エッセイ同好会121回定例作品集

2025年2月8日(土)開催(到着順) 

辰年一過   小林 康昭

 昨年の令和6年、2004年は辰年でした。辰年生まれの私は、七回目の辰年を迎えたことになります。
この十二支は中国、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナムでも共通しており、普段の生活では無意識に過ごしている日本人よりも、はるかにこだわる人々が多いようです。
 台湾の人たちと仕事を共にしたとき、私を含めて3人の辰年生まれがまみえると、彼らは一様に「辰が三人揃うとはまことにめでたい」と相好を崩して喜んでいたことを思い出します。

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 十二支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、と書き表し、これを日本語では、皆さんご存じのように、ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い、と読みます。
「ね」と読みながら鼠とは書かないし、「とら」と読みながら虎とは書きません。
そこには、現在使われている動物名はありません。十二支の起源は、遠い昔の中国の紀元前16世紀の殷の時代のことで、その当時は、動物とは関係がなく日付の呼び名に使われていたそうです。
その後、春秋戦国時代になって、方位や時刻の表現にも使われるようになり、その慣習は今も通用します。
 十二支には、植物の生命消長を連想させる文字を充てているとされています。例えば、「子」は新しい生命が種子の中に萌やし始める状態、「丑」は種子の中に生じた芽がまだ伸びない状態、「寅」は草木が生じる状態、「卯」は草木が地面を這うようになった状態、「辰」とは草木の形が整った状態、さらに巳、午、未、申と進んで、「酉」は果実が成熟の極限に達した状態、「戌」は草木が枯れる状態、「亥」は草木の生命力が種子の中に閉じ込められている状態、を表しているとされ、次の段階の「子」に繋がっていくのです。保育園の幼児が「・・・種を撒きました、芽が出て膨らんで、花が咲いて・・・」というくだりと同じです。
 もともと順序を表す記号であって動物とは関係がなかった十二支に、その後、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたのだと言われています。
 今では十二支は、人々の生活との関りが、近世までに比べてずっと希薄になっていますが、それでも廃れずに残っているのは、年賀状の図案に新年の十二支の動物が頻用されること、人々がその生まれた年の十二支によって、〇〇どし(年)生まれというように、年齢を表現する習慣があるからでしょう。

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 その辰年に私が誕生した1940(昭和15)年は、特別の年でした。神武天皇が即位した年から数えて2600年目にあたり、紀元2600年の節目に当たる年でした。全国各地で祝賀祭が催され、その祝賀会場では、そのために作られた祝賀歌が歌われました。両陛下の臨席を得て皇居前広場で行われた祝賀会は、大変な盛り上がりだったそうです。
♪金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて、今こそ祝えこの明日、紀元は2600年。あぁ一億の胸はなる♪
昭和十五年生まれは、生まれた年にお祝いの歌があることを自慢します。歌が流行れば、替え歌ができます。当時、金鵄、光、祝、紀元、という煙草があって、その煙草が一斉に値上げをして、喫煙者を困らせた、ということです。
そこでうたわれた替え歌です。♪金鵄上がって13銭、栄えある光14銭、今こそ祝16銭、紀元も上がって18銭。あぁ一億の民は泣く♪ 幼なかった私たちは、意味も分からずにこの替え歌を唄っていたそうです。
 この年、東京でオリンピックの夏季大会、札幌で冬季大会、大阪で万国博覧会の開催が予定されていました。一つの国でこの三つを同時に開催することは初めてだったそうです。
 その画期的な催しも、戦争のために中止になり、つぶれてしまいました。1940(昭和15)年は、日本が歴史上、国勢最高の頂きにあって、アメリカ、ソ連、ドイツなどの強大国に伍していた年だった、と断言でき
ます。
 翌年から始めた大東亜戦争によって、日本の国は折角積み上げた国勢を失い、今もなお往時の輝かしさを取り戻すことが出来ません。今後も、取り戻せないでしょう。
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 昭和十五年の辰年生まれを自慢する人は、この年に生まれた偉人、有名人を自慢することもあります。
 政治家では、麻生太郎(9月20日生まれ)が総理大臣(2008年9月―2009年9月)を勤めました。
 科学者では、京都大学名誉教授の益川敏英(2月7日生まれ)が2008年にノーベル物理学賞を受賞しました。
 受賞を報じるメディアに向かって「嬉しくはない」と放言して、一時は話題になりました。
 大相撲では、大鵬(5月29日生まれ)と琴桜(11月26日生まれ)が横綱になりました。
 総理大臣とノーベル賞と横綱の三点セットのそろい踏みは、多分、昭和15年生まれだけだろうと自慢します。
 プロ野球の世界では、王貞治(5月20日生まれ)と張本勲(6月19日生まれ)の傑物が、昭和15年の生まれです。
以上、自慢にもならない自慢話です。

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 次の辰年は、2036(令和18)年になります。つつがなく迎えたいものです。

強がりもここまで    谷川 亘

 カレンダー差し替えて年が改まり、柏手こそ打たないものの、分不相応の気概をもって新たな年に挑戦する意欲を高揚する…。これは、ひと昔前までの年初の誓いなのでした。
 放置すれば気力・体力共に萎えに任せる八十の大台過ぎると劣化が幾重にも重なって、身体感覚のみならず心情面でも頭をもたげ、ニコニコ笑って手招きしてくれるのに、たった今会った御仁のご尊名や、行った場所の固定名刺を“ド忘れ”する。歩幅も歩速も徐々に衰えて信号が青の間に渡り切れない。数え出したらキリがないのであります。
 国立長寿医療研究センターが示しているフレイルの判定基準の一つに、歩行速度が秒速1メートル未満(大通りの信号を1回で渡り切れない程度)。とありますが、コロナ禍を契機として習慣づけてきた、早朝ラジヲ体操を横目に公園周回による体力劣化防止策。自称“ヨタ(与太)歩き”が、計測すると同じ秒速1mだったのです。公園池端1.2㎞を始めたコロナ“3密”回避から数年、歩き始めた頃は1周が18分で秒速1.1㎞。
 5年の月日を経てコロナも終焉したのですが、私の体力もこの間10%劣化したことになります。
恥の上塗り。数年前は「一日一万歩」が推奨され、周回4周りで11000歩。降雨や不測の事態に備えて“おまけ”付き。だったのに、最近は3周で止めてみたり途中で端折ったり・・・。まあ、地に落ちたものです。

 話それました。年初宣言の話題に戻ります。
 今年もやり通すぞ!!内心 気負いはあってもやはり老いの身。寝ぼけまなこで臨んだのかもしれません。うっかり よろけて転倒してしまったのです。
「元気ねぇ〜。手袋もしないで この寒いのに~」なんておだてられたのにかかわらず、左手親指から出血。なんて程度じゃない、真っ赤っか。
 早朝仲間とはありがたいもの。心配げに手当をしてくれ、救急車を呼ぶとか呼ばないとかの大騒ぎ。
1月1日早朝のこととて病院は受けてくれないので、4日まで血止めの“赤チン”さえなく、我慢、これまた我慢。
 正月早々というのにとんでもない罰あたり。受診結果はこれまたこっぴどい。左指2本骨折との診断。
ご親切にも「足じゃなくて良かったねぇ」とか、「左手だから我慢しなさいよ」。なんて言われますが、正直言って、“老いた我が身”に 対する自覚、認識が足りなかったですよ。“老いを舐めるな!!”。
これに懲りて、“よた仲間”から、しばしば耳にしてきた地域包括支援センターに介護の申請を手続きする事に相成りました。介護認定に“合格”すると、車で送迎付きのデーサービス付き厚待遇に浴することができるんだそうですよ。 骨折治癒まで約3ヶ月、目下リハビリと称して週2~3回の通院。場合によっては矯正の手術もなんて脅かされています。
 本文打つのも“五指不満足”故にイラつく限りのパソコン操作。 
 ただでさえ残り少ない人生勿体ない。これでも貴重な余生でなんですよ!!

ビデオのダビングを通して自分のアイデンティティを考える  富塚 昇

 私がこの場で発表させてもらうエッセイにはいくつかのパターンがあります。一つ目は教員としての授業や学校のこと、二つ目は身の回りの出来事のこと、そして三つめは、自分の在り方や自分とは何かというアイデンティティに関することです。ということで今回も前回(昨年10月例会)に続き3つ目のアイデンティティ問題がテーマになります。
 
 昨年の暮れから正月にかけて、思い立って昔撮ったビデオをブルーレイへとダビングをしました。近い将来ビデオが使えなくなり、その前にブルーレイにダビングする人が多いというニュースを見て、まず自宅で20年前から眠ったままだった8ミリビデオをダビングしようと思ったのです。幸いにも20年間使っていなかった8ミリビデオの本体も無事作動し、自宅でブルーレイにダビングすることができました。第一子誕生(娘)から、第二子(息子)の小学校卒業まで、1990年から2005年までのほぼ15年の記録、8ミリビデオにして50時間を超える記録です。
 話は変わりますが、哲学者のニーチェには「運命愛」という考え方があります。それは、端的に言えば「この人生をもう一度繰り返してもよいという生き方をせよ」という言葉に表されています。授業でもこの言葉を使って生徒に問いかけます。「君たちも次の人生があったとしたら今のT高校に入って頑張りたいって思うでしょ。僕ももう一度人生を繰り返しても高校教師になりたいと思うよ。ニーチェはこの言葉で後悔しない生き方をせよと言っているんだな」と。しかし、本当は実際は人生においてやり直したいことはいくつか思い浮かべることができます。中学時代もっと勉強すればよかった。そうすればもしかしたら第一志望の高校には入れたかもしれない。大学時代はもっとサークル活動に力を入れればよかった。そうすればもっと人生における人間関係が広がっただろうと。
 さて、昔の映像には自宅での子どもたちの成長の記録、幼稚園・小学校での運動会や参観日の映像、軽井沢や蓼科などいろいろなところに旅行に行った記録、豊島園の映像も何度も出てきました(平成の初めのころは、休日の豊島園はかなりにぎわっていました)。
 今回、昔の映像を見て改めて思ったのでした。人生を繰り返すことができたら、このビデオに記録された15年は絶対に同じ人生を繰り返したいところだと。前回のエッセイ(10月例会)で書かせていただきましたが、定年退職を迎え、娘は子供に恵まれ、息子が結婚することができ、私の人生もいよいよ終盤戦に入ってきたという思いを新たにしています。そんな時に昔のビデオを観たことは感慨深いものでした。センチメンタルな気持ちになるとともに、この時が私の人生の一つのピークであったという気がします。そう思うと、それだけでなく、ビデオに記録された15年を含んだ私の人生はやはり恵まれた人生だったなあと思えてきます。本当にお陰様でと思います。そして、残りの人生もニーチェの言葉を意識して生きていければと思っているところです。
 ところで、昔撮ったビデオの映像に30年前の自分も写っていました。自分の姿を見てあらためて思ったことがあります。さて、それはどのようなことでしょうか。・・・それは次のことです。「30年前の自分は、髪の毛がちゃんとふさふさ生えていたなあ~」。

屋台囃子とめんそーれ  照山忠利  

 2年前に大阪の姪の結婚式に招かれたのを最後に、白ネクタイとは縁がなくなった。これから先は黒
ネクタイばかりかと思うと寂しい気がするが、年齢からしてやむを得ないだろう。仕方がないので昔の
結婚式の様子を振り返ってみることにした。
 今から38年前の昭和62年、勤務先の長崎の炭鉱閉山に伴い、秩父山中のセラミックス工場へ転勤
した。当時会社はセメントの次の柱に育てようと秩父に電子部品のセラミックス工場を建て、その要員
として高卒の男女を大量に採用した。男子は主に九州の工業高校から、女子は地元の秩父の高校から。
新規事業を担った若い力は、当然の成り行きとして九州男と秩父女の多くのカップルを生み出した。
 秩父の披露宴の特徴は、娯楽の少ない山国だからか羽目を外しての無礼講だ。まず最初に新郎新婦側
の双方から「お相伴役」なる人が登場して宴会が始まる。この二人が薬缶から注がれたコップ酒をぐっ
と飲みほしてそのコップを下に向け「この通り蜂の巣にいたしましたー」とやるのだ。皆さん存分に飲
んでくださいとの合図である。宴が始まると勇壮な秩父屋台囃子が太鼓と笛で「テケテケドンドンピー
ヒャララ」と打ち鳴らされ、秩父音頭と共に踊りの輪ができてまるで娯楽大会の様相となる。コップ酒
のやりとりがまた凄まじい。こうした飲み会が3時間ほど続いた後に締めの挨拶がある。「本日はお日
柄もよく」とか「菊香薫る今日のよき日に」とかの枕詞に締めの祝詞を述べて「お手を拝借」となる
。「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」を3回。この締めが何と七の締めまで
続く。一、二、三の締めまではいいが七の締めに指名された人は大変。宴会で控えめに飲んだつもりで
も3時間ともなれば述べる祝詞も支離滅裂、自分でも何を話しているのかわからなくなる。引き出物が
またボリュームたっぷり。砂糖が1キロ入っていたり。お開きではこれをぶら下げ、千鳥足で帰途につ
くのだ。
 これに対して沖縄の披露宴もまた独特のものがある。15年前に日本トランスオーシャン航空のパイロ
ットをしている甥の結婚式に招かれた。那覇であった披露宴の客は250人ほど。これは普通で、多い時
は400~500人になるという。とにかく少しでも縁のある人には声をかけるのだとか。例えばゴルフで同じ組でラウンドした人なども。うっかり声をかけそこなったりしたら「あなたの家の結婚式に私は呼ばれなかった」と後々まで恨み言を言われるそうだ。
 変わっていることと言えば、親族の席が新郎新婦の近くの上座にあること。主賓や上客の席は2列目
から3列目あたりにある。また乾杯の音頭を親族がとることにも戸惑う。来賓の中のしかるべき人が務
めるものと思っていたら、何と私に指名が来たので面食らった。沖縄の参会者はほぼ全員が役者か歌手
のように、それぞれの余興を披露する。披露宴は自分の得意芸を発表する場と心得ているようだ。本格
的な三線演奏や琉球舞踊が始まり大演芸会と化す。新郎新婦の存在などなきがごとしで最後はカチャー
シーの乱舞となる。決められた時間に始まって終わるのではなく、いつの間にか始まりいつの間にか終
わる感じだ。それにしても乾杯の音頭で何を話したらいいか迷った挙句「めんそーれの沖縄130万の県
民の皆さんのホスピタリティに感謝して乾杯!」とやったら、盛んな拍手と指笛で応えられたが、今で
も親族の私でよかったのかと首を傾げている。
 家の孫息子が結婚適齢期になるまであと15年はあるだろうか。それまで生きていられるか自信がない
が、華岡先輩を手本としてもう一度白ネクタイを締めてみたいと夢想している。
                                   (了)