2024年10月19日(土)開催 (※到着順)
四季の記憶 101「錦秋に誘われて」 鈴木奎三郎
旧暦10月の節季は立冬である。現行歴の11月7日ごろに当たる。ここから来春の節分まで暦の上の冬の期間である。曇りの日が多いが、晴れの日には空は青く澄んで白い雲が上空の早い風に追われるように流されて飛んでいく。暑さにあえいでいたのはついこの前のような気がするが、ほんとうに光陰矢のごとである。
江戸前期の俳人野沢凡兆はその感じを「上行くと下来る雲や秋の天(そら)」と詠んだ。まさに季節の風景であり、晩秋から初冬への変化が詠われている。
もうすこしすると、石神井公園のタイサンボクの巨大で分厚い立派な葉がパサリパサリと大きな音を立てて落ちてくる。紅葉はしない代わりに、黄褐色や褐色に代わった葉には、葉の中を喰ったなにかの幼虫の食痕が見える。その偶然のデザインはまるで前衛画家の作品のようである。何枚か拾って家に飾ったりしたが、ぼろぼろになっていつの間にかどこかへいってしまった。
この時季は、秋の雨、秋時雨、秋霖、釣瓶落とし・・などさまざまな俳句の季語があって、金秋、白秋などの季語もある。季語にはないが「錦秋」という言葉はとりわけ美しい。紅に染まる木々が錦
の絨毯のように鮮やかに映える様子を表現したこの言葉は、四季の移り変わりとともに生きてきた日本人の豊かな美意識を端的に示している。言葉こそ文化そのものであり、日本語の美しさは世界に比
類のない言語ではないだろうか。
紅葉は主として広葉樹の葉が冬に落ちる前に、緑の色素のクロロフィルが分解し、赤い色素が形成されて黄色い色素が目立つようになったりして起きる現象だ。その変化の度合いは樹種や地域によっ
て異なる。天気図に寒色系が増えてきて最低気温が8℃前後になると始まり、5℃から6℃で見ごろを迎えるそうだ。
紅葉といえば、今何かと話題になっている神宮外苑のいちょう並木ほど見事なものはない。
紅葉は植物学的にいえば葉の老化現象に過ぎないが、散り際に見事な姿を演出する。ヒトの晩年も紅葉に当たるのかもしれないが、最後にいちょうのような有終の美を演出できないのが残念なところだ。
言葉と文章 小林 康昭
犬を飼っていたことがあります。今から50年以上前から約40年間のことです。初めに飼ったのは中型犬のシェットランドシープドッグ(略称 シェルティー)。15年たって死ぬと小型犬のミニチュアダックスフンド。12年後に死ぬと、最後は小型犬のトイプードルでした。購入する犬種は、ペットショップで妻や子供が選択し、その世話は妻や子供の義務にしてきましたが、トイプードルの晩年に到って、散歩の役目を押し付けられてしまいました。妻や子供たちに馴れきっていた犬は、突然変わった散歩役の僕には、容易に馴れてはくれませんでした。
そもそも、犬は家族と自分との関係を承知しており、末っ子の息子には自分の方が上位にあると思っており、上の娘とは対等のつもりであり、妻には自分の親であるかのように、きわめて従順に仕えているのです。それに対して家長である僕には、恐れ多くて近づかないという可愛げのない態度を見せていました。
散歩の時間が来ると、首輪に付けるひもを手にした僕から逃げ回り、妻の姿を追っておりました。その妻がすり寄って来た犬の首輪にひもをつけて、そのひもを僕に手渡すと、それを目にした犬は、まことに失望落胆した目で、妻を見上げておったものでした。
* * *
それはそれとして、毎日、決まった道筋で散歩を続けておりましたが、犬は僕に馴れたように見えても緊張しきっており、散歩が済んで首輪からひもを外してやると、一目散に妻か子供のもとに走り寄るのでした。
或る日の午後、いつもの道筋をいつものように、犬をつれて歩いていきますと、前方から幼女を連れた父親らしき男が近づいてきました。
その幼女が、父親に何か頼んでいる様子です。「パパ、あの犬にカワイカワイしたい」と言っているようです。父親が応えています。「それなら、××チャン、自分であのおじさんにお願いしなさいよ」“あのおじさん”とは僕のことで、“あの犬”とは、僕がひもを握っているトイプードルのことです。
その親子連れが僕の前に近づいたとき、その幼女はあどけない表情で僕を見上げて言いました。「おじさん、その犬にさわってカワイカワイしてもいいですか」僕は犬の脇にしゃがみ込んで犬の下顎と背中を押さえて「かわいがってちょうだいね」と幼女に促しました。幼女もしゃがんで、およそ四、五分、やさしくなでていましたが、やがて、満足したように立ちあがって、「ありがとうございました」と、 僕に向かってお辞儀をしました。
「お利口だね、お年は何歳?」幼女は「2歳」と答え、父親の手を握って歩き始めました。
* * *
遠ざかっていく二人の後姿を眺めながら僕は、幼女が話しかけてきたその語り口を反芻していました。幼女は、父親に対しては「パパ、××したい」と訴え、僕に向かっては「××してもいいですか」とか「ありがとうございました」などと、いわゆる余所行きの言葉でしゃべったのです。
日本人がしゃべる日本語としては、当たり前と言えばそれまでですが、そもそも、日本語は話し相手やその場その場の様子によって使い分け方が多く、外国の言葉に比べると、むずかしい言葉だと言われています。そして、その使い分けをしくじると、相手の気持ちを傷つけたり怒らせたり、軽蔑されたりする懸念があります。
幼女が僕に向かってしゃべった、いわゆる余所行きの言葉は敬体、父親に向かってしゃべった、いわゆるため口の言葉は常体と言うそうです。敬体と常体の二種類がある言葉を、2歳にして使い分けるということは、多分、幼いころの自分もそうだったのだろう、日本人とは何と優れた知能の持主であることよ、と感心するわけです。
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話す言葉が二種類ある日本語は、書く文章も二種類あります。例えば、夏目漱石の「吾輩は猫である」に書かれた”吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ“の、××だ、××である、と書かれる文体は常体文と言います。一方、子供向きの絵本の挿絵に添えられているような”むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました“の「桃太郎」は、××です、××します、という文体で書かれており、これを敬体文と言います。同じことを書いていても、その文体が常体文か敬体文かによって、読む人に与える影響が随分違ってくるので、文体の選択は、書く人にとって非常に重要なことになります。
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明治以来の日本では、日本語の文体の近代化の一端として、言文一致の試行錯誤が続けられてきました。
そして、夏目漱石に到って完成されたと考えられています。つまり読む文章としての常体文です。
その文体とは異なる敬体文は、文章を朗読したり、相手に語りかけたり、大人が幼児に本を読んで聞かせたり、手紙を書く際に採用される文体です。つまり聞く文章です。
式典などで天皇陛下から賜るお言葉は、書かれた敬体文を声に出しておられます。今では、敬体文で相手に語りかける慣習が定着しており、常体文を声を出して朗読すると、聞く側に傲慢とか喧嘩腰とか心理的な違和感が生じる恐れがあります。日本語特有のこの使い分けは、日本語の素晴らしさにつながっていると思います。
合 縁 奇 縁 谷川 亘
「合縁奇縁」と書いて(あいえんきえん)と読ませるのだそうですが、仏様だか神様のお導き?により、あり得ないような奇妙な巡り合わせによって、人様とのご縁が生まれることもあるのですよ。
身近な、ひと角曲がつた、拙宅近くの公園を舞台としてさえ起こつているのですよ。
3年以上も痛められたウィズ・コロナ。ことの因縁は“コロナ禍”が発端となります。
罹患でもしたら厄介者扱い。“三密”なんて厳命が下り、通院している医院では、“患者様”なのに陰性判明するまでは待合室にも入れてくれない。感染怖さに独り自室に自らを幽閉して身を潜め、“食つちゃ寝”を くり返しては血圧も上がって肥満気味。ほとほと“身の扱い”に 困窮してしまいました。
そこで思い立ったのが、近くの「武蔵関公園」朝一のラジフ体操と水辺周回の“よた歩き”。 当時は「一 日一万歩」がしきりに推奨されていました。一挙両得ではありませんか。公園での朝の挨拶交わす雑談タイム。心身兼ねた“ボケ”防止。一周 1201mの “よた歩き”と 、老頭児同士の“どうってない会話”こそ、健康で長生きさせていただく源泉だったのです。
コロナ様のお仲立ちによる武蔵関公園舞台の「合縁奇縁」。
先ずは、見覚えはあるが、どこの誰だったか失念していた小学校の同級生との出会い。加えて、同じ高校に通いながら半世紀経て改めて友人宣言した同級生。そして、圧巻は、公園で新たに得た卒寿近い、老いてなお“新鮮”な仲間の誕生でした。
幼剛1染との再会は、生まれ育つた杉並区阿佐ヶ谷の「杉並第一小」の同級生と、お隣の区でもあるこの公園での偶然の復縁 (再 開)です。
カワセミはその季節になると、ここの公園は専らプロ集団の撮影ポイントでして、大型カメラと三脚に望遠レンズ。しかもお揃いの制服着こんで異様な雰囲気。中に、どつかで相まみえた男がいる。誰だつけかなぁ…・。おもいあぐねてひと回りしても思い出せない。かと言つて、当のご本人も同じ思いなのか ?お互いに「どこの誰だっけ?」 肩抱き合っても名前が出てこない。「Iだよ !!」 60年来の友人復活の瞬間でした。
二つ 目。高校は付属校で私は最後の K組でしたから一クラス50名 としても一学年 500名 以上。卒業してから半世紀。所も名前も全く知らない他人同士。別の友人が個展を開き、三々五々集まつて、その帰路同じルートで地下鉄もバスまで一緒。改めて名乗ると、ご自宅は「武蔵関公園」池の階段上った邸宅住まい。“旧友”の 間柄とは言えないよねっ。偶然、奥様まで家内とは同窓生の間柄と言うご縁。それから二十数年間、今では「今朝も元気 ?」 。朝の体操で、互いに老いた身の健康チェックする間柄。「今 日も元気だよね !!」 とほつとする。
そして、最後は公園“よた歩き”途上にすれ違う、“駄弁り”の ご同輩。「おはようございます」の一言だつたのに、何となく気性があつて互いに腰掛けては雑談する間柄に。聞けば、最高学府卒で超大企業の社長を長年務められた Oさん。心許す間柄となり、いただいたのが、高三当時に書かれた「無益な受験勉強」たる作文の写し。
私は、彼とは違って付属校でしたから、苦手の数学では ∫も分からずに卒業し、第二外国語が必須だつたり、“珍ぶん。カンプン(漢文)”は “文芸”と改称されまでして、専ら文学書に魅せられたよ。と伝えたら、羨ましがられたことを思い出しています。
我らが仲間は、この年になるとメールも面倒で、スマホも指先がふるえる。勿論、「便りのないのは元気な証拠」とばかりに、電話一本しない間柄となり果てました。
老齢にして誕生した“新たな友情”で したが、9月 初旬に他界されてしまいました。
中身の濃い2年間。やはり、優秀なお方の生き様は最後までご立派なのでした。
「合縁奇縁」。神仏のご下命によって我らが生き甲斐は授けられたもの。
“ひとざま”の 生き方はそれぞれ千差万別なのです。
2024年 山あり山あり、そして夏から秋へ 富塚 昇
まず7月2日のことです。その日のことを書くためにまず今年のお正月のことです。娘夫婦と一人
暮らしをしている息子がうちに来て久しぶりに食事をしました。乾杯をするときに、娘はこれまでとは
違ってお屠蘇代わりのお酒に口をつけませんでした。「あ、そういうことか」と思っていると、食事が
終わってから娘からも話がありました。そして娘は7月2日に無事男の子を出産しました。私もお陰
様で一つ格が上がって“grandfather”になりました。
次に8月25日について。私の息子は、小学生の頃、みんなで話をしている時などに、ピント外れ
の突拍子もないことを言ったりするので、「宇宙人」というあだ名がつていました。中学・高校でも、
的外れなことを言うので、「お前、それは違うだろう」といわれることが多い(それでもニコニコしている)と保護者会から帰ってきた妻から、担任の先生の話として聞いたこともありました。そんな息子が、今年の3月に合わせたい人がいるということで彼女を家に連れてきました。そして、8月25日に池袋で両家の顔合わせの食事会をしました。その彼女は、な、なんと早稲田の文学部出身です(息
子よ、でかした!)。
そして9月17日。NHKの「クローズアップ現代」でミッドライフクライシス “人生の曲がり角”をどう生きるというテーマの放送がありました。自分の人生これでよかったのかと、中高年が陥る心の危機ということについて掘り下げる内容でした。このことについては私も当てはまると思うことがあります。2009年3月4日、娘が大学(早稲田大学法学部)に合格しました。それはもう涙が出るほどうれしかったことでした。2年後の2011年の3月に息子が大学に無事合格することができました。私自身結婚をして二人の子どもに恵まれ家庭生活を営む中で、子どもの大学合格までの時が私の人生の上り
坂の一つのピークだったのかもしれません。心理学者の河合隼雄さんの『生と死の接点』という本
によると、中年の危機は「その個人が何らかの目標が一応達成されたときに危機が訪れることが多
いようである」とありました。そして、子どもの大学入学後、私は仕事にも力が入らなくなったり、また、寂寞感に襲われることが多くなり、大げさかもしれませんが私もミッドライフクライシスの時代に入っていったようなのです。
今年は、ピークを過ぎて下山の道を転ばないように降りているなかで、少子化、さらに生涯未婚率
が高まっていると言われる時代に、私は本当に有り難いことに二つの幸運に恵まれました。
最後に10月4日。この日は父の命日です。そして、昨年のこの日に父と同じ病気で親友の一人
が亡くなりました。親の時とは異なる喪失感に襲われました。昨年10月のエッセイ同好会の例会に
は出席できませんでしたが、亡くなった友人に関連してエッセイを書きホームページには掲載させ
ていただきました。
そんなこんなの2024年の秋、大学4年の時に受けた峰島旭雄先生の「倫理学概論」の授業のこ
とが思い出されます。先生は、1年間の最後の授業の本当に最後の一言でこんなことをおっしゃい
ました。
「私の授業は忘れてしまって構いませんが、人間が有限な存在であるということは忘れないで
下さい」。
まじめな学生だった私は、先生の教えを忠実に守ることになりました。これからの人生、先生の教
えがますます心に迫ってきます。そして山と山の間には谷もあるでしょう。これからの山と谷をどう乗
り越えていくか。
何はともあれ今年始めた野菜作りに精を出すことにしよう。さて、今日は白石農園に行って草取り
をして、ほうれん草と小松菜と春菊の種をまいてくるか。
ドラゴン桜 照山忠利
泌尿器科のお世話になってから、もう10年になる。それまで頻尿とか尿意切迫感に悩まされていたところ家内が 「大泉学園の泌尿器科の先生はあなたの高校の出身らしい」という情報をもってきた。それなら受診してみようと出かけたのが最初の出会い。「前立腺肥大」との診断を受け、以来ずっと薬を処方してもらって今日に至っている。ところで先生は日立一高のご出身ですかと聞いたら、そうですとの返事。どうやら私より20年ほどの後輩にあたるらしい。山形大学医学部を出てから病院勤務を経て、東京警察病院の泌尿器科部長を務めた後、開業したという。なぜ大泉学園に縁があったのかはまだ聞いていない。
毎月一回先生を訪ね、薬を処方してもらう。さらにある時は検尿、ある時は血液検査やエコー診などが入る。その都度「前立腺は確実に小さくなっている」とか、「もっと効く薬に変えましょう」とか、「薬を続けるのが煩わしいなら手術をすれば解決します」とかいろいろなことを言われる。中でも手術は、友人が何人か経験した話を聞いているので、有力な選択肢だがまだ踏み切れないでいる。
先生のクリニックは皮膚科も併設している。6月初めに右下腿部に大きな皮膚炎ができた。以来こちらの方も診療対象に加わり、今は水虫治療と併せて塗り薬を処方されている。
受診に行くと、混んでいることが多いがたまに空いている時は、ひとしきり雑談をする。年1回の東京同窓会には誰が来てどんな話をしたとか(先生は診療があるので出席できない)、故郷日立市の情報や高校時代の思い出話などなど。そんな中である日先生から意外な言葉が飛び出した。
「照山さん、私は高校時代劣等生だったんですよ。学年370人中360番。担任の先生からは、お前なんかしらんと言われました」。
「えー、国立の医学部に行かれたのにそれはないでしょう」と私。「ドラゴン桜ですよ。医学部に特化した勉強をすれば合格できることを知ったのです。劣等生でも医者になれることを見せてやりたかったんですよ」と先生。この言葉には初めて他人に明かした積年の思いがこもっているように聞こえた。
「ドラゴン桜」というのは20年前の2004年に出版された三田紀房の漫画のこと。
倒産の危機に瀕したおバカ高校に債権整理に訪れた弁護士が、気を変えて1年以内に東大合格者を出して超進学校にするために奮闘するストーリーのようだ。低偏差値でも勉強の仕方によっては東大合格が叶うという話に、自らの体験を重ねたのだ。
改めて親近感を覚えたのは言うまでもないが、「前立腺手術」をして薬の世話にならなくなれば先生との縁も疎遠になる。手術に踏み切って楽になろうか、先生と薬の縁を続けようか迷っているところ。どなたかアドバイスはありませんか。
(了)
往診・在宅医療 華岡正泰
今から80年程前の私の子供時代 子供の病気といえば突然の発病で医師の往診を仰ぐものであった。私ではないが弟が病弱で 夜中に熱を出しては私が近くの医師を呼びに行かされた。夜中に申し訳ないと思ったり 医師とは大変な職業だと思ったりしたことが 医師の道に進むことを望まれた家系にあって それを逃れて 戦争中は海軍軍人 戦後は早稲田に進んだ理由の一つになったことは否めない。
現役を離れてウン十年、加齢もあるというのに今の私は 50年30年前の脳外科手術のアフターケアと投薬で大病院に通う他は 時に歯科、眼科、耳鼻科、整形外科の受診はあっても内科、循環器系受診皆無という恵まれた毎日を送っている。その私がこの6月、家内に10日程寝込まれて大変な目に遭った。
腹痛と下痢だったのだが 近くの医者に連れて行こうにも歩けず 疾くに免許返上してマイカーは無し。タクシーを待つこと30分以上。乗るには乗ったで僅か数分、最低料金の乗車で運転手への気遣いシキリ。 診断は下痢での脱水症状。腎臓に負担が来ていて点滴を続けるとのこと。通院が大変なことを話すと往診可能だと。約束の時間に看護師を伴って医師来宅 診察、点滴,器材回収にも来てくれた。受診料は銀行口座から引落された。
医師が北大出の札幌出身だというので 麻酔医の姪が 心臓血管外科の婿と札幌で“華岡青洲記念病院”を開いていることを話すと 翌日の話で姪の病院に医師の父親(開業医)の飲み友達が居ることがわかった。150人の中の誰が相手かはわからぬが 医師との距離が一気に縮まった。外来ではなく 色んな話が出来る 在宅だったからこそ生まれた医師との好感系だった。これからは私のことも診るというので病歴 経歴等を話す内に 医師の子息が早稲田の学生だと知った。こうなるともう駄目だ。私もこの医師に掛かることに決めた。
そのことを主治医に話すと「良い話だ。今の薬と私への連絡方法を教えておくように」との返事だった。今の大病院 待つこと1時間で診察10分が問題とされる一方 単なる風邪気味で大病院受診の是非が問はれている。私が体験しようとする地域医療と大病院の関係。これからの日本の医療の理想の姿ではあるまいか。この度経験した在宅医療、どれ程有難かったことか。高齢化が進む地域社会に必要な制度だった。然し医院単独で取組むには困難が多かろう。
組合的制度を考えるか 行政としても取り上げるべき問題ではあるまいか。
私が掛かる医院: 西武新宿線 武蔵関駅南口 4~5分岡田医院
袴田さん無罪に思う 小林 士
この10月9日の読売新聞一面の見出しに大きな文字が並んだ。「袴田さん無罪確定へ」とあった。「静岡県一家4人殺害事件」の犯人、袴田さんの無罪が最終的に確定したニュースだった。この新聞は別の紙面で、その頁のほとんどを費やして事件後の長年の経過を総括的に記述した。
ここであえて「犯人」という言葉を使ったが、事件後袴田さんは「犯人」として起訴され、死刑判決を受けて58年の長きにわたってそのことばを貼り付けられて来た。しかし、彼は今や「犯人」ではない。かりそめにもそう呼んではならない。容易に剝がすことができなかったそのレッテルがとうとうはがされたのである。
結果として、法のもとに犯人でないものを犯人として、あまつさえ死刑に処することを決めて長年拘留してしまった。彼が釈放され再審がなされたことは大きな救いであるが、大変な過ちが粛々と進行していたことは恐ろしい。
この進行に法的手続上の最後の終止符を打ったのが検察だった。その見解は、まずは「静岡地裁の(再審の)判決は到底承服できないもので、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容だ」とした。その上で「袴田さんを法的地位が不安定な状況に置き続けるのは相当ではないとの判断に至った」とした。これが検察の控訴断念の弁である。
上級裁であらためて判断してもらいたいのです、と言っている検察のこの弁はいまだに「袴田さん有罪」主張のにおいが強くただよう。こう言われると、裁判所はまだ何かの重要な真実を見過ごしているかのように響く。
ともあれ袴田さんにかかわるこの一件に終止符がうたれたことにはなるのだが、これで一件落着でいいのだろうか。袴田さんが犯人でないのであれば、真犯人は別にどこかにいる。この事件の場合、58年を過ぎたのでその人間が存命かどうかは分からないものの、一家4人を殺して火を放った極悪非道な人間がどこかで安穏な日々を送っている、または送ったうえ他界した、ことになる。これでいいのだろうか。
これもまた取り返しのつかないもうひとつの大きな過ちである。私たちはこのことも考えておく必要がある。
武蔵野の面影 矢萩 隆三
武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ
武蔵野とは、武蔵の国の原野のことです。
総じて、中世にかけて日本人が抱いた“武蔵野観”は、「荻・女郎花・萩など野草の野原」
のちには「月が美しく、遠く富士の嶺を仰ぎ見る、どこまでもつづく曠野」といったものでありました。
この曠野を一変させたのは徳川家康です。
関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは慶長8(1603)年。以後、天下普請といわれる、全国の大名に大がかりな工事を課して、城を中心に江戸の町が短期間で完成します。人口の急増に対処し、玉川上水や野火止用水が開削され、乾いた武蔵野台地に新田開発が旺盛に進められました。綱吉は、享保の改革期、不毛の台地を畑作地へと変貌させるため屋敷地と雑木林を配置し、落ち葉を堆肥として野菜の育つ土壌へと改良、樹木を燃料である薪炭の供給源としたのでした。こうして進められた開拓によって“原野”は姿を消してゆき、代わって、田畑、社寺林、屋敷林、雑木林など、今日“武蔵野の自然”と呼ばれているものが人の手によってもたらされたのでした。
明治31(1898)年に国木田独歩は随筆「武蔵野」を著し、その後の“武蔵野観”に大きな影響を与えることとなりました。
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」と唱え、市街地からほど遠く、住民の生活圏と自然が入り交じる里山の雑木林にこそ美を見出し、新たな“武蔵野”を描き出そうとしました。 彼はまた次のようにも記し、武蔵野の個性、唯一性を強調しています。「武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか。」すなわち、国木田が賛美した武蔵野の美とは、本来その土地に生育し一切の人為的な影響を受けない自然植生によるものではなく、人の生活に伴い置き換えられた代償植生による自然の美なのです。
現在、自治体が自然保護に取り組む際などに、「武蔵野の面影」を美称として行われる場合が見受けられます。“武蔵野の原野”の記憶は遠く忘れ去られて久しいものの、国木田が唱えた“武蔵野の雑木林”のイメージはいまでも生きながらえており、そのような自然景観を再現しようとします。しかしながら、代償植生である雑木林や屋敷林などを保全し育成するには萌芽更新など、絶えず人の手を尽くさざるを得ないのです。
武蔵野の面影を後世に引き継ぐには、自然保護の名のもとに樹林地を確保して放置すれば済むものでは決してありません。自然植生への回帰と誤解せずに、今ある身近な自然と人の都市生活との共生を図ることが求められるのではないでしょうか。

