エッセイ同好会117回定例作品集

せんほろサロン    照山忠利

 「せんべろ」という言葉をご存じだろうか。近刊の辞書には「1,000円でべろべろになるまで飲める店」とあるそうだ。作家の中島らもが著書「せんべろ探偵が行く」で用いた言葉だと先日の新聞で知った。

せんべろの聖地と言われるのが京成立石駅周辺。この言葉、地元では80年代から使われていたといい、

実際に千円札1枚で気持ちよく酔えたのだとか。定番メニューは豚のもつ焼きに煮込み、焼酎のハイボール。千円札の顔はこの間に伊藤博文から夏目漱石、野口英世と続き、7月からは北里柴三郎に代わる。

物価高の中40年にわたってせんべろが命脈を保ってきたのは驚くべきことだ。

 思うに「せんべろ」のルーツは労働者の街の「角打ち」にあるのではないか。今から50年ほど前の長崎。港の北岸にある三菱長崎造船所には万を超える社員が働いていた。その夕方の退勤時の光景を思い出す。社船で対岸の船着き場に降りた人々はアリの群れのごとく列をなして県庁横の坂を上り家路につく。そのアリの群れから2人、3人と巣穴のようなところに入っていく。そう、酒屋の店先だ。木箱に腰掛け、乾きものを齧りながら冷酒で一杯やる。角打ちである。

 「今年のペーロンはどげんやろか」、「飽の浦が強からしか」、「いいや京泊チームが一番のごたるばい」

などと言いながら仕事上がりのひと時を過ごしていたものだ。これは長崎に限らずかつての重厚長大産業があった工業地帯ではごく普通に見られた光景だった。

 練馬稲門会には1,000円で「べろべろ」ではないが「ほろ酔い」のできる場所がある。桜台の喫茶チャミーでの木曜サロンだ。いうなれば「せんほろサロン」とでもいえようか。練稲会員ならだれでも1,000円出せば参加できる。酒でも焼酎でもウイスキーでも好みの飲み物をキープしておいてくれる。ドアを押して店内に入ると右手にカウンターと厨房があり、左手に20人ほどの客席が奥まで続く。手前の客席の左側の壁には会員の描いた絵がかかり、奥の客席の左壁には天窓が切られ自然の採光がとられている。一番奥の正面上部にはカラオケ用の大きな画面も。最近のTully’sやDOUTORのような味気ない構えではなく昔懐かしい「街喫茶」の趣がある。

 このサロンは山田興太郎さんの奥様、恭子ママの献身的なサービスに負うところ大だ。酒の肴はせんべろのようなもつ焼きではない。手作りのしゃれたヘルシーつまみに、時には故郷隠岐島の海の幸が添えられることも。店のカラオケは無料の歌い放題。毎週木曜日の3時には常連の面々が顔をそろえ、談笑と熱唱に楽しい時間を過ごすのである。ある人は早慶戦の選手の活躍をたたえ、ある人は昔の海外武勇伝を語り、かたやカラオケは演歌あり、バラードあり、応援歌あり。別に点数が付くわけではないので歌唱力に関係なく気楽に歌えるのがいい。

 この木曜サロンの生みの親は、今は亡き関博之元事務総長だ。在職中に、練馬稲門会に会員が気軽に集えるサロンを作りたいとの願望を持っておられた。それに応えてくれたのが山田さんご夫妻。奥様経営の喫茶店を木曜午後3時からの3時間をサロンとして開放して頂いた。今やこのサロンは練稲のイベントの中で一番の活況を呈している。泉下の関さんもさぞ喜んでいることと思うが「せんほろサロン」などと呼ばれることには苦笑いを浮かべているかもしれない。

春の妖精(Spring ephemeral)   矢萩隆司

カタクリの花は、スプリング・エフェメラル〝春の妖精〟と呼ばれる山野草の一つです。
雪解けの春まだ浅き落葉広葉樹林の林床に、木々や山野草が芽吹かぬうち、いち早く大きな
葉を広げ、淡き陽光を浴びつつ、野山にまだ花が見当たらないこの季節に小さな花茎を出し
やがてうつむき加減に薄紫色の可憐な花を咲かせます。この花に蜜を求める虫たちが吸蜜
に訪れて受粉し、いち早く結実すると、周囲の木々や山野草が芽吹き始めるころには小さな
種子を散らして、その姿は地上から静かに消え去っていきます。
地上に葉を出し、光合成をして鱗茎に栄養分を蓄えることが早春の短い間でしかないため、
花を咲かせるに充分な栄養を蓄えるには長い歳月を要し、種子から発芽して花を咲かせる
までには早くても七年はかかります。
そして、花の命は短くわずかに二週間。はかない命です。
不思議なことに、花びらの内側にソメイヨシノにそっくりな神秘的な花模様を表すのです
が、開花時期もソメイヨシノと全く一緒としています。
カタクリの名前の由来はいくつかあります。ユリ科に属しており、花がうつむいて咲くのが
特徴的なため、かたむいて咲くユリ科の小さな花「カタコユリ」から変化しカタクリ。また、
その鱗茎が栗の片割れに似て見えるため「片栗」と名付けられたという説もあります。
片栗粉はもともとカタクリの花の鱗茎から澱粉を抽出して作られていました。江戸時代に
は大和の宇陀の片栗粉が有名で、幕府にも献上され、他にも播磨、越前などで貴重な高級品
として作られていました。しかし、花咲き種子が実り、鱗茎を収穫するまでには少なくとも
七年の歳月を要します。明治以降は乱獲が祟り、日本各地で春の訪れを告げていたカタクリ
の花は、多くの里山から姿を消していきました。
練馬区には、貴重なカタクリの花の群生地があります。23区内唯一最大の群生地であり、
平成元年に練馬区の登録天然記念物に指定されました。もともと昭和49年に地元住民が
守る会を組成し、わずかな株数から最盛期にはピンクの絨毯と称される推定30万株まで
に守り育て上げたものです。メディアにも取り上げられ、全国的なカタクリの花の保護活動
の火付け役となった群生地です。しかし残念なことに、いまは見る影もなく10万株は疎か
わずかにけなげに咲いた花を探して見るような壊滅的な生息状況となっています。
エフェメラル(ephemeral)は、本来「はかないもの」という意味です。
そして、カタクリの花言葉は「初恋」。薄紅色の下向きにうつむいて咲く様子から恥じらい
により、その思いを伝えられない乙女の姿を連想することが由来されているとのことです。
練馬区にある清水山の森のカタクリの花たちは、いまの思いを告げられずに、おとなしく
はかなきものとして消えゆく運命なのでしょうか。

“遠くへ行きたい”    華岡正泰

 私はカラオケが苦手だ。どうしても歌はなければならない時には校歌、応援歌の様に誰にでも歌へる、それが世界に認められた所以かも知れないが、学院級友

中村八大(八大)の“上を向いて歩こう”か 私には思い出多い“遠くへ行きたい”を歌うことにしている。歌が苦手な理由は私達の世代 音楽らしい教育を受けたことがなかったからかも知れない。小学校では担任が国語 算数 習字 体操から音楽まで全てを一人で受け持つた。だから音楽と言っても文部省選定の唱歌の幾つかを歌っていたに過ぎなかった。旧制中学に進むと一年一学期までは音楽があった。授業は教師が叩くピアノの音をロニトとかハホトと聞き分けるのが主だった。来襲する敵機の爆音を戦闘機か爆撃機か、それもB24か29かを聞き分ける耳を養うためとされていた。因みに敵性語廃止でドレミファはハニホヘトイロハに置き換えられていた。歌はドイツ民謡の一つを歌った。期末試験は音の聞き分けと民謡の二部合唱。相方は小学校から一緒の秀才岩本君。2学期が始まると同君「良が一つあって全優を逃した」と。何が良だかわかったから「俺は可が一つ」とその場を離れた。思うに あの瞬間から私の音楽苦手が始まった様だ。教師が徴兵されて二学期からの音楽の授業は無くなった。

 1982年3月大阪在勤中に学院クラス会の担当となった。前年が富山の簑島君と七尾の杉野君が幹事で海女10人程も上げての大盛会だったので それに負けじと 地の利を活かした奈良の神社仏閣詣でを企画した。担任の窪田章一郎先生もお出でになり中村八大(八大)も参加した。薬師寺他 名刹数寺お参りのあと宿の大和山荘へ。夜の宴会は決って校歌 応援歌。するとそこへ中年の婦人現れ「早稲田のお集まりの様だけど どうして中村さん思しきお方がご一緒に」と聞いてきた。翌朝この婦人「八大のサイインがほしい」と色紙持参。彼 五線を引いて何やら譜面を描き “遠くへ行きたい 中村八大”とサイインした。数ある作品の中から どうしてそのタイトルを選んだのか 彼自身のお気に入りかと思つたそれが。私の持ち歌“遠くへ行きたい”との出会いだった。

 2008年6月 中村夫人からの便りで池上本門寺での八大の十七回忌法要に参列した。僧侶9人 参列者数百人 司会 黒柳徹子と凄い法要だった。式場入口ではデュークエイシスが色んな歌い方で小一時間も“遠くへ行きたい”を歌っていた。重々しくおごそか、どんな場面にも通じる名曲に思えた。

 日曜朝6時半からのTV“遠くへ行きたい”。有名人の紀行番組だが家内が気に入っていて録画するので私も付き合っている。数年前までは番組始めに出演者本人が歌っていたのだが私の方が上手いと思う程下手な人が多くそれが又面白かった。元に戻してほしい。  

私と早稲田      松本誠

昭和41年に早稲田大学商学部を卒業した私の早稲田との思いを綴ってみたい。

卒業時は1月から革マル、共産系の社青同等が学内を占拠、入り口に机、椅子でバリケードを構築、校舎内に入れない。表向きは大学管理法反対、授業料値上げ反対!等の理由で大隈銅像前は立看で銅像が埋まるほどであった。授業はもとより、卒業式も中止!そんななか、4月入社予定の会社から忙しいからアルバイトを募集した。どこかでバイトをしようと思っていた私はこれ幸いと約1か月間経理部にバイト。現在の私の家内はこのバイトが縁で4年後結婚。卒業記念旅行と銘打って親しい友人と2人で1か月の台湾旅行を計画していたため、その費用稼ぎもあった。この台湾旅行がボクの早稲田魂に火をつけた。学生の貧乏旅行だから、3等貨物船に乗り途中の沖縄、石垣島等を経由して台湾へ。沖縄では地元民のジャミセンをききながら、肩を組んで都の西北を歌った。台湾は今回の東部地域大地震の台東や花蓮等、風光明媚な自然が眼を奪った。素晴らしい大自然が一部破壊され、ボクが勉強会を継続している近現代史懇談会という団体が今回の地震での被災者の一部にと募金をし、過日台湾領事館にお届けした。

当時も今も台湾の大陸との確執は変わらない。港や空港には銃を肩にした兵隊が治安の確保にがんばっている。大陸の共産主義思考は台湾の自由民主活動とは相容れない。

旅を通じて台湾の人々が日本人に対し尊敬と愛情を感じた。

その後会社生活を20数年、幸いベンチャー企業で発足した会社が、建築、土木の基礎工事専門会社で、社会的な騒音、振動のない基礎工事、地盤改良工法を開発、日本中に拡販させた。早稲田精神を大いに発揮し、チャレンジ精神で当たって砕けろだった。昭和64年、株式を東証スタンダード(以前は店頭公開)に上場でき、大学に少しの寄付をすることができた。

練馬稲門会の幹事長時代、23区支部大会で東日本大震災の被災地の応援ということで、宮城県石巻市の男山本店の4合瓶を「復興の酒」として大隈講堂一杯の大勢の校友に呼びかけ、早稲田の稲穂入りのラベル「がんばろう日本」6000本を皆さんに購入していただいた。それが縁で毎年被災地への激励訪問を実施。ボランテイアの労働はできないが地元に行き地元の生産物を購入し、お土産を買って地元を元気づけた。23区支部として地元の校友会との交流を4年実現出来た。私はいま5つの稲門会に加入している。地元練馬、生まれ育った武蔵野、友人が多くいる中野、自宅の近所の西東京、そして3年前に設立された稲門ライオンズクラブ。特にこのライオンズクラブというのは大企業中心のロータリークラブと並んで中小企業を中心とした社会貢献団体が、大学単位で組織されたものだ。稲門ライオンズクラブは今年2月に能登半島被災地のチャリティー麻雀大会を実施、被災地に25万円を送った。練馬からも数名が参加。また5月に2回目のチャリティー麻雀大会は早稲田の学生が海外留学するにあたり貧しい学生に支援することで実施。20数万円を援助できた。

過日、東大卒のある新聞社の論説委員長と話したが、東大は地域稲門会みたいなOB組織はなく、卒業すればほとんど会社人間、官僚はそれも競争社会。いま私は早稲田でよかった!早稲田だから良かった!と、この校友組織を楽しんでいる。華岡正泰先輩のように元気でいつまでも活動したいものだ!

その地に行かないと  小林 康昭

サウジアラビアの建設工事の現場で勤務していたことがあります。

発注機関の役所や下請け業者には、地元のアラビア人のほかに、エジプト、トルコ、イラク、インド、パキスタンなどからの出稼ぎに加えて、必ず、パレスチナ人が混じっていました。彼らは祖国の地をユダヤ人に奪われて、その祖国には戻れず、仕事を求めて国々を渡り歩く流浪の民になっていました。ユダヤ人が占拠しているイスラエルの土地は、パレスチナ人たちの祖国の土地でもあるのです。第二次大戦後に欧米列強国がユダヤ人たちに国土を与えた時、二枚舌を使って策を弄し、ユダヤ人にもパレスチナ人にも良い顔をしようとしました。そのために、イスラエルとパレスチナの間には、今になっても紛争が絶えません。

たまたま、その建設工事はオランダの設計事務所の設計だったので、オランダへ打ち合わせに出かけたことがあります。仕事が終わってから、オランダ人の設計家に連れられて、「アンネの日記」の家を見物しました。

そこで、私は日頃の疑問を彼にぶっつけました。「戦争が終わった後、何でユダヤ人は元の住んでいた所に戻らなかったのか?」ナチスに捉われて拉致される前に住んでいたところに戻れば、パレスチナ問題は起きなかったでしょう。私の疑問に答えて彼は「ヨーロッパのどの国も、ユダヤ人に戻って来て欲しくなかったからだ」と答えました。それが、米欧人たちの共通認識だったのだ、と彼は言いました。

初耳でした。日本に住んでいると、彼らの感情は分かりません。メディアも伝えません。そもそも、ジェノサイドの対象になるほど、嫌われていた理由が分かりません。その地に赴いて初めて知ることができる話なのです。

*  *  *

南アフリカ連邦に赴いたことがあります。アパルトヘイト政策を批判して牢獄につながれていたマンデラなどの反政府勢力の運動家たちが解放されて、政治の実権を握ってから数年後のことでした。

記憶に残るのは、ヨハネスブルグの治安のひどい悪さでした。ツアーの行き帰りや空港との出入り以外は、ホテルからは一歩も出てはいけない、と添乗員たちから厳しく釘を刺されたのです。その警告を無視して市街に出ると、必ず大勢に取り囲まれて有り金をむしり取られたり、暴力を受けたり、殺されたりするのだそうです。

私は、現地人のツアーの添乗員に、マンデラたちのお歴々の評判を訊いてみました。彼はけんもほろろに「あいつらだけが良い目を見てるんだ」と言い放ちました。反政府運動の闘士だったお歴々は英雄扱いされ、政権の座に就いた上に、経済的にも様々な特権を握った。だが、踏みつけにされてきた一般の黒人たちは、相変わらず踏みつけられた生活をしている。我々黒人の中に、良い目を見ているグループと何の恩恵にも浴さないグループの対立が起きて、前よりも悪くなった、というのです。こんな話も、現地に行かないと耳に入りません。

日本のメディアは、マンデラたちの勢力が政権を握って、南アフリカ連邦は近代的な国に生まれ変わり、明るい未来が約束されたかのように礼賛しています。だが、一般の黒人たちは閉塞感にとりつかれ、倫理観を失い、それが現地の治安の悪化につながっています。彼の指摘が的をついているならば、この国はいずれ、激変を被るだろうと思いました。その時は、平家物語のように「驕れる者は久しからず」の道を辿ることになるでしょう。

*  *  *

フィリピンの地方に赴いて、現地人を雇ったことがあります。

採用した彼らをサウジアラビアに連れて行って、工事現場で働いてもらうのです。失業者の多いフィリピンでは賃金が物凄く安い一方、人手の足りないサウジアラビアは、賃金が物凄く高いのです。ですから、地元の若者たちが、採用を求めて大勢集まってきます。集まってきた彼らの腕前を試験して採用するのですが、文字通り、選り採り見採りでした。現地人を集めるために、現地の顔役の力を借りました。彼は地方自治体の首長を務めており、第二次大戦の終戦時には10歳前後で、家族の多くを日本兵に殺されていたそうです。ですから私は、意識して戦時下の話題を避けておりました。

予定のスケジュールが済んで、翌朝は出国するという前の晩、お別れの晩餐会を催しました。食事していると「カミカゼ」と、彼が口にしました。幼かった彼は、毎日のように飛び立っていく特攻隊の飛行機を、滑走路の脇の林の中から、友達と一緒に眺めていたそうです。私は、黙って聞いていました。

現地は、長きにわたって今もなお、反政府勢力が跋扈し、彼ら為政者たちを苦しめているそうです。「カミカゼは、国にたてつかないで、国のために自分の生命を奉げる。なんと素晴らしい若者たちだ、カミカゼは」

彼は、カミカゼを褒めそやしました。多分、日頃、反政府勢力と対峙している苦悩がもたらす感情から出た台詞だったのでしょう。最後には興奮して涙さえ浮かべるのです。日本のジャーナリストは、こうした隠れたカミカゼ信奉者の存在を報じません。多分、接する機会もないのでしょう。

*  *  *

報道の自由は、民主主義社会必須の前提条件ですが、人々にとって、何でもかんでもあからさまにして良いものではないようです。その地に赴いて現地の人と話していると、相手が心を開いてくれるようになる。その時、ジャーナリストが捉えられないことを、知らしめられる、ということなのだと思っております。

老々互助        谷川 亘

我が属する、練馬稲門会「エッセイの会」。先日、設立20周年記念北陸旅行が立案され、誘われるままに参加してきました。

10年記念として行われた、立山、剣岳、宇奈月温泉旅行にも加わりましたが、その時は総員で7名。今回はその倍の14名となりました。

この十年の間、そりゃぁ好むと好まざるとを問わず人間年取りますもの・・・。旅立たれた方も数人。足腰が弱って欠席がちになった方もあるとは言え、その間に新会員も加わって参加者倍増になった次第です。しかし、入会者も、「山歩き会」なんかから鞍替えされた相応のオトシの方ですから古希は越えていらっしゃるでしょう。平均年齢は傘寿あたりであることに間違いありません。

この言葉は禁句なんだそうですが、“ビッコやチンバ”の当人たちにとっては勝手気ままな不貞腐れ旅行ですが、秒単位の北陸新幹線には全くそぐわない、「やれ、誰ちゃんがどっか行っちゃった」、なんてのは朝飯前。酔って風呂で滑り、痛さ堪えて杖を付きつき部屋まで“よた歩き”してたどり着くくらいなら、えーい、一層のこと「車椅子呼んでくれ~」なんて悪知恵働かしては鍵かけて寝てしまい、翌朝大騒ぎになっても本人は知らんカンプン・・・。

なんてことばっかりでした。

風呂の話になりましたが、みんな運動不足なのですよね。ほとんどが“でっぱら”なんて程度のものではない。禿げ頭はタオルで隠せるとしても、この続きのセリフはしゃべりたくない位の体たらく。

老人病と言われている話をはじめ、“痛い・痒い”の話題になると際限ない。酔いの程度が増してくると「認知症」に似て同じ話の繰り返し。もうこうなったら話題の終点に辿りつきません。酒宴のほうも時間通りに集まれず、大大先輩の20周年開宴の辞も待てずに料理に手を伸ばす始末。

流石、昔の“オエライサンだったのですもの。初めのうちはお隣同士、お猪口で差しつ差されつだったのが、面倒くさくなっていつの間にかコップに注ぎ合って、しまいにはお銚子から自ら震える指先でつぎ足す独酌と相なるお粗末。もはや杖なしでは全席注いで回る“注ぎまわりの”儀礼はやりたくてもできないので自席にどっかりこ。もっぱら独り勝手の独演会に相成る。

さっきの話。これで風呂に入って転んででもしたら、車椅子どころか救急車の騒ぎですよね。

老頭児の宴会なんてこんなものですよ。

それにしても、今回旅行の大老は御年93才。お住まいが近くなので旅立ちから無事のご帰還までカバン持ち。いえいえ、“老々互助”なんて言ったら無礼千万。私の方が介護されているのかなぁと言う場面もありました。彼は50前にして脳疾患を患い意識不明の闘病の末に生まれ変ったのだそうで、今年は御年四十ウン才なんだそうです。

あんな大男の手を引いて歩くなんて、到底この私にはできないのです。

 越前ガニこそご縁がありませんでしたが、帰りの車中でも、インバウンド様々と席を同じうして、控えめながらも老頭児旅行の無事をささやかに祝い合いましたとさ!!!