エッセイ同好会124回定例作品集

2025年8月16日(土)開催 (※到着順)

ニュートリノのこと

 飛騨の旧神岡鉱山の地下650mにまたまた大穴がえぐられた。東京大学宇宙線研究所のしたことである。これが三度目である。今回は大穴も大穴、直径68m、高さ71mと半端でない。これは「ハイパーカミオカンデ」建設のためで、2028年の完成を予定している。ニュートリノのさらなる観測成果が期待される。
 ここに言う「カミオカンデ」も「ニュートリノ」も私たちが初めて聞く言葉ではない。最初のカミオカンデは同じ場所の1000mの地下につくられた。大きさが直径16m、高さ16mの水槽だった。その成果として2002年に小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞した。次いでもっと大きい「スーパーカミオカンデ」が建設された。直径39.3m、高さ41.4mの水槽だった。これにより「ニュートリノ振動」という現象が発見され、梶田隆章教授が2015年にノーベル賞を受賞した。これは、素粒子の理論体系をゆるがす大発見だった。
 それにしても、なぜそんなに大きな水槽を山の下の奥底につくるのだろう。ニュートリノとはいったい何だろう?
 宇宙の彼方から飛んでくるさまざまの放射線を総称して宇宙線という。そのひとつにニュートリノと呼ばれる素粒子の飛来がある。透過力が強く、私たちの体を通過しているし、地球さえも貫通してしまう素粒子である。これが神岡の山の上から差し込んで来たり、地球の反対側からも差し込んで来て、カミオカンデの水槽を通過する。このときわずかな光を発することがあるのだそうだ。この光をとらえる装置がカミオカンデである。スーパー、ハイパー、とだんだん大きなものがつくられる。「大きいことは良いことだ」らしい。
 水槽の壁面全体は一見野球場の投光ランプのような受光管(光センサー)でうめつくされている。過去に、スーパーカミオカンデの受光管が次々に破裂する(正しくは爆縮という)事故があった。修復に3年くらいかかった。このとき受光管が、ある名人の手作業で作られているということをNHKがテレビで紹介していた。今度あらたにつくられるハイパーカミオカンデは2万個を越える受光管を使うそうだ。これをいったいどのようにして調達するのだろう?
 カミオカンデの水槽に満たされる水はきわめて純度の高い純水でなければならない。その純水を製造するきわめて大型の装置が水槽の脇に併設される。私たちは水というと電気を通すもののように思うが、それは純度が低いからで、カミオカンデの純水は完全な絶縁体の状態になっている。
 ニュートリノ自身は20時間ほどの寿命しかないのだそうである。ならば、それが宇宙のはてから地球まで飛んで来るというのはおかしいのではないか、と思う。「光、または光に近い速さで運動する物体が持つ時計の進み方は、地球上の私たちの時計よりずっとずっと進み方が遅い」ので、地球までやってくることができるのだそうだ。

追憶の戦中戦後   小林 康昭

 「おとうさん、起きてください」深夜に隣で寝ている夫に声をかけたのは、私の伯母である。「玄関を開けてやってください。帰って来た健三が入れないで困っています」息子の健三は今、南洋の戦地でご奉公している筈である。玄関の外には案の定、誰もいなかった。数週間後、役場の吏員が「名誉なことで」と一葉の紙片を差し出した。健三の戦死の報せだった。数か月後、健三と任地を同じくする戦友が悔やみに訪れた。彼が告げた米軍の空襲の日と時刻を、時差換算すると、内地はその日の深夜だった。今わの際に健三の魂は、母親のもとに飛び込んできていたのだった。

*  *  *

 大工のAさんは、いつも海軍式の敬礼を送って来る。彼は、海軍の飛行機乗りだった。真珠湾とミッドウエーで米軍機を4機、撃墜したことが自慢である。ミッドウエーで戦闘を終えたとき、帰艦する母艦は既に米軍の攻撃を受けて沈没し姿がなかった。友軍の艦船を探して飛び続け、ようやく見つけた駆逐艦の近くに不時着して救われた。「燃料切れになっていたら」Aさんは苦い笑いを浮かべた。★修理工のBさんは、下士官としてニューギニア横断作戦に参加した。島の東部の北岸に上陸し、3千メートル級の山脈を超えて島を横断し、南岸の要衝ポートモレスビーを占領する。Bさんたちは斥候として本隊の先を進み、行く手に潜む敵兵を排除していく。たどり着いた南岸ではポートモレスビーの灯りが遠望できた。そこで後退の命令が出た。 弾薬と食糧の補給ができなくなっていた。食べる物もなく元来た道を歩き続けた。疲れて道端に座り込む傍らを、幕僚を従えた司令官の安達二十三(はたぞう)中将が、外套姿で通り過ぎて行った。戦友たちは路傍に屍をさらした。Bさんが死体に近づいて顔を覗き込むと、死んでいると思った兵の口が開いた。「私はまだ生きております。私を食べないでください」★Cさんは、海軍兵学校を出て戦闘機乗りになった。成績優秀で、戦争末期、鹿屋の基地に転属した。若い兵士が搭乗する特攻機の誘導が役目だった。毎日、特攻機を引率して南の空に向かう。特攻機は旧式で速度が遅く、Cさんは速度を緩めて飛ばないと、ついて来られない。
 ある地点で「これから先は」お前たちで行けと突き放す。基地に戻るのは、Cさんの唯一機である。終戦後、Cさんは早稲田大学の理工学部に入学し、土木技術者となって、大手建設会社で専務取締役まで上り詰めた。★東大病院の医局で勤務についていた叔父が、昭和19年末、軍医として南方の島に送られた。勤務地は島に立てこもる部隊の野戦病院。終戦時に部隊で生き残った将兵のなかで、最上位の士官は軍医中尉の叔父だった。叔父は部隊を代表として、武装解除の書類に署名させられた。

*  *  *

Dさんは戦後2年、昭和22年に復員してきた。それまで米軍の捕虜収容所に収容されていた。彼は硫黄島で終戦を迎えた。日本軍は勇猛果敢に戦い大戦最大の激戦の末に玉砕したが、Dさんは地下にこもって陣地のトンネルを掘っていたので命を長らえた。硫黄島からの生還者であるDさんに、収容所の看守は激戦の勇士として敬意の眼差しを向けたそうだ。★Eさんは、戦時中は満洲で鉄道工事に従事する土木技術者だった。戦後、抑留したシベリアでも鉄道工事に従事させられた。作業は過酷でノルマは厳しかった。監督のソ連兵の裁量や指図に間違いが多かった。特に作業に先立つ測量が稚拙で作業が遅れた。時間内にノルマが果たせないと、ソ連兵は怒って、更に過重な仕事を追加する。粗食の日本兵たちは体力を消耗し、死者が出て来た。見かねたEさんが申し出て測量係を務めた。仕事が進むようになって、ノルマを果たせるようになった。 測量の補助作業には、箱尺・ポール持ち、テープ測定、野帳の筆記などの軽い作業がある。皆はこの補助作業につきたがった。Eさんは、衰弱した者を優先的にその作業に充てた。ノルマが果たされると、ソ連兵は喜んで、食べ物を追加する。Eさんは、それを衰弱した者に与えた。彼らはみるみる体力を回復していった。折を見てEさんは、補助作業を別の衰弱していた者に交替させた。ノルマを常に果たすE さんの裁量に、ソ連兵は口を挟まなかったという。★Fさんは陸軍士官学校を出た陸軍騎兵。戦地では戦車乗りだった。2年下にGさんが部下として行動を共にしていた。Fさんは戦後、復員して闇屋稼業をしていたが、思い直して早稲田大学の理工学部に入学して土木技術者になった。就職した建設会社には既に土木技術者としてGさんが勤めていた。Fさんが副所長として配属された職場の現場所長がGさんだった。副所長のFさんは定刻前に職場に出て、その日の仕事の段取りを始める。定刻に所長のGさんが現れて、副所長のFさんの前で「おはようございます」と頭を下げ、Fさんは胸を反らして「おはよう」と受ける。所長室に入ったGさんに、Fさんが口調を変えて「所長、今日の作業のことですが」と切りだして副所長と所長の会話が続く。退け時に帰り支度のGさんが、Fさんの前で「お先に失礼します」と挨拶し、「ご苦労さん」とFさんが応じる。職場の所長のGさんと副所長のFさんは、職場を離れると陸士時代の序列に戻るのだ。

*  *  *

 ビルマの現場所長のときだった。先の大戦の元日本兵やその遺族がやって来て、戦跡を巡って戦死した戦友を弔う。独りの元日本兵が現場宿舎で戦時中の愚痴をこぼした後、一泊して戦跡巡りに出て行った。1週間後に戻ってくる手はずである。現地の商社マンが、事務所に居る元英軍兵士をその元日本兵と引き合わせたい、という。その引き合わせの席で元英軍兵士は、元日本兵に向かって「今まで戦ったどこの兵士よりも、日本軍の兵士は最も勇敢で強かった」と言った。翌日、帰国する元日本兵を空港に見送った。彼は「所長さん。こんなに嬉しかったことはありません。イギリスの敵さんに最も勇敢で強かったと言われたと、冥途の仲間に土産に持って行きますよ」彼は、頬を涙で濡らしていた。私は通訳するとき、元英軍兵士の最後の一言を、敢えて省いていた。「その日本軍に、我々は勝ったのだ」

2025年夏、社会科教師として思うこと   富塚 昇

 何から書いたらいいだろうか。とにかくなんだか落ち着かない。2学期の「政治・経済」の授業をどうしようか。2学期の授業では社会保障、労働問題、消費者問題、そして国際経済を取り上げる予定である。1学期の授業は経済分野を取り上げ市場経済、国民所得、金融、財政などの授業を行った。
 現在、非常勤教員として勤務している戸山高校はいわゆる進学校で、3年生で学ぶ「政治・経済」という科目は「大学入試共通テスト」で「政治・経済」を利用しない生徒にとっては、受験に関係ない軽視されがちな科目となってしまう。教科書やノートで隠していわゆる「内職」をする生徒も少なからず発生するため、授業の内容の充実とともにいかに内職をさせないようにするかも大きな課題となる。
 社会を知らない社会の教師として、何ができ何をしなければならないか。戸山高校の授業では内職をさせないことと、民法が改正され18歳成人となり誕生日が来た生徒から選挙権を行使することを意識して、「時事問題」の時間を設けることにした。学校の図書室には朝日・毎日・読売・日経・産経・東京の6つの新聞が入っていて、1週間分の新聞記事に目を通し、重要であり論争的なテーマの記事などコピーしプリントにまとめて、翌週の授業2回のうち1回について15分程度時間をとり解説するのである。
 ところで、私が教員となったのは1983年のことで、この頃は米ソ対立、冷戦構造の中で保守と革新という対立構造が見られる中での授業構成をしていたのではないかと思う。その後、冷戦終結とともにソ連の解体があり、世界は大きく変わった。そして、2001年には同時多発テロが起こった。経済面では1980年代日本経済は絶頂期にあったと思われるが、その後バブルが崩壊し、失われた10年、20年、30年といわれる状況となってしまった。非正規雇用が増え、氷河期世代の在り方が社会に大きな影響を与えることが指摘されるようになり、少子高齢化も進んだ。そしてアメリカではトランプ大統領が誕生し、国際社会に大きな不安要因ともなっている。そんな社会の変化の中で、民主主義の在り方が問われ
、「ポピュリズム」が注目を集めるようになっている。また、社会の様々な現象を理解するためのキーワードとして「分断」が注目されている。
そして参議院議員選挙と2学期の「時事問題」の授業である。「政治・経済」の授業であるなら、社会における対立を取り上げることは必要なことである。対立を取り上げることで様々な考え方について思索を深めることができる。これまでは、対立の多くはイデオロギーの問題としてくくることができたかもしれない。しかし、今回の参議院選挙は選挙の争点は対立を生み出す土壌が大きく変わったのではないかと思わせるのである。そして、「消費税」や「外国人政策」そして、選挙にSNSがどのような影響を与えるのか。「分断」と「ポピュリズム」は、授業を行う授業者の在り方について今まで以上にどのような授業を行うべきかを問いかけてくるようだ。ポピュリズムは大衆迎合主義と訳されるが、ある論者によるとポピュリズムの本質は反エリート主義だという。教育学部の3年の時の政治学のゼミで岡澤憲芙先生は、私たちに向かって次のように問いかけたことをとても印象深く覚えている。「君たち、セカンドエリートとしてどのように生きるのか」と。そして、これからの社会保障の在り方について、若い生徒と定年退職をした私とでは分断の一つの形として「世代間対立」という現象も表面化する。
私の教員生活も非常勤教員として首の皮一枚つながっている状況である。とりあえず最初に書いた参議院議員選挙をきっかけに大きくなった「なんだか落ち着かない」という気分を確認しながら、「なぜ、落ち着かないのか」ということを自分自身に問いかけ、探求することを通じて授業を構成していかなければならないのかもしれない。

米との係わり    華岡正泰

 物価は需要と供給のバランスで決まるもの。昨年の稲作 作況指数101の平年作とされたが 小売り価格は一時前年比2倍にも高騰した訳が分らない その上 統計と農家の実感は異なるとか 農家と農水省の篩の目盛りが違うと言い出されては もう 何おか況んやである。
 幸いにも我が家 この令和の米騒動に巻き込まれることなく過ごしている。それは 前農相ではないが 米は貰う物で 買う物でないからである。新米の時季になると 古くから親しくしている福井のお方から“こしひかり”発祥の地である“福井のこしひかり”と“新種いちほまれ”を送って下さるのと 定年後 趣味の農業を始め 品評会で1位を獲得するに至った福岡は宗像の遠縁の者が 美味しい自慢の米を送ってくれるからである。94と90歳の老夫婦が細々と食べていくにはこれで充分なのである。
 然し私とてこれまでの人生 米との係わり平穏無事ばかりではなかった。
 それは学生時代だった。学院と学部2年までは 赤坂乃木坂で歯科を営む義伯父の家から通っていたが1952年(昭27)弟が法学部に合格し上京することとなり 二人も義伯父の世話になることが憚られ 兄弟二人での下宿を決めた。当時 主食の米は食料管理制度に基ずく配給で 食事付下宿は一軒もなく学生は皆 間借りしての自炊か外食で 我々も自炊することにした。折から 曽て親父が面倒をみたという人が亀戸の日立を退職して新小岩の中川沿いに下請け工場を建て その工場事務所二階を夜警の名目で無償提供しようとの話が持ち上がり 有難くお受けした。自炊にはまず米だが 配給米は年齢別に一人一日 1~5歳120g~10歳200g~60歳330g~300gと定められ 配給日に一世帯一冊の米穀通帳を持参して購入したが 配給そのものが遅れたり滞ったりは日常茶飯事だった。手に入れる米は一部をそば屋やパンを買う時に必要な外食券に換えていたが 残りの米を普通の飯に炊くと一週間で底を突くので 飯は精々3~4日。後は水たっぷりの粥にして食いつないだ。米価は 家計簿によると二人二日分221円200円189円とあるからキロ換算すると145円で 私のオボロゲ乍らの記憶100円より高くなるが 豆腐、納豆10円 風呂12円 新聞ひと月280円の時代からすると米は高価で 入手ばかりではなく代金支払いにも苦労したことが窺へる。
令和の米騒動。備蓄米など米は在るのだし 増産 輸入も可能。行政の問題だ。小泉農相張り切って見えるが 功を焦らず腰を据えて 米の生産から 流通 消費 全般に亘っての改革を遂げてほしい。 今年の米 暑さと水不足で量、質に問題起こしそうだ。                 

                                           おわり

乳がん    照山忠利

 今月初め、故郷の日立市で中学校のクラス会があった。昨年に続いて2回目。地元の海水浴場で行われる花火大会に合わせて集まろうとの趣旨だ。花火大会は折からの台風9号の接近で翌日順延となったが会合は予定通り。花火はいわば口実のようなもの。集まって大いに歓談することがメインなので全員一致の決定だった。
 場所は太平洋の荒波が打ち寄せる断崖の上に立つハウス。はるか沖合を北海道往復の大型船が行き交う。ここからのオーシャンビューは、癒しと共に勇気を与えてくれる。このハウスは級友の細君が数年前までエステサロンとして使っていた建物なのでしゃれた作りになっている。庭先につきだしたバルコニーでバーベキューを楽しもうとの算段である。
 集まったのは男ばかり9人。女性陣は残念ながら故障者が多く参加者ゼロ。東京からの参加者は小生のほかにもう1人、板前歴50年の大御所だ。目利きの彼が張り切って肉や魚の高級食材をふんだんに調達してくれた。
 暮れかかる海を眺めながら会費1,000円のパーティがいよいよスタート。傘寿間近の爺さんたちが目を白黒させながら分厚い霜降り牛や地元産の新鮮魚介のご馳走にかぶりつきビールを流し込む。花火はなくても話に花が咲き大賑わい。話題は在校時代の思い出から級友たちの消息、これまでたどってきた人生航路など、初めて聞く話も興味深い。これまでに級友50人のうち5人が鬼籍に入っている。クラスで一番のスポーツ万能の人気者だった男もこの1年で世を去った。さすがに以前聞かれた孫自慢は影をひそめ、代わりに病気自慢(?)が幅をきかせる。高血圧から糖尿病、心臓疾患、前立腺、胃や大腸の不具合、脳梗塞に白内障などなど、いやはや出るは出るは、五体満足な者はいないみたい。あいつに比べりゃ俺はまだましな方かなどと妙に安堵してみたりする。
 そんな話の中である男が「実はオレ乳がんにかかってね」と言い出した。一同唖然とする。
男が乳がんになるなんて聞いたこともなかった。「病院の待合室では女性ばかりの中で恥ずかしい思いをした」とのこと。そりゃそうだろうなと同情しつつ「で、どんな状態だったの?」とさぐりを入れる。はじめは乳房(?)にしこりのようなものが出来てそれがだんだん固くなり、患部が変色してきたのだとか。こりゃいかんと医師の診察を受けたら乳がんとの宣告で、切除の手術に踏み切ったという。今は幸い完治して事なきを得ているそうだ。
 乳がんは多くの女性が罹患し今日珍しくない。放射線で治療しようか手術しようか、手術も全摘するか部分摘出か、乳首を残すかなどいろんな選択肢があるようだ。調べてみたら米国のデータでは女性は8人に1人が罹患するのに対し男性は1,000人に1人で60~70代の年代に多いといわれている。
 男の乳がんなどこれまで寡聞にして知らなかった。まもなく八十路に差し掛かろうというのにまだ知らないことがあったのだ。人の話は聞いてみるものだと改めて思い知った次
第である。                                    (了)

7月21日の春秋    矢萩 隆三

 2025 年夏の参院選という歓心を買わんがためのバラマキ公約合戦。
 古代ローマの詩人の警句「かつては、政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている。すなわちパンと見世物を!」
 パンすなわち暮らしの糧が減税なら、サーカスすなわち見世物は政局そのものでしょうか。
「日本人ファースト」「核武装が安上がり」大仰なキャッチフレーズでネットウヨの歓心を誘い、保守的かつ排外主義的な主張を展開し、大衆の熱狂を受け躍進した政党があります。
 ちょうど100年前、日本で普通選挙が始まったころ、ドイツではアドルフヒットラーが「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対し訴えかける部分は最小にしなければならない」と唱え、巧妙なプロパガンダによる世論操作と大衆扇動により、史上最も民主主義的と評されたワイマール憲法下において、選挙を通じて議会第一党となるなど、合法的な政治活動のもとに政権を獲得しました。決して、クーデターや暴力革命によって政権を奪取したわけではありません。当時のドイツは経済危機や社会不安に陥っており、国民の不満を巧みに煽りつつ、日々の憂さや将来不安を糊塗する政策を大いに歌い上げ大衆を熱狂させ、国民からの支持を拡大することに成功したのでした。
そもそもナチスとは、国民社会主義ドイツ労働者党の略称です。ドイツ人プロレタリアートによる社会主義共和制国家の確立を標榜した政党です。しかし、実態は強権的非人道的組織でしかなかったのです。
 減税と積極財政とを同時に行い、経済を活性化させ国民を豊かにするということは、とても聞こえの良い魅力的な政策ですが、財源として赤字国債の増発を招かざるを得ないことは明白です。デフレ脱却「2年で2%のインフレーション(物価上昇)」実現のため、異次元の金融緩和と称して、日本銀行が金融機関から大量に国債を購入することで金融市場への資金供給量を飛躍的に膨大させ、さらには経済対策と重ねて、公共サービスや公共投資といった歳出を維持するために国債を増発し続けました。今や我が国の国債発行残高は名目GDP の 2 倍 1,100 兆円に達し、日本銀行が保有する国債残高は 590 兆円です。この借金は誰が返すのでしょうか。私たち親世代は、“今さえ良ければ後は知ったこっちゃない!”と
言うことで、子や孫の次世代に背負わせ知らんぷりをするつもりなのでしょうか。
 1994 年我が国は全世界 GOP の 18%を占めるも、2024 年は 4%程度にすぎません。もはや在りし日の経済大国ではありません。ましてや、打出の小槌、金の生る木などありません。
 一見わかりやすく聞こえのよい政策と、国家百年の計とは異なるのでしょう。
 働き手が減り続け、借金が増え続けるこの国はどこへと導かれるのでしょうか。
 民主主義の最大の敵はポピュリズムです。そして敵は味方の振りをして近づいてきます。