2025年6月15日(日)開催
名作を衝く 小林 康昭
芥川龍之介に、短編「蜘蛛の糸」があります。それは、次のように始まります。
“或る日のことでございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっし
ゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中に咲いている金色の蕊(ずいき)からは、なんとも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。”
物語はこの後、お釈迦様が天上の極楽から下ろした蜘蛛の糸にすがってよじ登って来る地上の亡者たちの愚かさを揶揄するのですが、ここで問題です。“引用した文”には間違いがあります。どこでしょうか。
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次にご紹介するのは、与謝野晶子の短歌です。
“かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな”
この短歌を刻んだ歌碑が、国宝鎌倉大仏が鎮座する鎌倉市長谷の浄土宗高徳院境内にあります。ここで問題です。与謝野晶子が鎌倉大仏を詠んだこの“短歌”にも、間違いがあります。どこでしょうか。
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上に挙げた二つには、御釈迦様が出てきます。御釈迦様は、浄土にいらっしゃる仏様です。浄土とは、仏教徒が成仏して赴くところで、極楽浄土、浄瑠璃浄土、霊仙浄土など、仏様の数だけ浄土があります。仏様には縄張りの浄土が決まっています。俗っぽく言えば、仏様はそれぞれの浄土の牢名主なのです。極楽浄土を縄張りにしている仏様は阿弥陀様です。極楽浄土は、浄土宗や浄土真宗の、念仏による他力本願を旨とする信徒が、成仏して赴くところです。御釈迦様の縄張りは禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)の、自力解脱を旨とする信徒が、成仏して赴く霊仙浄土です。
ここで、お分かりになりましたね。例文に挙げた芥川龍之介の短編では、御釈迦様が極楽におられることになっておりますが、御釈迦様のいらっしゃるところは極楽ではない。極楽にいらっしゃるのは阿弥陀様なのです。
与謝野晶子が美男と詠んだ鎌倉の大仏様は、釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来坐像とされております。つまり、阿弥陀様なのですね。したがって、かの短歌は、かまくらや みほとけなれど 阿弥陀様 美男におはす ・・・でなくてはなりません。ですが、その歌碑は改められることもなく、今もなお、釈迦牟尼のままで建っております。芥川龍之介も与謝野晶子も、共に文学史上に名を残す偉才なのに、彼らにして、このような間違いを犯すということです。
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次に、菊池寛の「恩讐の彼方に」を、ご紹介します。凶状持ちの男が豊前国(大分県)の難所に青の洞門を開削した、江戸時代の話です。使用人の市九郎が主人の中川三郎兵衛の妾と密通し、露見したので、三郎兵衛を斬り殺して出奔します。中川家は家事不始末につきお家断絶の沙汰を受け、家族は散り散りにされてしまいます。
三郎兵衛の幼い息子、実之助は父が死んだあと親類のもとで養育され、長じて父の死の顛末を知ると、道場に入門して腕を磨き免許皆伝を得ます。藩庁から仇討の許しを得て諸国を遍歴し、艱難辛苦の末に市九郎に巡り合います。市九郎は出家して名を了海と変え、ノミを振るって難所の岩場で洞門を掘っていました。
了海は素直に斬られることを望みますが、間に入った人たちの計らいで洞門開通まで日延べすることにします。実之助も本懐を早めるべく掘削に加わります。その2年後に洞門は貫通します。了海は約束通り実之助に自分を討たせようとしますが、実之助は市九郎の大慈大悲の心に打たれ、仇討の心を捨てて、了海と手を取り合って感激の涙を流す、という筋書きです。
敵討ちの公認を得た者が、自分勝手に判断して、仇の相手を放免できたでしょうか。当時の決まりでは許されませんでした。実之助の本懐を待ちわびる実之助の家族たちが、沙汰を解かれて一家で暮らす元の生活に戻るには、仇討を果たさねばならないのです。菊池寛は、時代検証を怠ったのか、それとも無視したのか。これは、致命的な欠陥です。
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新しい作品をお目にかけます。“「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日”
ご存じ、俵万智の短歌です。そもそも、サラダの味って、料理の味つけではなく、ドレッシングの味ではないのか。そのことは、初めて刺身を食べた外国人が「刺身の味とは醤油の味だ」と喝破していることに通じます。
一般に男は、サラダよりも味噌汁の味を好むようです。その恰好なモデルが、今から60年前の平岩弓枝原作、池内淳子主演の東芝日曜劇場のテレビドラマ「女と味噌汁」です。男は美味しい味噌汁を味わうと、途端に機嫌を良くするのです。このドラマは当時、高視聴率を記録しました。味噌汁の味に説得力ありです。
この短歌の設定では、彼氏は何処で彼女の手作りのサラダを食べたのでしょうか。彼女の自宅か彼氏の下宿先か。それとも、別の場所か。いつ食べたのでしょうか。もしかしたら、彼女は彼氏の下宿先で、朝食か夕食にサラダを作ったのかもしれません。短歌31文字では表現に限りがあるので、適当に想像して頂戴、となります。そこで適当に妄想することになります。朝食だったら、前の晩から泊まっていたのかもしれない。夕食だったら、そのまま泊ったかもしれない。ところで、早稲田に一流の女が輩出する時代です。
田中真紀子、吉永小百合、荒川静香、多和田葉子、小川洋子、俵万智・・・。そして、理工学部出身の佐々木葉早大教授が、なんと、土木学会長を務めております。良い時代になりましたね。
米騒動でウケ狙い 加藤 厚夫
「貧乏人は麦を食え」 連日の小泉大臣の備蓄米報道を見ていてふと思い出した。昭和25年昭和米騒動時代での池田勇人大蔵大臣の国会答弁だという。まだ5歳だったころで当時貧乏家庭だから外米ばかりを食べていた。いつも砂利が入っており歯にガリっときて吐き出すと親父が全部吐くな、もったいないとよく注意されたものである。この池田大臣の貧乏人は麦を食えは「所得に応じて麦を食べてもいい」と言ったことを、一部のマスコミがうけ狙いで池田発言を短絡化し揶揄ったことにある。しかし翌日辞任させられてしまったが本人はウケを狙った訳ではないのだが。後日、娘の池田紀子さんが「当時うちでは麦飯ばかりでした」と語ったことでも分かる。それにひきかえ江藤大臣の迷言はコレとは真逆で、国民全員がコメの高騰に困っている最中「うちではコメを一度も買ったことはないよ。今も自宅の倉庫に売るほどある。コメはもらうものだと思っている」とおっしゃる。
(そうか先月孫たちに4500円もするゆめぴりかを買うんじゃなかった。人からもらうという手があったのか)と気づいたが、では誰からもらえばいいのか、大臣からのご教示がなかったので困惑した。
若い時から永年議員秘書かでのうのうと苦労された二世議員だからやむおえんが、同じ二世でも小泉大臣とはだいぶ違うようだ。しかもその弁解答弁も「これは宮崎県民の受けを狙って言ったのだ」というからますます不可解だ。一方その備蓄米報道である意味受け狙いで成功したのが玉木代表だ。例の古古古米をエサ米だとおっしゃった件だ。最近少々のぼせ上っているのなら、せめて石田純一流に「不倫の文化米」とでも言えば意味不明だがウケたかもかも知れぬ。
しかしTVアナウンサーは喜んだ。番組で「コココ米」などとニワトリのごとく言わないで済み、エサ米ときわめて言いやすくなったからだ。
以上の例のようにウケ狙いは実に難しい。言葉の裏に隠された、ユーモア、お惚け、ジョークなどを相手がどう受け取るかを一瞬で判断しなければならず、自分だけが満足してしまうケースが多いからだ。
最近気づいたことがある。昔からの飲み仲間が老齢化しウケやジョークが通じなくなってしまったことだ。
ほんの一例だが「この頃、市川サル之助はどうなってるんだ」と聞くと(猿之助だよ)と教えてくれるし「中居さんと女子アナとの現場での状況をハッキリさせない限り」といえば(なんで中居にサンなんか付けるんだよ)と折角小馬鹿にして言っているのに一向に通じない。昔は冗談ばかり言っていた奴なのだが。元部下に長野駅で「汽車の時刻を見てから飲み屋を決めようよ」と言えば(新幹線の時刻ね)と正確に訂正してくれるからありがたい。こうなるとこちらも疲れてムキになり「ここで山手線に乗り換えて帰るわ」とは言わずワイは「省線」で帰るよと言うことにした。
大網白里での二つの再会 富塚 昇
高校時代の友人からの今年の年賀状で次のような近況報告が書かれていた。「お嬢さん夫婦が千葉県大網白里市で農家となっているので、お嬢さん夫婦の住まいの近くに小さな家を買って、月のうち半分は大網白里で農作業の手伝いをして暮らしている」というのである。「大網白里か、昔何度も行ったところだな」と思っていると、3月にその友達から、あと二人の友人を誘って大網白里に来ないかという連絡があった。お嬢さん夫婦が住んでいる家は、古民家を買い取って民泊もやっているので3人は問題なく泊まれるということで話はすぐまとまった。3月24日から一泊で大網白里に行くことになった。4人の友人は高校1年の時に同じクラスで、高校時代は言うまでもなく、大学生になっても飲みに行ったり、旅行に行ったりして交友関係を続けていた。ただ、お互いに結婚をして子どもが生まれてからは会う機会がめっきり減ってしまい、年賀状だけの付き合いとなりほぼ30年ぶりの再会ということになった。本当に久しぶりに会って、九十九里の海産物に舌鼓を打ちながら昔話に花を咲かせることができた。1年後の再会を、そして毎年の恒例行事にすることを約束して別れた。
大網白里に行くならば、私はもう一か所行きたいところがあった。昔何度も行ったと書いたが、それは今から55年以上前、私の小学生時代にさかのぼる。大網白里は母方の祖父の生まれ故郷で、祖父が母や私の兄たちとともに里帰りをしたときに私も一緒に行ったのである。祖父の実家は大網白里の木崎というところにあったので、木崎の家という言い方をしていた。祖父は次男で、木崎の家には祖父の兄の一族が暮らしていた。なお、以前、この場で私の父(千葉県佐倉中学出身、陸軍士官学校を経て早稲田大学理工学部卒)のことを書いたことがあるが、父は母と結婚をして、その後数年して富塚家に婿養子となったため富塚姓を名乗ることになった。祖父は1893(明治26年)生まれで、その年代として
は長生きで94歳で1988年に亡くなったのだが、祖父が亡くなってからは家族や親せきの間で木崎のことが話題になることはほとんどなくなった。
大網白里に行くのならば、友人と会う前に木崎に行ってみようと思った。私が最後に木崎に行ってから55年ほどたっており、木崎の家がその後どうなっているのかについて全く情報はなかった。地図を見て、確か近くに神社があったはずだと思い、その神社の住所をネットで調べ、その住所をカーナビに入れて出発した。大網白里市に入りナビに入れた神社を過ぎ、そのまま車を進めると、昔見たことがあるような家の屋根が見えてきた。ここに違いない。車を止めて門にある表札を見ると「富塚」とあった。懐かしいなあ。確かに小学校の時にここに何度も来たことがあるなあ。当時私は釣りが好きで、近所の小川でフナ釣りをしたことがあった。九十九里に流れ込む川でハゼ釣りに連れていってもらった
こともあった。そんなことを思い出しながら、家のベルを鳴らしてみた。すると老夫婦が出てこられた。私は、「突然すいません。私は富塚清の孫の昇といいます」というと、ご主人は「え、清さんのお孫さん!」ということですぐわかってくれた。その方は私の祖父のお兄様のお孫さんで、親の兄弟の子どもがいとこならば、祖父の代の兄弟の孫ははとこということになる。私が小学生の時、そのはとこの方は20歳半ばで会社勤めをしていて私もその方のことは覚えていた。電話で連絡することなどもできず、突然訪れることになったのでそれはそれは驚かれていたが、とても喜んでいただき、55年ぶりの再会で家族や親せきのことを懐かしい思いで語り合ったのでした。
いいとしこいて 谷川 亘
先の練稲エッセイ例会では、“いい歳こいて”お恥ずかしい話の披歴に終始してしまいました。
コロナ禍以来の“からだ鍛えてボケ防止”。元旦の早朝ラジヲ体操兼池端まわり数周しての“目標一万歩
”。老骨鞭打って“今年こそ老いに挑戦”と意気込むのは「至極当然」。と、仰っていただけると思いますが、急いては事をし損ずる。
“ヨタ走った”途端に転倒して左手指を二本も骨折してしまいました。現代整形医学では転倒して、たとえ足の付け根を骨折したとしても、チタン合金や人工骨頭等でしっかり幹部を、間髪入れずに固定して、筋や筋肉の萎縮を防止するべく一日後にリハビリを始めているのだとか?
老いた私の指の回復度は当然遅めなのは目をつぶるとしても、添え木外した後のリハビリもまだまだ進行中。もう半年というのに曲がったまんま。お若い理学療法士の“おゆび撫でナデ“も快適でないと言ったら嘘になりますが流石に長すぎる。早朝雑談するオバチャマからも、「逆に、患者の方から全快宣言したら如何?」なんて“入れ知恵”されております。
骨折したら添え木して、くっつくまでじっと我慢の子であった。なんて古い古い・・・。
わが身考えるに、既に87まわり。頭のテッペンから足の指先までシミ、いぼ・いぼ、禿と出っパラ。ありとあらゆる“老い花の”花盛り。外見は言うに及ばす内側に至っては様々な癌細胞が出番待ってるし、視力・聴力・嗅覚力は落ち込んで、ご飯食べるのも差し歯の世話になる。インプラント装着しても耐用年限前にあの世行き必至。
長生きし過ぎているんですよ。
いや、言い方変えると、望んでもいないのに長生き“させられている”のですよ。矛盾することを敢えて言わせていただくと、医術の進歩こそ罪多き張本人なのです。
「人生僅か五十年」と言えば、「五十歩百歩」というたとえもあります。
片やひと昔前は人様の寿命僅か50年。まだまだやり残したことが山積しつつ旅立つ。長生きしたかったのだろう。一方で、50歩100歩でも、短くもなし長くもなし。似たり寄ったりの、言ってみれば、“どっちつかずでほぼ同じ”ともとれる。長短何れであっても人それぞれなのですよ。
医術進化に伴って平均寿命は延びるものの、心身ともに元気にして、安堵感をもって最期を迎える確率
は減って行くのではないか?歌の文句じゃないけれど“幸せ一杯夢いっぱい”なんてそうは問屋が卸さない時勢になってきていますよね。
相済みません。“いい歳こいて”冗談交えての呆け本番。そうですよ。梅雨本番の線状降水帯のまっ只中
、終着駅への青信号がうっすら見えかかっているんですよ。
熱中症 照山忠利
近くの農園を借りて野菜作りを始めて7年ほどになる。会社勤めをしていたころは、通勤の道すがら
農園の楽しそうな様子を脇目で見ていたが、リタイア後は自分でもやってみようと区の都市農業課に申
請して区画を割り当ててもらった。いわゆる「区民農園」で年間使用料は1万7千円。「たのしい野菜
づくり」という小冊子を頼りに、見よう見まねで栽培に挑戦した。最初はまずジャガイモから。次いで
キュウリ、トマト、ナスなどの夏野菜。子供のころ手伝った農作業を思い出しながらやっていると、近
くの区画の先達が聞きもしないのにあれこれと教えてくれる。勝手気ままに耕して肥料をやり種をまい
たり苗を植えたりしていると素人ながらそれなりの野菜がとれる。姿かたちは悪くてもスーパーで売っ
ているものに比べたら格段に新鮮でおいしい。大都会の中での野菜づくりはある意味でぜいたくともい
えるし醍醐味と言ってもいいだろう。
この慣れ親しんだ区民農園が昨年、圃場整備のため1年休園となった。こちらも1年休むか、近くの
別の農園を借りるか迷った末一番近い「体験農園」に参加することにした。区画面積は区民農園とほぼ
同じ約30㎡だが使用料は年間4万3千円とかなり割高。ただしこちらは農機具類は完備、作物の種や
苗はすべて支給され、耕作や肥料など営農指導もしてくれる。教えられるままに作業をしていれば立派
な野菜がとれる。先日NHKの取材チームがやってきて映像を撮っていった。7月下旬ごろ放送の予定と
か。得意顔の園主が言った。「ここの畑でとれた野菜をスーパーで買うと9万5千円するとの試算があ
ります。4万3千円は安いですよ」。
そうかもしれないが費やした労力は相当のものだし、一番の欠点は自由度がないこと。決められた作
物を全区画一斉に作らねばならない。自分の都合の良い時に好きなものを作るのは許されない。日程が
タイトなときはどうしても無理な作業を強いられたりする。
今年の春から夏にかけての作業は一段落だ。小松菜、カブ、ほうれん草、サラダ菜は終わり、いまは
ジャガイモ、インゲン、キュウリ、ピーマン、ズッキーニなどが収穫時期となっている。まもなくトマ
トとナス、枝豆、トウモロコシが始まるだろう。
つい先日の昼頃、収穫と手入れのために農園に出かけた。作業をしていると時間が経つのを忘れ、あ
っという間に2時間ぐらいは過ぎている。その日はさほど暑さは感じなかったのだがひどく疲れた気が
した。帰宅して玄関に入った途端、全身脱力で動けなくなった。「あんたどうしたの!」と家人が驚く
。「水をくれ」と言って上がり框に腰を下ろしたまま15分ぐらい。シャツを脱ぎ水を含みじっとして
からシャワーを浴びたら漸く動けるようになった。これがいわゆる熱中症というやつか。ニュースで高
齢者が救急車で運ばれるのを、これまでは他人事として見ていたが、まさか自分がその憂き目に遭うと
は。救急車のお世話にならずよかったが、自分もまぎれもなく高齢者であることを思い知らされた。水
分の補給を怠ったのが失敗の原因だったようだ。野菜づくりに熱中して熱中症になったのではシャレに
もならんわと自嘲している。
ちなみに来年は新装なった元の区民農園に戻り、マイペースの耕作を楽しもうと思う。「体験農園」
で野菜づくりのノウハウを十分会得したので、自分の力でその成果を出せるのではないかと期待してい
る。
(了)
