エッセイ同好会120回定例作品集

2024年12月21日(土)開催 

四季の記憶 102「冬来たりなば・・」    鈴木奎三郎 

 ここ数日は最低気温が2.3℃と、急に寒くなってきた。何のことはない平年並みなのだが、それにしても今年の夏は暑かった。7月から9月は平年より1・76℃も高く過去最高を記録した。それにしてもあの暑さはどこへ行ってしまったのか。人間はわがままなもので、暑さの厳しいときは冬が恋しくなり、冬には暑さを願うようになる。夏が暑いとその分冬は寒くなるのであろうか。ぼくの故郷の長野市の冬の寒さは、ほぼ札幌並みだ。長野駅から善光寺に至る2キロほどの参道は、冬になると溶けだした雪が凍り付き、危険な道になる。 

神宮外苑の銀杏並木もすっかり葉を落とし、石神井公園の大きなポプラもほとんどが落葉した。本来季節感とは、子供の頃の暮らしの中に芽生え成長していく過程で、自然に豊かなものへと育っていく感覚なのではないだろうか。ぼくにとっての季節感は、生まれ育った信濃の四季とともにある。わずか18年を過ごしただけなのに、故郷の四季の記憶はしっかりと脳裏に刻まれて色あせることはない。以来、60年を過ごしてきた東京の季節の記憶は断片的であいまいだ。仕事と時間に追われ季節どころではなかったのだろうか。 

ぼくの実家は、長野駅と善光寺のちょうど真ん中にあった。今は「セントラルスクエア」と称し、公園とイベントスペースになっている。1998年の冬季オリンピックの時には、市内の表彰式会場として提供した。スキージャンプでメダルを独占した時である。舟木、葛西選手らが躍動した。もう20年以上前のことである。 

最近、寒さにはめっきり弱くなった。考えてみたら82才の老人である。「喪中につき・・」の知らせは20枚超もきている。これまでにない枚数である。トシをとってくるとどう考えてもいいことはあまりない。日々をいかに無事に過ごすか・・、これまではほとんど考えたこともなかったが、これが現実である。年賀状に寄せた3句。 

寒に耐へ寒にも耐へて日暮れ道 

針供養母が教えてくれたこと 

温泉に数多の猿の思案顔    2024・12・21 に

同じ“タニカワ”の落差  谷川 亘

 安易にして平易な言葉づかいと言い回し・・・。でも、とても追えないその深淵度・・・。 

「戦後現代詩」と言われる分野を代表する、谷川 俊太郎氏が、しきりに口にされていた感謝の念に満ちた天寿を全うされました。

11月20日付の朝日新聞トップに“谷川”とある。まさか大新聞の大見出しに「谷川」の文字が載るのは初登板であるに違いない。他でもない、詩人谷川俊太郎氏の訃報である。かねて、谷川さんは濁らずに「タニカワ」との呼称であることが分かっていたので、“カ”が濁る、濁らないは別としても、余計に近親感を持っていたのです。

同じ姓を名乗る以上は、谷川俊太郎と言う実名には感心しきりであったし、詩作についても関心があったことは紛れもない事実。でも、表向きは自由奔放な作であることは分かっていても、「分かるようでいて、わからねえぇ~」。とても、詩文の裏にに備わっている、表にこそ出てこないものの、その深淵度と言うか意味深さについては理解できずに、探求する意欲も湧かずに中途で投げ出してしまっていたのです。

彼の訃報関連記事にある、普段着っぽい白いTシャツ姿の写真に、ご自分で書かれたのだろうか?墨筆で自己紹介されている文字がある。

 た だの んげん くのがしごと わ らうのがすき とある。〇印が“たにかわ”。順に並べると、「唯の人間、書くのが仕事、笑うのが好き…」。と当て字して良いのだろうか?

“たにかわ”姓の頭文字をひねった文言。でも、これが詩文学の元祖と称される文人としての価値があるのか無いのか?文才浅き我にとっては、いくら親戚付き合いの間柄と許していただけるとしても、何ら変哲のない、こじつけの、その場限りで思いついた片言に過ぎないのであります。

谷川姓の兄貴分に当たる御仁の名言であったとしたら、みっともないとさえ思え、お許しを得て、敢えて言わしていただければ、羞恥心さえもたらす文言なのであるとまで思ってしまいます。

せめて、この詩作を故人への旅立ちの経文として唱えるべく、威儀を正して丸暗記して復唱し、お別れのお経代わりに、と思いつつも即刻忘却の彼方。文言は簡明にしてやさしい様でありながら、突拍子もない文脈ですぐに忘却の彼方。何度くり返しても蚊帳の外に追いやられて即刻記憶から遠ざかってしまうのです。

「ひょっとしたら、俺、認知症症候群の入り口なのかなあ?」とまで、思い悩みました。

言葉と文言のつながりと言ってよいのやら?脈絡がなく、自由にして闊達な文言の羅列・・・。

シッタカメッチャカ・・・。どうやらこれについて行けないのだ。

ただ、とんでもない。谷川俊太郎の詩には凡人には到底思いもつかない発想とか筋道が相互に絡み合って統制しあっているのですよ。

その間の、詩人にしか分からない、繋がっている筈の脈絡が未熟者にとっては迷路としか言いようがなく、到底理解できないのだ。

幽体離脱  照山忠利

  この秋に義弟(家内の弟)が66歳で亡くなった。急逝だった。7月に亡母の13回忌で故郷の古河
に京都から参列し、法事の後は拙宅に泊まり元気に盃を交わした。その後8月にがんが再発して入院す
るとの知らせがあった。8年前にメラノーマ(悪性黒色腫)にかかったが治療の結果完治したはずだっ
た。毎年PET検査も受けていたという。この知らせを受けてもさほど差し迫ったことではないだろうと
高を括っていたら、「余命1カ月」との宣告を受けたというのだ。まもなく緩和病棟に移ると聞きあわ
てて10月2日、京都府立医大病院に見舞いに駆けつけた。
 病室に入ると、間違いなく死期が迫っている顔で、細君に背中や腰などをさすって貰っていた。こち
らもまもなく死んでしまう人間に何と言葉をかけたらいいのかわからなかったが、本人が息もたえだえ
になりながら自分の死後の希望を言い出した。その一つが「詩仙堂に葬ってほしい」ということ。詩仙
堂は京都の北東、白川通から坂道を上った中腹に位置し、昔宮本武蔵が吉岡一門と決闘を繰り広げた一
条寺下り松の隣にある寺院だ。そこは寺というより旧家の屋敷といった風情で墓石はなく、南向き斜面
に主屋と庭園が配されている。ダイアナ妃や秋篠宮が訪れたときの写真なども掲げられていた。園内の
一角に納骨堂があり、遺骨はそこに合葬され、やがて土に還るのだとか。
 見舞いを終えて、インバウンドであふれる京都駅からビールを買い込み新幹線に乗車、車中で病人の
苦痛が和らぐことを祈りながら乾杯した。「かわいがってくれた母親があの世から迎えに来たのかもし
れないな」などと言いながら帰宅した翌日、追いかけるように訃報が届いた。我々が見舞いに来るのを
待っていたのだろう。今度は喪服を用意しての京都行となった。1週のうちに京都を2往復したことにな
る。慌ただしく通夜と告別式を終えたが、祭壇横には家族団らんの楽しそうな写真が飾られていた。ホ
テルマンとして関西に住み、縁あって滋賀の女性と家庭を営み二女を設けた。その娘たちが近年相次い
で結婚し、相次いで孫が生まれ瞬く間に賑やかで幸せな一家が形成されたばかりだったところに悲報が
襲ったというわけである。幸福の時間は長く続かなかった。
 今回の不幸に際し驚いたことが2つある。一つは故人が死の間際に「おれ昨夜、幽体離脱した」とい
ったこと。10月2日に見舞ったとき、確かにそういったのだ。以前からものの本では目にしたことがあ
るが、直接生身(と言っても半死)の人間から聞いたのは初めて。いわゆる臨死体験とかニアデス経験
とかいう事象だ。自分の魂が体から抜け出し自分の体を見ているもので、おそらく夢を見たのではない
だろうと思った。
 もう一つは京都の骨壺が極めて小さいということ。今までの経験では、荼毘に付された遺骨はすべて
、粉になった部分は塵取りで集めてまで壺に収められてきた。それがどうだ。両掌に収まるほどのコン
パクトサイズ。頭蓋骨と足腰の一部と喉ぼとけだけが収められた。京都ではすべての遺骨を収容すると
墓地が足りなくなるのだそうだ。大部分の遺骨が拾われずに残ったのを見て、家内が斎場の係官に詰め
寄ったが馬耳東風。懇ろに合葬して供養いたしますからご心配なくというばかりであった。
 今回の義弟ばかりでなく、小生は実弟にも6年前に69歳で先立たれている。あの世に行く道には「
追い越し禁止」の標識はないのかもしれない。
                                        (了)

皇家の墓   矢萩 隆三

 御香華院御寺泉涌寺
 東山連山三十六峯の南端、月輪山麓の清らかな涌き水のほとばしる仙境に、真言宗泉涌寺派総本山御寺泉涌寺があります。皇室の御菩堤所として特異な、格調高い法域で、寺院の東の丘陵には皇室の「陵墓」が静かに眠る聖域です。なお、天皇・皇后・上皇(法皇)・皇太后の墓所は「陵」、それ以外の皇族の墓所を「墓」と呼びます。
 皇室との特殊な縁故は、鎌倉時代に第 86 代後堀河天皇によって皇室の祈願寺と定められ、仁治 3 年(1242 年)正月には第 87 代四条天皇の葬儀を執り行うまでとなり、両天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれました。南北朝時代の文中 3 年(1374 年)に後光厳院を御火葬申し上げてからは天皇の御火葬所となり、江戸時代には第 108 代後水尾天皇から第 121 代孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行ったほか、天皇・皇后・皇族の廟所となり仏式の堂に納骨する石造塔形式の陵墓が建立されました。陵墓は全て境内にあり、月輪陵と後月輪陵には合計で 25 の陵と 9 つの墓があります。皇室の御香華院(御菩堤所)と定められており、祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われております。
 幕末になり尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は仏式の石塔を改め円墳を模した円丘の後月輪東山陵が築かれました。明治天皇陵は、京都市伏見区の桃山丘陵に、天智天皇陵に範を取ったといわれる上円下方墳の伏見桃山陵があり、大正天皇以後の陵は、東京都八王子市の武蔵陵墓地に、大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵が造営されております。その他の皇族の墓は明治天皇の皇子(稚瑞照彦尊)の薨去を契機として、東京都文京区の護国寺裏山に設けられることとなり、現在、豊島岡墓地となっております。
 平成 24 年(2012 年)4 月 26 日、宮内庁は、天皇や皇后が崩御した際の埋葬方法を、第 125 代
天皇明仁および皇后美智子の意向により、約 400 年続いた土葬から火葬に変える方針にて検討すると発表され、翌年 11 月 14 日、埋葬法を正式に火葬にて行うと発表されました。
 合わせて二人の陵を一体的に整備する事で従来の陵より小さく作る事も発表されました。
 実は、神道と考えられているものの多くが幕末の尊皇攘夷運動、そして明治に引き継がれて神道の国教化と廃仏毀釈運動により「新しい日本古式」としてモダン化され再生された伝承・伝統です。つまり明治となり近代天皇制国家における制度的機軸としての祭政一致による統治形態を正統化するため、大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と基礎づけたことによって、天皇を現人神とした国家神道を確固たるものとせざるを得ず、神仏分離を強行したことで、神である天皇が寺院に祀られることはあってはならないこととなったのでしょう。
 ちなみに、大正天皇の御母柳原愛子は、昭和 18 年(1943 年)祐天寺に葬られました。

アルバイトの始まり  小林 士

 最近、闇バイトという言葉が盛んに登場する。ひどいことをする人たちがいるものである。形容詞的に使われるこの「闇」という言葉を、私が最初に聞いたのは戦後まもなくだった。「闇取引」という言葉だった。当時、きびしい統制下にあった米その他の食料品を民間同士でひそかに直接取引することを言った。その内、おおっぴらな闇市というものまで出現して何が闇なのか分からなくなった。
 バイトという言葉はどうだろう。これはアルバイト(働く)というドイツ語を短縮した言葉である。このアルバイトなる言葉が使われ出したのは戦後間もなくであり東京大学の学生が使い始めた、というのが私の独善的発祥説である。
 私の10歳年上の次兄は戦争中に東京帝国大学に入学した。まもなく戦況が悪化し空襲も激しくなって学業どころではなくなった。兄が大学に行っているようすはまったく見られなかった。そして父の戦死の知らせが入った。当時は誰もがそうだったが、毎日がその日を生きることで精いっぱいだった。
 学校の制度が改められて東京帝国大学は東京大学になった。留学が何年つづいたのか分からないが、兄はこのころから大学に通い始めたようである。農学部の近くに建てられた追分寮に運良く入ることもできた。しかし、我が家の生活はきびしくなる一方で、兄は自分の生活費、学費を自分で都合しなければならない。英語を話せた兄は、これも運よく進駐軍専用バーのボーイの仕事にありつけた。私が新制中学2年だったから昭和24年(1949)である。
 次兄と二歳年上の姉と私と三人で話あっていたとき、兄が何気なく「明日はアルバイトだか・・・」としゃべった。きょとんとしている私に「『働く』って言うことよ」とアルバイトの意味を姉が教えてくれた。私がその言葉を耳にした最初だった。
 昔は、若い学生が自身で働いてお金をかせぐということはまれだった。無かったかもしれない。会社は終身雇用が原則だったし、商店は個人経営の店があたりまえである。
はんぱな条件で一時的にお金をかせぐ道はほとんど無かった。めぐまれない境遇でも勉強をつづけたい若者はどこかの家に「書生」として居候するしかなかった。「苦学」という言葉があった。私の父がそれであった。
 戦後社会の激しい変動のなかで人手を求めて「一時的な仕事」といったものが発生した。学生に安く働いてもらうことになった。この新しい職場環境に対して新しい言葉が発生したとしても不思議はない。兄にとってアルバイトという言葉はうってつけの造語だったと見える。
 私自身も大学に進学してドイツ語を学習する機会を得た。ドイツ語は男性、女性、中性の区別があり動詞の人称変化もややこしい。アルバイテンという動詞は規則変化するので学習の始めの段階で習う言葉である。学生が自分の仕事にこの言葉をあてはめたくなった気持ちが私には分かるのである。

民意と選挙   小林 康昭

 今年は興味深い選挙が四つありました。自民党総裁選、衆議院総選挙、兵庫県知事選挙、米国大統領選挙です。

*  *  *

 自民党総裁選挙は、9月28日に行われました。総理大臣任期満了の岸田が立候補せず、9人の候補者が乱立しました。読売の社主などのジャーナリストたちは、在任中の安部の前ではひれ伏するようにして、派閥裏金、旧統一教会、加計学園、森友学園などに関わる疑惑を糾弾するでもなく、結果として安倍の延命を支えました。その安部の威光は今では地に落ちて、その安部につながる岸田の支持率は低く、岸田では選挙が戦えないとみなされたのです。第一回投票で最多得票の高市早苗が過半数に届かず、二位の石破茂との決選投票で、石破が当選しました。高市は安部に近かったことが敗因と言われています。石破の反主流派的な矜持が期待されたわけです。

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 衆議院総選挙は、10月9日の衆議院解散を受けて、10月27日に投票が行われました。選挙前後の議席数の変動は、自由民主党:258→191、-67 。公明党:32→24、-8。立憲民主党:98→148、+50。日本維新会:44→38、- 6。国民民主党:7→28、+21。令和新選組:3→9、+ 6。日本共産党:10→ 8、-2。参政党: 1→3、+2。日本保守党:0→3、+3。社会民主党:1→1、± 0。総数は465、過半数は233です。
自民党と公明党の連立与党は、議席数を290名から215名に減らし、過半数を割りました。
選挙公示後の10月23日の日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」が、裏金問題などで非公認になった自民党の候補者が代表を務める支部に対して党本部が、政党助成金から一支部あたり2千万円を支給していたことを報道しました。野党は一斉に、政党助成金は税金を原資としており、自民党は公認候補の支部には公認料5百万円、活動費1千5百万円を支給し、公認しなかった裏金議員にも公認候補と同額を配っていることは、自民党が非公認候補を応援しているに等しく、税金が裏金議員の選挙に使われている、と反発しました。石破は変節者と非難され、選挙戦では自民党は党勢を凋落させました。早くも石破の先は長くはない、との見方も出ています。
 一方、野党各党は、議席数を175名から250名に増やしました。民意は、自公連立政権に代わって、野党が結集して政権を奪い取ることを期待した形です。国民民主党に投票した民意も、自公連立政権の延命ではなかった筈でしょうが、国民民主党は、自公連立与党に是々非々の道を選びました。これは裏切りであるとして、次の選挙で、民意は鉄槌を下すことでしょう。野党第一党の立憲民主党の野田代表は、全野党結集に力を尽くしたとは見えませんでした。11月11日の総理大臣指名では、石破、野田、その他の順となり、立憲民主党以外の野党は、自公連立政権の延命に手を貸したことになりました。わが国の政治家たちの沽券は、小異を捨てて大同につくべき合従連衡の戦略を持ちえない認識の貧しさを、物語っていると感じております。

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 兵庫県知事選挙は、9月19日の兵庫県議会の全会一致の不信任を受けて、前職の斎藤元彦が9月30日に失職したことにより11月17日に投開票が行われました。不信任の理由は、一連の県庁内部の告発文書に対する斎藤の対応と知事としての資質にあった筈ですが、知事選の争点には、これに斎藤県政に対する評価、選挙後の県政の運営などが加わりました。立候補者は斎藤ほか6名。兵庫県下の自治体の前市長稲村和美が有力視されましたが、斎藤が1,113,911票、稲村は976,637票で次点でした。
選挙前の地元新聞社や通信社の世論調査では、知事に資質を問う回答が最多で、斎藤県政の評価に対する回答はそれを下回っており、斎藤の政策に対する批判は少なく、自身も実績を誇示していました。
斎藤の勝因は、失職を選んだ点にあります。県民は、斎藤と県庁職員たちとの衝突反目には関心が低く、政策の上では斎藤を支持しているとの確信から、斎藤は失職を選択して勝負に出て、目論見通りになったのです。
 稲村の敗因は、政策論争に持ち込んだことです。斎藤の個人的資質を県民に問うべきでした。ここに民意の読み違えと軽視があります。稲村は自己過信して、相手を甘く見ていたということです。

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 米国大統領の一般選挙は12月17日に行われ、共和党候補のトランプが、投票数、選挙人数ともに、民主党候補のハリスを上回り当選を決めました。この選挙は勝因よりも敗因が、選挙の行方を決めたようです。もともと民主党は、貧者や弱者の味方との認識が定着していました。ルーズベルトやケネディーなどはその系譜にあります。だが党是が次第に崩れていき、今ではラストベルト(さび付いた工業地帯)を中心に白人労働者層が共和党を支持しています。米国滞在中に感じたクリントン大統領夫妻を取り巻く富裕層の優雅なイメージは、立党精神との乖離でした。これを突いたトランプの登場で、両党の逆転したイメージは、今後も続くことでしょう。

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 これらの選挙の共通点は、優れているからではなく、相手の不人気で勝利したことにあります。にもかかわらず、信任を得たものと誤解して、支持されていない政策を進めれば、不人気になって次の選挙で負けるという勝者必敗のサイクルの陥穽(わな)に、現職は陥ります。石破、斎藤、トランプを待ち受ける展開が注目です。