2019年作品集

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       【2019年12月21日定例作品】

落 葉                  鳥谷 靖子  

 十一月中旬の午前中、光が公園外周の遊歩道を歩く。常緑樹の林の中は、薄暗く人影はない。団栗の混じった枯葉を踏むと、ザーザ‐ザクザク音がする。何だか心細くなる。「クククー、キーキー」遠くの方で鳥の声が聴こえてくるとホッとする。十分歩くとイチョウやモミジの多い明るい道にでる。木々の紅葉が始まり、銀杏のつぶれた匂いや、落ちたばかりの落葉のフワッとした感触が、足裏に伝わる。小さな子供のカラスが、季節外れに咲いている都忘れの根元を突いているが、すぐ近くの通行人は全く無関心。しばらく歩いていくと、一番お気に入りのスポットがある。
 四十代後半、早朝に犬を連れて散歩に出かけた夫から、「まだ寝てるの?早く起きて、すぐ公園に来いよ」、「なんで、まだ寝ていたいのに~」「とにかく来いよ!」。
 何時もより強い調子に、身支度して急ぐ。落葉が赤、黄、茶,橙色に色分けされ、地面一面に敷き詰めて、柔らかい朝日に照らされ、光輝くペルシャ絨毯のようだった。午前中、改めて自慢気な様子の夫と、愛犬共に秋の公園での散策を楽しんだ。
 散歩の度に同じ場所を訪れるが、あの時の、美しさに出逢えたことはない。あの瞬間は、夫との思い出の中で、一番輝いていた頃と重なる。
 光が丘公園の中央に、広い外周を分断するように一キロ近い銀杏並木がある。昔、有楽町にあった旧都庁前のイチョウ並木を、新宿移転の際、光が丘に移植したそうだ。
 十一月にはまだ、陽当りの良い場所とそうでない所で、黄色と緑のグラデーシヨンになっていた。十二月の早朝、並木道を入ろうとし、思わず自転車をとめる。落葉が遥か遠方まで黄色のカーペットを作り、残り葉が空中を舞っている。映画で見た、ヨーロッパの一場面のヒロインの様に、自転車を押しながら、その道をゆっくり歩いた。
 若い頃は、日々の生活に追われ、ただ毎日を送ってきた。人生の黄昏期に入り、これまで気づきもしなかった、季節の移ろいによる自然の変容やその美しさ、何気ない日常や身近な人々との交わりで感じる喜びや発見が、身に染みる様になっている。
 自宅付近の味気の無かった楓の並木道さえ、赤茶色の枯葉が、道に降り注ぐ様子に冬の訪れを感じ、心に響く。
                                
                                       

高 島 会                 照山 忠利

高島のことについてはこれまで何回か触れているので、またかと思われるかもしれないが、今回が最後という気持ちで書くことにする。実は高島炭鉱閉山以来続けてきた「高島会」なる会合がある。毎年2月の第1土曜日を定例日として25名内外の元ヤマ男が集まり、酒を酌み交わす。来年の次回がちょうど30回目となる。この会の幹事役を務める若手(といっても60歳すぎ)の面々から「そろそろ店じまいとしたい」といってきた。スタートしたころ新入社員に毛の生えた程度だった若手が、今や部長や重役になっている。彼らがもういいのではないかというのを、さらに引っ張って続けろともいえないし、さりとていまさら小生ごときが幹事役にしゃしゃり出るのも憚られるので、30回の節目を機に「休会」とすることとした。
 高島炭鉱は今から33年前の昭和61年11月27日、三菱105年の歴史に幕を下ろして閉山した。今でもNHKラジオは「きょうは何の日」という番組でこの日を「高島炭鉱閉山の日」として紹介している。それだけ歴史的な出来事だったということだろう。
 高島炭鉱は、土佐藩士だった後藤象二郎が明治政府から払い下げを受けて経営していたが、所詮武士の商法で負債が膨らみ立ち行かなくなって、同じ土佐の岩崎弥太郎に買ってくれるよう頼みこんだ。海運業を営んでいた岩崎はこの要請に「いくら後藤様の頼みでもこればかりは」と難色を示したらしい。福澤諭吉や大隈重信らのあっせんや説得でしぶしぶこの買収に応じたという。明治14年、早稲田大学創立の1年前のことである。
 当初、汽船の燃料になればくらいの期待しかしていなかった岩崎だが、実際に経営してみたらとてつもなくポテンシャルのあるドル箱であることに気が付いた。まず炭量はせいぜい150万トン、鉱命8年程度と見積もられていたものが無尽蔵に近い。炭質はきわめて高カロリーの粘結炭で、ふつうの燃料用一般炭にくらべてはるかに価値が高いことが分かった。鉱山技術の進歩と経営の近代化とが相まって、高島炭鉱は莫大な利を生んだといわれている。岩崎はここで得た利益を多くの事業に投資した。そして一新興海運会社だった三菱会社は、のちに「財閥」といわれるほどの地位にのし上がった。高島が「三菱発祥の地」と称される所以である。今の三菱グループの首脳陣には記憶の片隅にもないことであろうが、これは特に強調しておきたい点である。
 そのように由緒ある高島炭鉱も100年以上の採掘で稼行条件が著しく悪化して採算割れとなり、毎月の赤字が4億円を超えるようになった。もはや私企業の限界を超えていた。このため会社はまさに断腸の思いで高島閉山を決断、労組の激しい閉山反対闘争を乗り越えて最後の日を迎えることになったのである。そしてヤマの仲間たちは全国に散っていった。総務課長として対労交渉の前面に立っていた私は、埼玉県・秩父に転勤した。
最後の高島鉱業所長を務めた茂木昭さん(PSコンクリート社長)を中心に昭和63年、東京近郊に来た仲間35名ほどが第1回の高島会を開いた。「高島で培った不撓不屈の精神を忘れず絆を保っていこう」との趣旨であった。会は発足の経緯から元々「茂木会」の様相が強かったので、同氏が急逝(17年前)されたその時に幕を引いてしかるべきだったのを、続けてほしいとの声に押されて今日にまで至ったというわけだ。
 今、高島は長崎市の一部となり人口わずか300人ほどとなっている。炭鉱があった面影は殆ど感じられない。海底下の地層は開発以前の太古の昔に還ったようだ。隣の弟分の端島炭鉱(軍艦島)は、高島より12年も前に閉山し無人島となったのに、炭住の遺構が残ったために軍艦島クルーズの船が押しかけ大賑わいを呈している。まったく皮肉な光景といわねばならない。
 いつかまた高島の地を訪れ、高島のヤマに引導を渡した者の一人として祖霊の声に耳を澄ませてみたいと思っている。
(了) 

こちとら、どうせアサガオさ!!     谷川 亘

幾許かの報酬を授かる以上「出ねぇ訳にはいくめぇ!!」
 と、勿体ぶってはみるものの、会社にとって重鎮のはずの“会長さん”なのに、無いない尽くし。秘書なし、個室なし、ましてや、お出迎えのお車なんてありっこありません。東京の西端から湾岸まで電車に揺られ、乗換え3度にも及んで1.75時間。飯田橋駅での地下道の乗換えはかなりの歩きで、どんどん追い抜かされる様はお見事。歩幅小さく前かがみの典型的な“よろけ老頭児”振りなのです。ここに至ると、持病の腰痛症にさらに加わった座骨神経痛が悲鳴を上げること必至。
 せめて座ってゆきたい。ならば、と選んだ、早起き必須の2番電車。
 当然のことながら我社の一番乗り。ヘルメットこそ着用しないが作業衣に着替えを済ませて襟正し、渋茶片手に、わざと素知らぬ顔して「ご苦労さん」と声掛けする。「ざまあ、ご覧あそばせ!!」これが“なんにもしない、否、何も出来ない”会長冥利。とにかく気持ち良いのだ!!(年寄りの空元気。と揶揄する従業員もいるやに聞いてはいます)
 始業のベルが鳴ると、「ご安全に!!」のご挨拶と「〇〇は良いか!!」と叫ぶ指差し呼称は工場挨拶の常套句で安全周知の第一歩。
 一日の内で“輝ける”会長さんの存在を誇示できるのは、ここまでだけなのです。
 でも、週に3回かな?いや、平均2.5日かな?
 早寝早起きは健康にも良いし、遅くまで大酒食らって寝不足に陥ることもなし。大体、ボケる事もない。そうですよ。規則正しい生活は、心身共に快適な老後が約束されているのですよ。
 会長さんの自慢話はここまで。
 とにかくRoutine work 思しきものがない故に手持ち無沙汰。「工場巡視」と言って、安全委員を従えて工場一巡するのも一種の儀式。仕事中の私語は厳禁となっているし、女性に「お~い、お茶!!」なんて命ずるのはわが社の禁句なので、止む無く自分で点てる渋茶。(茶葉たっぷりの緑茶の一杯。これがまた美味いのだ)
 その後は窓際族。背中にたっぷり陽を受けて自席でどっしり新聞斜め読み。最近の新聞は実に44ページで無理・無駄・ムラの大通り。記事も水増し加減の上広告ばかりで読み疲れます。従って当然“斜め読み”になりがちなのです。
 私がいると、せかせか、いそいそ働きまわる従業員諸兄妹よ!!あの、コロッケ尽くしの「工場食」食したら昼行燈に陥って睡魔に襲われる。とっとと帰りますからもう暫く我慢してね!!とは情けない。“大会長”強がりの一日でした。
   ちなみに、我社のHPです。ご笑覧あれ!!  http://tokiwaslitter.com/

気が弱いものですから           横山 明美

 家族にしょうもない末娘と思われて育ってきた私である、図体ばかり大きくて気弱なことこの上ない。中学の受験の日、帰るなり姉に「どうだった?」と言われたがその日の出来などわかるはずもなく「さあどうだか」と気のない返事をしていた。結果などこわくて知りたくもなかった。だめなら学区域の中学に行けばいい。早稲田の入試のあともいち早く田舎の家に逃げ帰り、昼下がりがらんとした居間の炬燵にひとり潜っていた。柱時計の針が冷たい空気の中チクタクと正確に時を刻む音を初めて聞いた気がした。台所から昼の用意をする母の包丁の音がトントンと冴えわたって聞こえてくる。さすがに受かるといいな、姉も卒業した大学だし、とは思ったが大都会への不安もある、友人もいないし、と炬燵布団に顎まで潜りながら、刑を待つ罪人のような気分でいた。しじまを破って姉の甲高い声が電話の向こうから聞こえた。私は「ふうん・・・」と言いつつ台所へ向かった。中学は地元の荒くれ学校では生きていけない、大学はここで男子に出会わなければ一生男と口もきけない・・・そうした家族の思いがあってのことらしい。ゆえに!女子高の三年間の伸びやかな楽しさと言ったらなかった!しかしその三年間にも雨の日はある。自転車は危ないのでその日はバスに乗る。終点が男子校行きのバスのいくつか手前が私の降りるべき停留所である。ほとんどが賢そうでりりしい(と勝手に思ってしまっている)男子ぎゅうぎゅう詰めの中、私はどうしても大声で「降りまーす」と言えず、次の停留所までに必死に降り口ににじりよってやっと降りることができ、雨の中わが校門までとぼとぼ歩く羽目になった。門を入るとその名も”操橋“という名の古い石橋を渡る。大勢の男性の中をよくも潜り抜けたものだ、との感慨を持ちつつ校舎へ急いだ。
 大学では生来の気弱が邪魔してかほとんど男子学生とは自分から口を利くこともなく過ごしたが、デパートで買い物ぐらいはするようになった。春向きのコートが欲しいと思い値段と相談しつつためつすがめつしていると・・・店員さんが付きまとってきてしきりとお愛想を言う。周りに客もまばらで逃げる機会を失い、サイズが合わないのにとうとう買う羽目になった。それを羽織って帰省しいきさつを話すと、母が「身に合うものを買わなくてどうする。これは私が買い取ってあげるから二度と同じことはしないように」と言われた。以後服を探すときは立て込んだ時期、時間帯に出かけるようになった。
 時は流れ気弱な人間は平凡な主婦になる。子供が小さい頃、親と同居の友人の家で互いの子供を遊ばせつつ他愛もないおしゃべりなどして日も暮れ、さて帰ろうとしたら一階の部屋の障子がすっとあいて品のいい老婦人が「これ、帰りがけ投函していただけますか」と一枚のはがきを手渡す。私でも知っている一流会社の社長夫人である。心に葛藤がなかったわけではない。どんな文字遣い、どんな文面、どんな人に何のために書いたのか・・・私も父譲りの知りたがり、珍しいもの好きではある。しかし心の芯は気弱である。罪悪感もある。見たい知りたいという想いは無残にも消え失せそのまま通りすがりのポストに投げ入れてしまった。いい生活をしている人の日常の一端が垣間見えただろうに。
 駅近のその友人宅と違い最近私の住む路地は住人の入れ替えが激しい。今年は私が町内会の会費集めの役にあたる。新しい家のブザーを押すと50代くらいの屈強な主がぬっと出てきた。当番であること、月100円なので一年分まとめていただいているのですがよろしく・・・とやわらかく言ってみたが、そこへ奥さんと栄養の行き届いた太めの男児も出てきて三人で入り口をふさぐように立ちはだかると「そう言われても・・・」とひとこと。どうも払う気配がないので気弱な私は説明を続ける意欲を失い、笑顔を作って引き下がると家に戻って回覧ノートからその家の名を力強く抹消した。が私はそれからおやつ食べ放題(に違いない)の子に「お帰りなさい」だの「こんにちは」だのと声掛けをし、昼間よく家にいる父親が見たこともない高級自転車を磨いていれば「まあ!素敵な自転車ですねー」と心にもないことを言って破顔一笑させたりする。その家の前を通らないと表通りには出られない。それなら、子供には挨拶の習慣くらい覚えてもらいたいし、大人にもこれまで品よくまとまってきた(と勝手に思っている)路地の雰囲気を知ってもらおうじゃないのさ、という気がむらむらと起こってきたのである。子供はこのごろ顔だけはにこっと返してくるようになった。
 稲門会に入って数年がたつ。そこでの修練もあり、かつての私が少しずつ図々しくなってきているのではないか、と己を疑う日々である。

 

大反省                 華岡 正泰

 12月、一年を振返る月、反省の月である。
去年の12月、私は次の二つを心に決めた。それが 果してどうだったか。
第一は:毎日 良かったことだけ三つを 簡単に、箇条書きで日記に識す。
 テレビに出て来た或る人が「老人が家に籠ってばかりいると、全てがマイナス思考で 延いては認知性鬱病になり兼ねない。それを防ぐ為に、無理にも良かったこと三つを思い出し 日記に書き続けるようにしたい」と説いていた。この説に共感してのことだった。
 さて、今日まで354日のページを捲ると、良かったこと三つが埋った日は皆無。白紙こそないものの“良い天気だった”“酒楽会で痛飲”等と逃げを打ったり“女房にシルバーパスの引換券を失くされ 交換出来なかったが(悪い)会場まで2000歩の運動が出来た(良い)”と苦し紛れである。
 要するに私には、待っていては良いことは現れない。自ら取りに行かねば・・が良くわかった。来年は一つだけでも見付けて“良いこと日記を続けよう。

第二は:健康維持の為 毎日2000歩以上歩く。
   そして嗜みごとで節制すべきことあれば それに努める。
 昨日までで目標を果たしたのは58日 6日に一度の割。矢張り無理だった。
目標が高過ぎた。来年は毎日外に出て、一運動単位と言はれる20分歩くことに切換えう。然しウオーキング会では14,243歩と10,510歩 歩いている。だから私はまだ“やれば出来る。やらないだけなんだ。”
 だが“待て待て”やりもしないくせに やれると自惚れる。これが私の最大の欠点だ。これ迄何とかやれて来れたのは 唯々運が良かっただけなんだ。
 私の人生で最も良かった、嬉しかったこと三つを振返っても、その全てが苦心 苦労 努力で手に入れたものではなく偶然、幸運 、人様の助けによるものだった。若し人間に神仏に仰げる部分があるとするならば、私は既にその全てを授かり尽していると言へよう。だから これからは“やれば出来る”と ふん反り返るのではなく何事にも謙虚に、然し積極的に取り組んでいかねばならぬだろう。“長生きしたい”とは思はないが“まだ死にたくない”。だから猶更だ。

 嗜みごとでの反省は特にはないが、来年は一次会は控え目に、二次会、三次会はお付合いだが、自らそれを声掛けることは慎むことにしよう。
それと、老夫婦が睦まじいのは良い眺めだ。私には大変な努力を要するが それを目指そう。 大反省 おわり

ジョージ・バーナード・ショウの名言   富塚 昇   

先日、本屋で岩波ジュニア新書の『ポジティブになれる英語名言101』という本を立ち読みしていると、ジョージ・バーナード・ショウの名言が目に入ってきた。ジョージ・バーナード・ショウはウィキペディアによれば、1856 – 1950、アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストとある。
 ジョージ・バーナード・ショウの名言にハッとさせられたのは人生で2回目であった。1回目は今から36年前、教員生活がはじまった時のことだ。その2年前、大学4年の時の社会学の授業で“THE INTERNATIONAL THESAURAS OF QUOTATION”(Penguin reference books)という本が紹介された。直訳すれば『引用の国際的宝庫』ということになるが、英語版の名言・格言集であり、私もその英語の名言集を購入した。大学を卒業後、少しの回り道をして高校の教員となった時に、“teaching”に関する名言を読み、その時、ジョージ・バーナード・ショウの名言を発見したのである。
 He who can, does. He who cannot, teaches.
直訳すれば「できる者はする。できない者は教える」ということになるが、私は意訳して「できないやつほど教えたがる」という訳がいいのではないかと思っている。
 私自身、恵まれた教員生活の中で、例えば生徒が何事かを成し遂げたりした時などに、「やった」と思い、生徒のおかげで私自身が達成感に満たされることも数多くあった。そんな時は教員としてのやりがいを感じ、私自身のアイデンティティも確かなものになる時であった。しかし、そんな勘違いしそうになった時に「お前はできないやつなんだから調子に乗るなよ」と言ってくれるのが、ジョージ・バーナード・ショウのこの名言であった。
 そして、教員生活36年、今年3月に定年を迎えることができた。いわば第一次リタイアの時である。現在はフルタイムで再任用教員を続けているので、生活はほとんど変化していないが、4年半後には第二次リタイアを迎えることになる。そして、人生100年時代に向けて第二の人生をスタートさせなければならない。現在は教員生活に片足を残しながら、第二の人生の準備期間という時期になっている。
 「定年後」に関してさまざまな本が出版されているが、趣味をもつことと地域とのつながりをもつことが重要であると書かれていることが多い。教員生活には魔物が潜んでいて授業にしても部活指導にしても、仕事が趣味となり、趣味で仕事をしているようになることがあるが、これからはそういうわけにはいかない。「エッセイ同好会」に入れていただいたことを皮切りにこの数ヶ月、休日の過ごし方も少し変わってきた。この秋に高尾山に3回登り、国立博物館での正倉院展と西洋美術館でのハプスブルグ展と展覧会を「はしご」をした後に、上野公園を少し散歩し、そして、初心者用ゴルフクラブを購入した。ということで4年半以内に「山歩き会」「歴史ウォーキング会」「ゴルフ同好会」に入れていただけるように準備をしていこうと思っている時に、本屋で立ち読みをしている私は94歳まで生きたジョージ・バーナード・ショウの名言が目にとまったのである。
 We don’t stop playing because we grow old; we grow old because we stop playing.
「年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ」。
この言葉を座右の銘として第二の人生の準備を進めていこう。
 
                                       

外交                  小林 康昭

 わが国は、国連外交を最も重視する外交政策を採って来た、とされていました。国連外交とは、国際連合の決定に服し、その主義主張には逆らわない、と言うことでしょう。その国際連合は、第二次大戦末期に日本やドイツを敵対視していた国々が、世界の恒久平和を目指す目的で創設しました。なので、のけ者にされていた日本は、国際連合に加盟することが悲願でした。日本は、外交姿勢を明らかにするべく、外務省に常設の国際連合局を設けました。
 だから、日本では、政権与党も野党も国際連合に過大な期待を抱きました。そして、国際連合が世界中の国々を統治統括するような、世界連邦政府のような錯覚をしたようです。外国から侵害されたら国際連合に救済して貰おう、自衛隊は廃するべきだ、と主張する政党さえあります。でも国際連合には、そんな機能はありません。
 国家と国際連合の関係は、例えば、会社を国家に見立てると、業界団体が国際連合に相当します。業界団体が会社の経営に介入しないように、国際連合は各国に対して内政干渉をしません。
会社が業界団体に過度に期待することはご法度です。経営悪化しても業界団体は援けません。同じように、国家が国際連合に過度な期待や希望を抱くと、国家の存立を危うくする恐れがあります。当然、自立するべき国家は、国際連合との間に意見や主張に相違が出てきます。それ故に、国際連合に公然と反発する国もあります。
 米国ですら、不満があれば、国際連合の決定に服しません。その場合、日本は迷うことなく米国に歩調を合わせます。日本は国際連合よりも米国を重視するということです。いつの間にか、国際連合局は消えてしまいました。
*  *  *
 ODAは日本の重要な外交手段です。だが、現地の要人との間に認識の違いを感じます。日本人は援助している認識で仕事をしますが、彼らには援助されているとの認識は乏しいのです。ODAに関わる経験が多い要人ほど狎れ過ぎており「アンタたちはODAで喰っているのだ」「ODAで裏金で味をしめてる奴が」などと批判的な言質を弄します。これは、相手側の正直な感情の吐露です。現地の要人たちは、公式の場では日本に向かって謝意を示すが、本音は違うと言うことです。本音は日本側の高位高官たちの上層部には伝わらず、現場で汗をかく我々に向かって語られます。現地側の本音は貴重なのですが、日本側の上層部は都合が悪い情報は黙殺して、思惑どおりに粛々と進めて行きます。
 米国が相手国の政策を咎めて、経済封鎖を主導すると、日本は必ず米国と旗色を同じくします。日米だけが手を引き、他の国々は従来通り、という構図もあります。ODAを止められた国は感情を害します。現地側の彼らには、日本に対して懐疑的で屈折した感情を持ちます。別れ際に彼らは言い放ちます。「日本は、外国の役に立つことをした歴史がない国だ」日本は、困ったときに助けてやった国はない、自分たちの利益を得るために動いている、との認識です。
 日本は、親日国に対して鈍感です。台湾、トルコ、メキシコ、フィンランド、ミャンマ・・・。これらの国々に対して、日本は、国も国民も格別の感情を持たないし、政策的な外交措置も採っていません。拙いことです。
 日本がODAから撤退すると、その空隙に中国などが入りこみます。そうなると日本の復帰は不可能です。そのようにして、ODAの最大付与国だった日本が滑り落ちた例は非常に多いのです。円の切れ目が縁の切れ目になるのです。
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 わが国には、自虐的と揶揄される史観が存在します。昭和前期の中国大陸侵入、植民地政策、第二次大戦などの日本の行動を、有識者とか進歩的と言われるマスメディアが批判的に捉えた主張です。力のある日本が犯したという点で、日本を強者と見ています。日本を愚者とは見ていません。その点で、完全な自虐的とは言えません。自虐とは、己を弱者で愚者であると見立てて貶めることですね。
 日本は愚かな国、との視点があるそうなんです。日本は絶対に勝ち目のない戦争を弱者が仕掛けえるような歴史的な愚者であり、戦略的な思考が出来ないというのです。日本は仮想敵国の米国の艦隊を迎え撃って撃滅する、そのために、米国では配備しない筈の、パナマ運河を通れない大型の戦艦を配備する、との戦略構想をたてました。一方、米国は、仮想敵国の日本と戦う場合、徹底的に叩き潰すが、戦後に日本人が決して恨みを抱かないようにする戦略を構想しました。彼我の戦略構想の相違は歴然としています。日本の構想は、戦略には及びもつかぬ単なる戦術です。
 米国はその戦略を実現するために、全国から知能指数の高い若者を選りすぐって、日本人の民族性、思想、慣習、風俗、言語などの研究を徹底的に推し進めました。その若者の中に、キーン、ライシャワーがおります。有名な「菊と刀」はその研究から生まれ、その著作で規定された日本民族の「恥の文化」はわが国にも定着しました。
 失敗した日本人に向かって、決して叱らずに「アンタには期待してたんだけどなぁ・・・、ディスアポイント(ガッカリ)だよ」この一言で、その日本人は恥じ入って、次には決して失敗をしないというのですよ。
*  *  *
 第二次大戦後のわが国の、米国に対する態度を見ると、米国の戦略は成功しましたね。わが国では、外国や他民族に対して戦略的な構想を考えたことがありません。例えば「朝鮮半島が統一したら日本はどうすべきか」というような。
 対日感情が悪化する韓国に対して、日本側は、国もメディアも打つ手がないようです。戦略的な構想をしなかったツケが回って来て、国も国民も立ちすんでいるわけです。朝鮮民族は「恨の文化」と言われています。彼らが吐露する恨み辛み、愚痴ぼやき泣きごと悪態誹謗にどう対処すべきなのか。ディベートや駆け引きの民族的能力が、日本よりも優れている相手だけに、ヘイト・スピーチで終始しているうちに、旗色はどんどん悪くなっていきますよ。
 日本が国を挙げて対処するには、第二次大戦前に米国が日本に対して採った戦略的構想の手法に学ぶべきですね。

北東アジアのツイート          田原 亞彦

この地域の地政学的な位置付けは古代から変化がないが、北方民族は古代では匈奴、鮮卑、現代はロシアである。古代から南方への進出意欲は強く、北は南船北馬と言われるように好戦的で戦に強く、秦の時代には万里の長城が築かれたのである。
 中国は地域の盟主として中華・華夷思想に基づき冊封体制で近隣諸国を支配した。15世紀の初め明の永楽帝のころ、宦官の鄭和はインドからアフリカ方面まで航海していたが、その後廃止されたのである。当時、中国文明は西欧諸国に先駆けていて、火薬、鉄砲、大砲、印刷術そして羅針盤が開発されていた。
 半島は4C以前には濊人(夫余系)が多くいたが、3Cごろ初めて鮮卑系の燕国の影響を受け衛満に支配された。四郡、三韓をへて4Cに至り高句麗、百済、新羅の体制となった。夫余は文面資料では不明であるが、鹿島昇氏は、バビロンのウルあたりからインド、ベトナム(文郎国)経由福建の南平から南陽(地名は宛・ウツ)に至ったヒッタイト系の製鉄部族で徐氏、解・高・昔を名乗り、2Cごろから 北上して遼河の東に濊国を建国したとしている。秦滅亡後ハルピンの扶余に北上後再び半島に南下した。現在の韓国の公州の西南にも夫余の地名がある。
 高句麗はBC37年朱蒙(解氏)が建国した夫余系の別種である。百済は346年オンジュが建国、高句麗王と血縁関係にあり弟的存在である。新羅は356年建国で馬韓から分国した辰韓の一部に、秦からの亡命者も移住したといわれる。新羅にはペルシャ・ローマからのガラス、金冠などの文物が多く北方の騎馬民族との交流がみられる。慶州は何となく他とは雰囲気が違う。半島の東寄りには南北に山脈があるが文明の伝播にも影響があったのかもしれない。建国の歴史が現代にも影響しているように思える。
 中国はじめ大陸からの諸々の影響は、半島では高句麗が先ず受け、二次的にその他諸国に、最終的に日本がうけている。日本としては半島の動向をみて学習する時間的余裕があったのであろう
 近世のアジアの経済成長は雁行型といわれるが先行する国は大変である、後継は容易であり時間も少なくてすむ。しかも日本は海洋国だから広く遠方からでも情報・物資・文明を導入できる位置にある。
 朝鮮民族はアイヌ系、二種の倭人、騎馬民族などの多民族といわれる。二種の倭人とは中国の古書に倭は燕の南であるとされ東シナ海沿岸に広範囲にいた種族と対馬海峡両岸地域中心に分布活躍した種族の二種の倭人のことである。
 日本人は無論縄文の初期から樺太・半島・南方などの海洋からの影響を受けた多民族国家の最たる例であるがその経過時間は非常に長く、室町期ごろから純粋に日本的な文明が形成されたらしい。
 明治以降日本は西欧の先進文明に目覚め積極的に富国強兵殖産興業に邁進したが、中国・韓国は当時の清国・李氏朝鮮の国家的取り組みが遅れていた。原因は両国も儒教に支配されていた為という説もある。半島ではその他性理学、朱子学も盛んで社会規範の固定化があったのではないか。多様性の欠如であろう 。21世紀以降はアジアが。主役といわれるが、中国が中華思想の下に通貨も含めた世界の信頼される覇権国になれるのだろうか。

四季の記憶60「プリンセス マサコ」   鈴木 奎三郎   

いよいよ今年も残り少なくなってきた。毎年この繰り返しで、ひとつずつトシをとっていくわけだ。ちょうど2年前のケガも癒え、これという体のトラブルもなく、可もなく不可もなく平々凡々と過ごすことができたことに感謝しなければならない。
 先日の新聞に、春の七草を鉢に生けこんだ「七草籠」の出荷が最盛期を迎えている・・との記事が出ていた。「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」をひとつの鉢に植えこんだ籠は、新春に皇室に献上される「向島百花園」の籠が有名であるそうだ。江戸川区の農園では2200円程度で販売されているとのこと。それにしても、「七草籠」という名のなんと詩的で美しいことか。これに触発されて以前詠んだ俳句「七草の籠に七つの命かな」は、句会で天をいただいたことがある。

 さまざまな風水害や事件、事故、地に落ちた政治家のことなどが多発した年ではあるが、なんといっても最大の出来事は、5月1日に新天皇・皇后が即位され平成から令和に元号が変わったことだ。まだまだ若いと思っていた天皇は還暦真近の59才、皇后は53才である。即位のパレードや行事は11月10日にすべてが終わり、皇室も令和2年には静かな春を迎えられることになる。
 おふたりは、平成5年、1993年6月に結婚されている。当時、皇太子は34才、雅子さまは28才。
 ぼくの勤めていた会社では、何か会社として祝意を表すことはできないか・・との意見が多くあった。そんな折、当時会社の顧問をしていた内田宏さんから、記念になる資生堂らしいものを差し上げるのがいいのではないかとの意見が出された。

 そこで出てきたのは、オリジナルの香水である。研究所のトップパヒューマーが張り切って作ったのは、ブルガリアのホワイトローズを基調とした気高く優雅な香りの逸品である。容器はこれも岩田ガラス特製のキラキラと透き通ったクリスタルカットである。2本を作り、一本は雅子さまに、もう一本は掛川の企業資料館に保存するとになった。香水は「プリンセス マサコ」と名付けた。
 内田宏夫妻は、ニューヨーク総領事、オランダ、フランスなどの大使を経て、最後は外務省の儀典長を歴任した。会社の国際プロトコールを補佐するために顧問に就任した人である。幸いなことに、内田さん夫妻はオランダ大使の頃から小和田夫妻とは親交があり、会社のお祝いを喜んで受けていただくことになった。
 ご結婚前の4月、目黒区南の小和田邸に内田さんとぼくが持参することになった。なんでぼくが同行することになったかは覚えていない。本来は、社長など偉いひとが行くべきと思ったが、時期が時期だけに騒ぎは避けなければならない。桜並木が続く目黒川添いの小和田邸には、多くのカメラマンや記者が詰めかけている。着いた瞬間に、わっと車を取り囲まれる。「いったい誰なんだ・・。見たことないぞー」などとわあわあ大騒ぎである。

 玄関には小和田夫人が出迎えてくれる。愛犬の“”ショコラ“が走り廻っている。しばらくすると雅子さまが2Fから降りてきた。春らしい黄色のツーピースである。コーヒーをいただいて小1時間ほど。最初は緊張したが、会社や香水のことなどを聞かれてリラックスした時間となった。真近でみる雅子さまは、春の光のなかでキラキラと輝いている。なるほど、こういう人が皇太子妃になるのか、皇太子が惚れるのも無理はないな・・などと思いながら帰路についた。いまだにあの「プリンセス マサコ」はお持ちになっているだろうか。

 プロトコール:国際間の儀礼上のルール。要人の訪日、在日外交、など正式な国際交流の基本。私的な場面のマナー、エチケットなどに該当。  
 


                                       

       【2019年10月19日定例作品】

『エッセイを書く』           石田 真理  

 

 文章が書けなくなった。

 もともと名文を書く人間ではないし、プロではないが、趣味でブログや懸賞など、ちょくちょく書いていたので、文章を読むことも書くことも、自分にとってはあたりまえのことだった。しかし、生活にかまけて、文章から遠ざかっていると、まったく書けなくなっていて驚いた。スポーツ選手の筋肉と同様に、文章書きにも脳筋などがあるのではなかろうか。
何が書けない原因か。考えてみた。頭も心もからっぽになってしまったからか。何かを見ても、「キレイだな。」の一言で終わり、何がどうキレイかを表現する言葉が出てこない。発言もシンプルに、余計なことは言わなくなった。傷つかないよう、心にガードをかける。それが社会で身を守る手段になっていた。いつのまにか、何も思わない人間になっていた。
と、気づいた時、生きるには便利だがつまらないと思った。

 ラクだけどつまらない人生と、大変だけど楽しい人生。どちらか選ぶとしたら、どちらがいいか。できることなら、ラクで楽しい人生がいい。しかし感動した時に「感動した。」と一言で終わる人生はやっぱり楽しくないと思う。結局後者を選ぶだろう。
 「楽しい。」ということには、「たいへん。」もツキモノ、なのかもしれない。

母と娘                 鳥谷 靖子

十月の三連休の初日は朝から台風十九号の大雨。前夜から「ママ、これから迎えに行くから我が家に避難したら?」娘の家は。徒歩十分の場所にある。「風で何か飛ぶと困るし、大丈夫よ」とやんわりお断りする。付かず離れず行き来きし、近所の友人から羨ましがられる間柄。
秋の初め、五十年前に初めて夫と住んだ信濃大町、山菜摘みに行った白馬山麓を訪ねようと計画。一人旅も馴れないしと、娘を誘うと、「仕事のリフレッシュも兼ねて一緒にいくわ」と一つ返事。いつも家庭第一で、内心本当に一緒に行けるのだろうかと心配したが、彼女が二十代の結婚前、二人でイギリスを楽しく縦断した時を思いだし、出発の日を待つ。
十月初め、丁度台風十八号も,朝鮮半島方面に迂回して天気にも恵まれた。白馬駅でレンタカーを借りると、昼食時。そこからが彼女のペース。スマポで美味しい蕎麦屋を捜す。今はナビがあるので簡単なのだ。運転免許も二か月前返納し、代わりの運転も出来ず娘任せ旅。午後は、白馬の岩茸山にゴンドラで登る。360度パノラマ風景を楽しみ、ハイキングコースを一時間歩く。景色も見えないし森の中を歩くだけだったので「半分で戻ろうよ」「このくらい歩けないの?」と娘。不満そうな表情だった。
宿泊した白馬東急ホテルは最上階で北アルプスが見え、快適。「翌日は天気が良いと八方尾根に登ろうよ」と娘。翌朝、八方尾根にロープウェイ、リフトを乗り継いだ。眼下にススキが原や紅葉の始まっているオレンジ色の草原が見ながらリフトを降りた所は第一ケルン。子供でも登れると言われ一時間半の登山になったが、初心者向きの木道は景色を楽しみながら歩くが、第三ケルンからは、険しい岩がゴロゴロの登山道だった。やっとの事で目的地八方池に到着。万年雪の残る白馬三山、北アルプスの絶景が広がり、池が鏡になり映る山々の山影。一生忘れえぬ景色。登山中は、体力がある娘についていくのが辛かったが、一人ではここには来るのは不可能に違いない。
翌日は信濃大町に向かう。ホテルの食事が充実し、あまり食欲の出ない母にはお構いなく,いつものようにスマホで検索し、大町の奥にあるピザの美味しい店に到着。農村の小さなパン屋の店先に、枯れ葉の中に一つ木製のテーブルがあるだけで、「トイレはありません。」との事。やっと探した店だから、マルゲリータを注文、お盆の様に大きなピザにチーズが溢れているのを見た途端、ついつい深いため息をついて「一切れしか食べられないわ」と言った。
これからである。娘の機嫌はみるみる悪くなり、近くのコンビニに立ち寄った時が最高潮、「ママは空気が読めない,自分勝手よ」と怖い顔をして、怒鳴ったのだ。「そ、そ、そう悪かったわね。」オロオロし、登山や運転で疲れているのだろう。一人で帰れないし、落ち込む。
シャイで、ママっ子だった子猫は大人になり、トラのように恐ろしく変わった。暫く待つと気分が治まり、大町の懐かしい場所をドライブし無事帰路についた。夕刻、練馬春日町駅に娘婿が車で迎えに来て、夕食を共にした。「お世話になりました。おかげさまで、娘に親孝行して貰いました。」とお礼を言うと、「ママ、怒ってごめんなさい。」と娘。旅の一番の教訓は、「今、娘は巣立って別の家族を持つ全く別の女性だ」
大型の台風十九号が過ぎ去った翌朝は、目の覚めるような青空。朝一番「大丈夫だった?被害はない?我が家は庭のラテスが外れたのよ。」と娘からの優しい電話。母と娘の絆は深く、喧嘩しても暫くすると、台風一過のよう。しかし、何かあるとトラと化すのを忘れてはいけない。
                                
                                       

花いろいろ                 横山 明美

むかし、相撲の花道には東に葵、西に夕顔の花が飾られており、それは明治になると菊と桜に変わったが、勝ち力士はそれをもいで髷に差し意気揚々と引き揚げていったという。勝った力士の艶肌と一もとの花の対比にわくわくする。錦絵を見ているような気になってくる。人は花に何を仮託し魅せられてきたのかと今さらながら思う。 私たちの祖先であるネアンデルタール人の遺骨のそばには、すでに花が手向けられた痕跡があると何かで読んだことがあるから、人と花のかかわりはずいぶんと古い。思えば悲しい時もうれしい時も花はそこにあるものだ。
 何人かの友人と尾道を旅したことがある。そこが故郷である先輩から含み笑いをしながらぜひ訪ねるように薦められた店。あか抜けた構えのカレー屋だった。旧家の御曹司がその頃まだ地方では珍しかった意欲的なカレーの店を始めたらしい。その彼、好きな人を妻に迎えるのに返事がもらえるまで真っ赤な100本の薔薇の花束を贈り続けたという。話を聞いていた私たちはその店に入るなり思わず「おめでとうございまーす」と拍手喝采。夫は色浅黒く屈強なラグビー選手のようであり、楚々とした妻は恥ずかしそうに奥から涼やかな顔をのぞかせた。私たちよりずっと若い彼だったが、その旅から十年もたたないころ彼の突然の死を知った。私の頭には真っ先に鮮やかな真っ赤な薔薇の花束が浮かんだ。妻である人は、その花の思い出だけで後をずっと生きていけるだろうと思った。

 時々両親の墓参りを兼ねて田舎へ帰る。クラスメイトの多くは地元で教師になっていたので互いの連携は緊密で、ある時はR子の家の薔薇がすごいから見に行こう、ということになる。彼女は母親の介護のため教師を辞め、25年もの献身のあと見送ると、まったく違う生き方を始めた。テレビで白磁に絵付けをする技を知り、隠れていた絵心が噴出。始まりの絵は薔薇だった。磁器絵付けの勉強をすると資格を取って自宅の一階に小さな教室を開き、家は季節になるとさながら薔薇屋敷。人が足を止めるほどの薔薇で埋まる。運動会の仮装行列では花も恥じらう18歳が顔に墨で不精髭を書き手拭いでほっかぶり、野良着姿で堂々行進・・・あんなに気取りや取り繕いのなかった彼女がよくまあこんな洒落たことを!と驚くばかりである。家は角地にあったが、感嘆の声をあげながら真っ赤な薔薇、ピンクや紫がかった薔薇など吸いつくように眺めて角を回り門扉に自由自在に絡まっている黄色いつる薔薇を見上げた私は、さらに大声をはりあげてしまった。「Rちゃん、ダメよー!」。うねるような細工を施した鋳物の門扉の上のほう三階の物干し場に、お連れ合いのステテコやシャツやパンツが翻っていたのである。昔のままの彼女があった。「てへへ、以後気をつけます」と素敵なワンピースに身を包んだR子は敬礼みたいな仕草をした。その後彼女は孫の通う中学や地元の大学でも教えるようになり、地元の名士である。

 神戸の姉の家はいつも季節の花が咲き乱れ訪ねていくのが楽しみだった。一つ一つ名前を教わるのもうれしかった。それらの世話は日々大変だったろうが、姉は咲いた後まで花の命を残したいのだという。絞ったり乾燥させたりして染料にし白いナースシューズや布を染める。木の皮や葉を煮出して毛糸を染めたりもしていた。阪神淡路大震災で家は壊れたが、たくさんの毛糸は押し入れの中でじっと耐えていたのだろう。しばらくして姉から「もう疲れてしまいました。お宅に養子に出すわ」の書き付けとともに大きな段ボール箱でそれは送られてきた。姉にセーターを贈ろうと思った。娘が職場に編み手を見つけてきた。私の手で形にできなかったのはなんとも残念だったが、心がはやり編みあがってすぐ姉に送ったとき、姉は入院中であった。それから間もなく姉は早世した夫と息子のもとへ旅立ったが、どんなにたくさんの花が供えられていても残された私の心が収まるものではなかった。

 秋はなんといっても芒、吾亦紅、竜胆が好きで薄灰色の花瓶に投げ入れた。たまたま外の草むしりの折に戸口から入り込んだのだろう、壁にショウリョウバッタが張り付いている。姉や父や甥や・・・いろんな人がこの一匹のバッタのような気がして花瓶のそばに連れて行くと、知らぬ間に花の合間に棲みつくようになった。毎日水を取り替えるとピョンと飛び出すが、また知らぬ気に入り込んでいる。いつまでもそこにいてね、とつい囁く。
 秋の花野を歩けばさらにたくさんの懐かしい人たちの思い出が甦るだろう。花は何百年たってもきっとこの世からなくなりはしない。

猫にもの申す              高橋 正英

2ヶ月ほど前、TVでビックリするような動画が流れた。都内の名だたるコンビニ店で、夜中ネズミが食品の陳列の中を這いまわっているもので、なかには棚の上段で売り物をかじっている、これがSNSに投稿されたのである。このコンビニの本部は、即、この店を閉店にさせたという。その映像の後で、さっそくネズミ退治業者のインタビューが流れていて、業界はそこそこ忙しいらしい。
傍で見ていた家内は、何ら驚くほどのことではない、とこともなげに言う。渋谷のどまんなかで、もっと大きいネズミが走っているのを何度も見たとのことである。
私は素直に、”なんで猫を活用しないのか”、と思わず声に出してしまった。
人間にとっても食料の確保は一番大切なことであり、それをネズミも狙っているのであり、有史以来人類はネズミとこの戦いを繰り広げてきたといっても言い過ぎではない。そこで、天敵である猫に着目して活用してきたのだ。人間にとり猫と同様に犬も必要にして有用な動物であるとして両者とも永い間重用されてきたのだが、犬は狩猟、牧羊など人間生活への活用は広く、最近では盲導犬、警察犬、麻薬探知犬などますますその有用性が言われている。
かたや、猫はどうだ、犬のように愛想は良くないが、食料などをネズミから守る、この一点に人間と共生してきたのではないか。

私は子供のころ、東京都下の木造家で育ったがそのころはどこの家でもネズミが我が物顔に出入りしていて苦労したものである。猫は、犬よりも寒がりであるので、冬には寝ている布団に潜り込んで喉をゴロゴロいわせてきたものだ。しかしそれでも、天井裏や壁の奥などでネズミがひとたびゴソッと音を立てると、途端に目を光らせ耳を打ち立て、そろそろと布団をあとにしてネズミの巣の方に向かって行動を開始したものである。なんと頼もしい姿であったことか、昔の猫は偉かった。人間と共生しながら遠く昔から伝えられてきた野性をまだ持っていたものだ。

猫はアフリカ大陸から地中海地域へやってきて、ローマ帝国の版図拡大とともに、ローマ軍の倉庫番として欧州各地に広がった。大航海時代には、船の食料をネズミからまもり、さらに、この”げっ歯類”の歯から、操船に不可欠の綱や帆を守ったのである。
それが、昨近ではとうにそのDNAをどこかに置き忘れていていやしないか。どの食料品店や雑貨店でもペットフードコーナーがあり、人間のものと見分けがつかないほど、美しい包装の猫用缶詰や袋が並べてある。統計によると、日本では2017年をもって、猫の飼育数が犬のそれをついに越えたとのことだ。住宅事情や社会の高齢化に伴い、猫のほうが飼育しやすいのだろう。それにしてもこの猫ブームはかなりのもので、NHKの昼のバラエティ番組のスタジオに猫を放して遊ばせている、新宿の街を歩いていても猫カフェなるものの呼び込みをしょっちゅう受ける。
こんなに皆の理解と恵まれた環境にいる猫たちに、いまさらネズミを捕らえて食え、とまではいわないが、せめてネズミに対しては睨みをきかせて、常にネズミどもに緊張感を与えるだけの本性を発揮してもらいたい。コンビニに猫を副店長として置くぐらいの工夫はないのか。田舎駅の偽駅長などにおさまるよりも、この方がよっぽど猫らしい貢献ができるのではあるまいか。
(了)

出雲と紀国               田原 亞彦

両国には熊野などの地名や神社など共通するものがある。紀は木であり紀国は「木の国」と言われた。日本書紀神代に記される、五十猛の新羅・筑紫から東方への植林の活躍に関連する。和銅6年(713)の国郡郷令で紀伊国になった。

 熊は古朝鮮語ではコムと発音し檀君神話で言われる神であり、隈くまと神霊のこもる処でもある。人名で神代はクマシロと読む。熊野の地名は「書記」にもみえ,イザナミを熊野の有馬に葬るとある、今の「花の窟」である。その熊の地はリアス式の海があり入り組んだ山々が近接する「隠国」(コモリク)で黄泉・常世・神仙思想がある。両国に共通している。紀の南部の熊野は古くは牟婁と称し天道根命が国造であった。

 出雲の熊野神社は659年出雲国造により創建とされるが、元来は八雲の意宇川上流の熊野山がご神体であった。「風土記」にある出雲399社の最上位の神格の天神であった。祭神は素佐之男で隣接する斐伊川の上流でヤマタノオロチを退治して皇室の三種の神器の天のムラクモの剣と櫛稲田姫を獲得した。ちなみに、出雲大社は716年創建で大国主を祭る国神であった。毎年10月、新嘗祭などの儀式に使う火興し道具を熊野から移住した国造の神官が熊野神社に出向き拝受している。出雲の熊野神社の系統は丹波、越中、近江、紀伊に見られる。室町期には出雲大社が興隆し、又紀州の熊野が平安末には全国的に勢力を拡散して出雲にも61社が進出し紀州系が上之宮、出雲の熊野が下の宮となった。朝廷との関係の強弱の結末であろう。なお出雲大社の神官の千家は天照の第二子の天穂日命を租として出雲国造に任じ現在に至っている。

 紀氏は筑前の早良、基山・夜須に在した筑紫国造の一族らしい。韓鍛冶に関係し韓地にも外征したらしい。物部の租のニギハヤヒ等 とともに出雲経由で紀伊に至った。紀氏は今の泉南・和歌山市あたりを勢力地に、紀ノ川、紀伊水軍を統帥し、五十猛に奉仕した。五十猛は韓鍛冶の神とされ、早良平野の飯盛神社、出雲の船通山、紀伊の志摩神社に祭られ、両国に関連がある。

 熊野三山の呼称確立は1083年永保3年から院政の始まる白川上皇の参詣の1090年頃からで、13世紀までが最盛期である。後白河の34回を初め天皇貴族中心に興隆した。平安中期以降の神仏習合風潮のもと朝廷の庇護もあり興隆した。祈祷・宿坊経営の御師、全国を回り先導した先達の存在が大きい。また海路による伝播効果も大きい。しかし江戸期には衰退に入り貸し金業務が盛んになる。 熊野の三神社は元来別々の存在であった。速玉社は、神武が東征時登ったとされる近接の神倉山のゴトビキ岩を御神体とし、当初神名の無かった坐神社とともに927年の延喜式のころは二社体制で。平安初期は速玉が上位にあった。その後熊野本宮坐神社は家津御子神、平安中期からの神仏習合後は阿弥陀仏(証誠殿、証誠大菩薩)、加えて素佐野男と五十猛を祭る。新宮速玉は速玉明神と薬師、那智大社は牟須美神と観音である。

 海の彼方への神仙思想として、868年創建の観音信仰・補陀落寺の生きながらのインドを目指す数多の上人渡海がある。

 昨年初めて熊野を訪ね、ガイドに出雲といずれが元祖かと質問をしたのを思い出したのである。出雲訪問は20年ほど前であるが、元来、自然崇拝の原初の時期は確定し難いと思う。

小学校のキーマンに           加藤 厚夫 

夏休みも終わるころ、60年ぶりに小学校の校舎内に踏み入った。そこの仕事に就いたからだが先生になったわけではない。むかしでいう夜警で戸締り点検の仕事だ。現代は施設管理員と称し、控室も小使い部屋とか用務員室と呼ばず主事室というから立派なものだ。
 しかしなんでまた長年飲んだくれてきた人間が、突如発狂してこんな仕事に就いたのか。
発病原因は不明だが「ボーツと生きてんじゃねエよ」との門仲ママの温かい励ましや、いまのペースで飲み屋に通えば、10年でこづかいが底をつく恐れがあるからかも知れぬ。
 この発作が起きるまでの病歴は長い。今年2月に練馬区シルバー人材センターに出頭し、翌週説明会に参加し入会登録をした。しかし仕事はマンションのゴミ出しや清掃ばかりで気が乗らなかった。4月に施設管理業務が載ったので応募してみたら、希望者が殺到し筆記試験と面接までやらされて見事落選した。頭にきたがまた8月にダメもとで応募したら、すぐ面談に来いという。倍率5倍ながらも受かってしまったのでやむなくやることにした。
 翌日自転車で10分の小学校にはせ参じた。主事室に顔を出すと、先輩にさっそく鍵の束と棒を持たされついて回った。気楽に構えていたが錆びついた頭には覚えることが多くて、コリャ止したほうが良さそうだと思いはじめた。しかし無償見習の5日間が済むと、なんとかやれそうな気になってきた。この仕事は一人月10日の就労で4名のローテーションで行う。夜警とはいえ平日は夕方4時半から9時半までだから、幽霊に出会う心配はない。深夜はセコムが担う。土休日は交代制で朝番は8時からで、午後4時半で交代する。
 そして9月2日ひとり立ちの日となった。その日は二学期初日で蒸し暑く、ほとんどの窓は開けっ放しである。前夜緊張して寝不足で、3階建校舎の廊下教室の窓、扉100ヶ所あまりを閉めて回りぐったりとなった。これで日当5千円か、とても麻生大臣の老後2千万円の足しにはならぬが、孫が来た時には大船に乗った気でトイザらスに行けるぞと自らを励ました。昨日その5万6千円が振り込まれた。給料をいただくなど14年ぶりのことだ。これには黙ってでももらえる年金とはちがい重みを感じてしまう。
 なんとかひと月はん、閉め忘れ消し忘れを連発しながらも慣れてきて少し余裕が出てきた。ここにくると社会に参加しているという実感を持てるし、32名もの2、30代の女性教員や、若い母親と話すから気分も若返る。広い校舎内・体育館を二巡し、4階屋上まで登れば自分の目標1万歩を超え、お金までもらえて一挙両得だ。
 仕事に就いて最大の効果は、飲み屋の回数が激減したことだ。夜が仕事だからで飲み代5千円が出ないうえ、5千円が入るから1万円の効果と言える。そのせいか家での閻魔顔は減ったが、逆に励ましてくれた門仲ママが閻魔顔に変じた。
 ここは仕事の3大ストレス早起き・痛勤・売上がないし、コツさえつかめば実質3時間の仕事だ。そのためか先輩の3人全員が77才超で10年以上も従事している。しかもお迎えが来るまでは、這ってでもやり通すというから恐れ入谷の鬼子母神だ。それにひかえ自分はたった5年の任期を全う出来るのか。主事室でひと息つくと、いまもなんでこんな所に居るのだろうと笑い出してしまうが、居場所の一つになりつつあるようだ。

教室点描-私の宿題           富塚 昇

宿題は一般的には「先生が自宅で生徒にさせる問題」ということになるが、時として自分に戻ってくることがある。そのようなことが成り立つことに教員という仕事の醍醐味があるのかも知れない。
 今回の「私の宿題」の補助線となることを若干補足しておきたい。私は「倫理」の授業で、イエスの思想及びキリスト教の単元では「聖書」の言葉を取り上げる。その中で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙)は、とても心に響く言葉である。
 さて、私が現在勤務しているT高校はいわゆる「進学校」で、ほとんど全員の生徒が「大学入試センター試験」を受験する。2018年1月9日、3学期の始業式の日、当時3年の担任であった私を含めた学年担任団は、目前に迫ったセンター試験に向けて「学年集会」を開き生徒たちに激励のメッセージを伝えた。
そんないわば「決起集会」の場で私は生徒たちに二つの「宿題」を出したのです。
 「いよいよセンター試験が近づいてきました。今日はみんなにセンター試験からそのあとの試験を乗り切るために、私から二つの宿題を出します。授業でも紹介したことがあるのだけれど、昨年の8月に『競争社会の歩き方』(大竹文雄著 中公新書)と言う本が出されました。そこでイギリスの大学での実験のことが書かれていました。その実験によれば、計算問題をやる前にコメディを見たグループとそうでないグループの成績を比べると、コメディを見たグループの方が12%成績がよくなっているということでした。大竹先生は『笑う門には福来たる』ということで、大事な場面で『幸福な気持ちになれるように心がけることを実践しても損はないように思う』と書いていました。そこで宿題です。センター試験の前にコメディを見ることは難しいですよね。そこでコメディに代わるものを君たちに考えてもらいたいのです。宿題は『センター試験2日分、面白いことを考える。そしてセンター試験当日、みんなで面白いことを言い合って試験前に大いに笑っておく』ということです。どうですか、大いに笑うことで得点が12%上昇する可能性があるんですよ。是非やってみて下さい。この宿題、いい宿題だと思いませんか。・・・あまり反応がないですねえ。そうですか。それでは次の宿題です。
 スピードスケートの長野オリンピックの金メダリスト清水宏保さんが昨年の7月29日の朝日新聞に書いていました。大きな大会の緊張する場面で最大限の力を発揮するためには、『競技をやれる環境をつくってくれた人々に感謝する。親だったり、コーチだったり、仲間だったり、そうすると自然と開き直りの境地になれます。これが力を引き出す秘訣なのかも知れません』と。そこで宿題です。それは『センター試験の当日、家を出るときに保護者の方にしっかりと感謝の気持ちを言葉にして伝える』ということです。心の中で思っているだけではだめです。感謝の気持ちを保護者の方に言葉にして伝えることができれば、清水選手が金メダルを取ったように、君たちはセンター試験で最高のパフォーマンス示すことができるでしょう。それでは今から練習をしましょう。私が言うことを続けていってみて下さい。ではいきますよ。
 『今まで見守ってくれて、サポートしてくれてありがとう。自己ベストを目指して頑張ってくるよ』。・・・ハイ、どうぞ」。
 この時、生徒たちは私の予想を超えてしっかり声に出して復唱してくれたのです(涙)。そして、これが私の教員生活の中で生徒に出したベストな宿題となりました。
                                      

気象情報                華岡 正泰

 大事な用事があるわけではなく ゴルフも疾うに卒業しているのに、今でも天気が気にかかる。テレビでの情報には全国とローカルがあり、リアルタイム、2~3時間おき、週刊旬間の天気の他 最低最高気温、降水確率、洗濯情報、行楽地情報まで報じてくれる。それに夏場であれば熱中症予防情報、発雷確率 冬場では降雪情報、台風が発生すれば進路予想、氾濫危険情報、土砂災害情報や避難情報などと自然災害大国らしく至れり尽せりである。これ程微に入り細を穿って報じるのは日本だけではないだろうか。それは日本の技術力にあることは確かだが、それ程日本は平和な国だからだと思いたい。気象予想は屡々戦争に利用された。気象判断の正否が戦況を左右したこともあったのだった。
 気象情報で先ず目が止まるのは都の西北の西北辺り、次いで長年勤務し今は次男が単身赴任中の大阪、そしてその後は 映し出される各地に目を移しては「彼奴今頃どうしてる」と 其処に住む友人、知人を思い出しては楽しんでいる。然し次の瞬間「彼奴もう居ないんだ」に気付く事が多くなってしまった。福岡と長崎の中間の佐賀、其処には中学時代から75~6年にも及ぶ親友が住んでいて互いに気にし合っていたのだが この夏その佐賀で全国高等学校総合文化祭なるものが開催され 孫娘が神奈川代表で出場したのでその応援を兼ねて里帰りした。早速親一席設けるよう手紙を出したのだが返事がない。嫌な感じがしているところへ 東京に住む娘さん架電「心不全で急逝した」と。「お宅にお参りに行く」には「母が臥せっているので・・」。でも私にはそうはいかない。せめて庭先からでも手を合わせたいと車を走らせた。お宅に着くと 何と玄関が開いて奥さんが出て来た。その後ろには東京の娘さんが。病院への迎えの車が来たと思ったのだった。家に入り仏壇に線香あげることができた.きっと親友の引き合わせだったに違いない。私はそう信じたい。この様なこともあるのだから私は「彼奴もう居ない」に行きついても 私なりの気象情報の見方、楽しみ方は続けていこうと思う。
 気象情報の精度は知らないが ますます高くなっていくに違いない。然し,台風襲来時の細かな情報の下 色んな指示、勧告がなされてもそれに従う者はごく僅か。この様な問題を併せ解決しなければ意味はない。そして既に行はれてはいるのだろうが農業、漁業など一次産業への適切な情報提供、アドバイスを強めてほしい。外国人への問題もある。そして日本人が苦手とする気象情報の危機管理についても考え方は持っておくべきだろう。北鮮問題等もあるのだから。
 
                                       

映画の観かた              小林 康昭

 いつの時代でも、根強い映画ファンがおりますね。しかも、思い入れが強い人ほど、こだわりが強いのです。こだわりのひとつに、映画作品自体と、映画化された原作に関わる話題があります。映画を先に観るか? それとも、先に原作を読むか? 映画の出来が良かった、イヤ、原作の方が良かった、原作と映画作品を巡って、熱く果てしない議論を愉しみます。これに便乗して、興行会社や出版社が、もっともらしい宣伝コピーでファンを煽ります。
 たまたま原作を読んでいたから映画化された機会に鑑賞してみよう、映画化されたのでまず原作を読んでから映画を観賞しよう、と考える人は原作優先派でしょう。深く考えずに映画を鑑賞したので原作も読んでみよう、映画の中で理解できなかったので原作で確かめてみよう、と考える人は映画優先派だと思います。
 原作と映画を比較するときの焦点は、作家の文章描写力と映画監督の映像表現力を同じレベルに並べて較べています。でも、文章と映像を同じレベルで比較して、優劣を決めることが妥当といえるのかどうか? 
 例えば、原作に「男は通りを歩いて行った」と描写されている光景を、読者は脳裏にイメージを浮かべます。男の服装や通りの風景など。同じ様に監督も自分自身が構築したイメージを映像化します。読者は自分が浮かべたイメージと監督が映像化した光景を比較して、映像の方が良い印象だったら「映画の方が良い」と考えるでしょうし、自分が原作を読んで浮かべたイメージの方が良い印象だったら「原作の方が良い」と考える筈です。
 と、言うことは、原作と映画を比較しているのではなくて、原作から浮かべた読者自身のイメージと監督が映像化したイメージとの比較、つまり、読者と監督のイメージ力の比較ということになります。原作の方が良かった、と言う人は、監督よりも自分のイメージ力が優れていた、ということです。自信を持って自分を褒めたらよろしいですね。
 文字を読み取ってイメージを膨らませることは、感性の力です。感性が低ければ、良いイメージは湧きません。「むかしむかし、浦島は・・・、竜宮城に来てみれば、絵にも描けない美しさ」と言いながら、その絵本には「絵にも描けない筈の竜宮城」が描いてあります。幼児は、それを不思議とは思わない。つまり、感性がまだ幼い、ということです。
*  *  *
 名作と言われる映画のアラさがしをしてみます。
 まず、邦画作品史上の名作中の名作、黒澤明監督作品の「七人の侍」。時は戦国時代、舞台は農村。毎年、収穫時になると盗賊たちが襲って収奪していく。困り果てた農民たちが知恵を絞り浪人を七人雇って、目出度く打ち負かしてしまうという筋立てです。ですが、この作品とても変です。毎年、収穫物を強奪されて、黙って見逃していたのでしょうか、大名たちは。農民は必ず年貢を納めていた筈です。年貢の義務がない農民なんていなかった。大名は、盗賊に年貢の上前をはねられないように、武士たちを農村に派遣して守りを固める筈ですね。この設定は致命的な間違いです。ということは、作品の前提が成り立たないということです。
 もう一つ、黒澤作品の「天国と地獄」です。大都会を睥睨する丘の上の豪邸に住む一家の子供が誘拐されます。誘拐犯のミスで、お抱え運転手の子供だった。犯人との交渉でその子供は無事に帰って来たが、捜査側は、もっと重刑にかけるべく犯人を泳がせます。思惑通り犯人は殺人を重ねて死刑の可能性が出たので逮捕します。警察は殺人を犯させるような違法な行動はしません。犯人は豪邸を見上げる場所に住むインターン医学生。豪邸の住人を妬んで犯行に及んだという設定です。医師として明るい将来があるのに、敢えて、悪行に手を染めるリスクを冒す愚行はしない筈です。
 松本清張原作、野村芳太郎監督作品「砂の器」は、清張をして原作以上と言わしめた傑作と目されています。ライ病にかかった男が一人息子を伴って流浪の旅に出ます。途上で病状が悪化した父親は療養所に収容され、息子は地元の巡査の家庭に引き取られますが、息子は出奔して行方を立ってしまう。二十年後、退職した巡査は、余暇を利用して旅に出ます。旅先で何気なく入った映画館のロビーに掲げてある集合写真の中に、少年の二十年後の姿を発見します。これが決定的な動機となり元巡査は彼と再会を果たしますが、彼は昔の因縁が明らかにされることを恐れて、恩人の元巡査を殺します。捜査陣は苦労の末に、彼を殺人犯として逮捕するのですが・・・。そもそも、ライ病患者が子供を連れて放浪する必然性がありません。人目を避けて、逼塞した生活を送るでしょう。映像の息子と二十年後の男(扮するのは加藤剛)の容貌に共通する特徴がないのに、偶然、目にした集合写真から二十年前の面影を見極めるなんて不可能です。
*  *  *
 小学校の頃、先生からいつも本を読みなさい、と言われました。学校には図書室があって、面白くもない本がたくさん並んでいました。借り出して読んでいると褒められましたね。
 マンガを読もうとすると、先生に止められました。読んではいけないと言われたこともあります。
 映画も、映画教室以外の作品を見ることは、いけないと言われました。でも、鞍馬天狗、宮本武蔵、紅孔雀、笛吹童子なんか、駄目と言われるほど観たくて、その印象は思い出に残ります。どうして、先生や大人たちはマンガや映画を嫌ったのでしょうか? そして、読書を盛んに勧めたのでしょうか? 何か理由がある筈なんですね。
 教育的見地に立てば、読書を通じてイメージする習慣をつけること、そのイメージする力が豊かになる、と考えたからでしょうかね。漫画は、作家が描いた絵を読者に提供してくれる。映画も、映像を観客の前に提供してくれる。だから、イメージする手間が省けちゃう。イメージすることを怠けちまう、イメージする力が劣化する、だからいけないんだ、と大人たちは思っていたのかどうか・・・。それが今では、マンガはアニメとなって堂々たる存在感を誇示し、大人たちもアニメを好んでいます。その一方、本が売れなくなった出版業界は、不況産業になっちまいました。

四季の記憶58「老いのゆくえ」     鈴木 奎三郎   

 4,5日前、朝の犬の散歩にでようとすると、なにかとても懐かしい記憶が蘇る香りが漂ってきた。家の前の劇画作家のお宅の大きな金木犀である。確実に季節は秋に向かっている。我が家にも一本の金木犀がある。よく見ると、金色の小さな花がついていて、いまにも匂いだしそうな気配である。これは、長男が生まれたときに練馬区からいただいたもので、もう45年ほどになる。次男のときはハナカイドウの苗木をもらった。2人ともとっくの昔に家を離れたが、この2本の木は子供の成長と家の歴史を見守ってきたわけだ。
 建売の新しいお宅には、よくハナミズキが植えられる。成長が早くて5、6月にはピンクの可憐な花が咲く。わが家にも一本あるが、どういくわけか葉がちじれて一向に花芽をつける気配がない。やはり人間関係と同じで、植物と土壌にも相性があるのだ。 
 
 旧暦9月の中気は「霜降」である。今の暦で10月も下旬になると、朝晩の冷気が次第に増してきて、石神井公園界隈では、夜のうちに葉に宿った露が草の葉を白く染める。山の紅葉は一日一日と色濃くなり、紅葉しない木々の葉も黄色や褐色に変わってそれはそれで美しくなる。8月下旬から9月にかけての猛烈な残暑は、ここまでくると記憶のかなたで、いつしか忘れ去られていく。
 彼岸花は開花が遅れて、そうこうしているうちにあっという間に散ってしまった。「花は葉知らず、葉は花知らず・・」といわれているように、花が咲いているとき葉はなく、散ってしまった後に葉がでてくるという植生である。
 
 さて、秋の草花はともかく、最近自分が徐々に老いてきたな・・と思うことがしばしばだ。そう思うようになったキッカケは、犬の散歩で一昨年暮れに転んで起きた大腿骨骨折というケガだ。頭、心臓や内臓のことではなく単純なケガなのだが、どうもこのあたりが老いを感じる契機になったような気がする。
 まず、手術をした医者からも言われていたように、運動能力、身体能力が1~2割落ちてきた気がする。食欲などは今までとあまり変わらないが、食べる量は確実に減ってきた。それに坂道や濡れた草地では足元がおぼつかない。駅やビルの階段、特に下りは一歩ずつ、手すりにつかまって確実に踏み出す。階段や段差なんてこれまで気にしたこともなかったのに・・。 
 転倒やケガの8割は自宅だそうで、自宅だからと言って決して油断はできない。わずか数ミリの段差でつまずく。階段を踏み外す、玄関先や廊下で滑る・・など、家の中も危険がいっぱいだ
 歯のトラブルや視力が落ちる、小さな字が読めない、書けないなど、どんどん不具合なことが増えてくる。それにすべてが億劫になる。スマホは持っているが、アプリの類は興味もないし最小限に抑えている。 
 よく電車やバスの中で、顔にしわを寄せてスマホをいじっている老人は見るからに寂しい。パソコンのフェイスブックやインスタグラムは言葉では知っているが、興味もないしやる気もない。毎日大量に届くこの類のメールはすべて削除だ。

 社会の高齢化というのは、つまりぼくのような老人がこれから先年々増えていくということだ。すでに後期高齢者となり、この先は晩期高齢者、仮に生きていてもやがて末期高齢者となっていく。
 社会の平均年齢は、どんどんあがり、若い世代は相対的に減っていく。高齢社会でこの国は間違いなく活力を失っていくだろう。少子化の問題に政府はずーっと前から無策である。打つ手なし・・という感じだ。消費税が上がり株価も低迷し、本当は東京オリンピックどころではないのだ。毎日が楽しくて、明日が待遠しいうなどというお気楽な人もいるが、そういう人に限ってある日ポックリ死んだりする。
 たとえ長生きしても仲間がどんどん減っていくし、連れ合いも亡くすことになるだろう。トシを重ねるとどうも僻みっぽくなって、そうでなくともすべてがマイナス思考になっていく。やはりトシは取りたくないものだ。

       【2019年8月17日定例作品】

ゴルフ狂時代              照山 忠利  

 若かりし日の東京本社勤務時代のエピソードをひとつ。
 ある日、三井不動産のE社長から当社のO社長に電話があった。三井の総帥から三菱の重鎮への電話とあらば何か重大な案件かと思いきや、さにあらず。「Oさん、あなたの会社の社宅から私の家の庭にゴルフのボールが飛んできて危なくてしょうがないので何とかしてくれませんか」との話だった。当時会社は吉祥寺に鉄筋アパート3棟にクラブハウス、テニスコート2面を備えた立派な社宅を持っていた。敷地の裏手の木立の中に50ヤードくらいの距離の草地があり、熱病に浮かされたゴルフ狂がアプローチの朝練に励んでいた。その隣接地が三井の親分の邸宅で、茨城の農家の出であるE氏は毎朝の百姓仕事を日課としていたようだ。そこに隣の三菱の社宅から球が打ち込まれるので、トップ同士の直談判となったという次第。その後、当然社宅でのゴルフ練習は禁止となり、おまけに「ゴルフは40歳を過ぎてから」とのお達しまでついてきた。しかしその程度の禁令に熱病患者が素直に応じるわけがない。ゴルフ熱はますます勢いを増した。
 そのころ日本は高度成長の真っただ中。それまで富裕層の道楽とみられていたゴルフの大衆化が急速に進み空前のブームとなった。子供のころ野球に親しんだ人が多かったこともありとっつきやすさがあったのだろう。「止まった球を打つなどわけないさ」と始めてみたものの空振りはするは、当たってもどこに飛んでいくかわからない状態でまともなスコアにならない。だから本来、基礎からきちんと教えを受ければよいものを、そのうち何とかなるだろうとプロの格好だけまねて我流、自己流で固めた人がなんと多いことか。休日は日曜のみ、宅配便もなく乗用カートなど夢の世界だった。早朝から重いバッグを担いで電車に乗った。安給料ながら月イチゴルフを目指して寒風酷暑もものかは、山岳でも河川敷でもどんなぼろコースでも出かけて行った。散々な成績でも、終われば下手な握りの精算を兼ねた19番ホール。したたか飲んで夜更けにご帰館、翌月曜日は疲れを引きずりながら出勤した。今から振り返れば呆れてものが言えないほどだったが、それでもすぐ次の予約に走ったのだからまるで麻薬のようなものだった。
 我流、自己流ゴルフを重ねて40年が過ぎた。全盛期にはベストスコア77をマークした。大阪では当時日本一との評価のあった廣野GCの会員となりHC13を頂いた。九州では会社がもつ玄海GCの理事・コース委員長も務めた。しかし会社勤務を離れて早7年、今は会社のOB会の世話役で月1回のラウンドのみ。体力と技量の低下は如何ともしがたく、成績はずっと落ち目の三度笠。情けなさが先に立つ昨今だが、自分より一回りも年上の先輩たちが昔と同じような「飲み会付き」のゴルフを所望されるので、負けるわけにはいかない。
 渋野日向子選手の全英女子オープン制覇の快挙を励みにあとひと踏ん張りするとしよう。
(了) 

暑さしのぎ               横山 明美

 梅雨の後の突然の暑さに今年ほど参ったことはない。自身の衰えも国のダメになるのもなんでも少しずつ気付かないうちに進行していくものだと思っていた。冷房を効かせた部屋で一人静かに涼やかな夢でも見よう、とそんな時間をできるだけ持つようにした。
 夜部屋で一人、何年も開いてないアルバムを端から1ページずつ見ていく。まだ若かった私の昭和の夏の家族旅行。父は麻のスーツにパナマ帽、私たちは正しいワンピース姿に麦藁帽をかぶっており、子供たち四人の誰一人写真の中で楽しげにVサインなどすることもなくまじめな顔つきをしていた。家で父は上半身に濡れタオルをかけスイカをかじっている。それでもみな顔をゆがめ暑さをかこちあうようなことはなかったように思う。お風呂に水を張って大きなスイカを冷やしたり、冷たくしたキュウリ丸ごとに味噌をつけてかじったりの田舎の夏がなつかしい。 
 でももうあの昔はかえってこない・・・と思いつつ、次は気になって取っておいた手紙ハガキの類を整理がてらごそごそ取り出してみる。学生時代に卒論のデータ処理などを手伝ってくれた同郷で同じ大学だったKからの賀状が三枚パラパラと手もとに落ちた。お互い40を過ぎたころのものだ。一年目は「おひさしぶりです。お元気ですか」二年目は「いかがお過ごしでしょうか。良い年でありますように」三年目は「たまには顔を見せてください」とある。自筆の文字を見るのは初めてで、それはハガキの右下にメモのように書かれていた。繊細な文字で、詩や小説を書き世の中を斜に見てふてくされていた学生時代が思い出された。全体を覆う野太い“賀正“の巨大な版画文字はお連れ合いの作になるものらしい。正反対の元気な人と暮らしているのだなと思ったものの、受け取った気持ちに始末がつかず、こちらも連れ合いの作になるささやかな絵柄そのままに投函したのだった。彼は小さな出版社をやめ親戚の世話で両親を相次いで亡くしていた事業家の一人娘の婿養子になっていたのである。やがて受け継いだ事業を整理し時代もよかったせいか、漱石の小説に登場するような「高等遊民」の優雅な生活に入っていた。その後ふとしたきっかけで会うようになると私はつい皮肉な口をきいたりしたものだ。また相手もそれを素直に笑いながら受けいれる余裕をもつ男になっていた。共通の話題は本や映画、ときに田舎の話もあり見解の違いで衝突もあったりで男の友達もいいものだ、と思うようになった60過ぎ、病状を知らせてきたあと彼は突然がんで死んだ。大きな子供がいながらおかしいことだが、私に女房をよろしく頼む、と言い残した。通夜の席で泣きじゃくり号泣し続ける寡婦を私は初めて見た。
 懐かしさに浸ると暑さを忘れるものと知った。
 究極の暑さしのぎは独り暮らしの姉の介護だと思い立ってすぐ出かけ一週間を共に過ごす。衣食住・・・やるべきことは山ほど。ときに調停委員時代のキッとした口調が出てギクッとするが、1分間に同じ話を何回も繰り返す姉が楽しい。そんなこと自分のこれまでの家事育児にまい進した日々を思えば余裕である。心は涼やかこの上ない。
連れ合いと二人の暑い毎日もこうしてなんとか切り抜けられそうである。

シャカリキ脱して川柳の道        谷川 亘

 本心は、「この老頭児めがぁ・・・いつまでやってんの!!」 。言葉こそご丁寧ながら「八十路も過ぎてもまだやられているのですか?」。半ばあきれ顔してお褒め?を頂くこともない訳ではないのですが、呆れて“物が言えない”ご心境よくわかります。皮肉交じりのお言葉にも、目尻の垂れ下がり角度を見れば一目瞭然です。
 我が仕事人生半世紀余り。七転び八起きの、それは、波乱万丈そのものでした。“山椒は小粒でピリ辛企業”を目指してきた人生そのものですもの。“満願成就”を見届けるまではそう易々と脇道にそれることは出来ないのであります。引かれ者の小唄とも、往生際が悪いと言われてもそれならそれで結構、なぁんていきがる途端に血圧でブックリがえるのですよ!!!

 文頭から“老いの一徹”に似て空元気出しましたが、正直、山行ペースも遅れがちになった数年前から、祖先と仰ぐ谷川岳とか富士登山で難渋した体力の衰えは如何ともしようがありません。谷川姓を名乗るだけで名誉リーダーに奉られたのは良いが、下見は兎も角、本番は恥晒ししたくないばかりに“お花畑散策”グループリーダー?になり下がり、富士山では下山途上でコケて、ブルトーザーのお出迎えをいただくこの体たらく振り。
 ならばと、段階的に里歩きに高度を下げてはみたものの、“歩行志向”だけはますます意気盛ん。“一日一万歩”目指すこの心意気。拙宅を起点に数コース設定しては、一番電車のまだ通過しない踏切の真ん中で万歳三唱。朝っパラからこれほど気分爽快の類はない。
 椎間板と妥協しながらも歩いてはみたものの、新たに筋肉の衰えを感じるようになると、最早一万歩は既に限界。どこそこ構わずへたり込んで深呼吸。扉越しに写るのは何処かのヨタ爺と思いきや、正しくご本人様様。
 なんとも情けない限りです。
 気分転換にでもと出社しても、怖い偉いさんとして敬遠されると言うよりは無視される始末。地下鉄を手前で降りると東京湾岸沿いの歩行が三コースのより取り見取り。何れも自宅から約5千歩で甲乙つけがたく、一日一万歩確保は固い。でも考えて見て下さいよ。ずっしり沈む長梅雨では、道辺で待つは人待ち顔した朝顔ばかりなり。

 加えて、この歳になると老人性の鬱が加速すると聞き、少しでも進行を遅らせるには、人と人との接点が一番の特効薬とも聞いています。蟄居していると前頭葉を刺激する機会を逸し、体も訛(ナマ)るのだと、「うつ病性仮性認知症」がテレビ番組で取り上げられたのに頷きました。
 集中力や注意力が散漫になり、負のスパイラルとなって、頭痛、胃、胸、便秘、不眠の苦しみとなるとあります。① ゆっくり散歩のつもりで一日30分 ② その間に前頭葉の血流を盛んにするべく“川柳”を詠むと良いのだそうです。出演されていた女性も最初の内は“句が出ず、出るのはため息ばかり”だったのが、数回重ねるとルンルン気分で別人の有様。
 「目から鱗」と言いますが、妙に納得して、「シャカリキになって、ヨタ走りの上に吐く息ゼーゼー」。の世界にいたのに、気ままにそぞろ歩いては、そこはもう川柳、否、恍惚の世界なのです。
 その効用にあやかって早速一句。

「無我夢中 ひたすらせ(急)くは 一万歩」・・・・・・・・・・だったのは昨日までの世界
「じり貧と やっと納得 この余生」・・・・・・・・・・・・・・・と悟り直して
「与太歩き さりとて刺激 前頭葉」・・・・・・・・・・・・・・・と方針転換

「長梅雨に 重く垂れこめ このじとり(湿気)」
「過飽和に 汗も出ぬまま 腕たたく」
「五月蠅い(うるさい)と 追いてまた寄す 梅雨の蠅」
「今日もまた 記録更新 長い(居)梅雨」 
「低気圧 前線不動 梅雨湿(じ)めり」

「タチアオイ 菖蒲共々 梅雨の花」
「入り組んで 這いつ恐ろし 蔦葛(ツタカズラ)」

「雨しょうぶ 滴る(したたる)涙 もらい泣き」
「梅雨盛り 菖蒲の頬に 涙雨」 

「水入(要)らず サボテン何故に 梅雨に咲く」 

 梅雨のどんより感を凌いだ後に控えるのは初夏の風と澄んだ空。暫時、額の汗ぬぐい、ぬぐい、ジメジメ感を凌ごうではありませんか!!

望 郷                  鳥谷 靖子  

 家の居間の真ん中に母の形見の大型の版画がある。「由布の詩」という題のついた美しい山、由布山の風景だ。奥別府のなだらかな丘陵地帯にポツンと聳える由布山は、豊後富士と地元の人に親しまれ、高校時代学校の雪中登山で登った事もあった。山の麓にある盆地が湯布院で今や大分随一の温泉リゾートとなっている。
 今春、私の故郷を是非一度行ってみたいと言っていた親友のご夫妻を誘い大分の旅を企画した。
大分空港から高速バスに乗り、一時間で湯布院に到着。湯布院は、昔は風流で素朴な温泉地だったが、今は俗化して、台湾と韓国等からの観光客で溢れている。
湯布院は、町の至るところから由布山を楽しめる。天候にも恵まれ、金鱗湖の周辺の新緑の町並みを散策し、山が一望できるホテル彩岳館に到着。半年前から予約した甲斐があり、部屋の窓からは真正面に由布山を眺めることができた。もちろん、食事処や露天風呂からも由布山のある風景を満喫できる。帰郷の度に、家族と一緒に訪れていたが、宿泊したのは初めてだった。この宿の景観は期待以上であった。
 湯布院駅から特急「由布の森号」に乗り一時間で大分駅に着く。大分市は、国東半島から佐賀関半島まで伸びる別府湾の一角にある。大分市は海沿いの町だが、町の至るところから高崎山、由布山、鶴見山が見える。また、大分川や大野川などの一級河川が市内を経て別府湾に流れ込んでいる。
 私の実家は江戸時代に府内藩の藩学者だった先祖が、海沿いに釣り小屋用にと購入した土地に建っている。すぐ前が海だった家も、明治からこれまで徐々に埋立が進み、今は海まで数十分歩く必要がある。幼い頃はこの海岸で、弟と交互に父の背中に乗って、海水浴を楽しんだ。
 室町時代には、南蛮船がこの別府湾に停泊し、藩主であった大友宗麟が南蛮貿易を活発におこない、あのフランシスコ・ザビエルも宗麟を訪ねて来航した海でもある。
 中学生頃になると、学校から帰りおやつを食べた後、庭先に繋がれている犬と海に向かった。大友宗麟像と南蛮貿易跡地を通り抜け、別大国道を渡ると。数分で父と泳いだ海が左側に見えてくる。
 狭い防波堤の上を「気をつけて!危ないよ、ジョン」と犬に話しかけながら白灯台まで、そろり、そろり歩く。大分港の入り口に、赤と白の灯台があった。白灯台の周囲の幅が狭く、海際は怖くて、灯台に体を付けるように犬と座った。
 別府湾に沿って別大国道が走り真ん中に、サルで有名な高崎山がある。湾の対岸の別府の町に漂う湯煙り、町の上に広がる山々、目の前に広がる海にはサワサワと波しぶきがあがり、時たまその上で飛び跳ねるトビウオ。たまに灯台の前を通り過ぎる中型の連絡船から手を振る人達に、こちらもお返しに手を振ったものだ。 
 海を見ていると、学校であった嫌な事も波に飲み込まれて、いつの間にか忘れていった。夕方になると、空の色がだんだん海を紅に染めていくのを見ながら、空想に耽けり、まだ見ぬ世界を夢見てすごした。
 青く輝く海は、不安や怒りを鎮め、希望や、理想を抱かせてくれた。緑の山々は亡き両親の様に慈愛に溢れ、故郷に帰った人達に両手を広げて、「良く帰ったね」と言わんばかりに迎えてくれる気がする。東京の練馬からは、海も山も見えない。真冬に環状八号線の遥か遠くに、白い雪を被った富士山を見つけると、内心ホットする。我が家の、母の残してくれた版画の由布山を見ながら、思う。来年桜の咲く頃、故郷帰ろうと。
                                       

「エッセー」とは何ぞや?         野原 茂樹

62歳にして、エッセーを始めた。
夏が来るたびに耳目に触れる「冷やし中華始めました」の「始めた」とは違う。
正真正銘、人生初の「始めた」である。きっかけは、ごく最近、早大出のシニアで作る「エッセー同好会」に入会したこと。すなわち、いままさに書き始めているこいつが、自分のエッセー第一号になる。
出版社勤務二十年、フリーの物書き十八年という経歴だが、不思議なことに、編集屋としても文筆屋としても、仕事でエッセーに関わったことはない。
コラムというやつには、雑誌編集者時代に、さんざん付き合わされた。話題の人物を何人か取り上げる巻頭コラムで、外部のライターにはいっさい任せず、自分の手で書きまくった。
コラムは、筆のすさびが大いに許される雑文という点でエッセーによく似ているが、じつは似て非なるものだ。その違いを示す、はっきりしたことが一つある。自分の私生活や私的体験について書くとき、コラムでは「私事(わたくしごと)で恐縮だが」と断りを入れることになる。コラムの存在意義は、社会事象についての観察・考察にある。それゆえ、私事を書くのはなるべく控えるのが作法――。
いっぽう、私事を書くにおいて、くだんの断りを入れているエッセーにお目にかかったためしはない。
どうやら、エッセーとやらの正体が見えてきた。ここは、エッセーというジャンルの発明者たる16世紀フランスのモラリスト、ミシェル・ド・モンテーニュにご登場いただくにはもってこいの場面だ。まさに『エセー』のタイトルを持つ大著において、モンテーニュは、その冒頭にこう書いている。
「私は単純な、自然の、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは、私が描く対象は私自身だからだ」
なるほど、エッセーで描かれる対象が「私自身」であるならば、「私事で恐縮だが」なんて断りを入れる必要は、そもそもないわけだ。
思わず知らず、「エッセーとは何ぞや?」といった探求をしてしまっているようだが、せっかくだから、和製エッセーの金字塔『徒然草』の冒頭を引き合いに出して、これなる探求のダメ押しをしてやろう。著者は、言わずと知れた吉田兼好。鎌倉時代、門跡(皇子・貴族が住む寺)の首位とされた京都仁和寺の所領内に出家隠遁した超俗の教養人――。
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
あまりにも有名な書き出しだが、「よしなしこと」、「そこはかとなく」の二つの言葉に、兼好流エッセーの要諦が見える。ようするに、心に浮かぶ「たわいのないこと」を、これといった当て所もなく「気ままに」書くということだ。
以上のモンテーニュ流と兼好流とを根幹にして、さらに枝葉を広げたところに、自分なりのエッセー流儀が編みあがった。さっそく、披露させていただく。

一・遠慮なく積極的に、私事を書く。その際、自分を飾らず、ありのままを書く。
二・目的を決めず、気ままに書く。そのためには、推敲をしない、調べ物をしない、辞書も引かない。
三・天下国家を論じない。または、論じても本気にならない、リキまずに軽く流す。
四・記憶はウソをつくが、それを気にせず記憶のままに書く。誤った記憶も、ありのままの
自分の一部として受け入れる。

一口に言えば、「じつに気ままな言葉のそぞろ歩き」といったところか。
そういう趣ならば、以上の四つに加えてもう一つ、重要な流儀を付け加えておかなくてはなるまい。そいつは、「以上の流儀を守りたくないときは、いっさい守らなくてよい」という流儀だ。なにせ、気ままなそぞろ歩き、なんだから。 流儀に縛られていては、それができないではないか。

ピアノに挑戦!             古藤 黎子

 なんだかよくわからないうちに、ピアノを習い始めていた。記憶が全くないわけではないが、理由がはっきりしないのは、最近の記憶力の低下に原因があるかもしれないので、驚くほどのことではない。この年齢になると、記憶力が鈍ってくる。思い出も一緒になくなるのだろう。駅名、場所、友達の名前、否、人の名前全般といったほうがよさそうだ。「これはやばい!」と思ったのが、今年のはじめあたりだったろうか。春になった頃、この危ない状況を改めて感じて、正直言うと、思わずぞっとした。
 「そうだ、ピアノでも習おうかな」と思ったのは、毎日のように通っているスポーツジムでのことだ。プールの知り合いでピアノの大橋先生がいらっしゃるじゃないか。「そうか、ピアノだ!」とひらめいた、のだが。そこまではよかったが、なんのことはない。生まれてこのかた、ピアノなんて習ったこともないし、触れたことなんかこの数十年ないのだ。
 どうする?と我ながら途方にくれるはずだったのが、これまた深謀遠慮のない私めは、すぐ目の前にいらっしゃった笑顔の大橋先生にご相談した。「古藤さんくらいの年齢のかたも生徒さんには沢山いらっしゃるわよ!」と。「そうか、そうなんだ。じゃあ習っても大丈夫なんだ!」と。
 私は、恐れをしらない、単純人間であった。
 後にそういう生徒さんも、子供の頃から、とか、若い頃からとか、キャリアがある人が多いということを知ったが後の祭り。しかし、私は、自分を反省することが余りないようだ。それが吉に運ぶか凶になるか、考えると殆ど「吉」だ、と自分では思っているから、あまり悩まないことにした。
 それで、この長い人生を生きてきたのだもの、どうってことないじゃない!と開き直った。で、まずは練習のために、ピアノが必要だ。ピアノを買うなんてことは金銭的、物理的にも不可能につき、電子ピアノを買うことにした。
 まず新宿のビックカメラへ行って実物を拝見。そんなに高いものじゃないんだ。よかった!
 最初は5~6万でもいいかな、と思っていたらそのうちどうせ買うならちゃんとしたものがいいな、と欲が出て、件の大橋先生のご推薦「ヤマハ」の電子ピアノを購入した。
 白いピアノは部屋の調度としても格好の品である。ちょっとスペースを取って部屋が狭苦しくなってしまったが、ピアノのある部屋もなかなかいいものだと自己満足。
 これまた私の“まっ、いいか!”が幸いして無事部屋に鎮座した。
 さあ、ピアノにむかって驀進(ばくしん)!というわけにはいかないのは当然である。
 片手は動いても両手となるとそうはいかない。左手の指と右手の指が楽譜通りに動かないのだ。学生時代習ったタイプのお蔭かPCの両手打ちなんて全く問題なかった。しかし今回は、脳の動きの問題らしい。そんな簡単なことではなさそうである。
 これ程、右脳と左脳の違いを知ったことはない。しかし、ピアノを習わなかったら右指も左指も動かなくなってしまうんだろうと思うと、おちおちしてはいられない。
 「まあ、なるようになるんだ!」と開き直り、先生のお言葉通り“そのうち、そのうち”と毎日夜中にピアノの練習をはじめた。夜しかピアノに向かえないという、自分の時間の使い方の悪さったらない。
 最初は、片手指のレッスンだったのが、今は両手になり、動かない指が頭にきて「や~めた!」と途中でやめてしまったこともしばしば。
 しかし、人間努力あるのみ、練習するしかない。
 ピアノを弾くのは、右脳と左脳という頭を使うということを、実地で体験できることは貴重だろう。どうにか両手の指が楽譜の通りスムースに動くようになって、どんなに時間がかかっても、せめて『エリーゼのために』が弾けるようになるまで頑張るつもりである。ほんの短い間だけれど、ピアノレッスンで得たことは、私の人生「悠々自適」とか「のんびり」という言葉はない、ということなのか。否『努力』あるのみということなのだろうか!? しかし、いくら努力してもダメなものはダメかもしれないがー。

古代史探訪 古河から石岡         田原 亞彦

 東京駅からJR快速で1時間あまり、古河は宇都宮線、石岡は常磐線で茨城県の西南部にある。古河は茨城・埼玉、栃木との県境にあり、石岡は霞ヶ浦の北岸に位置して筑波山、つくば市に近接している。茨城は常陸国で「延喜式」では上総・下総・武蔵・上野と供に面積・人口などで4等級の最上位の大国で 赴任はしないが親王任国であって国司は介が最上位であった。
 常陸の国府(国が)や国分寺は石岡市におかれた。国府跡は現在地元の小学校の校庭になっている。府中城跡、常陸国総社宮が近くにある。霞ヶ浦は海水で、石岡は国府の陸・海交通、運輸双方の中心地であった。古代では東海道の基点でもあった。石岡の少し南方で霞ヶ浦を望む高台に船塚山古墳がある。県内第2位の規模の全長180mの前方後円墳である。晴天には鹿島にある古代の港、国府津今の高浜が遠望できる。常陸風土記の丘には常磐自動車道建設時に鹿の子遺跡などから発掘された遺品が保管展示されている。
 つくば市の筑波山ふもとにある平沢官舎跡が奈良・平安期の筑波郡の役所跡で、正倉の板倉つくりには稲、校倉つくりに麻布などを保管していた。 
 古河市・古河藩は江戸の北の防衛上の要所で、北関東、日光・奥羽道の重要拠点である。4世紀、下野の国造による創建とされる野木神社は平安時代に坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営した言はれる。室町期には古河公方といわれた足利氏の本拠地であった。江戸時代に老中を多く排出した出世藩である。特に16万石の土井利勝は初期の徳川三代に仕えた大老であった。古河城には将軍が日光墓参時に宿泊した。藩には先進的な人物が多くいた。 1770年南蛮医学を学んだ藩医河口信任シンジンが京で頭部・眼球の解剖を初めて行い2年後に本を出版した。1832年藩主利位トシツラが顕微鏡で雪を観察し「雪華図説」を発刊し、現代でも着物の衣装に用いられている。
 幕末に、蘭学者でオランダ名もあった家老の鷹見泉石は、国内外の情勢に精通しておりペリー来航時多くの提言をしている。明治にかけて藩士の娘奥原晴湖は女流南画家として江戸で大成した。
 713年~718年に編纂された「常陸国風土記」に、製鉄の記がある。鬼怒川・霞ヶ浦などの流域から砂鉄がとれた。茨城県の国宝は剣の2件であり一つは鹿島神宮所有である。又古河市、千代田市も利根川・渡良瀬川など日光山系の流域にあり、古河の川戸台遺跡は9~10世紀の100年間大量の鉄鍋などを生産した東日本最大級の製鉄所であった。古河が蝦夷対策の兵站基地であった証拠である。
 併せて古河が水運・陸運に適した位置にあったことが幸いした。近くの八千代町の前山製鉄遺跡からは1980年ごろ3基の製鉄炉が発掘されている。
 平将門は890年上総介として下向した平高望の孫であったが、940年に敗死した。娘が木像を彫り岩井町の国王神社に祭られている。また、親鸞聖人は越後、下野から常陸に至り、笠間はじめ霞ヶ浦、鹿島神宮など各所に足跡を残している。

昭和二十一年八月            小林 康昭

 デジャビュ。日本語で既視感。意味は「経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること」
その時がそうだった。目の前の、映画館のスクリーンには、トルコ映画「ブレイブロード~名もなき英雄」の映像が映し出されていた。1950年に始まった朝鮮動乱の戦場。北鮮軍を迎え撃つ国連軍に参加したトルコ軍。その軍曹スレイマンは、戦場で5歳くらいの幼女を保護する。そして、基地に連れ帰る。幼女は怯えて口を開かず、名前も言わない。
 アイラ(トルコ語でお月さま)と名付けた。敵襲は日常茶飯事。アイラを保育施設に移そうとする。アイラはしがみついて離れない。仕方がないので連れ歩く。トルコ軍は、戦場の兵士を定期的に交替させていた。スレイマンの番が来た。スレイマンは、アイラに愛着を感じて命令を返上して残留する。だが、度重なると聞き入れられなくなって、帰国することになる。因果を含めて、アイラを保育園に引き渡す。だが、後をアイラが追って来る。窮余の一策、スレイマンは、大きなカバンにアイラを潜ませて連れ出そうと企む。船が横付けされた埠頭の上で、検査官がカバンを開ける。身をかがめたアイラの姿が露わに・・・。このとき、デジャビュ、が脳裏を走った。いつか、どっかで見たような・・・。
*  *  *
 父の葬儀の席だった。父の旧友が住職を勤める寺で、葬儀は営まれた。葬儀の後、弔問客が喪主の僕の前に列を作った。慎ましやかな挨拶を交わして、列が動いていく。女性が、弔問客の列の肩越しに、目を逸らさず僕を凝視している。その視線を受けて、誰だろう? 見当がつかない。亡父か、母か、妹弟の縁者か。
 その女性が前に立った。「この度は・・・」軽く頭を下げた彼女が、顔を上げた。間近で眼が合った。その途端、思いもかけない台詞が、僕の口から飛び出した。「キミコちゃん・・・、ですね!」
 多分、自己紹介しようと口を開きかけていた彼女が一瞬、小声で「エッ」と口ごもった。「覚えていて下すったんですか、ヤスアキちゃん」そして、慌てて「ヤスアキさん」と言い直した。記憶の中に残っていなかった筈なのに、その瞬間、口から無意識に飛び出したことが、まったく不思議だった。その時、昭和45年5月。24年振りのキミコちゃんだった。
*  *  *
 終戦一年後、昭和二十一年八月初頭、満州から引揚げが始まった。連日、日本人が、貨物列車で渤海湾沿岸の葫蘆島の港を目指す。貨物列車は渋滞し、一昼夜で着くところ、一週間以上かかった。葫蘆島に着くと、殺風景な原っぱに並んだ掘っ立て小屋で乗船を待つ。何日も待たされた。貨物列車で運ばれてくる人たちで小屋は満杯になり、軒下に溢れ出す。昼間、大人たちは、食べ物探しか、蚤や虱の退治。子供たちは小屋の中で寝ている。空腹で元気が出ない。腸チブスで衰弱していた僕も寝ていた。栄養失調の子供が毎日、死んでいく。死ぬのは、決まって男の子だった。
 船が着くと順送りに乗船する。船に乗れない者が出た。引揚げ証明書がない、親とはぐれたり親が死んで身寄りも身元も分からない。そんな理由で、乗船検査ではねられる。船を目の前にして、内地に帰れないのだ。
 父が、一人の女の子を連れて来た。事情を言わなかったが、家族とはぐれた孤児のようだった。絣模様のもんぺ姿、左胸に、みんなと同じように、カルタくらいの大きさの白い布切れが縫い付けられてある。布切れに書かれた三列の漢字は帰省地の住所だったが、漢字だから僕には読めない。その夜から、女の子は僕たちと生活を共にすることになった。女の子は、初めは、まったく喋らなかった。そのうちに、父を「おとうさん」と呼ぶようになった。
乗船の順番が来た。父は女の子の手を引いた。僕は妹と手をつないだ。大きな机の上に荷物と書類を拡げて、役員の検査を受ける。書類を手にした役員が、父を押しとどめる。父は制止を振り切った。進んでいく先に、真っ白な煙が激しく湧きあがっていた。その中を通り過ぎた。後になって分かったが、殺虫剤か消毒剤の粉末を浴びせられたのだった。煙の向こうで役員が大声をあげている。父は無視した。停泊している船が見えた。父がつぶやいた。「駆逐艦だな・・・」
 船は遠かった。停泊地まで、遠浅の海岸に長い突堤の道路が続いていた。僕は下痢をしていたので、歩いている間に何度も便を垂れた。父は女の子を背中におぶった。船に乗り込む階段の下に来た。
 階段の入口に立っている船員が、女の子を指して父を咎めた。父は大声で怒鳴り返して、女の子をおぶったまま、階段を駆け上がって行く。僕も慌てて妹の手を引いて登って行った。甲板の上に着くと、直ぐに船のなかの暗い階段を下りて、一番深い船倉の隅っこに居場所を定めた。床の下から、ピシャピシャと水の音が聞こえていた。
 父は、女の子を連れて船室を出て行った。しばらくして、父は給食を持って、穏やかな表情になって戻って来た。背後に女の子がついてくる。後から知ったことだが、父は艦長に直接、談判したらしい。身寄りのない女の子を、乗船規則を無視して内地に連れて行く! 艦長が言ったそうだ。「自分もサムライの端くれだ。だから、この際・・・」
 そして、父に念を押した。「内地に着いたら責任もって、帰省地までこの子を、必ず連れて行くんだな」
 何日か経って、船は博多に着いた。大濠公園の池の周囲に建てられた小屋に入った。その小屋で三日ほど、僕が妹と待っている間に、父は、その女の子を、帰省地に送り届けて戻って来たのだった。
*  *  *
 葬儀の後始末が一段落した後、母が言った。「その子はね、お父さんに、こう言ったんだそうだよ」
 帰省地は、キミコちゃんの父親の本籍地だった。そこには、キミコちゃんの祖父母が住んでいた。玄関先に立った時、キミコちゃんは父を見上げて「キミコは、おとうさんのコドモになれないの?」
 父はなだめて説得した。キミコちゃんの身柄を渡して玄関を出た。キミコちゃんが後を追ってきた。不憫に思った父は、しゃがみ込んでキミコちゃんの手を握った。「おとうさんのコドモになりたい。オヨメサンになったら、なれる?」

大学受験の受験番号を覚えていますか。  富塚 昇   

 1977年2月26日、早稲田大学教育学部の試験の日、私は言うまでもなく試験問題に全力で取り組んだ。私にとって大学は早稲田しか考えられなかった。「政経」と「一文」と「教育」の3学部だけ受験した。先に試験があった「政経」と「一文」はちょっと厳しいかも知れない。だから「教育」にはもう絶対に合格したい。何が何でも「イレテクダサイ」という思いを強くもって必死になって問題に取り組んだ。そして見直しが終わるとあとはもう「受験票」の「受験番号」を見ながらただただ念じていた。「イレテクダサイ、イレテクダサイ、イレテクダサイ」と。
 そして、合格発表日、合格発表の掲示板に来て自分の番号の少し前から受験番号を追っていった。だんだん自分の受験番号が近づいてきた。109○○、109△△、109□□、10931。「あったー、やったー。合格した!」
 そう、試験の時、受験番号の10931をイレテクダサイと読み念じていたから、早稲田大学は私を入れてくれたのです。これが皆さまとの出会いの出発点となりました。
そして、「教育学部に入ったのだから」という理由で「教員免許」を取ることにしました。早稲田に入学したときの将来の希望は「ジャーナリスト」でした。その後、社会学の先生との出会いもあり、卒業の時には文学研究科の社会学専攻に入学することが希望となっていました。大学4年の時には就職活動をすることもなく、卒業論文に力を注ぎ、大学院受験の勉強をしました。そして、文学研究科に無事合格した・・・とはいかず実力不足で不合格となってしまいました。1981年4月、私は行かなければならない所も、また、しなければならないこともなくなってしまったのです。
 さて、どうしよう。「そうだ、『教員免許』がある」。進路希望を変えて7月の東京都の教員採用試験を目指し、大学受験の勉強と同じくらいの猛勉強をして、そして、今度は合格することができたのです・・・と書きたいところですが、実はそれほど甘くはなかったのです。ここでも私は不合格となってしまいました。ダブルパンチをくらった私は、社会からすっかり見放された気分になり「早稲田松竹」やいろいろな名画座で映画ばかり見ている生活を送るようになりました。そんな潜伏の期間を過ごした後、翌年の教員採用試験に合格し、何とか都立高校の社会科教員になることができたのです。科目は「政治・経済」「倫理」「現代社会」を担当してきました。
 「教師にベテランなし」。若い頃、先輩の先生に教わったのですが、その言葉通りに試行錯誤を繰り返し、月日が流れ、今年の3月に36年間の教員生活の定年を迎えました。そして4月からも引き続き「再任用教員」として教壇に立っています。
 「イレテクサダサイ」のことは、大学受験を前にした生徒たちに「絶対諦めるな、大事なことは絶対合格したいという気持ちだ」という話をすることにつながりました。また、浪人が決まった生徒たちを激励する文章を、「クラス通信」で次のように書きました。
 「えらそうなことはいえないけれど、今、僕がT高校にいて君たちと出会うことができ、充実した教員生活を送ることができているのも、いろいろ希望通りにいかなかったことや、大学卒業後の空白の何とも言えない時代があったからかもしれません。これから君たちの前には一つの正しい道が用意されている訳ではないと思います。どんな道でも自分が進む道を自分自身で正しい道にするのだという気持ちをもって歩んでいって下さい」。
 ありきたりなオチですが「人間万事塞翁が馬」ということで、これからよろしくお願い致します。
 
                                       

四季の記憶58「ラッキーセブン」    鈴木 奎三郎   

 このところの暑さは、近年の気力体力の減退にさらに拍車をかけてくる。両親、兄弟ともにやせ型の家系は、全員が夏大好きであったが、どうも昨今の猛暑は老いの身には辛い。とはいえ加齢と暑さは,この先生きていくには、どうしても避けられないものだ。
 二十四節気の言葉で「処暑」は旧暦7月の半分を過ぎて暑さがおさまるころという意味で、好きな季語のひとつである。現在の暦では8月23日頃からの15,6日間だが、トシによって必ずしもそうならない。だが、この時期、残暑がうんざりするほど続くかと思うと、突如秋の気配が朝夕に訪れることもよくあることだ。
 8月の空を見上げると、むくむくと立ち上がる入道雲の美しさに目を奪われる。その形は千変万化で見飽きることがない。
 川に目をやると、カルガモの雛もすっかり大きくなって、もうカラスにさらわれることもない。しかし、10羽いた雛が5,6羽に減っているのは気の毒なことで、自然の厳しさを感じさせる。

 立春から数えて二百十日目にあたる雑節の二百十日は、台風の多い注意日として恐れられているが、新暦ではおおむね毎年9月1日がそれに当たる。この日は過去幾度となく風水害を起こし、各地に被害をもたらしているが、近年では必ずしも二百十日、二百二十日の厄日に台風が多いわけではなさそうだ。
 関東エリアは幸いなことに、これまであまり台風による風水害はないようだが、その代わりに30年以内に70パーセントの確率で起こると予想されている直下型の大地震が心配のタネだ。これを見越して、20年ほど前に建て替えた我が家は、見積もりでは一番高かったが、地震に強いといわれているツーバイフォーに建て替えた。願わくは命あるうちには起きないことを祈るばかりである。

 この4月で喜寿となった。7並びの縁起のいい数字である。いまのところその御利益には恵まれていないが、ラッキーセブンは世界共通のマジックナンバーである。七福神、七草、セブンスター・・などいろいろだ。
 ぼくがいまでも定期購読しているもののひとつに「銀座百点」がある。日本最古のタウン誌として1955年(昭和30年)に、銀座の老舗の有志が出資して創刊された。このタウン誌がこの8月号で創刊777号となった。かつて、向田邦子「父の詫び状」や池波正太郎「銀座日記」のエッセーが有名で、その伝統はいまに続く。真偽のほどは定かでないが、格安の原稿料でも作家の皆さんは書きたがるそうだ。銀座の老舗の店頭では無料でもらえるが、万が一を思って年間3500円ほどの購読料を払って定期購読している。これも40年超通った銀座へのノスタルジーであろうか。

 先日銀座へ行ったついでに、777号のお祝をかねて木村屋のアンパンを買って「銀座百点」の事務所を訪ねた。歴代の編集長は女性で、いまの編集長は初対面だが、前任の斉藤美子さんとはよくお目にかかって銀座情報などを交換した。当時ぼくは、銀座通連合会の広報担当もしていて、「銀字百点」は重要な媒体であった。歴史を重ねてきたこのタウン誌は、発行部数はともかく作家、クリエイターなどから一目置かれている。他ではニュースにならなくても銀座で起こるとニュースになる・・と言われているように、銀座はやはり銀座なのである。

 新涼や銀座通りもたそがれて           

       【2019年6月15日定例作品】

庭のアイドル              鳥谷 靖子  

 先週梅雨入りが発表され、あちらこちらで紫陽花の花が色とりどりに咲いている。朝からポツリポツリ降っていた雨が、昼近くにに本降りになった。ポロンと言う音に、携帯を開くと仲良しの友人からのライン、「雨が降り出したらうちの子が出てきて、なんと体を伏せて、何かの虫を捕って木の下に戻って行きました。凄い!ちゃんとご飯は食べているのね。」写真にはカエルが体を地面に張り付けて、獲物を狙っていた。もう一枚の写真は、木陰に帰っていく様子が画面に写されていた。友の家の庭にずっと住みついているカエル。ここのカエルは、前足を敷居にかけ、家の中を覗いたりと多芸である。
 今から約十八年前に娘一家が最寄駅の反対側に家を購入した。可愛い娘が実家の近くに移り住む事に、夫は事の他喜んだ。丁度、梅雨の時期に転居したのもあり、たまたま庭で大きなヒキガエルを見つけた。夫は新聞紙に包み、ビニール袋にしっかり入れて娘の家に持参した。「カエルは無事皆が家に帰る」と言うゴロ合わせより、「カエルのいる庭は縁起が良いのよ」と日ごろから夫に話していたので、「良い転居祝いにもなるし」と届けたのだが、娘は、キャーと大騒ぎしたあげく、夫を「パパ、おかしいよ、要らない、早く隣の公園に捨てて来て!」と言われたとがっかりして帰ってきた。「親の心子知らずね」と慰めた。あれ以来数年間、我が家でカエルの姿がみられなくなり、寂しく思っていると、我が家から六分位の所に住む息子から携帯に電話で「小さなカエルが家の前で立ち往生している。欲しいならすぐ来て」息子に「逃げないように見張って」と頼んだ。息子の家に急ぎ、袋に入れて家に帰る途中で、三センチ位のカエル君、袋の隙間から脱出した。慌てて、自転車を留め追いかけて、やっと捕まえた。家に着くとすぐに庭に放した。やれやれとほっとしたのも、つかの間だった。ブロック塀の間の風穴から隣家の庭に逃げ出し見失った。数年後、やはり梅雨の頃,色鮮やかなインパチェンスの手入れをしていると、放した同じ場所にあの小さなカエルが三倍の大きさになって生きていた。.嬉しくなり見ていると、必死で木陰に隠れた。ピョン、ピョン飛ぶ姿はなんとも可愛らしい。
 子供達が巣立ち、気持ちにゆとりが出来、これまで気にも留め無かった自然界の様々な姿が見えるようになった。鳥や虫の生態、そして草花の美しさが心に響く。
 若い頃はあの不気味だったカエルも今は大切な仲間になっている。日頃から仲の良い隣人は言った。「庭に腐葉土入れようと、深く土を掘っていたら、カエルが冬眠していたのよ,驚かして悪いことしてしまったわ。」と言う。「なるほど、カエルは土の中で冬眠して春を待つのか」やっと納得。暖かくなると、地上に出て虫を捕って食事するのだ。今年はまだ庭で会えないカエル君に、雨のあがった日に逢えないかと待っている毎日だ。

給 料 日                 照山 忠利  

 のっけから小難しい話で恐縮だが、「賃金支払いの5原則」をご存じだろうか。労働基準法は賃金の支払いにあたって1.通貨払いの原則、2.直接払いの原則、3.全額払いの原則、4.毎月1回以上払いの原則、5.一定期日払いの原則―を定めている。いずれも労働者が不利益を被らないように配慮しているものだ。銀行口座等への振り込みが一般的な現在からすれば、考えられないような手間と労力が以前はかけられていた。
 昭和45年に新入社員として赴任した長崎県の離島の炭鉱の例を思い出してみよう。月末に締め切られた鉱員の賃金は翌月13日、島の社宅の東西2か所の詰所で支払われる。窓口には印鑑をぶら下げた主婦たちが列をなす。2,000人分の賃金は約3億円。賞与の場合は約5億円。この現金を支払日の前日に三菱銀行長崎支店から、会社の経理課員がジュラルミンの箱3個に入れて船便で運んでくる。金種も1万円札から百円札まで、また硬貨もあるから相当な重さだ。今から考えればよく事故が起きなかったものだと思う。東芝の3億円強奪事件の後2か月ほどは警察の警護がついたようだが、殆どノーガードであった。こうした手間と労力はいずれも前記賃金支払いの5原則を満たすために必要であった。
 3年ほどの長崎勤務の後、東京の本店に転勤となった。場所は東京駅前の新丸ビル5階。給料日には各部の庶務係の女子事務員が、部長以下全員の印鑑を預かって経理部へ行き代理受領、それを各部に持ち帰り各人に手渡す仕組みであった。この日のうきうきしたような部内の雰囲気が今となってはなつかしい。
 そうした中で1人だけ特異な行動をするのが直属のM課長だった。給料袋を受け取った頃を見計らって、卓上の直通電話が鳴る。「うんわかった。すぐ行く」と言って部屋から出て行く。どうしたのかと先輩に聞くと、奥さんがビルの地階まで給料を受け取りにきているのだという。課長夫人は亭主が給料袋を無事に家まで持って帰るか心配で、毎月の給料日には会社の地下まで取りに来ることになっているそうな。この課長氏、以前は酒を飲むと所謂酒乱の癖があり、給料袋が夫人の元に届かなかったことがあったようだ。
 「僕は断酒道五段だ」といってその当時は酒を口にしていなかった。断酒道に入門すると、毎年正月に仲間同士で一升瓶をたたき割り「今年も飲まないぞ」と誓うという。1年飲まなければ段位が一段ずつ上がるので、五段だと5年間禁酒していたことになる。それにもかかわらず給料日に細君がわざわざ会社に出向いて受け取るというのは、過去のトラウマがよほど強かったのか、あるいはまだ信用できない言動が亭主に残っていたかのどちらかであろう。
 給料の銀行振り込みは、労働者の同意を条件とする「直接払いの原則の例外」であるが、こうした措置が早くとられていれば課長夫人の余計な心配はなかったはずである。だがしかし、給料日には多くの職場で飲み会が設営され、ホロ酔い気分で帰宅した亭主が「ホレ」とかいって給料袋を妻に手渡し、ひと時の優越感を味わうことができた。銀行振り込みは確かに便利で安全ではあるが、亭主の権威を著しく失墜せしめたことは間違いない。振り込み方式になってからは亭主が妻から小遣いをいただく立場に逆転してしまった。「あの頃はよかったなあ」とセピア色の記憶をたどってみても、もう元に戻ることはない。キャッシュレスはこの先どこまで進むのだろうか。労基法の賃金支払い5原則などそのうち空文となってしまうかもしれない。
(了) 

旅と感動                石田 真理

 数年前に、ハワイの海を目にして以来、すっかり美しい風景のとりこになってしまった。世界には知らない場所がたくさんある。見てみたいと思い、旅行をするようになった。

 日本から行きやすいということがあって、グアムに行った。現地のガイドさんの話では、日本人はグアムに行ってから、「次はハワイだ。」と言う人が多いらしいが、私の場合は、逆だった。グアムの海も、美しかった。そのガイドさんは、日本に生まれ育って、現地に移住してガイドをしているという。ガイドさんの言った言葉がとても印象に残った。「グアムに旅行に来る外国人は、お金持ちがだが、日本人は、普通の人がグアムに旅行に来る。」日本国内ではお金持ちではない自分が、世界ではお金持ちになるのだと思った。

 機会に恵まれ、父島にも行った。父島は、自然保護のため飛行場はなく、東京から1000キロメートル離れた島へ、船に24時間乗っていく。大海原の船の上で、青い海と夏の日差しと風が心地よく、自分がその場所にいることが、信じられなかった。父島の海も綺麗だったが、とにかく人が少なかった。
 海ばかりを続けて見に行ったので、その後は、行きやすいということで、台湾やタイにも行ってみた。文化の違いと、活気を感じる。言葉がわからないから、周りの会話を理解することなく、自分の世界にひたっていられるのは、なかなかよかった。
 普段の生活と違う土地へ行き、目にするもの。知らなかった世界での緊張と感動。世界には、すばらしいものが、たくさんある。
 見る景色を変えると、意識が変わっていくらしい。次はどこへ行こう。何を見に行こう。

高忠実度再生の終焉           小林 士

 最近、アナログレコードの人気が復活している。その音はCDの音を聞きなれた耳には「あれっ」と思うほど、しっとりと落ち着いた味を感じさせてくれる。それがレコードの魅力となっているのだろう。
 ここであえてアナログレコードと言ったが、正しくはLPレコードである。なぜLP(Long Playing)というかというと、その前にSPレコードが存在したからである。このSPとはStandard Playingの略で1950年ころまではレコードといえば、毎分78回転、片面の演奏時間が約5分のシェラック盤しかなく、これがスタンダードだった。しかしひどいレコードだった。
SPレコードは昆虫の分泌物を固めたシェラックという固い物質に刻まれた溝を、50グラムほどの圧力をかけた鋼鉄針でなぞって音を取り出す。何がひどいかというと、シェラックと鋼鉄針の摩擦でシャーシャーシャーシャーと、ひどいノイズが出るのである。音楽とノイズが一緒になって出てくる。したがって聞く者は、シャーシャーという雑音を頭の中のフイルターでとりのぞき、意識として音楽だけを取り出して聞く。音楽がメゾフォルテで鳴っていればまだそれができるのだが、ピアニッシモになろうものなら楽音よりシャーシャーの方がはるかに大きな音になり、これを音楽として楽しむには相当の努力と忍耐を必要とした。
 ところがLPレコードはこの不満を一挙に解決してくれた。材質は塩化ビニルとなり、加えて音溝の記録技術も工夫され、シャーシャーいう音は一挙に消滅したのである。録音技術も向上して、レコードで生の音楽と同様の音を楽しめるのではないか、と夢が広がった。このとき使われた言葉が「原音再生」や「高忠実度(High Fidelity)」再生だった。これを略して「ハイ・ファイ」といった。音楽の生の音をどれほど忠実に再生できるか、とそれを目標に技術を切磋琢磨した。公開の場で、楽団の演奏とスピーカーから出る録音テープの音とを切り替えて比較する、という実験さえ行われた。原音再生が夢だったのである。それを追及するなかでデジタル方式によるCompact Disk、CDが出現するに至った。
 CDは、音の良さではLPレコードをさらに越える画期的な発明となった。レコードでは得られなかった強弱の大きな幅、どうしても除けなかったノイズ、カバーできなかった広い周波数範囲、その他の問題を一気に解決した。そして巷に、良い音の再生音楽がいとも簡単に流れるようになった。
 その結果、世の中、どこに行っても、昔のような聞き苦しい音はきかれなくなった。小はパソコンにとりつけられた小さなスピーカーから、大は大音量の宣伝カーまで、どれも聞き苦しい音を出していない。家庭で聞くCDプレーヤーの音も、それなりに良い音で音楽を楽しめる。再生装置のそれぞれのサイズに応じて、歪のないまとまった音を出している。悪い音を聞かされる心配はなくなった。
 そういう満ち足りた環境のせいか、気がつくと原音再生とかハイファイという言葉を最近とんと聞かなくなっている。オーディオマニアといわれる人たちは少しでもよい音の音楽を自分の部屋に持ちこもうと、多大な出費と技術知識を投じて日夜努力をかさねている。そういう人たちでさえ、原音再生とかハイファイという言葉を口にすることはなくなった。
いまやCDやレコードによる再生音楽は技術的に完成の頂点に達し、人それぞれが、それぞれの条件のなかで音を楽しんでいる。原音再生の夢は忘れられたのだろうか、それとも知らない間にもう達成されているのだろうか。

幸せの贈り方              横山 明美

 一年ぶりだろうか、佐藤君からまた四葉のクローバーが送られてきた。君付けなのははるか遠い中学時代のクラスメイトのせいだ。添えられた手紙には「これがおそらく最後になる」とある。正直なところ中学の三年間怖くて一度も口をきいたことはなかった。そのころから坊ちゃん刈りの男子の中でただ一人の坊主頭、口数も少なく肝の座ったような大人の顔つきをしており、一人泰然としていた。その後は東京オリンピックのボート競技に出場した者や陶芸家として活躍した者、小さいながらいい詩歌本を出す出版社を起こした者、とユニークな顔ぶれの揃うクラスだったが、佐藤君も存在そのものがユニークだった。担任は三年間変わらず家族みたいなものだったから、卒業後も私たちは帰郷してよく集まりを持ったものだったが、佐藤君が現れることはなかったのである。
 私たちも還暦を過ぎたころ、先生の長寿を祝うことになり、昔と全く変わらない“永遠の青年”を囲んで盛り上がった。この時佐藤君は初めて顔を見せた。開口一番「若いね、あんたは化け物だ」などとやくざな口調に翳りのある笑みを浮かべて先生にビールをついだ。つがれた方も、相変わらずお洒落な自然なくせ毛に昔と変わらぬ恥じらいを見せながら「いや、どうも・・・佐藤も元気そうでよかった」と受ける。そこからの会話で、いま佐藤君が旅芝居の舞台の照明係をやっていることを知った。皆の視線がそちらを向いた。
 彼は突然「みんな、日本にはセンダイが二か所あることを知ってるかい?」と一同を見まわし「九州にも川内と書いてセンダイとよむとこがあるんだ」と得意げに言った。皆初めて聞くように「ほーー」とうなずいたりした。その夜佐藤君は上機嫌でしたたかに酔い、ふうてんの寅さんみたいに肩にかけていた上着を忘れて東京へ帰っていった。
 勢いを得て翌年また集まったが佐藤君はもう来なかった。欠席届にたくさんの四葉のクローバーが添えられ「皆さんに幸せありますように」と書かれてあった。幹事役の私はそれぞれの席に一葉ずつ置き、ことの次第を説明したが、もうこの歳になって四葉のクローバーにまつわる甘やかな想いを信じる者はいないようだった。幹事として礼状を書いたのをきっかけにしばしば私のもとにクローバーが送られてくるようになった。東京でも団地の近くに草地が広がり奥さんと探し回るらしい。いつも同じ言葉を返すだけで心苦しかったが、そんなところへあの東日本の大震災である。私はある団体の募集に応じて一週間ほど何か役に立てばと出掛けることになった。すると佐藤君から100葉を超えるクローバーが送られてきた。「自分も何かできないか考えていた」と一文が添えられていた。それを渡した時の仮設住宅のお母さんたちの「きっといいことあるよね、うれしい」という言葉は佐藤君の分までうれしかった。その後やりとりは間遠になって行ったがそこへ「最後のクローバー」である。これは私のこれからを見守ってくれればそれでいい・・・ささやかなものを添えて礼を書くと、「自分は残念ながら口にできなかったが女房がおいしく完食しました」という一文がきた。ずっと二人暮らしだったのだろうか。それから間もなく佐藤君から沢山の青森の海産物が送られてきた。奥さんの故郷のものだろうか。手紙はなかった。
 クラスの世話役に連絡すると佐藤君自身中学時代、事故で身体に損傷を受けていたので子供はできなかったこと、”人恋しいやつ“だったこと、いい女房らしいこと、「あいつも総じていい人生だったんだよ」と言われ、なんだかほっとして静かに電話を置いた。

四季の記憶57「蟻のコロニー」     鈴木 奎三郎   

 ボーッとしているうちに平成が終わり、令和となって早や2か月半が過ぎた。元号が変わったからといって、身の回りに何かが起こることもなく、静かな生活は永遠に続くような錯覚に陥る。そうこうしているうちに4月の誕生日でめでたく?喜寿となった。「人の世は山坂多い旅の道」という格言があるが、ぼく個人としてはさほどの山坂を感じることなく、いつのまにかここまで来てしまったというのが実感である。生まれついて粗忽ものでアバウトな性格のゆえかもしれないが、こんなことを言うと「ボーッと生きてんじゃねーよ・・」と5才のチコちゃんに叱られそうである。

 そういえば、小さい頃はよく母に「お前はいつも注意散漫でボーッとしているからこういうことになるんだよ・・」と何度か言われて育った。ビラを撒く飛行機を見あげていて小川に落ちたり、近くの川で溺れかかったこともあるからだ。
 この先いつまでの生を与えられているのかわからないが、その時はその時である。「あいつはなにか自分勝手で嫌な奴だね・・」と言われることのないよう、襟を正して生きていかなければならない。

 さて列島はいよいよ本格的な梅雨に入り、合間を縫って愛犬の散歩をするのも一苦労だ。「芒種」という聞きなれない言葉が旧暦5月の節気になる。イネ科の花の外側には芒(のぎ)と呼ばれるとげのような針状のものがついているが、その芒のある穀物の種まきをする時期というわけである。この節気名が、東南アジアから渡ってきた稲の生育期にあわせてつけられている所以なのだそうだ。

 花水木、紅葉やカエデの美しい新芽はすっかりみどりが色濃くなり、足元の蟻たちはいかにも忙しそうに歩き回っている。石神井川のカルガモの雛は日々大きくなっていて、もうカラスにさらわれることもない。でも8羽いたのが6羽になっているのを見るのは、自然の摂理とはいえ生きることの厳しさを感じる。色が黒く不吉な感じがしてゴミあさりをするカラスを非難する人は都市部に多いが、カラスだって子育てに懸命なのだ。かつては童謡にもうたわれた愛すべき存在が、時とともにこういう存在になってしまうことは悲しいことだ。命が一斉に輝くこの時期は、生きとし生けるものすべてに幸が多いことを祈らずにはいられない。
 
 話を蟻に戻すと、働き蟻の2割は働いているふりしてウロウロ動き回っているだけなので、それを取り去って残りの8割の働き蟻だけをグループにすると、またその2割が働かなくなるという話を聞いたことがある。蟻のコロニーには必ずこの2割が存在しているそうだが、研究者によると「働かないことでコロニーになんらかの貢献をしている可能性もある」と指摘している。蟻の世界に限らず、会社や団体の組織でもそういう人は確かに存在する。やることもやらずにえらそうな顔をして、責任逃れや主張や文句ばっかり言っている人。蟻は可愛げなところもあるが、人間に限ってはお付き合いも遠慮したいところだ。

 こればかりではないが、自然界に起きていることで、無駄に思えることでも必ずなんらかの意味や必然があることが多いのだ。それを理解していないわれわれの考えや行動は、往々にして人間本位で表面的で浅はかなものであることが多い。2割の蟻のように、荘子の説く「無用の用」の故事にあやかりたいものだ。

(チコちゃん:NHKの人気番組に出てくる着ぐるみの5才の女の子。知識、教養のない大人に向かって「ボーッと生きてんじゃねーよー」と叱る)

ドナルド・キーン            小林 康昭

 5月24日、ドナルド・キーンの逝去が報じられた。享年、96歳。アメリカ合衆国出身の日本学者である。1922年6月ニューヨーク市ブルックリン区に生まれた。1938年に飛び級でコロンビア大学文学部に入学、研究者が少ない理由から日本研究を選んだ。1941年12月、対日開戦に伴い、海軍日本語学校で日本語教育の訓練をうけたのち、戦線で通訳官を勤めた。キスカ島や沖縄攻略の戦場では通訳、交信傍受と英訳、遺棄された書類や私物の解読に従事した。戦死した日本軍兵士や捕虜が遺棄した日記のなかに「故郷に帰りたい」との文字を見つけて、敵国日本人の葛藤する心が分かったそうである。1945年3月10日の東京大空襲の翌朝、家を焼かれ家族を失った人々が上野駅頭で整然と疎開列車を待つ姿を見て「私はこの人々と生きこの人々と共に死にたい」との若い作家の文章に、深い感銘を受けたとも述べている。
 戦後、コロンビア大学に復学、1955年コロンビア大学助教授。教授を経て1992年名誉教授。2011年9月1日に来日し日本国籍を修得した。遺した著作は、日本語が30点、英語が25点。万葉集、近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など、古典から現代文学まで研究対象は広く、英語圏への日本文化の紹介に貢献した。ノーベル文学賞の日本人文学者の選考にあたって参考意見を求められたことが明らかになっている。1993年勲二等旭日重光章、2002年文化功労者、2008年文化勲章、2019年従三位。
*  *  *
 エドワード・ジョージ・サイデンステッカーも日本文学作品の翻訳を通して、日本文化を広く紹介した日本学者のアメリカ人。1921年2月コロラド州キャッスルロックの農家に生まれた。コロラド大学で経済学と英文学を学び、海軍日本語学校で日本語を学んだ後、硫黄島作戦に参加、没収した日本軍の書類の解読・翻訳にあたった。戦後は佐世保で占領政策に従事。
1946年コロンビア大学で「近衛文麿日記」をテーマに修士号を取得した。イェール、ハーヴァード両大学で日本語の習得を続け、1948年に再来日してGHQ勤務後、1950年から5年間、東京大学で日本文学を学んだ後、上智大学で教鞭をとり、翻訳家として活動する。1964年スタンフォード大学教授、1966年ミシガン大学極東言語・文学部教授、1977年コロンビア大学教授、1986年コロンビア大学名誉教授。
 谷崎、川端、三島らの日本文学作品を英訳し源氏物語の英語完訳を行った。「雪国」などの英訳で川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献した。川端は訳者のサイデンスデッカーの貢献が大きいとして授賞式に同伴し、賞金の半分を渡している。彼もノーベル賞選考委員から日本人文学者について参考意見を求められていたことが明らかにされている。2006年永住を決意して東京湯島に居を定め、2007年4月散歩中に転倒して意識を失って入院し、8月26日に逝去した。享年、86歳。
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 もう一人、エドウィン・オールドファザー・ライシャワー。宣教師の息子として1910年10月、東京芝白金台町の明治学院の宣教師宅で生まれる。1927年アメリカに転居し、オバーリン(桜美林)大学、ハーバード大学大学院を経て、1933年パリの現代東洋語学校で日本語と中国語を学んだ。1935年東京帝国大学の外国人特別研究生、その後、京都帝国大学の特別研究生となる。1937年北京の燕京大学で研究活動を行う傍ら中国文化院で中国語を学ぶ。1938年ハーヴァード大学の日本語・中国語講師、1939年に博士号を授与される。1942年対日開戦後、陸軍の依頼で日本語の翻訳と暗号解読の学校設立にあたる。1943年陸軍少佐として対日情報戦に、戦後は国務省で戦後処理の政策立案に従事した。
 1946年ハーバード大学に復職し、1958年にノーベル文学賞候補に谷崎潤一郎を推薦していた。1961年4月駐日アメリカ大使。1966年7月大使を辞してハーバード大学に復職した。1974年の佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に際し佐藤の受賞の推薦文を記述した。定年までハーヴァード大学で研究活動を続け、日本駐在中に受けた輸血がもとで肝炎に罹り、晩年は、その後遺症に悩んだ。入院生活中、延命治療を拒否して1990年9月1日、自らの意志で人生の幕を閉じた。享年、79歳。
*  *  *
 この三人が関わった日本語学校について述べたいが、その前に触れておきたいことがある。
 それは「日本は恥の文化である」と喝破した『菊と刀』のことだ。アメリカ文化人類学史上初の日本文化論である。著者は文化人類学者のアメリカ人女性、ルース・ベネディクト。大戦下の戦時情報局で日本班主任を勤めた際にまとめた報告書をもとに執筆して、終戦直後の1946年に上梓した。今もアメリカ、日本、中国では特異な日本論として、ロングセラーとなっている。
 この日本班の仕事も日本語学校の企ても、アメリカの対日戦略の延長上にあった。日本を叩きのめしたうえで、二度とアメリカに歯向かわないようにしようとの魂胆。勝っただけでは駄目、恨んだり復讐心を持たないように。そのためには、日本人の文化や民族性を熟知する。対日開戦が迫ってアメリカ政府は、情報局で学者に文化人類学的に体系化した調査研究を命じ、全国から選りすぐった飛びきりの英才を日本語学校で学ばせたのである。彼らは3か月で日本語を喋り、6か月で漢字を読んだそうだ。
 戦後、各地に散った彼ら英才は、その体験を秘して語ることはしなかった。だが、年に一度、全国から集まって日本語で旧交を温めた。その場は、日本語以外の会話は厳禁である。やがて恋人、許嫁、夫人、そして娘が加わった。その時はじめて接する夫や父親の素顔に、彼女たちはビックリ仰天して、言葉を失い、顔色を変えたそうだ。事情を知って尊敬したことだろう。
 上記の三人は、日本語をライフ・ワークとした。日本を絶対に歯向かわないようにてなづけるアメリカの戦略は、吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘、安倍晋三の系譜を見る限り、成功したように見える。アメリカが異文化の日本に対して成功する位だから、日本が同類の文化の国々に対して出来ない筈はない。例えば、対韓国、朝鮮、中国。今、日本が彼の国々から、折に触れて恨まれたりして手古摺っている所以は、アメリカのような、恨まれないようにてなづける戦略が、日本にはないからだ。
 ところで、不祥事を起こした若者や学生を咎めてはならない。唯一言「オマエには、期待してたんだがなぁ・・・」
 この一言が、彼らを刺激するんだヨ。恥の文化は、今も健在なのだナ、この日本ではネ。

       【2019年4月20日定例作品】

令和の時代は女性が拓くか        照山 忠利  

 練馬稲門会はいま、女性会員を増やそうと努力している。昨年度の数字で見ると、女性会員(ファミリーも含む)は106名で会員総数505名に対する割合は21%となっている。各種イベントへの参加率でみても女性は24%だ。この数字をどう思うか、人それぞれだろうが、私からすれば「そんなものだろうな」というところか。私が大学に入った昭和41(1966)年、政治学科の語学クラス60名のうち女性はたった1人だけだった。私の世代より前の方々も大同小異だったはずである。
 さてこの5月から改元が行われ、時代は新しく「令和」となる。過ぎ去ろうとしている平成の時代はその年号とは裏腹に、戦争こそなかったものの大きな災害が多発し決して「平らかに成る」ものではなかった。経済的な側面を見ると、平成の始まりとともにバブルがはじけ、先進国では最大規模の株式・不動産の暴落と銀行システムの破綻が起こった。以降の日本経済の低迷ぶりは目を覆いたくなるほどの惨状を呈してきた。90年以前の30年間は1人当たりのGDP伸び率が先進6か国中でトップだったものが、90年以降の30年間では5位に甘んじ下にはイタリアしかいなくなった。なぜこうなってしまったのか。元英エコノミスト誌編集長のビル・エモット氏によると日本経済の担い手たち、すなわち「霞が関や自民党、大企業や経団連」が事態の深刻さを認めたがらなかったことにあると指摘している。外国人の目から見て70年代に起こった2度の経済ショック(71年ニクソンショックによる円の急騰、73年の第1次石油危機)における見事な対応にくらべ、90年代の当事者の対応は極めて拙劣だったのだとか。よく失われた20年といわれるが、実は「防げたはずの嘆かわしい20年」だったというのである。
 今後も少子高齢化で生産年齢人口の割合が減少し、これが医療費と公的年金に要する政府支出を増加させて経済運営は困難さを増すとみられている。また平成の始まった時の正規雇用労働者は80%を占めていたが、現在はそれが60%に低下しパートや短期の非正規が40%となっている。所得も年金給付も少なくなり消費が振るわない所以である。
 時代が「令和」となっても明るい展望は見通しにくいが、唯一の希望は女性の4年制大学への進学率が大幅に高まったことにあるとエモット氏はいう。80年代には12~15%程度だった女性の4年制大学進学率(男子は34~40%)が突如として上昇し、現在では50%となって男女差は数%に縮小している。日本は先進国の中で政界や実業界などへの女性の社会進出が大きく遅れていると酷評されている。それは80年代以前の大学進学率の男女差が反映されているからだとみることもできる。今後は00年以降に大学を卒業した女性が40~50代に入るので、重要な地位に就く女性が増加するはずである。平成の日本を動かしたのは概ね男性だったが、新時代の担い手の多くは女性となるのではないかと期待されている。
 早稲田の女子学生比率は38%程度で上昇傾向にあると聞く。練馬稲門会の女性会員獲得の努力もこの先少しは楽になるかもしれない。
(了) 

藤丸さん                横山 明美

 そもそもはお隣の増築時、塀越しにしばしば聞こえてきたその人の弾けるような大声と饒舌な語り口がきっかけだった。我が家もやがて子供が成長して部屋を増やすことになり、建材会社の役員の家が頼む大工さんなら腕は確かだろう、と紹介してもらったのである。それからもう40年の付き合いになる。
 その人、大工の藤丸さんは当時40そこそこだったろうか、勢いもありいい職人仲間もいて、出たり入ったりのその人たちと言葉を交わすのは初めて知る世界でなんとも楽しかった。また藤丸さんは玄関脇の本棚にあった「建具大全」などという本を見つけると貸してもらえないか、と言う。研究熱心なことこの上ない。
 それからもちょくちょく手入れを頼むようになったが、ここはこうしたらどうでしょう、という工夫や知恵が楽しく頼もしくて、もともと古家を直し直しの家だから付き合いは古い友人のようになっていった。藤丸さんが諏訪から集団就職で上京したことは聞いていたが、社会のさまざまな問題にきっぱりとした見識を持つ勉強家なので、つい三時のお茶の時間も長引くことになる。いかにも議論好きな信州人気質という一面があるのだ。子供の本に「大工は建築士の言うことを聞いて働き…」なんて書いてあったので「わたしゃ教育委員会に乗り込んでいったんですよ、大工は子分じゃねえですよ、書き換えろ、って」などと吠えまくる熱く過激な人でもある。
 藤丸さんは飲めないせいか甘いものには目がない。お茶よりは珈琲で、スプーンにたっぷり二、三杯の砂糖を入れおいしそうにズズーッとスプーンを入れたまま啜る。そしてこちらが何度か勧めてやっと「いや、どうもすいません、じゃご馳走になります」とお菓子を頬張る顔つきがまたいいのだ。色白で目鼻立ちのはっきりした顔立ちなのだがそこに風雪に耐えてきた重みが加わり、そんな顔が一瞬やんわりとなる。
娘が思いもかけず小児がんを患い動転していたある晩、藤丸さんは突然奥さんとともに玄関に現れた。奥さんはいつも電話の声から、しおらしく関白亭主に従い家族のために日々くるくる働く人なんだろうと想像していたその通りの人だった。ガラスケース入りの日本人形を神妙な顔で差し出された。二人で考えた末の品なのだ、と胸が熱くなった。二組の夫婦で静かに大きなスイカの一切れずつを食べた。外には夏の月がかかっていた。
 藤丸さんの姿はその後この路地のあちこちで見られるようになった。住人も家も藤丸さんも共に歳をとっていくので、小さな直し仕事が増えていくのである。やがて大学を出ても仕事に就かなかった息子が手伝うようになったが、藤丸さんの息子へのどやし声の大きさは半端ではなく、次第に指導というより時に狂気の沙汰とも思えるほどで、藤丸さんにも人知れぬ悩みなどもあるのだろうかと思うばかりだった。もうだいぶ老いていた。
 週末に身内の持つワンルームマンションで過ごすことがある。大規模修繕で外した網戸を八階から下の絶壁が怖くてどうしてもはめられず、こんな時すがるのは藤丸さんである。息子藤丸の若さは流石で一瞬で作業は終えとても助かった。甘い珈琲をたっぷり飲んでもらい、心ばかりのお礼を渡すと「まさか100万円入っちゃいないでしょうね、それじゃあ受け取るわけにはいかねえんで」と藤丸さんいたずらっぽく笑うから「雀の涙ですよ」と押し付けるようにして帰ってもらった。もう藤丸さんに仕事を頼むことは滅多にはないだろう、とふと思った。娘と同居のため家を建て替えていたからである。
 後日小包が届いた。先日の一件について一言添えてあり、瀬戸内寂聴の言葉がちりばめられた日めくり暦が鳩居堂の包装紙に包まれていた。これもまた藤丸さんらしいと感じ入ったことである。「大工の仕事ってえのが面白くて好きなんですよ」という藤丸さん。そんな藤丸さんが楽しくて面白くて私は好きなんですよ。

虹の想い出               鳥谷 靖子

 平成二十六年の初夏は梅雨開けが遅く、長雨が続いた七月の中旬の夕方五時過ぎだった。買い物に行こうと、外に出てみると、雨は止み薄日が差している。空を見上げると、東の空一面にくっきり色鮮やかなアーチ状の虹。「早く外に出てきて、虹よ!」と夫に声をかけ、しばらく二人で見ていたものの、あまりの美しさに皆に知らせようと、歩いて数分の友人や、息子に「虹が出てるよ」と夫と知らせに行った。土曜日で、道には思い思いに虹を見上げる人達を見かけた。この虹は一時間近く架かっていた。「虹は幸運の証しだそうよ、こんな凄い虹は初めてだし、貴方の病気治るかもしれないよ」彼もそう感じたのか、ずっと外で虹を眺めていた。夫はデジカメで良い虹の写真も撮影。
「今日は縁起がいいから御馳走を作るわね」近くのスーパーで買い物をし、いつもより豪華な夕食を作り、その夜は久しぶりに心穏やかに夜が過ごせた。
 三か月前の四月初めから膵臓を患っていた夫は、数カ所の治療の出来る大学病院を転院し、抗癌治療中であった。本人は落ち込んでいる様子はなかったものの、医師からは希望的な所見は全く聞く事が出来なかった。
 子供達は独立し忙しく、側面からの援助しか期待できない。毎晩ネットで同じ病気の方々のブログなどを読み、残された時間をどう過ごしたらいいのか考えた。夏休に家族全員で谷川岳周辺の温泉に家族旅行からスタートに、抗癌治療の間の調子の良い時には、彼の喜びそうな所に家族に参加してもらいながら外出、一年後の五月中旬に皆で浦和にウナギを食べに出かけた数日後、病状が悪化二週間後、救世軍のホスピスで天に旅立った。
 見合いで淡々とした始まりの結婚で、性格も“陰と陽”だったが、お互いを大切に思いながらの日々。半世紀近く共に過ごした相手との別れは、空気の一部が欠けて精神的酸欠になっている状態の毎日。鬱気味状態で閉じこもっていると、体力も気力も衰えてきた。秋風が吹き始めた十月、リビングをリホームし、気分を一新“娘、妻、母でもない新しい第四の人生を歩こう”と決心した。
それから以前から存在は知っていた練馬稲門会に入会した。
 約二年がすぎ、月一回のフォークソングの部会に出席した帰宅途中、練馬春日町の駅から外にでてみると、人混みが出来ていた。見上げると環状八号線の遥か向う側の空に架かる大きな虹。色は薄いものの虹のうえにもう一つあり、見ている若い女性に「虹が二重になっていますか?」と声をかけると「二重にありますよ」という返事。壮大な二重の虹を見ていたら、虹の上から、夫が「もう大丈夫かい?頑張ってるじゃないか」」と言っているようだった。
 病気を知った後に、夫が「君がこちらの世界に来る時は、君のお母さん誘って迎えに行くよ」とポツリと言ったのを思い出した。「まだこの世が名残惜しいから、お迎えは遠慮しとく」と伝えたい。この時の虹は、数十分で色が薄れ始め、何もなかったように消え去った。この儚さは人の運命とも重なるが、数年に一度しか現れない虹に出逢ったら、立ち止まり空を見上げよう。希望や夢までも届けてくれるのだから。

2月16日エッセイ同好会の日       加藤 厚夫

 懇親会の帰りに馴染みのスナックに顔を出した。先客は中高年の男女一組だけで、話に夢中なので少し離れてカウンターについた。しばらくすると何となく会話の交流が始まり、打ち解けてきた。そこで今日はこんな集りの帰りですよというと関心を示してくれたので、持っていたエッセイを手渡した。薄暗い灯りにもかかわらず熱心に読んでくれ、女性のほうは過去のものも3枚読んでうなずいている。
 カラオケが始まると、向こうはもっぱらデユエットで、こちらは正月に覚えたてのサザンやハウンドドッグで調子を狂わせた。お互い10曲づつも唄ったのか、終電の時刻になったらしい。二人が出ていく際に握手を交わした。しばらくすると彼女がまた店に戻ってきた。啞然とするなかすぐ隣に座ってくれたので、とても気さくで明るい感じの女性だなと再認識した。こちらは酔ってきて気分も乗り、女性好みの歌でもと椎名恵を選んだ。歌の中盤に入ると彼女は突然横を向いてしまい、ハンカチで目頭を押さえはじめた。するとママもなぜか涙目で両手を差しのべ彼女をなだめている。はて自分の歌がこんなに人を感動させるのかとよろこんだが、そうではなかった。歌い終えると彼女はエッセイのある部分を引き合いに「ガンを経験されたのですね」とポツリと言う。そして涙をにじませて告白を始めたのだ。「実はわたし乳癌で6ヵ月前に左乳房を切除しました。これで大丈夫と先生に言われ最近やっと心が落ち着いてきたところ、腰の骨に2ケ所転移が見つかったのです。先生からいまの薬は効果が出ていないと言われてしまいました。いまも腰に痛みがあり、あと何年生きられるかわかりません。私がいなくなったら幼い孫がかわいそうで辛くて」。返す言葉もなくこみ上げてくる来るのをグッと抑え、ただうなずくしかなかった。
 それにしてもなんという曲を選んでしまったのか。「Please don’t cry」という典型的な人生の応援歌ではないか。‘どうかもう嘆かないで‘とでも訳すのか。その歌詞たるや「人は変われるものよ、 夢を見れるものよ、 大きく息を吸ってごらん、 泣いてばかりいないで歩き出してごらん、 みんな迷いながら明日を探してい~るうよ」。先が見えぬ彼女の心に場違いの文句がどう胸に刺さったのか、しかしすぐ笑顔に戻ってくれてホッとした。
 しばらくしてその場の雰囲気を和らげようと明るい歌の橋幸夫の「CHE CHE CHE」を唄った。「忘れちゃいなアと風が吹く あきらめちゃいなアと雪が降る」この少々やけっぱちな文句がいまの気分に合ったのか彼女は「とても陽気でいい曲ですね」と喜んでくれた。しかしこんな辛い話を聞かされると他人事とは思えず、残された日々をなんとか楽しませてあげたいという気にもなる。「どこか行きたいところでもあるの」「いちど広島に行ってみたいですね」「そう自分は三年も居て詳しいからいつでもご案内しますよ。シングル二部屋取ってね」など勝手なことをほざきつつ会話が弾んだ。そして丑三つ時になった。
 帰り際に彼女はスッキリした顔でまた握手をしてくれて帰っていった。こんなにむごい話があっていいものかとママに言うと、彼女まだ60才だという。その後しばらくひとり飲み続けたが酔いが回らず10曲あまり歌い店を出た。次にここで再会したとき広島行きが具体化するのか、いやひょっとするともう、と思えてきてふと足が止まった。

倭の馬                 田原 亞彦

 2000年頃、奈良の「箸墓」から4世紀初めとされる木製馬具が出土した。乗馬習慣は4世紀後半から5世紀に半島からとの通説を50年以上さかのぼる可能性が出てきた。3世紀の「魏志倭人伝」によれば、倭には牛馬は見当たらない言われる。縄文遺跡から出土する牛馬の骨は後世の混入の可能性が強いとされている。
 1998年頃、長野の伊那谷の宮垣戸遺跡から5世紀末推定の馬の全身骨格が出土した。これは、カルシウムを溶かす酸性土壌の日本では珍しく、大阪の日下遺跡(5世紀)、武田氏館(16世紀)など数例しかない。蒙古系の中型馬で木曽馬の租種らしい。日本書記には馬の記述が多くあり、百済王が応神天皇に良馬2頭を献じ、1000年後、欽明が逆に百済に馬を送ったとある。律令の細則を定めた10世紀の「延喜式」には、信濃には16の「牧」があり年80頭の最大貢馬国と記されている。馬の骨、歯の出土は全国の25%を占めており。古代の馬の牧場であった。江戸期には伊那谷は「中馬」と言われる馬輸送の中継地で、今でも馬肉食文化があるらしい。
 日本書記にある「河内の馬飼い」の記述の痕跡が2002年ごろ四条畷市の「蔀屋北遺跡」など三遺跡で見つかった。古代の大阪湾は生駒山近くまで海水が入り込んでいて河内湖を形成していたその東岸である。馬の骨、歯や「牧」の痕跡、製塩土器、馬の祭祀遺跡などである。渡来人による馬と乗馬の風習伝来には、4世紀末頃から騎馬民族系の高句麗人が南下して百済、伽耶が抵抗した半島情勢が背景にあるとされる。継体紀元年(507年)正月条に「河内馬飼首荒籠オビトアラコ」の人物名が見られる。
 東大教授の江上波夫氏が1967年ごろ、日本の騎馬民族国家説をを唱えた。東北アジアの騎馬民族が南部朝鮮を支配し、任那を基地として北九州に進入し、更に近畿に進出して大和朝廷を樹立し統一国家となったとする説である。反論者としては国立博物館の佐原真氏などがいる。日本、日本人にはその風習などの痕跡が無いなどが論拠である。
 家畜の飼育には去勢が必要だが、日本に技術が入ったのは1720年代の吉宗将軍によるオランダからの洋馬の導入時からである。去勢は俊足などの人に好ましい品種改良に必須であり、明治34年に「馬匹去勢法」を設定し、明治39年に内閣馬政局を設置、昭和14年に「種馬統制法」と軍馬などを育成した。その過程で蒙古系の在来種(小・中型馬)が衰退していった。現在は8種類で約2千頭にすぎない在来馬が保護されている。最大は道産子馬1100頭、木曽馬、宮崎の御崎馬、対馬の対州馬、愛媛の野間馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬である。
話は飛びますが、数年前に訪れた下北半島の北端で、集団で1時間近く道路封鎖したなんとも愛らしい瞳が印象的な寒立馬は南部馬と外来種の混血でした。

平成三十一年四月            小林 康昭

“平成の十日残して春の月 荒礁”
 新元号が事前公表という前代未聞の事態に、四月一日の前から日本中は大騒ぎでした。当日は、全国民がパニック状態。涙ぐむ人がテレビの映像に映し出されたりして。国中が陥ってしまう危うさと怖ろしさのこの国民性は、先の大東亜戦争で実証されていますね。開戦日の朝、日本中が歓喜したそうです。とにかく、騒ぎ過ぎですよ、この状態は。
 早速、色んな感想や蘊蓄が飛び交っていますね。これからも続きますよ、きっと。
 出典が万葉集だから素晴らしい、イヤ、中国の文選にあった(のだから、国書が出典とは、間違いだ)、万葉集は戦意高揚に利用された(から、褒められたことじゃない)、「令」は命令を意味するからイメージが悪い、とか・・・。
 これってすべて雑音ですね。その雑音のもっともらしさを、単純に信じ込んじまう輩が多いから、困るんですよ。
*  *  *
 中学の時、担任の先生が全員に、自分の名前のいわれを言わせたことがあります。女生徒が「母親が親友の名前から採った晶子」と答えました。先生が「あぁ、与謝野晶子の晶子ね」と言うと、毅然として「イエ、違います。一番親しかったお友達の名前を貰った、と母が言ってました!」先生は黙ってしまいました。そうなんですよ、何を差し置いても、引用したモノが出典なんですね。提案者が「万葉集」と言ってるのだから、令和の出典は万葉集なんですよ。
 万葉集に戦意高揚に利用された責任はありませんね。何によらず良いものは良い、と評価すべきです。戦争に勝ちたい感情は当たり前です。戦勝なら称賛、敗戦なら誹謗、とはお門違いです。令が「命令」、英語のOrderと誤解する輩がいます。命令とは「令を命じること」です。命にOrderの意味があるわけです。白川静博士の著作では、命は口と令から成り、令を口に出して伝えることだそうです。令とは、命を承って低頭している人の姿です。慎ましいその姿が美しい。視覚的な美に留まらない敬意が込められています。それは美よりも味わいが深い、令夫人、令嬢、令息のように。
*  *  *
 四月一日に先立つ三月二十九日、平成に代わる新元号の選定手続きを政府が正式に決定しました。同じ日に総理大臣が皇居に天皇を、東宮御所に皇太子を訪れて、四月一日の日程を伝えました。四月一日は、有識者による元号に関する懇談会、衆参正副議長から意見聴取、全閣僚会議を経て、新元号を記した政令を閣議決定後、記者会見で官房長官が新元号を発表し、続いて総理大臣が新元号に込められた意義やメッセージを発表しました。
 この手続きを巡って、対立する主張が報じられました。新天皇による公布を、との主張です。政府はこの主張を認めず、新元号を記した政令に現天皇が署名押印して公布しました。憲法学者は、天皇が国政に関する機能を有しない、元号は内閣が政令で定めると元号法が規定している、天皇が公布する政令は天皇が内閣の助言と承認のもとで行う国事行為であり天皇の承認を意味してはいない、政府は政令に定めて行動している、として、政府の手続きを支持しました。
 でも、対立する主張の根拠は、そもそも、そのような手続きでよいのか、もっと遡れば、元号法の立法もそれでよいのか、という根本的な問題なんですね。元号の改定や公布は、憲法上の天皇のどの国事行為よりも社会的時代的な存在感は大きいのですよ。そうなると、元号の公布は天皇の国事行為として、憲法に記すべきなんですね。
 元号の公布を天皇自身にさせることは政治的な行為になる(からいけない)という主張は、政令を正当化しようとするタメにする主張ですね。だって、国会の解散や招集、開会式のお言葉などの国事行為の方が政治的ですよ。天皇にさせないで、色紙を掲げる官房長官の姿を新時代のイメージに残す・・・、そこまでして、建前に固執するんですかね。
 それに「退位したい」って私情を吐露した天皇の発言だって、政治的な影響があるわけですよ。これを政治的な発言にしてはならない、となると、政府は無視するのが筋でしたね。でもそうしたら、全国民から囂々たる非難を浴びて、政権は袋叩きになったでしょう。だから、政府は天皇の私情吐露に対して、政治的な判断をしたんですよ。その結果、天皇の私情吐露は政治的な発言になっちゃったんです。つまり、憲法の定めと現実の間には、齟齬と矛盾と乖離があるんですね。この類は再発しますよ、必ず。繰返すことがないように総括して整理すべきですが、動きがありませんね。
*  *  *
 天皇の地位は国民の総意による、となっています。国民の総意は国民投票。次に近いのは国会。政府はそれより遠くにあります。それなのに「天皇に関して判断し決定するのは国会、政府ではない」という論調が出てきませんね。
 天皇の存在は、国の機関の一つです。だから、天皇に関する手続きを如何に工夫しても、政治的な影響が出ますね、必ず。政治的な影響を無くそうとするならば、天皇の制度上の存在を小さくすることです。天皇は業務過剰が高齢の身に耐えられないと言われました。法律や政令を公布するには、当日中にそのすべてに署名押印が必要だそうです。それを遅らせると公布も遅れ政治に影響が出る。心理的な負担は大変なものです。それなら、国事行為を見直して、天皇の過重労働?をなくそう。そうしたら、気が代わって退位しないかも・・・って、誰も考えなかったのでしょうかね。
 天皇の誕生日に官庁が休み、天皇が替わると元号が替わります。憲法の建前に拘って、天皇の政治的な影響を排除するなら、天皇誕生日や元号はあり得ませんね。憲法の建前に拘るのか、国民の総意を確かめるのか、考えるべきですよ。
 憲法は不磨の大典ではありません。憲法改定の煩わしさから逃げて、そのシガラミで迷うなんて本末転倒です。憲法改定は、戦争放棄の是非だけにあるのではありませんよ。日本人は賢い国民なんだ、って思っているんですけどね。 

四季の記憶56「リンゴの礼拝堂」    鈴木 奎三郎   

 この4月の誕生日でめでたく?喜寿を迎えた。先日、パスポートを引っ張り出して期限を調べたところ、今月末で切れることが分かった。急ぎ有楽町のパスポートセンターで手続きをして事なきを得たが、果たしてこれから先海外に行くことはあるのだろうか。
 これまで海外に行ったのは40数回。すべてが社用である。定年後の数回は主にアジア、ハワイで、最後に行ったのは2013年の上海万博だ。勤務していた会社がこのスポンサーの一社であり上海の子会社から招待されたものだ。現役の頃の海外出張は、後年は役得でファーストクラスを使えたりしたが、このトシになってエコノミークラスでの欧米路線の十数時間はいかにも耐えがたく、また行かなければならない用件もない。

 先日、T・ウッズの復活優勝で盛り上がったマスターズ・トーナメント。TBSの番組提供社として、エージェントのご招待で1992年に行くことができた。F・カプルスが優勝した時で、オーガスタの民宿に2泊した。NYからアトランタまで空路、空港からコースまでは車で2時間。アメリカ南部の静かな美しい田舎である。翌月曜日の夕刻、NYに戻り、そこから今はもう飛んでいないコンコルドでパリに入った。これは同行したトップがパリで夕刻から会食があり、これでないと間に合わないことが分かったからだ。周りからはあんたが乗りたかったからじゃないの・・とやっかみ半分からかわれた。

 しかしもう一度訪れてみたいと思うのは、フランス北部、カーンから30キロほど、パリから車で2時間半のところにあるノルマンデイーのサン・ビゴール・ドミューという寒村にある小さな礼拝堂だ。リンゴの木に囲まれた60坪ほどの小さな礼拝堂は、16世紀後半に建てられたが、司祭が去り打ち捨てられたままになっていた。天啓を受けたかのようにその礼拝堂の修復と再生を目指したのは、美術家の田窪恭治さんであった。田窪は1998年、家族を連れてここに移り住み資金難や周囲との軋轢に苦しみながら細々と作業を続けていた。
 ある時フジテレビの鹿内春雄さんを通して、当時企業メセナ協議会の理事長をしていた福原義春さん(当時資生堂社長)を訪ねて協力を依頼してきた。

当時秘書役をしていたぼくは、福原さんからこれは国際メセナ(芸術などへの文化支援)にもなることなのでぜひ支援してあげなければ・・ということで、資金作りの仕組みと体制を作るよう命じられた。 
 これまでいろいろな仕事をしてきたが、一番やっかいで辛いのは見返りが期待できない協賛、協力の類の依頼である。しかし、時あたかもバブル経済の終盤の頃である。一日2社を目標に依頼に廻った約100社は、金もうけだけでなくたまには文化的な支援もしなければ・・という時流もあり、苦労の末になんとか1年間で2億円の寄付を集めることができた。さらにこのプロジェクトは経団連海外事業委員会のお墨付きも得て免税措置がとられ、のちに国際メセナの嚆矢と評された。  

 そんな縁で、前後してここを4,5回は訪れたであろうか。1996年初夏、リンゴの絵がモチーフとなった礼拝堂の完成を祝うささやかなパーティが開かれた。200人ほどの村の人たちも加わった。ちょうどスペインの演奏旅行に行っていた女性室内楽の旧知の「東京ゾリステン」の演奏会も礼拝堂で行われ、当夜に華を添えた。リンゴを原料としたカルバドス酒で有名な当地、白い花が盛りの頃だった。吾が故郷の長野でもそろそろ白いリンゴの花が咲く頃であろうか。

       【2019年2月16日定例作品】

昭和の幸せ               横山 明美  

 平成は「平らかに成る」との願いが込められた元号だったという。本当にそうだったかしらと思い返して浮かぶのは、連れ合いの一族が暮らす阪神の大震災であり、父の故郷も巻き込まれた東日本の大津波や原発事故、ニュースを見るのも痛ましい各地の災害のかずかず、そして経済成長の終わりと人々の心の多少の変節だったかという気がする。また父母や親しい何人もの人を次々見送る30年でもあった。我が家などその間ずんずん平成風に成育した子との立場が逆転し、日々厳しい目で見られることしきりだが、いやおうなく自分が歳をとって老人になった時代でもあったのだ。
 やたらと昭和が懐かしい。姉二人ともが本来の心映えを失いかけている現在の状況も私の懐旧の情を増している。父の知り合い、近所の誰彼や私の友人の母親、姉たちの友達まで家にはいつも人の出入りがあり、その人たちを通じて父や母が何を考えどんな人間なのかをなんとなく知ることができた。父の会社の社員が茨城の海で女性と心中しても、中華料理屋の台湾出身の主人が麻薬で捕まったときも、私は小説みたいだとわくわくしたが、父はいつもと変わらぬ顔をしてその家族のためにことを処理していた。当時幼稚園もやっていた街の名刹の大黒さんが有為の青年たちを集めよく面倒をみていた。県下で知られた老インテリ夫人だったのである。大志を抱いてブラジルに移住した青年もいれば、T大を出て防衛庁に入った冷静な笑顔の怖い人、詩を書き続けていた文学青年、うちの大きなシェパード犬の散歩を引き受けてくれていたアメリカナイズされたお兄さん、とメンバーはさまざま。年上の男性をいろいろ見聞できてのちのちためになったかもしれない。その寺の息子が姉と中学の同窓だったこともあり、その青年たちの会合は時折我が家で開かれることにもなった。タイプの違う二人の姉はそれぞれ大いにもて上の姉はその中の一人と結婚したのだが、新年会のときなど父と私は裏方に徹し、それはなんだかとても楽しかった。四五人の楽団まで入ったのは驚きだったが、件の台湾の御仁がそのころは立ち直っていてどこかから連れてきたのである。豚足というものをその時初めて食べた。 
 初詣に父は必ず和服にインバネスを羽織って娘たちについてきた。見上げるようなそのマント姿は父の家庭や社会での立場そのものであり、時代を纏っているようにさえ思われた。周りから“アプレ”などと言われていた下の姉は毎年初日の出に必ず両手を合わせる人だったが、今思えば「早くこの街この家から出ていきたい」と願っていたのに違いなかった。
 春になって近在から大きな籠を背負った行商のおばさんが草餅を売りに来ると、私は母と玄関先に飛び出して行き、日によっては残り全部を置いていってもらうこともあった。平たく丸い草餅にはどっちりしたあんこより黄な粉をまぶす方がおいしい。その深く濃いヨモギの匂いは昭和の正直でまっとうな匂いであり今でも鼻先に蘇る。
 夏に客があると、母はパナマの座布団をすすめ、団扇を相手に向かってゆらゆらと左右に揺らしながらのんびりと話をしていた。その雰囲気・・・昭和の時代はもしかすると、暑さに顔をゆがめるようなことはなかったのではないかとさえ思われる。
 祭りのころになると一軒向こうのKさんのおばさんが、白い割烹着で覆うようにして大皿に盛ったちらし寿司をもってくる。別の機会に母の味もあちらへ届けるのだが、向こうの家族もまたどちらがおいしいとか具材がいまいちとか、わいわい話していたのに違いない。隣の家はダックスフントによく似たおばさんで、冬には目をしばたたかせながら毛皮のロングコートを着て保険の外交にとびまわっていた。昭和には珍しいニートの息子がいて、回覧板を持って行っても昼間から日の当たる部屋でごろごろして居るという二人所帯だったが、そんななかおばさんは競輪にはまってしまい、やがてどこかへ引っ越していった。
 
 平成は情より合理性の時代とつい括ってしまいたくなるが、今の若い人ものちのち振り返って、あの30年はなかなかいい時代だったと思うことがあるのだろうか。友人の一人が孫まで持ってしまってよかったのかしら、とつぶやいている。次の時代が、思い出したくなるような日々の始まりだと本当にうれしいのだが。
  
                                       

となり人                鳥谷 靖子

 秋から冬に向けて枯葉舞う季節は気分が沈む。そんな日の夕刻玄関のチャイムが鳴った。急いで玄関に向かうと隣の奥様だ。彼女はいつも元気で明るい。「畑で採れた人参で作ったの、食べてみて」と青々した人参の葉の揚げ物を頂戴する。夕食には早いが味見すると、人参の葉の香りと干しエビの味に何だか気分まで明るくなった。
 四十年以上前、春日町に越してきた時、北側は空き家で南側は趣のある家だった。ご主人は大学教授との事で、たまに見かけると長身で、メガネをかけ黒い鞄を抱え学者然と歩いていた。
 歳月が去り、奥様が癌で先立たれ、七十半ばなり大学をリタイヤされたご主人と接する機会が多くなった。時々着物姿で見かけると威厳さえ感じた。夫が「昔、先生の炭素の研究はその分野で有名な方だよ。」主人と仕事上の繋がりもあり、お茶に招待されるようになった。そんな時、「食事の支度は大変でしょう?」と聞くと「私は海軍にいたので、食事は自分で何でも作れます。」と余裕の笑みを浮かべる。昔広島の江田島の海軍兵学校を卒業、海軍大尉になり戦艦大和にも乗船した時の話を、楽しそうに話してくれた。先生が八十過ぎたある初冬の午後、「お茶を飲みましょう」とお誘いがあり、お宅に伺うと一通の手紙を私達に見せてくれた。それはしっかりとした手書きの英文で書かれていた。昔アメリカのバッファロウの研究所に、先生を招聘した恩師モロゾフスキー教授には子供もなく、夫人に先立たれ一人、立派に生きている様子が伝わる文面だった。「最近は歩く事も大変になり、昼間はメキシコ人のメイドが、食事の世話や雑用に来るが、夜は一人、這ってトイレに行っている。もうすぐ次の世界のドアが開こうとしている」そんな内容だった。その時は私達も若く深く考えなかったが、高齢者の仲間入りをした今になって、手紙を見せて下さった隣の先生の気持ちがよく伝わってくる。
 数年後、話題は次第に海軍時代だけに狭まってきた。先生に「あれっ!と思える事が起きる。絶妙のタイミングで、光が丘に住んでいた長男夫妻が越してきた。朝早くから朝食の準備、夕刻に美味しそうな煮物の匂いが隣の台所から漂ってくる。数か月後、見違えるように元気を取り戻し、度々外出している様子。そんな時「お出かけですか?」と声をかけると、「今日は靖国神社へ会合に」と。にこやかに挨拶を返してくれる。すっかり元気を取り戻した様子にほっとした。
 九十三歳を過ぎた頃から体調を崩し入退院を繰り替えし、長男夫婦と次男が協力し合いながら看病していた。仕事を持っていた奥さんは、介護の為退職を早めたが、上手に気分転換をしながら義父の世話をする日々。去年の初夏に脳に異変があり入院し、八月初め退院、姿を見かけた時「この状態で自宅生活出来るのだろうか」とよそ事ながら心配したが、九月初めになり奥さんが「昨日お義父さん、二時間主人を説教したのよ」「何か気に入らなかったの?」「世話の仕方が悪い、ナイチンゲール精神が足りないと言う話が一時間位、後は海軍の話だったみたい」この話に感動した。家族には大変だったと思うが、老いからくる頑固さに戸惑いながらも、美味しい料理を作り、世話をする奥様や、二時間の説教を聞いたご主人の親に対する真摯な姿勢と、信念を貫き、生き抜いた先生、三人三様の家族の姿に、何故か心うたれる。十月になり様態が悪化し、一週間の入院の後九十六歳で旅立たれた。
 大都会の東京の片隅で、このような方々と偶然にも「となり人」になれた事を幸運と思って暮らす毎日だ。
鳥谷靖子
 

インチワーム              照山 忠利  

 まもなく女子プロゴルフの開幕戦、ダイキンオーキッドレディスが始まる。舞台は沖縄の名門「琉球ゴルフ俱楽部(GC)」。ここで好成績を残せるか否かが1年の命運を左右するといわれる。グリーンは芝目のきつい高麗芝で、最近主流のベント芝の柔らかいタッチに慣れたプレーヤーは手を焼くことになる。芝の順目と逆目を読み違えると大変だ。思ったより球が転がったり、止まってしまったり、あるいは計算以上に左右に切れたり。グリーン上のラインの読みがスコアに直結するといってもいい。
 かつてセメント会社の九州支店長をしていたころ、沖縄県の特約店とそのユーザーである生コン業者を集めて年に1回、琉球GCで親睦コンペを催していた。その名も「沖縄菱球会」で会長は地元特約店会の山城慎吾氏(仮名)。参加者の生コン会社の社長たちは沖縄本島以外の各地からも空路でやってくる。石垣島、宮古島、大東島等々だ。なにしろ沖縄県は東西1000km、南北400kmに散らばる島々から成っていて、県域は広大である。全員集合で25人ぐらいか。沖縄の生コン業者は本土に比べて地元のステータスが高い。業界の競争が激しくないので概ね儲かっている。ゴルフを道楽としている人が多く腕前もおしなべて上手である。
 福岡から遠来の支店長にはどの組に入ってもらえばよいか、会長としては組み合わせにも頭を悩ませたに違いない。あまり上手な組に入れて不快にさせてもまずいし、さりとて下手グループと組ませても失礼になる。ということで最初の回は山城会長が自らの組に入れてくれたが、2回目からは別のグループに回されてしまった。「レベルが違いすぎる」というのだ。
 この小柄小太りの山城会長は温厚篤実を絵に描いたような人物で、仕事ぶりは慎重かつ手堅かった反面、憎めないほどの小ずるさも併せ持っていた。例えば1Wのティーショットを打ったらバンカー方向に飛んだ。会長は同伴者よりも先に小走りに球の方向へ急ぐ。するとボールはバンカーを避けて縁に止まっている。本人は「支店長!セーフ、セーフ!」といって横に手を広げてニコニコしながら待っている。見るとバンカーの砂の上には足跡が点々と。バンカーが大の苦手の彼としては、早く走って行って皆が来る前に“手の5番”を使わざるを得なかったのだろう。
 グリーン上の所作も苦笑を誘う。グリーンにオンした球はマークして拾い上げ、汚れを拭いてから元に戻すことができる。その元に戻す際にマークよりかなり前方にリプレースするのだ。それもパッパッと、普段の動きからは想像できないほどの早業で。たかだか10~20cm程度をごまかしても結果が変わることはないのに。これを憎めないほどの小ずるさと言わずして何と言おうか。英語のinchwormとは尺取虫のことである。彼の所作を見ると思わずこの単語が浮かんできたものだ。
 コンペの後の懇親会でも酒を飲まず、他の人とは別の健康メニュー(ゴーヤチャンプルーなど)を注文するほど用心深かった氏も、小生が支店長職を離れた後ほどなくしてあの世へ行ってしまった。琉球大学病院の医者だった長男にも助けられなかったという。古稀すぎでの旅立ちはいかにも早かったが、長患いすることなく人生を終えたことはPPKの見本とでもいえようか。愛すべき尺取虫はちょっとした油断をつかれて天敵の小鳥についばまれてしまったのかもしれない。
(了) 

美しい世界               石田 真理

「世界には、美しい場所がたくさんあり、美しい心を持った人がたくさん存在している。」
数年前に、知人にいただいた人生のアドバイスだ。

 その言葉をいただいた当時、満員電車で押し合いへし合い通勤し、たどり着いた会社では理解できない上司やお局さんに悩まされ、仕事はお客様からのクレーム対応をしていた。生きていくってなんて大変なんだと悲観的になっていた。そんな環境の中で、「美しい場所や人」と言われても、きれい事の、作り物の世界としか思えなかった。

 それから数年後、どういう経緯か忘れてしまったが、ハワイに観光旅行に行くことになった。
ハワイというと、芸能人やミーハーな人間が行く土地だとずっと思っていたが、人生に1回くらい、そんな場所に行ってみてもいいのではないのだろうかと思った。

 しかし、行ってみると、ハワイはまったく想像外の土地だった。東京と違う南国の景色。ホテルもショッピングセンターも、大きい。また、人が優しい。道に迷っていると、近くにいる人が声をかけてくれる。ワイキキビーチの花火も、ダイナミックだった。市街地から足を伸ばして、カイルアビーチにも行くことになった。

 オプショナルツアーの大型バスに乗り、車窓から異国の風景を眺めながら、カイルアへ。バスの駐車場からビーチまで、周囲の大きい家を眺めながら歩いた。

 そして、着いた場所で目の前に広がる海。初めて見た砂浜と、青い海の色。写真ではわからなかった、自分の目で見る美しい風景。なんてきれいなんだろう。こんなに美しい場所があったなんて。

 「世界には、美しい場所がたくさんある。」
 知人の言葉を思い出した。
 世界には、美しい場所がある。それは、見ようとしなければ、見られない場所にあったんだ。

 あの美しい風景を見たときの感動が忘れられず、それから、今まで行かなかった場所へ出掛けるようになった。小さいことにこだわらなくなり、頭の中は出歩いた風景でいっぱいになってきた。いつのまにか、仕事も住まいも、自分を取り巻く環境は変わっていた。

 今、この文章を書きながらも、次はどこへ行こうか考えている。

賀状に見る、この十年の我が凋落度    谷川 亘  

 私の賀状は、最上段に「あけましておめでとうございます」と朱書き。横書きで、上段部は本人もいぶかる身勝手極める駄文の羅列。下半分は、旧年中の佳作?写真を載せており、2009年からですから、本様式は10年余り継続したことになります。
 Wordの文体はあまりの小文字故読み手には失礼千万。ご迷惑も顧みず手前勝手で活気にあふれ、だれかれ構わず鼓舞する内容。同時に、それが我が身を奮起させる源泉にするというしたたかさがありました。
 所が、たった10年しか経たないのに我身の凋落ぶり。以下、賀状が如実に代弁してくれているのです。

 2009年、古希を迎えた年の年賀状は、【なぜか、眩いばかりの木の芽の勢いよりも、散りゆかんとする紅葉の風情に共感を覚える年齢になりました】なんて記してはあるもののまだまだ元気旺盛。日本の五大桜を愛でようと、毎年順繰りに回っている頃でした。(以下、【 】部は賀状文体そのまま)
 2010年になると、【スーパーシニアを自認するものの、古希を過ぎて既にひとまわり。同じ三文字でも、“中高年”よりは、“高齢者”の方が相応しくなったようです。座視し続けてきたシルバーシートにも、言い訳がましく「空いていれば座る」。なんてうそぶく度胸が身に付いてしまいました】。
 2012年は、【OB会の行事に繁く参加して山行は月一ペース。単独行を旨としていたのをかなぐり捨てて、仲間との山行の楽しさを改めて知り、“癖になって”しまいそうです】。
2013年の賀状。【人生6度目の、苦しみ喘いだ富士登攀。10月には成就感謝のお鉢回り。山歩き、里山散策を堪能した一年でした】。引き続き2014年には、【昨年の富士山に続く先祖と仰ぐ谷川岳。頂上は極めてはみたものの、「行き(登り)は良い良い、帰りは恐い」。体力減退は御し難く、ほうほうの体で逃げ帰りました】。
と、だんだん雲行きが怪しくなり、2015年の賀状は、坐骨神経痛に罹患して、歩けもしなくなったのにまだこの“強がり”。【私事、山行と散歩をかけて“山歩(サンポ)”と称し、低山登りと散歩の折衷狙いで結構歩数を稼いでおります。師走に入って、東京都公園協会指定9庭園の紅葉巡りを、集中して踏破いたしました】。
 2016年には、「まだまだ大丈夫だよ!!」との“犬の遠吠え”もいささか哀れ。【お上の都合で「後期高齢者」なる括りに幽閉されて猛反発。“光輝壮麗者”と読み替え、円熟した熟年目指したのにそうは問屋が卸さない】。と、一方で強がり。【坐骨神経痛なる病魔がまた一つ加算されて野山歩きもままならず】。とも弱音がチラリ。
 2017年のそれは。【体力から知力勝負へと徐々に方向転換。OB仲間とのエッセイの集い、そして月一、拙作写真付きHomepage発刊に精を出しています。写真術の方も、自作の不出来具合を自ら判定できるレベルまで“上がって”まいりましたが、駄作の山となって人様にお見せできる作品は皆無。エッセイの何たるかを極めんとすればする程絶壁が立ちはだかり、いささか疲労困憊気味であります】。
 2018年。【 “てふてふ”飛び交い、安寧にして悟りの境地に至ると言われている八十路。しかし、その直前には乗り越えるべき断崖絶壁が行く手をふさぎます】。
そして断末魔。今年のわたしの賀状は。
 【私事、人生の吉事に当たる傘寿の筈なのに、“痛い痒い”なんて言い出したらきりがない。まあ、老頭児人生・・・・。正しく“生かされて”いるのであります。でも、心身鍛錬怠りなく、拙宅周り。町場の雑踏の中、“花鳥風月”探し求めては、“そぞろ写し”しながらの一万歩コースがみっつよっつ。順めぐりに、“放浪”し、フォト・エッセイ執筆しては頭脳の鍛錬にも努めております】。文末には、【なぜか、眩いばかりの木の芽の勢いよりも、散りゆかんとする紅葉の風情に共感を覚える年齢になりました】。10年前と一言一句違わない全く同じ文言。でも我も老いたもんだ。正しく“引かれ者の小唄”的心境なのだ。
 そして、これぞ三宝寺池で詠んだ我が辞世の句。【「散り際は かくもありたい 紅葉かな」】。

古代史探訪 上野国(群馬)kouzuke    田原 亞彦  

 昨年秋の榛名山を望む高崎から渋川あたりの訪問である。
 まず高崎の上野三碑。全国に残る古代石碑・石塔18の中で2,4,8番に古いものである。山上碑(681年)、金井沢碑(726年)、多胡碑(711年)である。
山上碑はヤマト政権の屯倉管理者の佐野三家一族の供養碑で新羅の石碑に酷似するが、漢文は日本語順で書かれている。金井沢碑には、初めて群馬の表記がある。多胡碑は中央からの命令で新しく多胡郡を設置した記念碑で、郡司に渡来人の「羊」が任命された。
 綿貫観音山古墳は6世紀後半の横穴式石室の群馬最大規模古墳で未盗掘のため、半島からの銅製水瓶など外来製の豪華な副葬品が出土しており重要文化財にも指定されている。
 上野国分寺跡から三ッ寺1遺跡に行く。地域の豪族の居館跡で、水の湧水・導水施設があり、水の祭祀が行われた。囲型埴輪はその施設を形象しており他国にもみられるものである。保渡田古墳群は5世紀後半から6世紀前半の3基の前方後円墳である。榛名山南東地域を支配した車持氏との関連があり、701年の大宝律令後、郡郷名の二字表記が命じられ、従前の「車郡」から「群馬」とされた。馬具の出土品が多く見られる。、八幡塚古墳には、鷹匠、甲冑武人、力士、楽人、巫女などの人物埴輪や馬、鳥、鹿などの動物埴輪など50体以上が出土している。表情が豊かで親しみが持てる。
 榛名山は6世紀の初めと中頃に2回大噴火している。火山灰や火砕流が東側の伊香保、渋川の方に流れ、瞬間的に埋蔵された遺跡が残されている。
 渋川の中筋遺跡を20年ぶりに再訪した。日本のポンペイ遺跡と言われている。噴火で当時の生活状況がそのまま残されたのである。竪穴式住居と平地式住居があり、竪穴式は70センチほど堀り垂木と横木で屋根を組みカヤ材をしいてその上に掘った土を被せて造り冬期に用いた。平地式は夏期用でいずれもかまどや土器を使用した。
 今回の圧巻は榛名山の二ッ岳の噴火口から8キロ右方の金井東裏遺跡である。
1.「甲(よろい)を着た古墳人」膝立ち状態で上半身が前方左に倒れこんだ状態で発見された164センチの40代男性。頭蓋骨・歯根分析から近畿から北九州古墳人の渡来系で馬に良く乗り、細密な甲や銀と鹿角の飾りつき鉾をもつている。
2.首飾りの古墳人 143.8センチの30代女性。右手で顔をかばい、体を捩るように倒れた。在来人か。首に70個のガラス玉と12個の管玉の首飾り、左腰に白玉21個入りの小袋を掲げていた。
3.乳幼児 頭蓋骨の一部が出土。
4.五歳児 頭蓋骨と足の骨の一部。歯から5歳児で金井周辺の生まれとされる。 
 近くの子持山山麓では馬の放牧がされ、近辺で鉄器も生産され、鹿角の装飾材への利用やベンガラも生産されていた。

センセイ                小林 康昭

 工学部の学生は通常、最上級の4年次に書きあげる卒業論文の審査を受けて、卒業することになっている。それで4年次になると学生たちは、学科の全教員に割り振られて一年間、指導を受ける。彼らを「卒研生」と略称している。
 毎年、新学期の初めに、配属が決まった卒研生たちが、各教員の研究室に姿を現す。この年、私の研究室にやって来た卒研生は九人。うち女子学生が二人。初日はまず、顔合わせである。学生を一人づつ、身上調書と付き合わせながら自己紹介をさせ、論文のテーマの希望を聴き取ることにしていた。
 その中の一人の男子学生が、長野県立中野実業高校の卒業生だった。中野実業高校は、私の郷里の近く、北信地方の信州中野市に、明治時代に創立された名門校だ。「オイ、お前の家は、信州中野か?」「イエ、家は飯山です」 飯山は千曲川を隔てて、信州中野の対岸にある。彼は、飯山から千曲川を渡って三年間、信州中野に通学していたのだ。
 「飯山の、宮本って老舗の商家に、小学校の担任だったセンセイがお嫁に行ったんだよ」「それだったら、中学と高校のときの合気道の師範が、その人の息子だと思いますが・・・」「もし、会うことがあったら、よろしく言ってくれよ」
*  *  *
 佐藤清子センセイは、一年から三年までの担任だった。女子師範でピアノが一番だったそうだ。姿勢が良くて、声がきれい。歌が上手。全校の音楽会や運動会、一町五ケ村の小学校の合同の大会でピアノを弾くのは、いつもセンセイだ。それがクラス全員の自慢だった。キリッとした雰囲気は原節子のような。後から思うと、顔立ちは草笛光子に似ていた。
 三年の秋だった。センセイは三日間、休んだ。四日目の朝、教頭先生が「少し遅れるから、自習して待っていろ」 それで、国語の教科書を開いて、声を合わせて朗読した。「うらのお山にのぼったら、山のむこうはむらだった。たんぼのつづくむらだった。つづくたんぼのそのさきは・・・」 何べんも繰り返した。でも、センセイは来ない。仕方がないので、九九を唱えた。「ににんが4、にさんが6、・・・くはち72、くく81」 また、ににんが4、に戻って繰返す。何べんも繰り返したけど、センセイは来ない。習った歌を歌った。「トオベ、トオベエ、トオンビイ、ソオラ、タアカアクウ♪ ナアケナアケエ、トオンビイ、アオゾラアオオオ♪・・・」「ピイイ、ピイ、ピイト、サエズル、ヒバリイ♪ サエズリナガラア、ドオコマデアガルウウ、タカイ、タカイ、クモノオ、ウエカア♪・・・」 学校で習う歌って、どうして、こんなに寂しいんだろう・・・。誰かが「センセイを迎えに行こう」 ソウダソウダ! ソウシヨウ。
 みんなが、教室を飛び出した。廊下を走って下駄箱へ。校庭を横切って校門に出た。山の中腹の学校から見下ろすと、一面に稲刈り前の田圃。県道が谷間を通って、ふもとの町に伸びている。センセイは町から歩いてくる。谷間の向こうに雪を一寸かぶった常念岳、乗鞍岳、穂高岳がのぞいている。坂道を走り降りて、県道に出た。競争のように走った。遠くの方に、歩いてくる先生の小さな姿。段々、近づいてくる。「センセエエエ!」 走りながら叫ぶ。センセイが手を振っている。みんながセンセイに飛びついた。田圃で農作業をしていた人たちが手を休めて、こっちを眺めていた。
*  *  *
 それから、五年、経った。クラス全員で映画館に行った。中学校の映画教室。この日は「二十四の瞳」。
 高峰秀子扮する女先生が、足をくじいて学校を休んでいる。十二人の子供たちは、女先生が恋しくてたまらない。それで、子供たちは、女先生の家まで歩いて行くことにする。だけど、女先生の家は遠い。疲れて我慢できなくなった子が泣きだす。つられて、みんなが歩きながら泣いている。後ろからバスが走って来た。道路の脇に寄った子供たちが、車内の女先生の姿を見つけて叫ぶ。「センセエ!」 女先生が気がつく。バスが止まって、女先生が松葉づえをついて降りてきた。「どうしたの?」「センセイのとこに行こうと思って・・・」 子供たちは、女先生に逢えた嬉しさで、また、大泣きを始める・・・。この場面、佐藤センセイに飛びついた五年前の記憶が蘇って、涙が止まらなくなった。
 この映画は、紅涙を絞らせることで名高い名作だ。泣かせる山場やクライマックスは、そのうしろに、いくつもつながっているんだけど、いつも、まず、この場面で涙があふれてしまうんだ。 
*  *  *
 夏休みが終わって、くだんの学生が戻って来た。「師範のお母さんが『あぁ、ヤスアキちゃんネ。一年の秋に満州から引き揚げてきて、そのときまで学校に行っていなかったんだから、みんなに追いつくように、習ったことを毎日、おさらいしなさいって言ったらネ、授業が終わった後、帳面に書き写して、職員室まで持ってきた』って言ってましたよ」
 それでまた、想い出した。職員室の廊下の隅に腰を下ろして、センセイが読み終わるまで待っている。センセイが赤い字で直したノートを返してくれる。センセイと一緒に、校門をくぐって県道に出た。山の端の夕陽が、真っ赤だった。  
 センセイが「キレイだネ・・・」と一言。そして、小さな声で、♪秋の夕陽に・・・と、歌い出した。教わっていなかった歌だった。きれいな声だ・・・、と黙って聞いていた。その歌は、三年になって教わった。
 学生の話を聞いているうちに想い出して、その学生の前で、不覚にも、涙目になってしまった。ドアが開いて、学生が入って来た。二人の女子学生。雰囲気を察した彼女たちの表情が、一瞬、固まってしまった。
 後になって彼女たちは、彼を問い詰めたそうだ。「オイ、オイ、アンタ。ヤスアキを泣かせたんかヨ。悪い奴だナ、アンタって・・・」 事情を知って、彼女たちはうそぶいたんだって。「ヘェ、ヤスアキって、意外とロマンチストなんだ・・・」
 と、言うことで、センセイってのは、なんといっても、小学校の初めてのセンセイに尽きる、と思ってるんだよ。

四季の記憶55「春の息吹」       鈴木 奎三郎

立春も過ぎたというのに、先週は東京にも大雪という予報がでた。たいしたことはなく終わったが油断はできない。去年は1月20過ぎに確か大雪だった記憶がある。ケガをしての退院直後で、とてもじゃないけど雪掻きなどできるわけもない、腰を痛めている家人も家の前をちょこちょこするのが精一杯だ。
 さあ困ったことになった、シルバーセンターかダスキンにでも頼んでみるかと思っていたら、3,4軒先の親しい知人の息子さんが、あっという間にブルドーザーのように雪かきをしてくれた。ご近所はありがたいものである。マンションであればこんな心配はないと思うのだが、小さい頃から地面にくっついた暮らしをしてきたので、そういう選択肢はこれまで考えたこともない。

 2月3日の節分には、ここ20年来年豆まきもしていない。子供が小さかった頃は、家族4人で大声を出してやった記憶がある。実家では、ぼくが小さい頃は兄2人の後をついて厳寒のなかをご近所を廻るのが習慣だった。まず長兄が「鬼は外~」、次兄が「福は内~」と続く。最後にぼくが「ごもっとも、ごもっとも」と叫ぶ。それも家から持参した“すりこぎ”を体の前で振りながらだ。いまだになぜ“すりこぎ”で“ごもっとも”なのか知らないが、北信濃に伝わる風習だったのであろう。廻った家ではお菓子やお駄賃をもらっていたのであろうか。その頃は年の数だけ豆を食べるという習わしがあったが、いまやどう頑張っても70超の数を食べることは不可能だ
 いまの節分は、成田山新勝寺の、タレントや歌舞伎役者がでるテレビニュースの風物詩としてみるだけだ。以前はご近所から豆まきの声が聞こえたこともあったが・・。
 そういえば、どんど焼きもすっかり見ることはなくなった。子供のころは、近くの神社のどんど焼きで焼いた餅菓子やサツマイモをたべると風邪をひかないといわれて、楽しみに参加したイベントだった。都市部では、煙を立てたり火をたてることは消防法か何かで禁じられているのだろうか。そういえば都内では焚火も軽々にはできないそうだ。いまの子供は節分やどんど焼きの代わりに、テレビやスマホのゲームに熱中しているのだろうか。

 近くのスーパー「いなげや」には、週に1,2回はいくのが習慣になっている。なにも買い物が好きなわけではないが、ビールやウィスキー、おつまみなどを買い出しに行く。買い物の後は、奥にある休憩スペースで本をよんだり、俳句をひねったりする楽しみがある。近くには自販機があり、100円のコーヒーと無料のお茶が置いてある。たまに居眠りをしたりするが、何時間いても構わない。小中学生が塾帰りによったり、自習したりしている。グッスリお休みのご年配の方もいる。
 最近は野菜売り場でふきのとうを探す。そろそろ出回る頃であろうか。ふきのとうといえば、その昔味噌とみりんをあえて母が作ってくれた「ふき味噌」は忘れることはできない。白いご飯にこれを乗せてかきこむ朝食は、ぼくの味の記憶のなかでは、三ツ星レストランのいかなる味をも凌ぐ。やはりグルメではないのだ。

 10年ほど前に100才で亡くなった母は、最期の1,2年は認知症だったのであろうか、ほとんどしゃべることをしなくなった。衰えていく日々の姿を目の当たりにして、なにをすることもできなかったが、家人が作って持って行った「ふき味噌」は、食事の量も減っていくなかで美味しそうに食べていた記憶が蘇える。味覚は小さい頃に記憶に刷り込まれるものなのかもしれない。
 「最後の晩餐」は何がいいか・・と聞かれたら、ぼくは迷わず「ふき味噌」と答えることにしておこう。

除夜の鐘                加藤 厚夫

 このごろ除夜の鐘がうるさいと寺に怒鳴り込んで来られる方がいるそうだ。しかたなくお寺は108ツの鐘を昼間に突くことにした。すると子供連れの家族や年配の突き手が増えてかえって良かったという。確かに真夜中では元気で暇な若者ばかりだ。それにしても日本古来の風習にいちゃもんとは、困ったご時世になったものである。
 我が家の近くにも広徳寺という臨済宗の禅寺がある。暮六つになると荘厳な鐘の音が響きわたってくる。大晦日には除夜の鐘が聞けるから、この一年平和で平穏な日を送れたとホットできるのだ。この広徳寺、江戸時代は下谷にあった。江戸っ子の洒落「恐れ入谷の鬼子母神」や「びっくり下谷の広徳寺」にあるくらい人気があり、震災で崩壊後ここ練馬桜台に移された。さすが名刹だけあっていまも広大な敷地に、大木が欝蒼と茂る。
墓も移され立花宗茂(筑後柳川藩主)、織田信雄(信長次男)、柳生宗矩・十兵衛父子、小堀遠州と歴史的人物のものばかりだ。ただ非公開なので、遠路訪れた人があきらめて引き返す姿ををよく門前で見かけるのが残念だ。
 区内にこれだけの寺はまずないのだから、区が公開に尽力し協力金を出して、中高生の歴史課外授業に取り入れれば良さそうなものだが。小堀遠州を知れば修学旅行に行った際、京都の庭園に興味をもって鑑賞するから勉強になる。
思い出すのがむかしこの小堀遠州作庭といわれる桂離宮が見たくて、宮内庁に何度も拝観願いを出したことだ。現役時代は休日にしか行けないから希望日はいつも満杯だった。
 京都に移住後しばらくしてから、どうなのかと散歩がてらに京都御苑内の宮内庁に出向いてみた。受付に行くと明日でもOKですとあっけなく予約がとれた。おまけに修学院離宮と京都御所の拝観予約までできたのである。こんな世界的名所にタダで入れるのだから、こんな嬉しいことはない。こりゃ一万円以上の価値があるぞと、その日は大丸で美濃吉の豪勢な弁当を買っ帰った。
 この桂離宮を世界的に有名にしたのがドイツの建築家ブルーノタウトで、その著書「日本美の再発見」だ。昭和8、9年と二度来日し、桂離宮を訪れて「これは理解を超越した美であり、これをまさに芸術という」と絶賛し感動で涙を流したという。タウトはその対比として日光東照宮の陽明門を引き合いに出し「あのゴテゴテした装飾は一体何ごとであろう、これほど愚劣な建物は同じ日本の芸術とはとても思えない」とボロクソに評している。だが知らずにここに祀られた当の徳川家康には大変気の毒な話である。この人物関ヶ原以後270年ものあいだ、庶民を戦火に巻き込まぬ平和なご治世を築いた立役者だ。日本史上は無論のこと世界史的にもたぐいまれな人物であろう。
 この家康公がもし昭和の宰相だったら、果してあの無謀な大戦に全国民を引きずり込み260万人も犬死させただろうか。しかも犠牲者の7割が激戦地での餓死、沖縄戦や大空襲による焼死、無差別な原爆死と地獄絵以上の悲惨を極めた。日本艦隊が壊滅直後にすぐ白旗を上げれば160万人もの命は助かったのだ。日本はその検証は一切行わないし、当時の為政者の無能さ加減を明確にしようとしない。ただ各記念日が来るたびに平和ヘイワと国民に呪文を唱えさせ、国家的な反省から目を逸らそうとしている。そんなお国柄に呆れたバーンスタインは、広島平和コンサートで来日してこう言い放った「もうそのヘイワの叫びにはウンザリだ」と。この際、現大臣閣下や先生方も**の一つ覚えの靖国参拝ばかりでなく、東照宮に出向き大権現に額ずく方がいい。そして梵鐘を平和の象徴としてみんなで寄進し、大晦日には煩悩のお祓いとあわせて凡庸のお祓いもしてもらおう。
 

カレーの話               華岡 正泰

 “学報”に早稲田佐賀の学生寮“八太郎館”の名を冠し、佐賀牛、佐賀の農産物、有明海の海苔をふんだんに使ったカレーが売出されたとの記事が載った。“八太郎”は大隈侯の幼名、佐賀だ、早稲田だ、とあっては放ってはおけない。それにカレーは私の大好物、早速 学生々協に出向き2箱購入、代金千円を家内に請求。家内はひと言「高い」
 カレーは元々インドの食べ物だが統治していたイギリスに持込まれ、同国に出入りする船舶で世界中に、そして船員達によって家庭にまで広がったと言はれている。
船乗達がカレーを重宝したのは一度に大量作ることが出来る上、トロミを付けるとこぼれ難くなるから、と聞くと納得。
 私が初めてカレーを食べたのは何時だったか覚へはないのだが、カレーライスではなくライスカレーと呼んでいたのは確かである。それがどう違うのか調べてみると諸説ある中、ライスカレーは飯の上にカレーがかけてある大衆的雰囲気のもので、カレーライスは飯とは別の容器にカレーが入って出てくるハイカライメージのもの、とあるのが的を射ているように思われる。
 私が本格的なカレーを口にしたのは1958年(S33)ビルマ駐在の時でその経緯は、工業省向け仕事がうまく進まず一か八かで工業大臣に面会を申込んだところ何と3日後のアポイントが取れた。3日間で頭の中に英作文を叩き込み当日ドアをノックすると中から日本語で「どうぞ」 大臣は工業省顧問のお兄さんと二人、早稲田の理工科に留学したという先輩だった。仕事は不首尾の終ったが、以来お二人、特にお兄さんの顧問と親しくさせてもらいお宅にも招かれるようになった。顧問氏、留学中に日本女性と結婚、奥さんは亡くなっていたが綺麗なお嬢さんと暮しておられた。最初に招かれた日、一族郎党が揃い私は主賓席に座らされた。出て来る料理は全てカレー仕込み。なのにスプーンもフォークもない。顧問氏「屋台で寿司を摘まむ時箸を使ったらマズイでしょ」時代が違う! でも郷に入っては郷に従へ。ウマイもマズイもない。教わりながら口に運ぶだけで精一杯。その後もいけなかった。ボーイが捧げ持つボウルの水で指をチョロチョロ洗うだけ。指の臭いを消すのに何日かかったことか。しかし顧問氏、その後はちゃんとスプーンを用意してくれた。最初は私への好意に満ちたイタズラだったのだ。あの日のカレーは忘れることはない。香港への転勤でビルマを去る時「娘を嫁に」と言い出され、冷や汗タラタラでお断わりしたことと共に。
 ところで“八太郎カレー”サラサラではなく少しトロミ付でピリ辛。「高い」と言った家内が「今度行ったら又買ってきて」と言うからウマイ方にに入るのか?私同様日本人はカレー好き。或る統計で一人年80食とある。家庭でも手軽に作れるがスパイスを研究したり外米を混ぜると旨いカレーが作れるものだ。カレー粉の中のウコンは認知症予防になるそうだが “なおみ選手”が好きという“カツ カレー”は1086と高カロリー。カレーは口当たりが良いからつい食べすぎてしまう。 カロリーに要注意。