡くなる少し前まで晩年から始めた日本画の絵筆をとっていた。いまぼくの手元に数冊の大判の画帳が残されている。その画帳の最後のページは描きかけの未完の紅梅である。それを見ながら本格的な春の到来を願う昨今である。
描きかけの母の日本画梅香る
信仰と宗教 小林 康昭
先日、Tジョイ大泉で「沈黙 -サイレンス-」を鑑賞しました。原作は遠藤周作、監督はイタリー系アメリカ人のマーティン・スコセッシ。ともに、敬虔なカトリック信者です。
島原の乱が終息した長崎近郊の農村が舞台、切支丹の農民たち、ヨーロッパから潜入した宣教師、切支丹に棄教を迫る殿様や通詞(通訳)たちが登場人物です。二人の宣教師が、マカオから南シナ海を渡って日本に潜伏するところから始まります。隠れ切支丹の農民たちとの信仰活動に入るのですが、やがて、役人たちに捉えられます。宣教師たちは、切支丹たちへの拷問を見せつけられます。切支丹ともども棄教することを迫られて、宣教師たちは棄教します。切支丹を救うために、宣教師たちも棄教したのです。宣教師の一人、ロドリゴが亡くなって、その棺が火葬に付される場面で映像は終焉します。
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マーティン・スコセッシは、この原作を、二十年以上前に読んで以来、構想を温め続けて、宿願を果たしたそうです。
映像では、殉教に追い込まれる貧しい切支丹たちの集団的な動きの美しさと感動的な気高さ、彼らを裁いていく殿様や通詞たちの残酷さ、切支丹たちを前にして混乱する宣教師たちの苦悩が、克明に描写されています。
そもそも、邦画の時代劇では、侍とやくざだけが堂々としている姿が伝統的に描写されてきました。その点で、侍たちよりも農民たちのほうが整然と立派に演出されているこの作品は、希有な存在であり評価ができます。
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ですが、この作品には基本的な欠陥があります。原作者や映像作家が信仰する対象を作品化する場合に陥る弱点です。
信仰する対象とは、カトリックのことです。作品のなかのカトリックは、絶対的な善と扱われています。絶対的な善として、カトリックの信仰の前提となる説明が欠落しています。
だが、この作品を鑑賞する非キリスト教徒たちに対しては、カトリックを普遍化して見せないといけません。この作品が、カトリック教徒だけを対象にしているわけではないからです。具体的に言うと、日本の仏教徒が切支丹に転教した理由、その切支丹を幕府が弾圧した理由、弾圧に耐えて切支丹が信仰を捨てなかった理由について、説得力のある説明や納得のいく描写がありません。歴史の本で勉強しなさいでは困ります。だから、切支丹に対して、観客が共感し感情移入を図ることができないのです。
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信仰に殉じた信徒は、死を恐れません。その昔、敵軍に放火された炎の中で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と喝破した快川和尚や、南ベトナム政権に抗議して路上で焼死した高僧など、その死が尊敬されています。
棄教を迫られ、拷問にかけられても、肯じることがない。処刑の場に据えられても従順として死に赴く態度を、時の為政者は恐れたのです。死を恐れない姿に接した人々が、彼らに共感しその信仰にひきつけられて、為政者を恐れなくなることを恐れたのです。だから、この作品で、処刑に臨んで動転する切支丹の描写は、不適切です。
この作品は、米国アカデミーの作品賞にも監督賞にも、ノミネートされませんでした。力作だが限界があったのだと思います。
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カトリックの体系化は、ルネッサンス時代のイタリアで始まった、とされています。活動の場所は今につながる大学でした。当時の大学は、神学、哲学、法学、医学で構成されていました。これらを区分した科学と哲学と宗教の特徴として、科学は証明が必要だ、哲学は証明が不要だ、そして、宗教は証明が不可能なのだ、というのです。
宗教とは、証明が不可能なことを、ただ信じるだけの絶対的な存在なのです。だから、カトリック教会が免罪符を発行したことを非難したマルティン・ルターを支持するプロテスタントの主張と、免罪符の有効と効用を信じるカトリックの主張は、ともに証明が不可能な点で、永久に合意することがありません。永久に合意がない論争を、神学論争と称する所以です。
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日本人は無宗教である、という主張があります。主としてキリスト教徒か、キリスト教の知識がある人が主張しています。キリスト教の視点に立つと、日本人は無宗教に見えるのでしょう。ですが、自分の信仰する宗教以外は宗教ではない、というのが、純粋の意味で宗教なのです。日本人の宗教観がどのように見えようとも、無宗教と断じることは間違いです。
キリスト教の信仰では、自律的に努めて、その成否で、神を試してはいけない、と教えられます。
一方、仏教の、例えば、大座仏教の浄土系の宗派では、他力本願を説きます。阿弥陀如来の名を唱えれば極楽に行ける、と教えられます。そこには善人と悪人の別はない、というのです。この教義は、キリスト教の世界では、宗教の名に値しないのでしょう。でも、宗教は、信仰だけが唯一でかつ最大の価値ある存在です。異教の詮索や中傷は無意味なのです。ひたすら、信仰を守ればよい、ということです。
そもそも、宗教は、宗派の教え、を意味する語です。宗派という語は、他宗派の存在を意識している点で、本当の意味では適切ではないと思います。宗教の語に変えて、信仰の語を使うのが良いでしょう。
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日本人の宗教観の特徴は、異教の受容性と他律的にあると思います。信仰の対象にはしないが、キリスト教やユダヤ教や儒教の良いところは、必要に応じて受容しよう、という態度です。異教を排撃せず受容する態度がある限り、宗教戦争や宗教争いはあり得ません。その点で、日本人の宗教観は、世界でもっとも理想的な宗教感を持っています。
日本人のキリスト教徒は、キリスト教国からの強い働きかけがあったにもかかわらず、今なお4%足らずです。このことを、宗教上の奇跡と見なす人もいます。ですが、キリスト教に帰依しない日本人の宗教観こそ、評価すべきだと思います。
ネット・マスメディア雑感 田原 亞彦
この分野は未知のことが多いが、昨今感じていることを記したい。
*テレビの「YOUは何しに日本へ」や「日本に行きたい人応援団」などの番組は広く世界中で見られているみたいで、来日外国人の増加に大いに寄与しているのではないか?国費を使ってもいいぐらいだ。
*外国が見える番組は多いが、「世界ナゼそこに日本人」や「世界不思議発見」、「こんなところ日本人」は面白い。昔は「地球の歩き方」などが有り難かったが、いまは ユーチユーブが便利だ。山梨の薪窯の焼成の顛末も居ながらに詳細に把握できる。世界の公器として低コストだし、日本のピコ太郎はうまく利用して成功していると思う。
*フエィスブックは数人の友人に留めている。「いいね」もしないことにしている。自分の友人が了解なしに自動的に新しい友人に紹介されるシステムがどうも倫理的にしっくりしないからだ。ネズミ算的に交友数が増えることは功罪両方で使う側のスタンスをしっかり決めて利用することが大切だろう。公的機関の発信は良いだろう。広く自己や商品などを紹介するのには便利だろう。
*ツィツターはトランプ大統領の使用で政治や選挙、世論の形成に極めて重要になりそうに思う。よく頻繁に発信できるものだし管理フォローが大変だろう。しかし今後の政治や選挙活動の様相は大きく変わってくるように思う。
*ラインは親しい人との連絡や状況写真の送付に便利だ。コストも安いのが有り難い。
*小池都知事は行政の公開化の流れでマスコミを十二分に利用している、さすがにキャスターの経験者である。日々将来の選挙活動を無償でしているような効用があるかもしれない。
*ネットの検索機能の利用は実に便利だ。何かの情報を調べたい時書物などを探す時間の節約で助かる。本の検索さえ出来る。地理の検索は国内外マップが便利だ。
*メールの利用は世の中の情報伝達の手段を変えた。電話よりも利用頻度が高いかもしれない。不在でも記録が残るのがいい。書類の送受も楽になった郵便業を圧迫するだろう。最近はスマホから無線で書類や写真をプリントできる。コピーは無論スキャナーした書類の送信も簡単に出来る。
*買い物やサービスなどの相場を知る時は、楽天やアマゾンで検索してみる。業者に相場を言うと色々効果があるときもある。無論発注も出来る。
*色々のメディアから何を使うかは目的次第だ。ネットを使って新しいビジネスを起業するのも良いだろう。何かを世界を相手に宣伝販売するのも良いだろう、当たれば爆発的に売れるかもしれない。相手を限定的にするか、全くオープンにするかは目的次第であろう。ただ自己情報を色々提供するとプライバシーでしっぺ返しを食らう危険は考えておく必要はありそうだ。
大相撲あれこれ 華岡 正泰
全くの素人ながら年6回の相撲が楽しみだ。その場所話題の力士は勿論、小兵、学生相撲出身力士(学卒力士)外国籍力士(外人力士)の取組には手に汗握ることがある。学卒力士はすべてにマナー良く、学生横綱を競った仲だとか先輩後輩の取組と聞くと一層面白くもなってくる。ただ、この学卒力士、入幕までは早いのだがその後は地位を守るのが精一杯、上へ上がっても大関止まりで綱を張ったのは輪島一人というのは一体どうしてなのだろう。その昔、力士は“一年をん~日で過ごす良い男”と呼ばれ、力士も“土俵の中には金が埋まっている”などと言ったものだが、今や“日本人 総 中間層”と言はれる時代、恵まれた学生生活の中で相撲を楽しみ、ハングリー精神に欠けているのではなかろうか。相撲協会による力士の報酬を見ると横綱、大関、関脇小結、幕内、十両の順に月給が282万、234,170,130,100万でボーナス、諸手当を加えた年収は5000万、4000,2600,2000,1500万となっている。この他 優勝賞金1000万、一旗当りの賞金3万や20種類にも及ぶという国内外からの賞金等を加えると横綱の優勝では軽く年収億を突破すると思はれる。力士寿命の短かさ、厳しい稽古に怪我の怖れなどを考慮に入れるとこの年収、どう解釈したら良いのだろう
そこへいくと外人力士は素晴らしい。金を貯めて中古車を買い国の父親に贈ったなどの美談もあるが、日本語の達者なのには舌を巻く。引退後はテレビの解説までやってのける。言葉や食べ物、何から何まで全く違う国にやってきて、それも相撲部屋という特殊社会の中で、イジメや差別もあっただろうがそれを克服、それこそ“身体”で言葉や技を覚えたのである。勝負も最後まで諦めない。応援したくもなろうと言うものである。
この初場所の幕内力士42人の内訳を見ると、外人力士15(内モンゴル9)学卒力士12、その他15とほぼ同数で分け合っている。昔は義務教育上りが殆どだったことを思うと、日本の高学歴化に伴って相撲は学卒力士中心に変わりつつあると言へるだろう。現在、外人力士は一部屋一人に限られている様だが若しこの枠が外れたら国技、相撲は外国人に乗っ取られてしまうかも知れない。学卒力士の奮起を促したいところである。
テレビ観戦にはもう一つの楽しみがある。画面に映し出される“見覚え顔探し”である。その第一は元NHK、相撲解説者の杉山邦博氏。国技館、名古屋、大阪、九州、どこの場所でも必ず毎日、東方力士溜り後方に鎮座ましましている。氏は私と全くの同年代。福岡の小倉中学から 余程の秀才だったのだろう熊本の陸軍幼年学校(熊幼)へ。そして戦後は早稲田の文学部を出て昭和28年NHK入局、相撲一筋を通した人である。実は私の小学校、中学の同級で一度も負かすことが出来なかった友人に岩本修というのがいたのだが、彼も佐賀中学一年修了で熊幼へ。そして彼は東大から杉山氏と同じ年にNHK入局、サッカーやオリンピックを放送していた。杉山氏とは熊幼、NHKの同期で同じスポーツ担当だから親しくしていたに違いないのだが5年程前に亡くなってしまった。私が杉山氏を探すのはその後ろに岩本を探しているようなものなのである。杉山氏にはまだまだ元気でいてほしい。名古屋では画面左に小太りの、右には小柄の、一見料亭の女将と覚しき女性二人が毎日欠かさず顔を出す。暑い盛りだというのに高級着物を取っ替え引っ替え。きちんと正座して勝ち負けを問わず引上げてくる力士に拍手を送っている。角界の誰がご贔屓だろうと余計なことまで考えてしまう。大阪では俳優 市村昆ちゃんが時折顔をだす。福岡では何と言っても横一列に並ぶ6~7人の黒紋付姿の綺麗所、壮観だ。年々年増を深めるのは致し方なし。
初場所が終った。3横綱中二人が途中休場、大関に至っては優勝の稀勢の里を除いて二人が負け越し、一人が途中休場.小結一人も休場と散々な場所だった。こんな中での稀勢の里の優勝はラッキーだったと思うのだが、1998年の若乃花以来19年目の日本人横綱誕生とあっては目出度しと言うべきか。稀勢の里はふてぶてしさに無表情、土俵上の仕切りも態度悪く余り好きではないのだが、横綱になった以上 人間性を磨き、心技体備わった強い横綱になってほしい。又、十両で評判の宇良、英乃海、里山、幕内では正代、御嶽海、遠藤、北勝富士、石浦と言った学卒力士が稽古に励み、人気だけでなく安定して力を発揮できる強い力士になって日本の相撲を支え、盛り上げていってほしいものだ。
おわり
建具屋のおじさん、下駄屋のおばさんなど 横山 明美
明け方によく、懐かしい人たちの夢を見る。今は身近に見ることのなくなったタイプの人ばかりのように思われる。両親ともその土地の生まれ育ちではなかったのに、すべてはいい思い出ばかりなのがうれしい。
栃木は宇都宮というあまり知られていない町。テレビの人気ランキングでも常に下位に甘んじる土地柄でもある。東京で所帯を持ったあと、父はその地にある会社を任され赴任してきて私たち四人の子を持った。
隣は次から次に子が生まれる植木屋で、常に罵声や怒声がとびかっていた。「ガキが多いから、毎日おかずはこうこ(おしんこ)ばっかり」と言うのが主の口癖だったが、子だくさんが功を奏して今は三階建のビルに事務員も置き、兄弟は社長や専務に顔を並べる。県内の主だった公園などの緑化の仕事はほとんど手掛けて評判らしい。洟垂れ小僧だった幼なじみも今は余裕の顔つきで風情さえある。
その三軒先の角が建具屋のおじさんだった。角かくし姿で花嫁がやってきたころからのつきあいである。前を通ると、細身のおじさんはいつも一人シュルシュル,トントンと作品に吸い付くように難しげな顔で仕事をしていた。立てつけが悪い時などすぐ飛んできてくれる。上ずったかすれ声で、大声をたてることなど一度もなかった。夕方になると奥の茶の間に灯がともる。高校からの帰り道前を通ると、今日も一日が終えたのかという思いになり、私は自転車を引いて我が家の門を入る。
独り暮らしとなった父を、その後私たち娘は交代で看に行くようになった。マッサージ椅子やポータブルトイレから車椅子に移すのは大ごとで、うまくいかないとすぐ角の家に「父が尻もちをつきまして」と駆け込むのである。あのもの静かで華奢なおじさんに倍以上もある巨漢は何度も助けられたのであった。いつもそっと笑顔だった奥さんにとって、おじさんはどんなに頼もしい人だったろうと、ふと思うことがある。奥さんは、おじさんの注文仕事も減り始めたころにひっそり亡くなり、息子さんはほとんど顔を見たことがなかった。しばらく後帰省すると、通りがかりに見えていた明るい仕事場は家もろとも消えて、駐車場になっていた。
下駄屋のおばさんは、物ごころついたときにはもう出入りしており、我が家には欠かせない存在になっていた。冬の白菜の漬け込み、秋口の畳を上げての大掃除、布団綿の打ち直し、春はよもぎの草餅作り・・・。手伝って覚えたことはいろいろある。通りのガラス戸ごしにわずかばかりの普段履きの下駄を商っていたので、つい名字よりも下駄屋のおばさんと呼んでいた。おじさんは目元口元も定まらず少し頼りないところがあって、おばさんは常にどこかで何か役に立つ仕事をしていたのである。うちからそう遠くないところに住んでいたが、いつどこで見かけても、使い込まれた割烹着を、風雪に耐えてきた小柄で固太りの体に鎧のように着けていた。秋の大掃除の一日が終えると、まずはお風呂、それから酒とごちそう振る舞いになる。民謡仲間らしいおじさんを手伝いの男手として連れてくるのも例年のことだったが、宴たけなわになると、それは賑やかにおじさんとの掛け合い民謡が始まるのである。働きづめのおばさんの楽しみは、こんなところにあったのかもしれない。その後おじさんは、父の世話で地元デパートの守衛になった。おばさんもとてもうれしそうだった。私のことは最後まであきちゃんとか明子ちゃんと呼んでくれたが、「子」のつかない、当時としては妙ちきりんな名はおばさんには馴染まなかったのだろう。草餅のころ、また白菜の時季になると下駄屋のおばさんを思い出し、それは私の中でまるで俳句における季語みたいになっているのである。
青春 古内 啓毅
Time flies.まだ寒い日が続きますが暦の上ではもう春です。人も街もうららかな陽光を待ちわびています。
我が家の話です。孫は2歳を超え、歩きも達者になり、おんもへでたがり、食べ物や遊びなどの嗜好も広がり、目を見張る成長ぶりです。それに引き替え、こちらは先月末に喜寿を迎えるも、喜び寿ぐもの何もなく、もの忘れ、動作緩慢など黄昏が忍び寄ってきています。老いに負けずに平穏でハッピーな日々を送れるようにしたいものだと考えています。
そのためには健康フアーストです。いまさら筋力、体力の増進、強化なんて望むべくもありませんが、いかに劣化を防ぎ、現状を維持するかに腐心しています。
10余年前に手術した頚椎、腰椎の後遺症と思われる手足のしびれ、むくみに悩まされていますが、改善に向けた特効薬はなく、腹筋や背筋の鍛錬、ストレッチ、ウオーキングなどの地味な運動を続ける以外に方法はないようです。毎年人間ドックでヘルスチエックをしていますが、いまのところ高血圧、コレステロール、白内障、緑内障など加齢に伴う現象の経過観察で済んでいます。ほかに睡眠時無呼吸症候群の治療、定期的な大腸、胃の内視鏡検査など早期発見に務めています。
これらの経過の中で、大変にショックだったのは、腰椎の手術のあとグリーンを目指してリハビリに務めていたときに、ドクターから、以後ゴルフは禁止ですよ、と宣告されたときでした。手術の前まで、痛む腰をさすりながらも週一ペースでゴルフに興じていましたが、仕事を辞めた後は、健康維持にも役に立つと考え、先輩の方々と同様80歳超までゴルフを楽しむ計画を立てていました。が、ドクターは、手術をして腰の塩梅がよくなったのでゴルフを再開したというAさんはまた痛みだし再手術しましたよ、といわれる。こういわれちゃあ、二度と手術台には上りたくないと考えていた小生としては諦めるしかありません。今はするゴルフから観るゴルフに変わりました。
PGAツアーで活躍している松山英樹のプレイを観るのが楽しみだ。2月5日のフエニックス・オープンでプレーオフの末4勝目をあげ、昨日からジエネシス・オープンが始まっている。スポーツ観戦は、野球でも相撲でもひいき筋が勝っているときはいいが負けてくると食事もまずくなる。ゴルフもスコアを伸ばしている時はいいが、そうでないときはストレスがたまる。
こんなとき、日本占領の連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥が座右の銘として執務室の壁に掲げていたという無名の作詩家サミエル・ウルマン(米国)の「青春]の詩の次のような一節に勇気づけられる。
青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
老齢化とともに知力、体力、経済力などの劣化は防ぎようもないが、理想を失うことなく、信念、自信を持っていかに希望に満ちたは生活を送って行けるか。甚だ困難な事業ではあるが気持ちとしてこれらの文言を唱えて行きたい。
、
裏筑波の“裏事情” 谷川 亘
『「大和」って?』と問われたら何を連想されますか?直感的には、今の奈良県をイメージされるでしょうし、だったら『「大和駅」は・・・?』間違いなく都心の小田急線「大和駅」を直感されることでしょう。まさか、JR水戸線の片田舎にも同名の駅があるなんて想像だにされないと思います。
「大和」の一端を汚す我社の工場は茨城の方であり、1983年に役所から工業団地の推薦をいただき、“裏筑波から日が昇る!!”なんて度外れた合言葉のもと工場を建設しました。
山紫水明。森の緑、田んぼの青が目に染みるような場所で、正直、自然を冒涜してしまうでのはないかと罪の意識さえ持たせる、“見当違いの”工業適地?ではありました。今になって思い起こせば、町興し工業立地施策に上手く乗せられたのかもしれません。
ゴルフ場も隣接していますし、温泉こそないのですが、老いてのち考えるに、別荘でも立てて黄昏の住処にでもすれば最適だったのかもしれません。
まあ~、交通の便には縁のない場所で陸の孤島。当該「大和駅」が開設されたのは1988年ですが、05年までは一日数本を除くと大部分の列車の通過駅。通勤用のだだっ広い駐車場はあっても今以て無人駅なのであります。日中の乗降客に至ってはほんの数人、いやゼロもありうる。
常磐高速道の桜川岩瀬インターが至近に開通し、近隣地価が“暴騰する”。これぞ一大工業団地。なんて算盤弾いても、所詮「捕らぬ狸の皮算用」なのでありました。
活気あるのは国道沿いのパチンコ屋のチン・ジャラの騒音くらい。
町に出れば人っ子一人通る筈もなく、猫さえあくびするところかマッ昼間からイビキかく始末。
尤も、嘘か真か最近ニュース。近隣に、地域の総合病院と、農協の葬祭場が同時並行して建つそうで、 “ノンビリズム”だった時の刻みも、いささか早回しになってきたのかな?
3町村合併今や昔。未だに後遺症残る地方行政。バランス調整のなせる業なのです。
年に数回、聞くに忍びない会長訓示と称して一番列車に揺られて工場に赴きますが、「下館」に差し掛かると、女体、男体相添う筑波の峰が黒影となって正面に鎮座し、真逆から陽が昇らんとする裏筑波の光景は冷厳にして壮大。ましてや、大和駅到着数分前の「大沼」越しに見る裏筑波の景観と言ったら、正しく“何にたとへん?”
鳴くさえ忘れた閑古鳥。合併して桜川市に昇格した筈なのに旧態依然とした旧真壁町。一念発起、町興しに一役買っているのが数えて15回目になる「真壁のひなまつり」。重ねるごとに来訪者はうなぎのぼりだそうで、招き猫まで「おいで、おいで」で昼寝どころではない。町中がこの祭り期間だけは降って湧いたような銀座通り並みの人出の千客万来。
私は疎開で伯母の嫁した先の、かねて「関東の三越」と呼ばれ、今では国の重要有形文化財の指定受けた潮田家に厄介になりましたが、今にして再度日の目を見、飾られているお雛さんを見るにつけ、あの戦時暗黒の時代に、「お前も人目忍んで、蔵の奥で、鼠が跳ね、青大将が天井をのたくっていた時代に、じっと堪えていたんだねえ」と、思うにつけ、感慨一入でございます。
軍艦島の誤解 照山 忠利
今韓国で「軍艦島」という映画が製作され、今年の夏に公開される予定だという。1月下旬に出されたこの映画のポスターには「1945年、日帝占領期、我々はそこを地獄島と呼んだ」との宣伝文句がつけられた。軍艦島とはいうまでもなく長崎にある旧端島炭鉱のことであり、強制徴用された朝鮮人たちが命をかけて脱出を試みる映画なのだという。映画の予告編では、海底炭鉱の腰さえ伸ばせない狭い場所で過酷な坑内労働に従事する朝鮮人少年たちが、ガス爆発の危険にさらされながら作業をする様子が描かれ、「ここの出来事を記憶する朝鮮人は一人たりとも残してはいけない」との日本語のせりふが流れるとか。
一昨年、端島を含む「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産として登録されることが決まったとき、韓国は官民挙げてこの阻止に動いたことは記憶に新しい。今回の映画はその流れの延長線上にあるものだが、端島の隣りの高島に10年暮らし実情をよく知る者からすれば、なぜこのような荒唐無稽な内容があたかも史実であるかのごとく捏造されるのか、まったく理解に苦しむところだし虚しささえ覚えずにいられない。
高島でのかつての同僚の父親は、高島炭鉱の社船「夕顔丸」(三菱長崎造船所の第1号鋼鉄船)の船長を戦前から勤め上げた人物であるが、その人の証言によると、終戦時200人からの朝鮮出身の人たちを夕顔丸に乗せて釜山まで送り届けたという。それには当然、端島で働いていた人たちも含まれていたはずである。もちろん給料や退職金をすべて支払った上でのことであり、彼らからは大いに感謝されたといっていた。半島出身だからといって格別ひどい仕打ちや差別を受けたことなどなかったのに、実際にこの時代を経験した人たちがいなくなり、反日プロパガンダの中でまったくの邪推に基づいて捏造される「史実」が積み重ねられるのは、いわゆる「従軍慰安婦」問題からの派生現象でもあろう。朝日新聞が虚偽だったと認めて全面的に取り消した詐話師吉田清治の少女強制連行物語は一昨年、やはり「鬼郷」という映画に仕立てられ、韓国人の7%、350万人が観て悲憤の涙を流したというが、今回の「軍艦島」は慰安婦の「少女像」を「朝鮮人少年坑夫」に置き換えて描きなおしたような趣きがある。
韓国は今、朴大統領の職務停止がつづき実質的にリーダー不在となっている。その間隙をついて北朝鮮は核実験やミサイル発射を繰り返している。こうした危機的状況下におかれながら徒らに反日感情を煽り日韓離反を図る動きをどう見たらよいのであろうか。かつての韓国にはそれが国家として正しい選択と信じ、日韓親善に汗を流した政治家がたくさんいた。今では親日的言動をしたらたちどころに袋叩きにされるので口を噤まざるを得ないのだそうだ。反日教育を続けてきたつけが回ってきて自縄自縛に陥っているように見える。サイレントマジョリティの存在を信じつつ、良識と指導力のある政治家の出現が待たれるところだが、当分それは望み薄なのであろうか。
端島の元島民たちは今回の映画の話を聞いて大いに驚き、「事実と違うことには反論しなければならない」と老骨に鞭打って立ち上がったという。彼らの動向を注意深く見守っていきたい。